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390のブログ一覧

2025年01月26日 イイね!

[ショート6]自分

[ショート6]自分
私が卒業したのは、茨城県で最も古い小学校──水戸市立五軒小学校である。
今の水戸芸術館の場所に水戸市立五軒小学校があった。
現在、五軒小学校自体は水戸市金町三丁目にかつてあった茨城県警警察学校跡地に移転して存続している。

いま現在ある水戸芸術館は、イ・ソリスティ水戸室内管弦楽団(小澤征爾指揮)が有名だが、大人になった自分がいま改めて見るとその施設は決して広くない。
しかし小学生だった自分にとってはとても大きく、広く感じられた。

当時自宅のあった水戸市金町二丁目の国鉄官舎からR123号線を東に進み、平戸材木店の角を曲がって南に150mほど進むと五軒小学校の北の角であった。
子供の自分には遠く感じられたが、今なら至近距離なので、子供が育つ環境としてはベストであったろうと思われる。

小学校には木造校舎とコンクリート造りの校舎が二つ、体育館とプールがあった。
その間にビオトープや田んぼ、動物の飼育小屋、回旋塔やジャングルジム、ブランコ、鉄棒などがあった。
低学年は昭和21年竣工(と聞いているが不確か)の木造校舎、中学年は昭和39年竣工の体育館脇の2階建てコンクリート校舎、高学年は昭和33年竣工の「本校舎」と呼ばれていた4階建のコンクリート校舎で学んだ。屋上も解放されて使用できた。

街中にある小学校だったので、学校帰りには走っている車をよく観察したし、近くには茨城いすゞや茨城トヨタのお店があったので、今にしてみれば挙動不審者のように車を眺めていた。

小学校3年生のころには、毎日帰宅する時間に走っていたいすゞのヒルマンミンクス(PH300)を珍しく見ていたし、近所の駐車場にいつも停まっていたクリーム色のいすゞ117クーペ(PA90)はひそかなお気に入りだった。

当時、我が家の車は日産チェリー(E10)からトヨタマークⅡ(LX10)に変わった。
EFI搭載、カーステレオはリヤ2スピーカーのみの富士通TENだったと思う。
5速フロアシフト、エアコンはなかった。

さて、本題に戻ろう。
私は小学校3年生となり、木造校舎から2階建てコンクリート校舎に移ったばかりで、1・2年とも同じ先生から少しお年を召した厳しめの女性の先生に担任が変わり、少し背筋が伸びた心持ちで登校したのを覚えている。
鼓笛隊(音楽クラブ)と放送委員会に所属し、プラモデルと電子工作とテレビとサイクリングが好きでスポーツが苦手な、まるで野比のび太のような小学生だった(と思う)。

2階建てコンクリート校舎に通うようになった私は、校舎と「本校舎」の間にある田んぼのあった場所を通り、北門(自校式給食の調理室があった)から学校を出て、横断歩道を渡って材木店の角でR123号線を渡り帰宅する、というのが常であった。

三年生の頃のある日、いつものように北門を抜けて、材木店の角で信号待ちをしていた。
重いランドセルのほか、給食着の袋を持っていたので金曜だったかと思う。
晴れていて、日の傾いた10月の午後4時頃だったと思う。

急いで帰ると「3時に会いましょう」のラストが観られた。午後4時からはドラマの再放送、5時からは子ども向けテレビアニメ、という番組構成で、テレビを観ながら宿題をこなす、というのが日課だった。

信号待ちの間、今から帰ったら何が観れるか──そんなことを考えていたと思う。
横断歩道の向こう側、自宅のある側の歩道の左からをスーツの男が歩いてきた。少し半透明のように見えて、すごく気になった。
右からはおばあちゃん(いや、今の基準で考えれば初老のご婦人)が歩いてきた。

それが歩道の上ですれ違ったのだが、自分には男がおばあちゃんをすり抜けたように見えた。
ちょっと驚いたが、その男が自分のほぼ正面に立って信号待ちを始めた。どこかで見たような顔だ。
しかい、いま目の前で起こったことに驚いた自分は、何となくその男を見てはいけないような気がして、俯いて、しかし「ああ、怖い。何かの見間違いかな。いや、うーん」と混乱していた。

信号が青になった。
当時出始めの音声式信号機。「とおりゃんせ」のメロディが鳴り、青の点灯を再度確認して前に進み始めた。
私は前に進むため、若干顔を上げた。黄色い学童帽のつばの前端から信号がかろうじて見えるくらいの上げ具合だった。
当然男も前に進んできた。信号の青表示と進んでくる男の姿───道路の真ん中あたりで男とすれ違う時、男が私の顔を見ながら少し前に屈んで話しかけて来た。

「よく、分かったね」

スーツの男は眼鏡こそかけていたが、紛れもなく自分であった。
私は驚いて走り出して、大急ぎで帰り、台所で水を飲んで、テレビも観ずにいろいろ考えた。

あの男は自分。

───何のために自分に会ったのだろう?また来るのか?何ですり抜けたんだ?───

それ以来今まで同じような経験はない。あの男(多分自分)はどこから来て、どこへ行ったのだろう。
Posted at 2025/01/26 13:36:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記
2025年01月25日 イイね!

[ショート5]電話交換手

[ショート5]電話交換手
母は2022年に他界した。寿命を全うしたのだと思う。2番目の子を心臓病で亡くし、ブルースを抱えた半生だった。
それを支えて(というか立場を支持した)自身の親兄弟と縁を切った父もすごいと思う。

いや、むしろ「家」というものに関わる人間関係や考え方が、なまじ東京の国鉄本社で仕事をした父のそれにそぐわなかったのだろうし、そのおかげでで私達の今があると言っても過言ではないだろう。
しかし、母はどこか、最後までブルースを抱えた思考の人だった。最期はたくさんの人に迷惑をかけ、お世話になり、しかし、ご年配の多くの方が達するだろう”達観”の境地に辿り着くことなく、自らがブルースを抱えた”悲劇の人”として生涯を閉じることとなった。せめて黄泉の国では光り輝くところにいてほしいと願っている。

母は昭和14(1939)年、宮城県登米郡登米町(現、登米市)にて出生。程なくして親の転勤で福島県原町市(現、南相馬市)に転居。
戦時中は双葉郡内の親戚宅を転々とするが、戦後は原町市に戻り、高校は福島県立原町高校普通科を卒業。

高校卒業後は宮城県仙台市の老舗ホテル「江陽グランドホテル」に勤めるが3日で退職。
当時の実家に戻り在宅となるが、程なくして逓信省は郵政省となり、郵政省の外郭団体、いわゆる「三公社五現業」の一つとして発足した電電公社(現、NTT)の電話交換手として勤務。
3年ほど働いた後にとある市の総務課秘書室付きとして働き、父と出会って結婚することになる。
(父の晩年まで見舞いに来てくれた高橋衛馬さん(「魂の〇〇」など一世を風靡した歌手の父君)が結婚したのもほぼ同時であった)

さて、母が独身で電話交換手時代の話。

昭和32-33(1952-53)年頃は、日本が戦争から立ち直り、高度経済成長に向かう前の時期で、漸く景気が上向いてきたあたり。
さまざまなインフラが整備され始め、人も社会も慌ただしく、しかし明るく前向きになり始めた時代である。

とはいえ福島県。しかも浜通りにおいて、その歩みは多少なりとも国土軸よりは遅く、一級国道以外にやっと舗装路が増えてきたかなと感じられるくらいで、のどかな、要は田舎風情の街であった。

福島第一原発がまだ計画段階で、「浜通りには何も無い」───街には使われなくなった旧軍の無線塔が聳えるばかり(大き過ぎて昭和の終わりごろまで壊せなかった)。

これといった産業はさらに15年時代が下ってからで、この地域の盛り上がりに先行して「○○事務所」とか「○○製作所福島出張所」などができ始め、これに伴う電話需要が増え始めた頃に、母は電話交換手として働き始めた。

母の父親が旧逓信省時代からの電話技師であったこともあり、その伝手を頼って、というところもあった。数ヶ月の研修・認定試験を経て、電話局での勤務が始まった。

ダイヤル式の電話(いわゆる黒電話)と交換式の過渡期にあり、交換式でかかってきたら相手先番号と名前を聞いて、コードを繋ぎ直すというものだった。

三交代制ではあったものの前述の通りの状況なので、仕事の少ない、落ち着いた時間というのもしばしばあった。

この頃、稀に大きな台風だったり、大雨に見舞われることがあった。

ある雨の降る日、昼過ぎの交代勤務となった。当時は女性の勤務は21時までに規制されており、それまでの間の勤務だったが、帰る頃は当然暗い夜道であった(友人が出始めのスバル360(K111)でたまに送ってくれる以外は徒歩かボンネットバスでの移動だったという)。

電話局は市の中心部にあり、公苑近くの自宅まではかろうじて舗装路を歩いて帰れる、という状況だった。

交換所には旧来の回線交換機と、ようやく1台配備された市外通話用ステップ・バイ・ステップ交換機があったが、未だ手動の交換機が主流であった。
壁には交換所周辺の地図が貼ってあり、担当する台によって大まかな担当地域がわかるようになっていた。

この日は雨ということもあり、はじめ電話もあまりなく、暇な時間が多くあった。
同僚の交換手がたまに電話に出たり、自分が出たり...当直の3名がひっきりなしという状況には程遠かった。

しかし、日が暮れてから徐々に慌ただしくなってきた。雨脚と風が強まり──停電したから復旧してほしい、川の水位が上がってきたから消防署に繋いでほしい──多分そういう用件なのだろうと思われる接続要求が増えてきた。
外は土砂降り。風も強く、交換所の建物自体もガタガタと音を立てて、軋む時さえあった。

その中で、ある集落の集会所からの電話が鳴った。電話口からは「警察か消防に繋いでくんねぇべか」と。
交換手としてはどちらかに決めてもらわないと繋げないと伝えると「どっちでもいい。山が崩れるかも知んねぇから助けてくれるところに繋いでくんねぇか」との荒い声。

「わかりました、お待ちください」と応え、保留にして警察と消防のいずれかに───しかしどちらも回線が塞がっている。
保留にしている回線では、電話口でがなりたてる声。
引き続き警察と消防に繋ごうとするが回線は埋まったまま。
保留のまま10分ほど経った頃、「うわー」という大きな声の後、音声は途絶えた。
どうしたらいいかわからなくなった。

程なく警察の回線が1つ空いた。
すかさずジャックを差し込むと、忙しそうな声。

「はい、××警察」
「こちら交換局です。今しがた○○集落の集会所から入電してたのですが、保留中に大きな声が聞こえたあと回線が切れました。そちらか消防に繋ぐのに10分ほど保留でした。できれば確認願います。」
「了解。」

21時に男性職員と交代し、長靴を履きレインコートを着て、傘を持って交換局の通用口へ。しかし外は暴風雨。
傘をささず、首周りにタオルを巻きフードをかぶって表へ。
強い雨風が身体を襲うが、家まで約1kmをトボトボと歩く。
街灯もそれなりにあり、不自由はなかった。
大通りから左に曲がり自宅方面に、というところで、けたたましくサイレンを鳴らして山の方に走っていく消防車1台、救急車1台。少し遅れて警察車両が3台。
「ああ、○○か──」

あの電話口の人や周りの人は大丈夫だったろうか、山が崩れるってどういうことなんだろう、自分はできることをやったから問題ないよな...そんなことを考えながら自宅に着き、レインコートを玄関に吊るし長靴を脱いだ。

翌朝、台風一過の晴天であった。昨日までの荒天が嘘のようで、明るい日差しと穏やかな天候に恵まれ、すっかり昨晩の電話のことは忘れていた。

「今日は中番(三交代制で早番・中番・遅番があった)だな」
身支度をして家を出て、大通りに最近できた喫茶店に行くと、古くからの同級生(Hさん。近年まで茨城県北茨城市で存命だった)いた。その同級生から「○○の集落が無くなってしまったようだ」と聞いた。山ごと滑ってきて集会所や周辺の家屋を飲み込んでしまった、とのこと。

さらに翌日の新聞には小さな記事。
その後、救出活動がされたとか、生存者や死者や重症者の話など後日談の類は聞かれなかった。

数ヶ月後、交換局周辺の新しい地図が貼られた。その地図にこの集落の記載は無かった。

母が昔話をする時の話題の一つとして、しばしばこの話があがった。
「昔の日本はこんなんじゃ無かったのよ。貧しかったし、物がなかったし、できる人もいなかったのよね。」
Posted at 2025/01/25 22:54:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記
2025年01月25日 イイね!

[ショート4]峠のおでん屋

[ショート4]峠のおでん屋
もう40年以上も前の話で、組織体もなく、引っ越した先の家などもなく、存命の人も私以外いないので、実名で記すことを前置きしておく。

11月。北茨城・花貫渓谷の紅葉が見頃だという。ニュースによれば、ライトアップされ、多くの人を魅了しているのだという。

同じ頃の、現在の拙宅周辺はほとんど冬。花貫渓谷より一週間から十日前後早い色づきのように感じる。
この時期になると、すでに亡くなった父と同僚の話を思い出す。

1985(昭和60)年頃、父は常陸大子機関区の首席助役だった。当時の水郡線は、今と同じくローカル線だったが、今よりは利用者が多くあり、列車もキハ25、40、47など、国鉄型気動車が勢揃い。急行も走っていた。

折しも、C56-160「SLやまぐち号」が「急行奥久慈号」として水郡線を走った年で、彼の地から陸路で水戸まで回送してきたのも父だった。
昭和末期で分割民営化直前の、「古き良きローカル線」最後の頃の話。

11月末のある日、翌朝5時過ぎ出発水戸行き始発気動車(キハ40系)のエンジンが不調でとなった。DMH15HSAという水平対向ディーゼルエンジンで、気動車は形式のほか車体番号によっても使用される部品が異なることが多く、一度工場に入って整備を受けると、週単位でその車両は使えない。しかも明日始発の車両の不調である。

どうにか水戸(機関区)まで持つ策はないかと電話で部品の在庫を調べたところ、同系の車両を運用している栃木の烏山(宇都宮機関区烏山支区)にあることがわかり、23時過ぎに父がライトバン(三菱ランサーバン A149V)のハンドルを握って部下三名と取りに行くことになった。
「早くやっつけて、"おはな"のモツ煮とワンカップ(酒)でカーッとやって寝て、(始発を問題なく出して、仕事を)こなしちまいたいなー」
などと車内での士気は高かった。

父は首席助役(管理職)だったので、残業したり泊まり勤務をすることはもちろん必要ないのだが、管理職宿舎に心理的瑕疵現象が起こる([ショート3]生霊 参照)と感じていたらしく、水戸の自宅に帰るまでの週末までを、できるだけ機関区で過ごしていたのだった。

目的地までは1時間。暗い国道ですれ違う車もほとんどなく、落ち葉と小雪が舞っていたという。
とある峠を越えたところに赤提灯のおでん屋が見え、部下の一人が、
「首席、おでん屋で何か買って行きましょう。急いで手ぶらで来ちゃったし。」
───いや、雪が降ってきたし、部品の積み込みに時間を食ったら大変だから急ぐ──と言って、父はおでん屋に寄らなかった。

烏山では「首席が来た」と驚いたこともあり当直が総出で出迎えてくれ、重い部品の積み込みも手伝ってくれたため、ものの数分で積み込みは終わった(多分例にもれず、様子を見ていたのでしょう)。

帰り際に「いや助かりました。こんな遅い時間にお手伝いいただきありがとうございます。手ぶらで来てしまって申し訳ない。」
と父が切り出すと、先程の部下が、

「○○峠のおでん屋がやってたんですけど積み込みにかかる時間が読めなかったんで急いで来ちまったんですよ。」

すると、烏山のみなさんは顔を見合わせて笑ったそうです。

「(栃木アクセントで)峠におでん屋なんかありませんよ。」

いや、赤提灯が──と言ったところで父が改めてお礼を述べ車に乗り込み、来た道を戻ると、峠におでん屋は無かった。

「首席、おでん屋が─────」

父はそういう勘が鋭かったのかも知れず、当時自宅に遊びに来た部下のみなさんから同様の話をいくつか聞いた。

茨城の山の見頃に、峠のおでん屋は今でも見え隠れするのだろうか。
Posted at 2025/01/25 17:49:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記
2025年01月25日 イイね!

[ショート3]生霊

[ショート3]生霊
もう40年以上も前の話で、組織体もなく、引っ越した先の家などもなく、存命の人も私以外いないので、実名で記すことを前置きしておく。

父が国鉄本社首都圏本部列車指令から水戸鉄道管理局に移ったのが1982(昭和57)年、その翌年1983(昭和58)年に常陸大子機関区に首席助役として転属した。

当初、水戸から通勤すると言っていたが、そこは常陸大子。水戸から片道約60kmある。
山の中腹にあった管理職用住宅1棟を与えられ、平日はそこで寝泊まりすることになった。

折しも、水戸市金町二丁目にあった国鉄官舎から水戸市酒門町に建てた一軒家に引っ越すところでの配属先決定(いわゆる転勤)で、新居に引っ越しをして数日で大子への単身赴任となった。

単身赴任にあたって、部屋の掃除に母と二人で行った。常陸大子駅から徒歩3分、商店街を抜ける一方通行の北(左)側にある、駐車場の脇の小道を15mほど上がった山の中腹にある一軒家で、築年数はかなりなものだが、小綺麗な、RC造の平屋だった。

玄関を入ると木製タンクに鎖がついた和式水洗トイレ、その奥に脱衣所と風呂場があり、トイレの手前を左に曲がるとDK、その奥に6畳の和室と押し入れがあった。DKには掃き出し窓と普通の窓、和室は二面採光で障子付きの普通の窓(腰の高さ)があった。
何も無い室内は、南面から太陽の光が差し込んで幾分暖かく感じられたが、三月の大子はまだあまり気温が高くなく、少しひんやりした印象だった。

母は庭掃除と物の運び入れを、私はDKと6畳和室の拭き掃除をすることとなり、持ってきたバケツと雑巾で作業を始めた。
母は外の草刈りから、私は6畳和室から作業を始めた。程なくして5時のチャイムが聞こえた。
開け放った窓からの眺めは、山の向こう側にすでに日は沈んでおり、夕焼けが山の手前側を黒っぽくして、空気もどことなく凛とした、しかし水戸にはない静けさがあり、一層田舎を感じさせた。

6畳和室の拭き掃除が終わり、DKに移って作業していると、トイレや玄関の周りで物音がする。母が何かしているのか、お茶でもするのか───と思いながら床を拭いているとまた物音がする。構わず作業をしていると、母がDKの掃き出し窓から姿を見せ「お茶にすっか?」

"ん?ん?ん?玄関方面の物音は何だ?"
咄嗟に私はそう思い、母に返事をしながら玄関に走った。しかし、もちろん何も無い。
おかしいなと思いながら缶コーヒーとお菓子をいただいた。

その後は何事もなく、駅前にあった"おはな(当時、常陸大子駅前にあった小料理屋)"に立ち寄って、名物のもつ煮込みを買って帰宅。

数日後────22時過ぎに父から電話。母が受け「うん、うん、しゃーねぇわね。うん、うん、そうしてみたら?」という調子の電話。
父曰く、死んだはずの日立の叔母(四家(しけ)...父は戦時中に父の母親の実家筋にあたる日立の四家に疎開し、学徒動員で日立兵器(現、日立工機•Hi-Koki 学徒動員時の話はまた別の機会に)で出来上がった重機関銃の弾倉を運搬していた)が、障子越しに見えて(つまりシルエットで見えて)、迎えに来たと言っている、とのこと。
それで母に電話をかけてきて、事情の説明と「怖いから家の電灯をつけて寝る」ということへの承諾を求めてきたのだった。

はてさて。四家の叔母とはまた古い...確か父と母が結婚して長男が生まれる頃には他界しているはずの人がなぜ、というのが母の第一の感想だったようだが、この日はこれで終わった。

数日後の20時頃、私は中学校での部活が終わって帰宅し、風呂から出て夕食の最中。
母が電話に出ると何やら深刻な様子。

電話を切って、双葉台(水戸市西部の住宅街)に住む、国鉄の先輩(門馬さん 数々の駅で駅長をしていた先輩で、父が内郷機関区にいた頃からの付き合い。金町の宿舎では棟違いでご一緒だった)に電話をした後、元吉田町と朝日町の境にある蓮乗寺に電話をかけ、結局この時間から寺に行くことに。夜なので一緒に来いということで私も同行することに。
この時の車はカローラ(AE70)の5速フロアシフト車、エアコンなし、カーステレオはTENに4スピーカーだった。この時、カーステレオのカセットを突っ込んで鳴らしたら「うるさい」と言われてイジェクトした覚えがある。

車内で母から聞いた、父からの電話の内容は、
①また四家の叔母が出た
②部屋の襖が開かず出られない
③「迎えに来た」と言っている
④部屋の電気を点け、テレビもつけられるようになったので電話した
⑤とにかく怖い

10分ほどて蓮乗寺についた。
蓮乗寺は日蓮宗の寺で、当時、この寺の住職をしていたお坊さんが大阿闍梨の修行を終えた人らしく「お上人」と呼ばれていた。「第一級霊断師」という位も持っているらしく、先輩の紹介で電話をかけ、急に御祈祷していただくことになったのだった。

本堂に通されると結界の中に正座することとなった。護摩炊き用の炉のようなものに火を焚べて読経しつつ何かを書いては炎に焚べていく...小一時間ほど経った頃、読経は終わり、お上人から説明があった。

•原因は実母(いわき市内郷高坂町の実家で当時存命)の生霊である
•四家の叔母の姿を借りて出てきた
•とはいえ、母親本人に生霊を飛ばして害を与えようとする意図はない
•その建物が「触媒」のような作用をしてしまっている、というのが見立て
•お札を渡すから、できるだけ早く鬼門に貼った方がいい

もう夜の21時半を回ったところ。
お寺の前には池があり、その向こう側に漬物工場(大貫漬物)の建屋がぼんやりと見えるくらいで、湿っぽく、暗い駐車場からそろそろと車を出し、すでに廃線となっていた水浜電車の高架脇を抜けて市街地を突っ切り、大子街道(R118)へ。

今でこそパイパスがあって走りやすいが、当時そのようなものはなく、那珂-瓜連-大宮-山方を抜けて大子町へ。
もう23時を回るところだったが、山の中腹にある管理職用住宅の下にある駐車場に車を停め、斜面を駆け上がる。

玄関の鍵を開け、玄関とDKの電気をつけ、父のことを呼びながら襖を開けた。
「外からは開くのか」と父。
さすがだ。電気を点けた6畳の和室に胡座をかいて座っていた。
受けてきたお札は玄関とDKの、表鬼門と裏鬼門に当たる壁に貼り、話をひとしきりして水戸に帰った。

家に着いたのは翌日の2時近かったと思う。

翌日の日中は流石に眠かった。確か金曜だった。一日中眠かった。
土曜も半ドンで授業。午後は部活で、私が帰宅すると、父は帰宅していた。

日曜、父は車を水戸機関区に停め、母の車のハンドルを握り大子へ。
山方の「紙のさと」でけんちんそばを食べ、14時くらいの明るい時間に大子に着いた。

引越しや、引越し前の掃除の時には気づかなかったが、玄関脇の道をもう少し登ると山の稜線で、そのすぐ下が寺と墓地だった。
田舎なので「生」で埋葬しているのだろうし、かなり杜撰なのか、玄関脇の垣根の周りの土に、白いものが見えた。おそらく、風雨などで流れて来てしまったのだろう。

蓮乗寺のお上人が、「その建物が「触媒」のような作用をしてしまっている」と見立てたのはこういう意味か───あれ以来、お札も貼ったし、怖い思いはしなくなったとのことだったが、父は昼間にしか管理職用住宅に行かなくなり、風呂も、当直用の部屋や布団もある大子機関区で2年の任期のほとんどを過ごしたのだった。
Posted at 2025/01/25 16:42:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記
2025年01月25日 イイね!

[ショート2]思い出のかけら

[ショート2]思い出のかけら
父がSHARPのMZ80-K2を秋葉原から買って帰ってきて以降、父の秋葉原散策について行き、電気街を歩き回った。

8時頃の鈍行(1台の機関車が無動力の客車を引く普通列車で、特に速度の遅い各駅停車を「鈍行」と呼んだ)に乗り、9時半過ぎに上野に到着。
広小路口からアメ横を歩きで進み、中田商店をチラ見して、10時くらいから秋葉原デパート(現、アトレ)、電波会館、ラジオセンター(角にマクセルの8インチフロッピーディスクの10枚入りの箱がいつも飾ってあった。平成20年頃まであった。)、ラジオ会館、愛三電機、志村無線電機などを歩く。

昼近くに中央通りを渡って東京ラジオデパート、瀬田無線、たまにヤマギワ。そこここに九十九電機(いまはツクモというのか?)があって、吉野家で350円の牛丼を食べ、またお店回りをするという...

帰りは15時過ぎに中央通りを歩いて京成上野を左手に見つつ広小路口から上野駅に戻り、すでにボックス席を占拠してワンカップで一杯やりながらタバコを吸いつつ、スルメなどのつまみを食べてる親父さんたちを横目に、買ったパーツを眺めて帰るという...傍目にはおよそフツーの小学生ではなかったかもしれなかったが、当然そんな意識はないわけで。

17時くらいに水戸駅北口を出て、歩きで大通りを泉町の中央ビルまで進み、五軒小や某材木店を過ぎて帰る、というコース。
その間、父とはほとんど話をしなかった。
するとすれば技術的な話で、CQやBASIC MAGAZINEを読んで勉強(?)してから秋葉原に向かうのが通例だった。

中学に入るまでは、月に一回はこの行程だったろうか。
いまにして思えば、この頃に自然とついた知識は宝物だったし、東京の、いや日本の一番華やかな、目まぐるしく変わった時期をこの目で見れたことは、間違いなく財産だと思っている。
あのパワー、あの変化、暑さ、寒さ、匂い、そして熱量。いまはそれらが感じられない。
綺麗にはなったが。

1985(昭和60)年にはつくば万博もあった。この頃には中学生で、兄はすでに日本専売公社に勤め出して居なかった分、私は身軽に行動していたかも。

水戸駅まで自転車で行き、南口に駐輪して、普通列車(客車列車の「鈍行」はこの頃なくなっていた)に乗り、臨時駅の万博中央公園駅(現、ひたち野うしく駅)で下車。関東鉄道のバスで万博会場へ。
アメリカ館、ソ連館、ドイツ館、カナダ館はもちろん、ダイエー館、松下電器館、トヨタ館など企業パビリオンも巡った。ダイエー館などは「?」と思ったものだ(当時「やべー」と思った。後に直感が当たったのには笑った)。
いまは東海大の教授をしている従兄弟が福島から来て、一緒に行ったこともあった。万博は、多感な時期に大いに刺激になった。

いまにして思えば、目に映る全てが「本物」であったと思う。
「本物」の知識、「本物」の音楽、「本物」の機械(電子制御より機械制御が優っていた最後の時代と言えばいいか)が身の回りにたくさんあった。
重厚長大から軽薄短小に本格的に至る過渡期の始まりだったとも言える。

高校に入って灰色の三年間を過ごし、大学に入って必死に大学に慣れつつ生活できるようアルバイトをし、大学二年にの半ばになった頃、やっと周りが見渡せるようになった頃には、電子制御全盛期になっていた。
それはそれでいいのだけど、「機械」というのが前時代の技術的な扱いになっていたのに気づいた。それに抗う気はしなかったが、秋葉原や世の中が大きく変わっていった時期だったろうか。

秋葉原の電気街を歩いていると、マハーポーシャの珍妙な宣伝に眉を顰めたものだ。いつぞやはキレイなお姉さんに両脇を抱えられ、店に連れ込まれそうになった。

墨東地域に住む貧乏学生だったので、NECやSHARPのPCは買えず、専らEPSONのDOS/V互換機に40MBのSASI接続の外付けHDDを繋いで、パソコン通信したり、P1EXEや松でレポートを作ったりしていた。
インターネットは大学に5台だけ配備されたMacでしか出来ず、私と数名の学生が代わりばんこにいじる以外、認知度は低かったようだった。かくいう自分も「英語しか使えないし、これでなにするのだろう?」と思いながら弄っていた。まだWWWは無かった。

貧乏とは言え、クルマもバイクも乗った。何とか乗れた。ガソリンも¥90/ℓくらいで、それでも燃費は気になった。
スキーも行った。大学生といえばテニスかスキーか、という時代で、「私をスキーに連れてって」は50回くらい観た。
アルパイン(従兄弟が勤めていた)のカーステレオに松任谷由実のカセットを突っ込んで、かぐら•三俣•田代、水上宝台樹、上越国際、小海リエックス、ハンターマウンテンスキーボウル塩原、アルツ磐梯スキー場(現、星野リゾートネコマ)などに行った。もちろん0泊2日の強行軍。それもいい思い出だ。

今はなき伊勢丹松戸店のアルバイト(サムタイマー)、小料理屋の皿洗い、高架水槽の掃除、八百屋の店員...学費と生活費を稼ぐのにいろいろやった。真夜中の六本木で黒人にまとわりつく同世代のワンレンボディコンの女の子を横目に働いていた時は、ちょっと嫌な気分だったが、それ以外は楽しく働いた。

¥50/100gのひき肉を買い、ブロックにして冷凍して食べてた。食パンも冷凍して使ってたし、たまごと納豆は必需品だった。
うまいものは、たまにバイト先の正社員について行った飲み会で、居酒屋で食べた魚や肉、松戸駅周辺の甘味屋やラーメン屋での食事がほとんどだったが、高架水槽の清掃のアルバイトで行った六本木の中華料理屋の中華飯はとびきりうまかったなー…。

私という人間が出来上がる大事な時期に、親元を離れて生活できたことは、今の私から見ても大事だったのかと思う。
たくさんのものを見、たくさんの人と関わりながら、自分を形作れたことは、間違いなくプラスに作用したと思うし、ラッキーだった。
Posted at 2025/01/25 15:30:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記

プロフィール

「[ショート8]震災 http://cvw.jp/b/112223/48226945/
何シテル?   01/26 19:58
仙台市青葉区の西部山沿い(笑)に住んでます。星のきれいに見えるあたりです(ホントか?)。 (まさか震災に遭うとは思いませんでした) 元々はいわき生まれの...
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BN9レガシィ2本出し化 
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サンルーフのウェザーストリップゴム交換 
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