
前回はディーラーで流し読みでした
今回本を図書館で見つけたので、じっくり読んでみました。特にロータリーでレースを始めた頃の前半です。350ページもあり分厚く重い本です📚
著者はベルギー人のジャーナリスト&レースドライバー、後にマツダルマン24参戦に合流するピエール・ディドネ

幼い頃見た日本メーカーの活躍ホンダF1やS600、スズキGPライダー片山好美に憧れた

日本メーカーの欧州への橋頭堡は関税無のベルギーでありベルギー人には日本メーカーは親しみがあった
1967年ニュル84時間耐久へファミリア(レシプロ)で古我レーシングが参戦
ロータリーのNSUがエンジントラブルで評判を落としていた時に、ロータリー開発責任者の山本健一は欧州の耐久レース参戦でイメージアップを図る決断をした

1968年のニュル84時間耐久へ初代コスモロータリーで参戦。古我信生がチームリーダー

1969年スパ24時間耐久ファミリアロータリー参戦

次いで国内でのイメージアップとしてスカGTRと戦う
1969 古我レーシングの口ききでレース窓口マツダオート東京(後のマツダスピード)へ寺田陽次郎、大橋孝至が加入。

初めはファミリア10A、カペラ12A、サバンナ10A、遂に12Aをサバンナへ搭載したRX3を投入して打ち勝つ。木の実レーシングの片山、従野兄弟も活躍、ワットリンクサスも投入これは後のRX7へ採用された。マツダ本社はレースエンジン提供240馬力

1970シェブロンへロータリー搭載ルマンはリタイヤ

1973シグマのルマン挑戦リタイヤ

1973年11月シグマ加藤とマツダオート東京の大橋の出会い

1974シグマ+マツダオート東京のルマン挑戦リタイヤ
いずれも力不足

1979年RX7はアメリカレースIMSAで活躍、しかしルマンは予選不通過。マツダ本社は参戦に否定的

1981年ルマンではリタイヤするがTWRがスパ24で念願の勝利RX7。この勝利がマツダ本社をやる気にさせた
1982年ルマンでRX7が初完走、マツダスピード設立

1983-85年ルマンにマツダ717Cで参戦、ムーンクラフト由良卓也の設計で1984年から著者ディドネも乗った。ローラマツダもアメリカから参戦

JARI風洞で逆さにしてムービングベルト試験

300馬力以上のパワーアップにはターボ500馬力もトライしたが無理があり、3ロータリーしかない

1986年本場のイギリス設計マシンへチェンジ757から3ロータリー化でパワーアップ450馬力、設計者ナイジェル・ストラウドはF1やグループCの実績があった

寺田から更なるパワーアップには4ロータリーですよ。エンジン開発本部長の達富は帰社して3日で作れと命令した

1988年4ロータリー化580馬力767へパワーアップ、しかしルマンはリタイヤ

1989年ルマンでクラス優勝630馬力767B、ジャーナリストから何故総合優勝を狙わないのかと問われる。祝賀会でドライバーの著者ディドネからあと100馬力必要だと冗談半分に言われる。専務になっていた達富氏は1990年には100馬力アップするとドライバー全員の前で宣言しドライバーは驚いた。エンジニアは全員が無理だと言った

1990年700馬力!/9000rpmの787はトラブルで敗退

その反動で体制から見直して全社でロータリー最後の1991年に大幅にトルクアップ608Nm/6500rpmした787Bで望む
その後半の話はこちらへ💁♀️
マツダ787ルマンへの道2だ
この本はマツダ株式会社寄贈でした。2011年9月に日本語訳が出版されている。当時MZRacing社から11,000円で日本国内500部限定で販売された、貴重ですね

ドライバーの従野、ディドネ、寺田
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自動車文化論 | 日記
Posted at
2022/01/18 00:37:01