日産になって80年余り 紆余曲折したその歴史をひもとく

2019年1月28日

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日産自動車の歴史は1934年(昭和9年)に始まりますが、それ以前の歴史についても触れていきます。今世界中で注目を浴びているグローバル企業は、どのような経緯で今の形態となったのか? それらを考えていくことで日産自動車という会社の概要がみえてきます。ニュースの理解度を増すためにも日産の歴史にふれることは大切なことと言えるでしょう。

日産発足前夜 ダットサンの誕生と戸畑鋳物

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1911年に橋本増治郎は快進社自動車工場を設立します。快進社自動車工場には田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の3名が出資、この3名の頭文字を取ってDAT CAR(脱兎号)というクルマを製造しました。

快進社自動車工場は1918年に快進社となります。その一方で1919年に実用自動車製造という会社が設立されます。快進社は販売を強化するするために1925年にダット自動車商会を設立、その後実用自動車製造は1926年にダット自動車製造となりダット自動車商会と合併、ダット自動車製造となります。

これで話は終わりません。1931年にはダット自動車商会は、鮎川義介が1910年に設立した戸畑鋳物という企業の傘下に収まります。その翌年1932年に生まれたのがDATSUN(ダットサン)です。当初はDATの息子ということで、DATSONのスペルが使われたのですが、SONは損に通じるということで、同じ音で太陽の意味を持つSUNに改められました。1933年には戸畑鋳物が自動車部を設立し自動車製造に注力、同年には鮎川義介が設立した日本産業という持ち株会社と戸畑鋳物が出資して自動車製造という会社ができます。この自動車製造が1934年に社名変更。日産自動車が誕生します。

戦前、戦中そして終戦へ

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1933年に自動車製造が設立された際、同社は神奈川県横浜市新子安の湾岸埋め立て地の土地約2万坪を取得し工場を設立します。ここは現在の横浜工場にあたり、日産が横浜を創業の地と呼ぶことはこれに由来しています。1935年からは横浜工場での一貫生産が開始されますが、1939年にはドイツがポーランドに侵攻。世界は戦禍に巻き込まれてしまいます。1944年には本社を東京日本橋に移転、社名を日産重工業に変更します。1945年、終戦を迎えると11月には戦後1号車をオフライン。1946年に本社を横浜市に戻し1949年に社名を日産自動車に戻します。

高度成長期の躍進と凋落 そしてルノーとの提携

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1952年にはイギリスのオースチン社と技術提携を結び車種を拡大していきます。そうしたなかで大きな出来事が1958年のオーストラリア1周ラリーへの参戦と優勝で、この出来事が社内でのモチベーションのアップと、社外への大きなアピールへとつながっていきます。1962年に追浜工場、1965年に座間工場が完成。1966年にはプリンス自動車工業と合併し村山工場を手に入れます。1967年には本牧の専用埠頭が完成。1968年には本社を東京銀座に移転。1969年には累計輸出100万台を達成します。

その後も内外に多くの工場、開発拠点、営業拠点を展開しますが、バブル経済の減速とともに日産も勢いを失い1999年にはルノーの資本参加を受け入れ、カルロス・ゴーンを迎え入れます。日産リバイバルプランと名付けられた経営再建策により、工場や事業所の閉鎖を行い約2万人にも上る大リストラを敢行。業績は回復します。2016年には三菱自動車に出資し、傘下に収めますが、2018年カルロス・ゴーンなどによる不正が発覚し、逮捕に至る事態となりました。


(諸星陽一)

※編集部注:こちらの文章は2018年11月26日時点の情報となります。

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