2025年01月25日
[ショート3]生霊
[ショート3]生霊
もう40年以上も前の話で、組織体もなく、引っ越した先の家などもなく、存命の人も私以外いないので、実名で記すことを前置きしておく。
父が国鉄本社首都圏本部列車指令から水戸鉄道管理局に移ったのが1982(昭和57)年、その翌年1983(昭和58)年に常陸大子機関区に首席助役として転属した。
当初、水戸から通勤すると言っていたが、そこは常陸大子。水戸から片道約60kmある。
山の中腹にあった管理職用住宅1棟を与えられ、平日はそこで寝泊まりすることになった。
折しも、水戸市金町二丁目にあった国鉄官舎から水戸市酒門町に建てた一軒家に引っ越すところでの配属先決定(いわゆる転勤)で、新居に引っ越しをして数日で大子への単身赴任となった。
単身赴任にあたって、部屋の掃除に母と二人で行った。常陸大子駅から徒歩3分、商店街を抜ける一方通行の北(左)側にある、駐車場の脇の小道を15mほど上がった山の中腹にある一軒家で、築年数はかなりなものだが、小綺麗な、RC造の平屋だった。
玄関を入ると木製タンクに鎖がついた和式水洗トイレ、その奥に脱衣所と風呂場があり、トイレの手前を左に曲がるとDK、その奥に6畳の和室と押し入れがあった。DKには掃き出し窓と普通の窓、和室は二面採光で障子付きの普通の窓(腰の高さ)があった。
何も無い室内は、南面から太陽の光が差し込んで幾分暖かく感じられたが、三月の大子はまだあまり気温が高くなく、少しひんやりした印象だった。
母は庭掃除と物の運び入れを、私はDKと6畳和室の拭き掃除をすることとなり、持ってきたバケツと雑巾で作業を始めた。
母は外の草刈りから、私は6畳和室から作業を始めた。程なくして5時のチャイムが聞こえた。
開け放った窓からの眺めは、山の向こう側にすでに日は沈んでおり、夕焼けが山の手前側を黒っぽくして、空気もどことなく凛とした、しかし水戸にはない静けさがあり、一層田舎を感じさせた。
6畳和室の拭き掃除が終わり、DKに移って作業していると、トイレや玄関の周りで物音がする。母が何かしているのか、お茶でもするのか───と思いながら床を拭いているとまた物音がする。構わず作業をしていると、母がDKの掃き出し窓から姿を見せ「お茶にすっか?」
"ん?ん?ん?玄関方面の物音は何だ?"
咄嗟に私はそう思い、母に返事をしながら玄関に走った。しかし、もちろん何も無い。
おかしいなと思いながら缶コーヒーとお菓子をいただいた。
その後は何事もなく、駅前にあった"おはな(当時、常陸大子駅前にあった小料理屋)"に立ち寄って、名物のもつ煮込みを買って帰宅。
数日後────22時過ぎに父から電話。母が受け「うん、うん、しゃーねぇわね。うん、うん、そうしてみたら?」という調子の電話。
父曰く、死んだはずの日立の叔母(四家(しけ)...父は戦時中に父の母親の実家筋にあたる日立の四家に疎開し、学徒動員で日立兵器(現、日立工機•Hi-Koki 学徒動員時の話はまた別の機会に)で出来上がった重機関銃の弾倉を運搬していた)が、障子越しに見えて(つまりシルエットで見えて)、迎えに来たと言っている、とのこと。
それで母に電話をかけてきて、事情の説明と「怖いから家の電灯をつけて寝る」ということへの承諾を求めてきたのだった。
はてさて。四家の叔母とはまた古い...確か父と母が結婚して長男が生まれる頃には他界しているはずの人がなぜ、というのが母の第一の感想だったようだが、この日はこれで終わった。
数日後の20時頃、私は中学校での部活が終わって帰宅し、風呂から出て夕食の最中。
母が電話に出ると何やら深刻な様子。
電話を切って、双葉台(水戸市西部の住宅街)に住む、国鉄の先輩(門馬さん 数々の駅で駅長をしていた先輩で、父が内郷機関区にいた頃からの付き合い。金町の宿舎では棟違いでご一緒だった)に電話をした後、元吉田町と朝日町の境にある蓮乗寺に電話をかけ、結局この時間から寺に行くことに。夜なので一緒に来いということで私も同行することに。
この時の車はカローラ(AE70)の5速フロアシフト車、エアコンなし、カーステレオはTENに4スピーカーだった。この時、カーステレオのカセットを突っ込んで鳴らしたら「うるさい」と言われてイジェクトした覚えがある。
車内で母から聞いた、父からの電話の内容は、
①また四家の叔母が出た
②部屋の襖が開かず出られない
③「迎えに来た」と言っている
④部屋の電気を点け、テレビもつけられるようになったので電話した
⑤とにかく怖い
10分ほどて蓮乗寺についた。
蓮乗寺は日蓮宗の寺で、当時、この寺の住職をしていたお坊さんが大阿闍梨の修行を終えた人らしく「お上人」と呼ばれていた。「第一級霊断師」という位も持っているらしく、先輩の紹介で電話をかけ、急に御祈祷していただくことになったのだった。
本堂に通されると結界の中に正座することとなった。護摩炊き用の炉のようなものに火を焚べて読経しつつ何かを書いては炎に焚べていく...小一時間ほど経った頃、読経は終わり、お上人から説明があった。
•原因は実母(いわき市内郷高坂町の実家で当時存命)の生霊である
•四家の叔母の姿を借りて出てきた
•とはいえ、母親本人に生霊を飛ばして害を与えようとする意図はない
•その建物が「触媒」のような作用をしてしまっている、というのが見立て
•お札を渡すから、できるだけ早く鬼門に貼った方がいい
もう夜の21時半を回ったところ。
お寺の前には池があり、その向こう側に漬物工場(大貫漬物)の建屋がぼんやりと見えるくらいで、湿っぽく、暗い駐車場からそろそろと車を出し、すでに廃線となっていた水浜電車の高架脇を抜けて市街地を突っ切り、大子街道(R118)へ。
今でこそパイパスがあって走りやすいが、当時そのようなものはなく、那珂-瓜連-大宮-山方を抜けて大子町へ。
もう23時を回るところだったが、山の中腹にある管理職用住宅の下にある駐車場に車を停め、斜面を駆け上がる。
玄関の鍵を開け、玄関とDKの電気をつけ、父のことを呼びながら襖を開けた。
「外からは開くのか」と父。
さすがだ。電気を点けた6畳の和室に胡座をかいて座っていた。
受けてきたお札は玄関とDKの、表鬼門と裏鬼門に当たる壁に貼り、話をひとしきりして水戸に帰った。
家に着いたのは翌日の2時近かったと思う。
翌日の日中は流石に眠かった。確か金曜だった。一日中眠かった。
土曜も半ドンで授業。午後は部活で、私が帰宅すると、父は帰宅していた。
日曜、父は車を水戸機関区に停め、母の車のハンドルを握り大子へ。
山方の「紙のさと」でけんちんそばを食べ、14時くらいの明るい時間に大子に着いた。
引越しや、引越し前の掃除の時には気づかなかったが、玄関脇の道をもう少し登ると山の稜線で、そのすぐ下が寺と墓地だった。
田舎なので「生」で埋葬しているのだろうし、かなり杜撰なのか、玄関脇の垣根の周りの土に、白いものが見えた。おそらく、風雨などで流れて来てしまったのだろう。
蓮乗寺のお上人が、「その建物が「触媒」のような作用をしてしまっている」と見立てたのはこういう意味か───あれ以来、お札も貼ったし、怖い思いはしなくなったとのことだったが、父は昼間にしか管理職用住宅に行かなくなり、風呂も、当直用の部屋や布団もある大子機関区で2年の任期のほとんどを過ごしたのだった。
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Posted at
2025/01/25 16:42:05
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