
山口県の周防大島にあります
ハワイのみならずペルー、ブラジルも資料あります

移民資料館は横浜、山口の2箇所です。これで両方とも行きましたね

古い民家ですがカルフォルニアから帰国した人が建てた当時の御殿だったそうです

このトランクはうちにもあります
ハワイ日本人移民史の本

当時ハワイでは拡大したサトウキビ農園の人手不足で外国人労働者に頼ります。1952年以来クーリー苦力(中国人労働者)を誘致したが、排斥の気運が起き、変わる労働者として日本人に強い関心があった
1881明治14年王様カラカウアが訪日して明治政府へ要請

時の外務大臣、井上馨が故郷の山口県に働きかけます。広島県では宇品埋立で漁場が無くなり、安芸門徒は子沢山。大島では不作もあり多くの人が応募します。沖縄や九州からも応募がありました

1885明治18年ハワイへ出発、官約移民といいます、第一便944人は3年契約、過酷な労働条件だったがやがて現地に留まる人も出た。日本への送金は莫大でブームになる
これに先立ち政府と関係無いハワイ移民が1868明治元年にあり元年者と呼ばれています153人。明治2年に会津若松からのワカマツ・コロニーへも米国本土40人。この非合法移民でのトラブルの後、日本政府はしばらく移民を拒否しますが、やがて農民困窮の打開として上記許可に転じます

この時代から蒸気トラクター
1898明治31年、ハワイが米国に併合されカルフォルニア州(当初サンフランシスコ、やがてロサンゼルス)への移民も増える。農園主で成功したり他の商売にも進出

この押すノコギリは俺も待ってるわ(^。^)
1908明治41年、反日規制がかかり、移民は家族や親戚のみとなる。規制逃れの写真見合い結婚の呼び寄せも増える
1923大正13年、遂に米国移民は禁止、永住のみとなる、ペルーも禁止。1930昭和5年にはカナダも禁止。この後は満州やブラジル移民へと代わっていく
第二次世界大戦ではカナダで日系人2万人、米国で11万人が強制立ち退きとなり米国では収容所で暮らすことに。戦後は日本へ引き揚げますが徐々に又戻ったようです
併設されているペルー、ブラジル移民資料館から

ペルーへ、1899明治32年第一回790人、厳しい労働条件に離散が相次ぎ失敗。政府も乗り出した1903明治36年第二回へと続く、サトウキビ農園でした。移民の父 田中貞吉。1923年(大正12年)に移民契約が廃止されるまで17,764人もの日本人がペルーへ移住することとなった。新潟・山口・広島の出身者が多かった(後続の移民では沖縄や九州各県の出身者が増えていく)

ブラジルへ、1908明治41年スタート781人、サンパウロ市、コーヒー農園、こちらは1973昭和48年集団移民が終わったが日本国公認の移民はその後も1993年まで続いた。781人のうちの3分の1を超える325人が沖縄県出身者で、その後も多くの沖縄県民がブラジルへと移民した。家族単位での移民であったため独身者は認められなかった。見ず知らずの男女が形式上の夫婦となり家族が構成されるケースが多発し、「構成家族」とよばれた。その多くはブラジルで実際に結婚している

100年前、明治、大正時代この景色の向こうには海外が身近にあったんですねぇ
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博物館 | 日記
Posted at
2021/06/22 21:52:19