2025年01月25日
[ショート2]思い出のかけら
[ショート2]思い出のかけら
父がSHARPのMZ80-K2を秋葉原から買って帰ってきて以降、父の秋葉原散策について行き、電気街を歩き回った。
8時頃の鈍行(1台の機関車が無動力の客車を引く普通列車で、特に速度の遅い各駅停車を「鈍行」と呼んだ)に乗り、9時半過ぎに上野に到着。
広小路口からアメ横を歩きで進み、中田商店をチラ見して、10時くらいから秋葉原デパート(現、アトレ)、電波会館、ラジオセンター(角にマクセルの8インチフロッピーディスクの10枚入りの箱がいつも飾ってあった。平成20年頃まであった。)、ラジオ会館、愛三電機、志村無線電機などを歩く。
昼近くに中央通りを渡って東京ラジオデパート、瀬田無線、たまにヤマギワ。そこここに九十九電機(いまはツクモというのか?)があって、吉野家で350円の牛丼を食べ、またお店回りをするという...
帰りは15時過ぎに中央通りを歩いて京成上野を左手に見つつ広小路口から上野駅に戻り、すでにボックス席を占拠してワンカップで一杯やりながらタバコを吸いつつ、スルメなどのつまみを食べてる親父さんたちを横目に、買ったパーツを眺めて帰るという...傍目にはおよそフツーの小学生ではなかったかもしれなかったが、当然そんな意識はないわけで。
17時くらいに水戸駅北口を出て、歩きで大通りを泉町の中央ビルまで進み、五軒小や某材木店を過ぎて帰る、というコース。
その間、父とはほとんど話をしなかった。
するとすれば技術的な話で、CQやBASIC MAGAZINEを読んで勉強(?)してから秋葉原に向かうのが通例だった。
中学に入るまでは、月に一回はこの行程だったろうか。
いまにして思えば、この頃に自然とついた知識は宝物だったし、東京の、いや日本の一番華やかな、目まぐるしく変わった時期をこの目で見れたことは、間違いなく財産だと思っている。
あのパワー、あの変化、暑さ、寒さ、匂い、そして熱量。いまはそれらが感じられない。
綺麗にはなったが。
1985(昭和60)年にはつくば万博もあった。この頃には中学生で、兄はすでに日本専売公社に勤め出して居なかった分、私は身軽に行動していたかも。
水戸駅まで自転車で行き、南口に駐輪して、普通列車(客車列車の「鈍行」はこの頃なくなっていた)に乗り、臨時駅の万博中央公園駅(現、ひたち野うしく駅)で下車。関東鉄道のバスで万博会場へ。
アメリカ館、ソ連館、ドイツ館、カナダ館はもちろん、ダイエー館、松下電器館、トヨタ館など企業パビリオンも巡った。ダイエー館などは「?」と思ったものだ(当時「やべー」と思った。後に直感が当たったのには笑った)。
いまは東海大の教授をしている従兄弟が福島から来て、一緒に行ったこともあった。万博は、多感な時期に大いに刺激になった。
いまにして思えば、目に映る全てが「本物」であったと思う。
「本物」の知識、「本物」の音楽、「本物」の機械(電子制御より機械制御が優っていた最後の時代と言えばいいか)が身の回りにたくさんあった。
重厚長大から軽薄短小に本格的に至る過渡期の始まりだったとも言える。
高校に入って灰色の三年間を過ごし、大学に入って必死に大学に慣れつつ生活できるようアルバイトをし、大学二年にの半ばになった頃、やっと周りが見渡せるようになった頃には、電子制御全盛期になっていた。
それはそれでいいのだけど、「機械」というのが前時代の技術的な扱いになっていたのに気づいた。それに抗う気はしなかったが、秋葉原や世の中が大きく変わっていった時期だったろうか。
秋葉原の電気街を歩いていると、マハーポーシャの珍妙な宣伝に眉を顰めたものだ。いつぞやはキレイなお姉さんに両脇を抱えられ、店に連れ込まれそうになった。
墨東地域に住む貧乏学生だったので、NECやSHARPのPCは買えず、専らEPSONのDOS/V互換機に40MBのSASI接続の外付けHDDを繋いで、パソコン通信したり、P1EXEや松でレポートを作ったりしていた。
インターネットは大学に5台だけ配備されたMacでしか出来ず、私と数名の学生が代わりばんこにいじる以外、認知度は低かったようだった。かくいう自分も「英語しか使えないし、これでなにするのだろう?」と思いながら弄っていた。まだWWWは無かった。
貧乏とは言え、クルマもバイクも乗った。何とか乗れた。ガソリンも¥90/ℓくらいで、それでも燃費は気になった。
スキーも行った。大学生といえばテニスかスキーか、という時代で、「私をスキーに連れてって」は50回くらい観た。
アルパイン(従兄弟が勤めていた)のカーステレオに松任谷由実のカセットを突っ込んで、かぐら•三俣•田代、水上宝台樹、上越国際、小海リエックス、ハンターマウンテンスキーボウル塩原、アルツ磐梯スキー場(現、星野リゾートネコマ)などに行った。もちろん0泊2日の強行軍。それもいい思い出だ。
今はなき伊勢丹松戸店のアルバイト(サムタイマー)、小料理屋の皿洗い、高架水槽の掃除、八百屋の店員...学費と生活費を稼ぐのにいろいろやった。真夜中の六本木で黒人にまとわりつく同世代のワンレンボディコンの女の子を横目に働いていた時は、ちょっと嫌な気分だったが、それ以外は楽しく働いた。
¥50/100gのひき肉を買い、ブロックにして冷凍して食べてた。食パンも冷凍して使ってたし、たまごと納豆は必需品だった。
うまいものは、たまにバイト先の正社員について行った飲み会で、居酒屋で食べた魚や肉、松戸駅周辺の甘味屋やラーメン屋での食事がほとんどだったが、高架水槽の清掃のアルバイトで行った六本木の中華料理屋の中華飯はとびきりうまかったなー…。
私という人間が出来上がる大事な時期に、親元を離れて生活できたことは、今の私から見ても大事だったのかと思う。
たくさんのものを見、たくさんの人と関わりながら、自分を形作れたことは、間違いなくプラスに作用したと思うし、ラッキーだった。
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創作(ほぼNF) | 日記
Posted at
2025/01/25 15:30:01
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