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カクシカおじさん(プレミオおじさん)のブログ一覧

2012年11月03日 イイね!

平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣

平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
   
 驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
    
    猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。


        《プロローグ》
 この一文、桓武平氏が全盛を迎えてのち、源氏に追われて徐々に没落していくさまを詠んだ平家物語のあまりにも有名な冒頭部分ですね。

 冒頭のタイトル写真(この写真はウィキペディア)の、瀬戸内の海に浮かぶ朱塗りの厳島神社の鳥居は全国的によく知られていると思いますが、そう、この日本三景のひとつに数えられている安芸の宮島にあります厳島神社、平氏には非常に縁の深い神社でございます。



 もともと厳島(宮島)は、島内の最高峰「弥山(みせん)」を中心とした古代からの霊場があったところなので、そのため島内に人が住むのは恐れ多いこととして昔は誰も人は住んでいませんでした。俗に言う「ご神体山」です。


      (厳島・宮島の弥山 : 2012.10.27 宮島フェリー内より筆者撮影)

       
        (海の上に浮かぶ厳島神社の大鳥居 : 2014.11.5 宮島フェリー内より筆者撮影)


 そして推古元年(593年)に、ここ厳島神社が創建されましたが、推古元年っていえば以前の法隆寺参詣のブログでも触れましたが、女帝であった推古(すいこ)天皇がちょうど即位した年にあたり、その補佐役の聖徳太子が摂政となって手腕を振るい始めたのと合わせたように、ここ厳島神社は創建されたようです。


 そして厳島神社のご祭神は、もともと九州の玄界灘に面して建てられている宗像(むなかた)大社の三女神で、市杵島姫命(いちきしま ひめ の みこと)、田心姫命(たごりひめ の みこと)、湍津姫命(たぎつひめ の みこと)です。俗に言う弁財天女ですね。

 そして弁財天は水気を好まれることから、発祥の宗像大社にしても、三大弁天である厳島・竹生島・江ノ島弁天も、弁財天をお祭りするところは水辺の傍ということになっています。


            (九州玄界灘に浮かぶ周囲4kmの孤島 沖ノ島)

 そういえば弁財天の元にあたる宗像大社奥宮は、日本海にある玄界灘沖合い49kmに浮かぶ周囲4kmの小島のような沖ノ島にある沖津宮です。こちらは現在も女人禁制のご神体山として、神職以外は年に一度の大祭しか上陸が許されないことになっています。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 その厳島神社が創建されてから時を経ること約500年、
 冒頭にも記した平家物語によると、当時国司(安芸守)だった若い頃の平清盛が高野山の大塔の修理をしていたところ、夢枕に一人の僧が立ちはだかり 「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」 との霊告があったため、
 それからの清盛、この厳島の神社を何十回も参詣してたくさんのお経を納経したり、前代未聞とも思われる海の上に大規模な社殿を1168年(仁安3年)に造営することになります。


     (厳島を大変篤く信仰した平清盛 像)


 海の上に社殿を造営した理由については科学的にはいろいろ言われていますが、それはあくまで現代人の見方で、ひと昔前までは厳島は山自体が神のおわすところ、つまりご神体山だから恐れ多いということで、その手前の海の上から山を遥拝する形にしたのだと思います。

 それがあの有名な海に浮かぶ大鳥居が建てられた理由でもあるのでしょう。



                  (熊野本宮大社 旧社殿の絵図)

 蟻(あり)の熊野詣というけれど清盛もよく参拝した熊野本宮大社は、明治22年の大水害までは上の絵図のように大斎原(おおゆのはら)という川の中洲に大きな社殿がありましたが、こちらはごく普通の神社の形態です。


 それだけ信仰に篤かった平家と平清盛でしたが、やはりといいますか権力を手にした者には当然の成りゆきなのか、もしくは人間の性が出てきたのか、霊夢のごとく厳島神社を再建し篤く信仰したおかげで一時は大出世したのだけれども、

 冒頭の平家物語の最初の一文の 「…盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず…」 との文言のとおり、平清盛の晩年と死後、急速に平家は没落していくことになります。

                  (平家物語絵巻 壇ノ浦の合戦の巻)

 そしてその結果はもう良く知られているところですが、
 ひとつ言えることは中国大陸では元が出てきて強大な国となり、いずれ日本が元寇で二度も攻められることになるのですが、この貴族化していった平家の政権なら、この外敵の攻撃を退けることはできなかったであろう、ということですね。



 この絵詞はモンゴル・元が、
  日本(倭国)に攻めてきたときの模様を描いた物の一つのようですが、

             (蒙古襲来絵詞 1293年頃 : 竹崎季長による)

 質実剛健な北条氏の執権政治による鎌倉幕府と北条時宗というすぐれた執権により、当時このまれに見る外敵の攻撃を無事退けることができました。ただしその後、北条高時という情けない執権が出現することにより鎌倉幕府は滅んでいくことになります。


 そう考えれば「厳島」というところ、持ち上げるだけ持ち上げておいて、そこで奢れてしまうと平家がたどった運命のように容赦なく人を裁く、といった「厳島=厳しい島」という文字の要素を持った神社なのかと思います。
 現代の世でも同じですが、いつの世でも変わらない 「驕れる者久しからず」 を、私たち後世の人間にも平家の興亡の歴史を通してここの神様が教えているのでしょう。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 長い前置きはこれで終わりにしまして、
 ここからはその独特な厳島神社の様子をご紹介していきたいと思います。


   宮島へ行くフェリーを降り桟橋から堤防を覗くと潮の跡が。
   温暖な瀬戸内地区ですが、それでもこれだけの潮の満ち引きがあります。

   JR西日本 宮島航路の宮島桟橋側から撮影。 2012.10.27 13:05撮影


    宮島へ上陸するといたるところに鹿が。


       


     宮島の鹿は奈良公園の鹿に比べておとなしくて、のんびりしています。
 
 奈良公園では鹿せんべいを観光客が購入して与えるせいか、鹿が物乞いするけれど、   
    宮島では 「鹿にエサを与えないように」 と注意書きが書かれているせいか、
    鹿もほとんど物乞いはしないですね。



   そしてここの目玉の厳島神社のほうへ向かって歩いてゆきます。 
   日本三景の碑がありました。



 安芸の宮島、丹後の天橋立、陸奥の松島(陸前松島)、これが日本三景として名高いですが、
      海上に建立された独特な神社の厳島神社、
      不思議な地形をした天橋立、
      たくさんの島が林立している松島、  
 開発が進む前の日本では、とても風光明媚だったんでしょうね。

          (丹後にある天橋立 : 2011.1.8撮影 ウィキペディア)


                 (陸奥の松島 : ウィキペディアより)





                      (宮島の案内図)


                     (厳島神社の説明文)



  ここからがどうやら厳島神社の参道となるようです。
  昔はこの島には人が住まなかったので、人工的なものは一切なかったのでしょう。






       



   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


    厳島神社へ向かって歩いていくと、
    この神社の象徴とも言うべき朱色の大鳥居が見えてきました。



    今日のこの時間は引潮、ちょっとだけ足元がぬかるんでいますが、
    着替えもあることなので気にせず大鳥居に接近していきます。



    海の上に浮かぶ鳥居は趣があっていいけれど、
    せっかくの引潮時に来たので大鳥居のふもとまで行きました。


       


    今度は北側(海側)に回り込んで撮影。


       

    真下から撮影。高さは16mだそうです。





    厳島神社では、鳥居の扁額(へんがく)が両方に付いています。



ここ厳島神社が出している書籍コードのない専用本によりますと、
大鳥居の扁額は、有栖川熾仁(たるひと)親王の御染筆だと記載されていました。
ちなみに扁額の大きさは、たて273cm、横183cmと大きなものです。

神社の入口にあたる海側の鳥居の扁額には 「嚴嶋神社」 と書かれていました。

       
     ご神体山側にあたる社殿側の鳥居の扁額には 「伊都岐島神社」 と書かれていました。
     マイカメラのDP1xは望遠が効かない単焦点カメラなので、トリミングで大幅拡大しました。



 鳥居の表裏の両方とも扁額があり、しかも表記が違っているというのは珍しいですね。
 清盛の時代に「嚴嶋神社」と表記するようになったとのことですが、
 神道では字が違えばお働きが違うと聞きますので、なにか深い意味があるのでしょうか。

  大鳥居の根元部分も撮影しました。
  満潮になればここに2mぐらいの海水が押し寄せるのでしょうね。



         (海の水をたたえた厳島神社の大鳥居 : ウィキペディアより)


 ちなみにこの大鳥居は八代目にあたり、明治維新から間もない頃の1875年(明治8年)に再建されたそうです。ということはもうかれこれ130年以上、こうして海水の満ち引きのなかにたたずんでいるのですね。

 鳥居の高さは16mで、棟の長さは24m、主柱の根元の直径は3.64mもあるようです。ちなみに重さは前途の本には書かれていませんでした。


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 大鳥居をしばし見た後は、平安時代の様式?で建てられていると思えるような、回廊がたくさんある寝殿造りの厳島神社の社殿へと向かいます。


    まず遠方から見た社殿です。
    大鳥居の真下まで行けてそれはそれで良かったものの、
 やはり海の水をたたえていない厳島神社はちと趣きが少し不足気味な感じです。



 社殿入口の手前です。この時期は大変な数の人出のようです。
 そして今日は早朝の8時ごろが満潮で、訪れた14時ごろが最も潮が引いていたみたいでした。




       




 神社の中の回廊へと進みます。
 昔の参拝者は船で大鳥居を越えて、直接厳島神社へと来たのでしょうか?



回廊は幅3.3m、柱間は2.4mで、柱間は板が八枚張ってあるとの事(厳島の本より)。


       


 こちらの写真は、厳島神社の摂社第一の客神社?を撮影したみたいです。
 暗くてノイジーな写真になっちぁいましたが、天忍穂耳命ほかが祀られているようです。



    そしてまた回廊へと出ます。



    左手には鏡の池が見えました 。
    最初の写真が回廊側からみた写真。次のは神社の裏手から撮影した写真です。





    回廊から外を見るも砂地ばかりで、少しさみしいですね。


       



    そして厳島神社の本殿へと出ました。
    最初にご由緒を撮影、その次に本殿内部を撮影しました。

   厳島神社の創建は推古元年といいますから、女帝推古天皇の時代、
   つまり日本の礎(いしづえ)を築いた聖徳太子の頃ですね。



 この撮影のすぐ後に新郎新婦がお入りになり、神前結婚式がおこなわれていました。
 そのせいで左右には白布をかぶせたテーブルが。

 そしてここでお祈りをし、おみくじを引いてから社務所で本2冊(後述の写真)を買いました。



    そしてここを出るとまた回廊が。まるで迷路のようです。


           回廊の途中には長橋が。
       



    ようやく出口に来ました。




 今回10年ぶりぐらいに訪れた厳島神社でしたので、非常にゆっくりと回ってきました。
 そして厳島神社で買い求めた2冊の本の表紙部分です。自宅のスキャナーで読み取りました。


 厳島神社、全盛期の平家一族がたくさんのお経を納めたようです。俗に言う“平家納経”です。
 平家納経は数ある納経の中でも特に有名みたいですね。


 聖徳太子から始まった神仏習合の時代がずっと江戸末期まで続くのですが、よってお寺でなく神社にも願文や御礼としてお経を納めたわけですが、平家納経の場合は単に写経して納めたというより、芸術品としての品格を備えたものだったようです。
 また清盛自身は、代筆でなく自らの直筆で経文を書いてここへ納めていたみたいですよ。

 そして右側の本は書籍コードがないので市販されていないと思われ、発行が厳島神社となっていますので、ここ神社でのみ販売されている本のようでした。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  これで「平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣」は終了です。
  ここへの道中記は宮島連絡線も含めてフォトギャラリーにアップしました。

  次回のブログは、ここからごく近い山口県岩国市にある錦帯橋を、
  次々回ブログは、JR貨物フェスティバル 広島車両所公開イベントをアップする予定です。


 ↓関連情報URLには、厳島神社のサイトをご案内しています。
Posted at 2012/11/03 01:33:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | 旅行/地域
2012年10月23日 イイね!

また再びの戸隠神社奥社参拝と、戸隠そば、鏡池への訪問(2013.10.4 追記)

また再びの戸隠神社奥社参拝と、戸隠そば、鏡池への訪問(2013.10.4 追記)神秘の里、戸隠には過去2回訪問しました。
 
 一度目は、初秋の赤富士を見るためと、
 コンテオフ会に立ち寄るのを兼ねた、2011.9.17の日。
      (その時のブログは → こちら )

 二度目は、真冬の紅富士を見るためと、
 信州皆神山を見るための、2012.1.28の日です。
      (その時のブログは → こちら )


        《プロローグ》
 2012年の紅葉も見ごろとなった10月16日~18日、この日に本来予定していた所用は取り止めとなったので、代わりに我が愛馬であるコンテRS号にて過去2度も訪れるも、一度も全容を見ることが叶わなかった戸隠連峰を見ようと急に思い立ち、お天気も良いとのことなので急遽わが愛車を信州まで走らせました。

 出発の前日に自作パソコンの電源が故障し電源交換をしてから出発したので出発も遅れ、しかも平日なので深夜以外は高速料金も安くなくてケチケチ作戦で自宅を出発。そのせいで信州に到着したのは午後をとうに過ぎていました。

 
 そしていつも長野市街から戸隠に入るのに困るのが道中選択で、今までは初回のブログでも触れた鬼無里街道経由の長野県道76号線でしたが、この道 「長野戸隠線」 はとにかく道幅が狭いところが多くて通行に難儀していました。

 よって翌日の空き時間に一度調査するつもりで、とにかく今回は今までとは違うルート 「浅川ループライン」 をまず選択。結果的にはこれが一番行きやすかったですね (後日、長野市街の道中写真をフォトギャラにアップする予定です → こちらにアップ しました)。



 なお戸隠神社の由来等は、ここのいちばん冒頭の文章に貼ってあるリンクをクリックしていただきますと、2011年 9月の当ブログへと飛びますのでそちらのほうをご覧ください。

 そして今回もまた、たくさんの64枚もの写真を長い文章とともにブログに貼り付けました。

 直接現地で体験するのと比べればはるかに劣りますが、モニター画面(携帯画面)からとなりますけれど、紅葉に満ち溢れた戸隠の自然をごゆるりとお楽しみください。


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    戸隠高原に入るとまず戸隠神社の中社に参拝しました。










    ここへ来るとお水がおいしいのと、
    神社側が許可しているのでバワースポットの水を飲んじゃいました。
    さすがに汲んでもらって帰るのは遠慮しておきましたが。





  到着が遅れたのと、天気予報では明日はお天気が悪くなるとのことだったので、
  今回は中社参拝は手短にし、おみくじだけ引いて鏡池に向かいます。

  ちなみに今回のおみくじは第四番、「葺牙兆」(あし かび の うらかた)だったです。


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  そして戸隠連峰が良く見えるという鏡池へと急ぎます。
  長野県道36号線を戸隠神社奥社方面へと走らせると入口の看板がありました。

              (こちらの写真は戸隠中社側から撮影)


               (こちらの写真は信濃町側から撮影)


  そして鏡池へ直接車で行ける道は非常に狭く、通行には要注意です。


  鏡池には慎重にゆっくりと徐行運転しても5分もかからずに到着です。



  上の案内看板の戸隠連峰のところを、後日DP3メリルで撮影しトリミング(差し替え)。
  下の撮影写真と見比べると、これでどの山か分かるようになりました。


  鏡池から見た戸隠連峰2枚。
  この時は夕方4時直前の撮影で、夕日がもろに山肌に当たって白っぽくなっています。



  午前かお昼頃ならさぞかし美しく撮影できたのではないかと思われました。


 ということで、翌日の17日のお昼にもう一度ここへ行きましたが、下写真
 残念ながら天候が急変し湖面は荒れて、あいにくの曇り空で戸隠山は映えていませんでした。

 それどころかちょっと異様な感じで、岩肌が怖いぐらいな感じで写っていますね。
 このときはちょうどお昼の12:00すぎでしたが、その後15:00ぐらいになると長野は大雨に。



 とりあえず初日の9/16は、夕刻近くになってから鏡池と戸隠連峰を撮影したあと、車を戸隠奥社入口駐車場まで走らせて奥社まで参拝しましたが、この頃にはもう薄暗くなり当然といいますか写真は全く映えて撮れませんでした。

 まあ、今回は戸隠山をはっきりとこの目で拝見できたし、夕日が山肌に当たっていたけれどバッチリ写真にも収めることができたので、もう目的は達したようなものですが、時間もあるので翌日の早朝にもう一度奥社へと参拝することにしました。

 
 その後、山を降りて夕食を食べてからナビで銭湯を探すと、妙高高原付近に温泉が。
    ここは都会ではないので閉まる前に急いで風呂屋に直行。
 汗を流し温泉で体の芯まで温まってから、元来た道をそのまま戻り、
    戸隠神社奥社入口前の駐車場にて車中泊しました。

 ここは標高1200m前後、この時期でも夜明け前には気温5℃前後となったため、
 毛布をかぶっていたものの寒くて目が覚め、何度か車のエンジンを入れて車内を暖めました。


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 そして翌朝になりましたが、前日の疲労のせいでなかなか起きられなかったが、
    身支度をして買っておいたパンを食べてから参拝の支度をして、
    朝9:00にもなってからようやく奥社へと向けて出発しました。
    ここから戸隠神社の奥社へは2kmもの長い参道を歩いて進んでいきます。


  こちら2枚の写真は昨年2011.9.17に撮影したものです。
  まだ夏の終わりごろなので、草木が深い緑色のたたずまいとなっています。



   (戸隠神社奥社入口に掲げられている石碑と入口看板 : 2011.9.17に撮影)


 こちら2枚の写真は今回2012.10.17に撮影したものです。
 昨年と今年との違いがありますが、同じカメラでしかもほぼ同じ場所で撮影。
 たった1ヶ月違いで夏の終盤の深緑の自然が、秋模様の紅葉いっぱいの風景に変化。



  (戸隠神社奥社入口に掲げられている石碑と入口直下 : 2012.10.17に撮影)


 そしてこちらの写真は、参道入口にある鳥居のところにある奥社参拝の案内板




   こちらの鳥居の写真は昨年2011.9.17に撮影したもの。


   こちらの鳥居の写真は今年2012.10.17に撮影したもの。
   わずか1ヶ月違いでこんなに違っています。


   ちなみに下写真は今年2012.1.28に撮影したもので、まさに大雪状態です。
   ここの春の写真はまだありませんが、
     ここ戸隠は季節よってこんなにも様相が違うのですね。




   そして今回訪ねた2012.10.17の朝9:00の時点では、
      ここ信州戸隠高原あたりではすこぶる快晴だったので、
   気分良く秋の紅葉の真っ最中だった参道写真をいっぱい撮影しながら、
      ゆっくりとご神域の中を進んでいきます。


 さて、ここから奥社まで超長い2kmにも渡る参道です。
 これより長い参道といえば、丹後にある籠神社(このじんじゃ)の参道ともいえる、
    3.6kmにも渡って松林が続く天橋立ぐらいしか筆者は思い浮かびません。




       


    ゆっくりと参道を歩いていきますと、奥社まで1400mの看板が。




    随身門手前の二匹の狛犬たち。



 参道入口から約1km歩くと、戸隠神社独特の随身門(ずいしんもん)がお出迎えしてくれます。
 随身門、ここより前の榛名神社のところのブログで一度取り上げましたが再度こちらでも。





随身門または随神門(ずいしんもん/ずいじんもん)、これどういう意味なのか調べてみました。
まず「ずいしん」とは、「平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことである(ウィキペディア)」…だそうです。
 
それが転じて、どうやら神社の入口に立ち神様とご神域をお守りする像を安置した門のことを差すようになったようです。よく神社の入口で見かける狛犬と同じような役目でしょうか。

                  (向かって左側の随神さま)


                  (向かって右側の随神さま)


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   戸隠奥社の随身門をくぐると、いよいよ奥社の壮大な杉並木とのご対面になります。
   こちらの写真も紅葉の真っ最中の2012.10.17の撮影です。



     (戸隠奥社参道の杉並木を由来を説明した看板 : 2012.10.17の撮影)


   戸隠奥社参道のハイライト、樹齢400年を誇るクマスギの杉並木です。




 残念ながら上の縦長の杉並木の写真、ここのページに掲載できる容量の2MB以内の制限のため、画質が大幅に落ちていまして、美しい並木がいまいち表現できないのが残念です。
 下の写真のほうは横向きで細かい葉っぱとかが少なく写っているので、画質の劣化は少なめですね。


    まだまだ杉並木が続いていきます。


       




    奥社まで480mの地点まで来ました。


       


    いよいよ坂が見えてきました。


           そして階段の出現と相成ります。
       


    富士登山ほどではないですが、上から見下ろせばかなり急な階段です。



    階段も坂も急でけっこう息苦しくなりますが、
    これぐらいの苦しみがないと、ここへ参拝した甲斐もありませんね。


    こうして180段ほどの階段を登るとようやく奥社のお手水舎へと到着。
    そしてあの独特なギザギザ山の戸隠山も合わせて拝見できました。


       



    最後の階段、30段を登ればいよいよ戸隠神社の奥社です。





       


    こちらは戸隠神社奥社の手前にある戸隠の九頭龍神社の本殿です。


       
 そして晴れ晴れとした素晴らしい絶景のためここにしばらくいましたが、
 昨年の9月に訪れた時と同様に、10月の半ばだというのにまたもや台風が接近中とのことで、
 急に雲がどこからともなく湧き出てきて雨も降りそうになったので、ここを引き上げることにしました。

 
  また戸隠神社奥社の横からは戸隠連峰への登山ルートがあるようで、
    これらの説明看板がありました。



 先日登拝した富士山とは違って、戸隠山の登山には技量がいるようなので登拝は断念し、
 遥拝という形にさせていただきました。


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 そして駐車場まで戻りましたが、前々回の参拝時にはコンテオフのため急いでここを発ったし、
 前回訪問時の2012.1.28の日は、大雪の中で遅れて戻ったのと日が短いこともあって、
    次の訪問先である信州松代の皆神山へと急いだため、
 結局戸隠そばは食べられなかったので、今回初めて戸隠そばをいただくことにしました。

    今回おそばをいただいたのは、奥社参道入口にある「奥社の茶屋」さん


    私が食べた戸隠そば、かけそばで800円でした。
    戸隠のそばは麺が非常に細かったですね。


    そして車中泊した我がコンテRS号と戸隠神社奥社入口駐車場


 
  
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       【2013.10.4 追記】
 名誉挽回とばかり三連休が取れた翌年の2013.9.16~18の日、
 残念ながら前日の9月15日の夜は、あの全国至るところに大被害をもたらした台風18号による水害のため、高速道路をはじめとして各地の道路が通行止、自宅を出発することも出来ず待機。
 
 翌日の9月16日の午後になるとようやく台風はいなくなって天候が急回復、夜になってからやっと自宅を出発して長野・山梨方面へと向かいました。


 台風の大雨による盛土崩壊のために、名神高速道路の八日市→彦根間がずっと通行止めとなっているので、高速を降りて仕方なく裏道を走ったもののやはり渋滞に巻き込まれ、深夜にもかかわらずここの区間を抜けるのに2時間。

 その時の疲労も手伝って途中で熟睡し、戸隠には9月17日のお昼近くにやっと到着しました。
 今回、天候は晴天でほぼ雲もなく絶景となり、新しいDPメリルにていっぱい写真を撮りました。



       





 学研が出している月刊カメラ雑誌 「CAPA(キャパ)」 の、
    2013年 10月号を何気なしに読んでいますと 64~65ページにかけて、
 紅葉がとても美しい戸隠の鏡池から撮影された戸隠連峰のパノラマ写真が掲載されていました。

 撮影場所は全く記載されていなかったけれど、私は一目見るなり撮影場所が分かりました。
   

  とても素敵な紅葉写真だったので、スキャンしてここにも掲載したいのですが、
     著作権の関係で掲載を見送らざろう得ないです。

  雑誌には4枚の写真を合成してパノラマにした大きな写真が掲載されていますので、
    ご興味のある方は雑誌を買って見てみて下さい。




↓の関連情報URLには戸隠神社のホームページをご案内しています。
Posted at 2012/10/23 23:16:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | 旅行/地域
2012年10月18日 イイね!

我がコンテRS号、はや70000km!です

我がコンテRS号、はや70000km!です   
 2012.10.16(火)早朝、
 お出かけの最中の
 滋賀県大津市瀬田付近にて70000kmになりました。
  
  
  
  
  
  
  
    こちらは1km手前の69999kmでの撮影です
    コンデジのDP1xは特性上、接写・暗部撮影に弱いためこちらは携帯にて撮影



    そして1km走ると70000kmに
 



    前回のきりばんだった60000kmは2012.6.8(金)、
      小坂田オフの前日だったので今回は半年で1万キロを走りました
    以前よりはスローペースとなった模様です


    ちなみに2012.8.22(水)、
      富士登山の翌日に行った草津白根山の帰りには66666kmを達成
    そしてこの後で花園でのプチオフもしました。



   次の77777kmと80000kmも忘れないようにするのと、
   このきりばんの前後で、2回目となるCVTフルードの交換が待っていますね。
Posted at 2012/10/18 23:07:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 走行記録/きりばん | クルマ
2012年09月29日 イイね!

2012年 夏の旅行/その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く(兼:甲府でのプチオフ)

2012年 夏の旅行/その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く(兼:甲府でのプチオフ)
2012.8.23(木)の日、富士登山に出てから4日目。
  今日も早朝から雲少ない晴天のなか、
  秩父の山奥にある三峯神社へと参拝。

秩父の山奥なので
  早朝ならまだ人も少なくて落ち着いて参拝し、
  おかげでたくさんの写真も撮影することができました。
 
 

 富士山登山から始まって八ヶ岳沿線や北関東をぐるっと回ってきましたが、今日はもう帰宅日。
 もちろん東名・名神高速道路を使って帰宅しますが、その道中記よりもこの旅行のいちばん最後に立ち寄った、静岡県島田市にある「蓬莱橋(ほうらいばし)」からご紹介していきたいと思います。

 実はこの蓬莱橋、以前の琵琶湖にある竹生島の歴史ブログで一度取り上げたことがありました。
 「琵琶湖の竹生島参詣と近世日本の歴史(南北朝から太平洋戦争まで)」はこちらです。
      → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/24917302/


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 歴史にご興味のない方は、以下の文面は読み飛ばしていただければと思いますが、

 竹生島のブログ自体は、始めは竹生島を初めて訪問した時にこの目で見た景色と建物をご紹介していただけでした。が、竹生島に縁の深い信長や秀吉といった人たちの歴史を加筆していくうちに、中身がだんだんと変わってしまい歴史ブログとなっちいました。

 その内容ですが簡潔に要約しますと、信長・秀吉の安土桃山時代は世の中が大いに発展していったのに対し、異論はあろうかとは存じますが、徳川家康が開いた江戸幕府というのは徳川家の維持と繁栄ばかりを考えた社会制度で、身分差別を作ったり人民か虐げられたりしたろくでもない時代だ、と言う内容でした。しかも江戸時代の後半は飢饉と自然災害の連続でしたね。


 この保守的な江戸時代の間にイギリスのワットから始まる蒸気機関が発達した諸外国は、大いに科学技術が進歩して国力(軍事力)をつけ、鎖国していた日本の国は世界から取り残されてしまい欧米列強の植民地になる寸前までいきましたね。


         (軍服姿と晩年の徳川慶喜の写真2枚 : ウィキペディアより)


 で、世の中の転換といいますか、
 1868年に徳川15代将軍の中で(あくまで私が)最も聡明だと思っている、最後の将軍であった徳川慶喜が、大政奉還を決断したおかげで内乱が起こることもなく、外国からつけ入る隙を与えることもなく無事に明治維新が起こって日本が開国しました。
 
 そして聡明な明治天皇を中心として明治維新からわずか36年後の1904年には、当時世界最強の軍事国家であったロシアと日露戦争できるぐらいまでに国力をつけることができました。


  (第122代の明治天皇 明治21年 : ウィキペディアより)


    「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に 
                   など波風の 立ちさわぐらん」
 この短歌(御製)は明治天皇が日露戦争の開戦を前にお詠みになったのですが、

 聡明だった明治天皇、もちろん好んで帝政ロシアとの戦争を望んだわけではないのはすでに歴史が証明しているところですが、不凍港の獲得と領土欲丸出しの帝政ロシアに対抗すべく、やもうえず戦争をせざろう得ませんでした。
 これは上杉謙信公と全く同じ心ですが、でもそうしないと荒々しいロシア民族に日本民族がやられて滅んでいたことでしょう。

 そして日露戦争と第一次世界大戦に勝利して日本人が慢心してしまい、太平洋戦争では今度は軍閥が幅を利かせて適材適所の人材を活用せず日本が敗戦してしまうところまでを、その竹生島のブログにしたためました。

 こうして明治天皇とは裏腹に、困窮する人民のことを考えず徳川家の維持安泰ばかりを考えた江戸時代の265年間!を象徴するものの代表として、この「蓬莱橋」をその竹生島のブログで取り上げました。


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 で、その「蓬莱橋」とはいったいどんな橋でどんな歴史なのか、以下にご紹介していきます。


         (静岡県島田市にある蓬莱橋 : 2012.8.23 筆者撮影)


 江戸時代によく言われた言葉に
    「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 というのがありました。

 先ほども触れましたように江戸時代の265年もの間、アホの一つ覚えではありませんが戦国時代が終わり泰平の世になっても、保守的な江戸幕府は富士川や大井川や天竜川などの大きな川には一切架橋を認めませんでした。
 家光の弟にあたる徳川忠長(国松)は、1626(寛永3)年の家光上洛の折、許可を得ず勝手に船を並べて?大井川に浮き橋で架橋し、これで家光の怒りを買っていますね。


 よって旅人は江戸の初期には自ら渡るか川越人足に頼っていましたが、そのうち自らでは自由に渡れなくなり、「勝手渡り」という抜け道はあったようですが基本的には自力での渡河は禁止となり、川越制度により川越えにもお金が取られるようになりました。

 しかも川越人足は幕府の下級役人であったようで、今で言う利権と一緒ですね。


  (ダムなどによって水量が減らされている富士川 : 2005.12.24撮影・ウィキペディア)


 現代(特に戦後)では、主に電力会社が大井川の水利権を持っていて、たくさんの発電用ダムが作られ、あまりにも水をせき止めてしまって川の流量が減り、河原は砂地ばかりが目立つ状態となってかえって社会問題化し(長い無水区間とか)、このあたりの「水返せ運動」にもなったようです。

 でもダムなどない江戸時代では、これらの川は流れも急でかなりの水量もあったようですよ。今では大雨の時しか見る影もないですが、往時では普通に平均水深70~80cmもあるほど豊かな水量を誇っていたそうです。

 しかも大井川は水量のあるときとないときの差もかなり激しかったようで、特に渇水状態の時などは何の苦労もなく渡れるぐらいだったようです。


         (歌川広重作 「東海道五十三次・金谷」より : ウィキペディア)


 ちなみに大井川は蓬莱橋のところでは川幅は900m前後もあり、水深も1m前後もあるのなら本当に橋がないと川を渡るのは大変ですが、単に橋を架けたり水害で流されたりして修復するのに膨大な費用をかけるのが惜しいのなら渡し舟にすればいいのだけれども、これも結局川越人足の利権がからみ江戸時代はずっと禁止していました。

 1700年の元禄のころには川越人足は300人ほどでしたが、1870年あたりの幕末~明治初期ごろになると両岸で合わせて1300人前後にもなっていたそうですよ。まさに大井川の川渡しは一大産業化していたようです。

 でも明治維新直前、官軍(薩長軍)が江戸へ攻め込んでいくときに、なんと即席でこの大井川にも橋を架けさせたんだとか。よってどうやら架橋を認めなかった真の理由は、両岸に家族も含めると3000人にもなる川越人足の家庭を守るためだったのでしょう。



 ちなみにこの浮世絵は著作権が切れているため
   国立図書館で公開されていたデジタル画像3枚を筆者が合成しました。
 3枚の絵の継ぎ目部分が欠けているため、合成画像に段差が出来ているのはご愛嬌で

 (歌川国久作 東海道川尽 大井川の図 : 国立図書館デジタル化資料より筆者合成)


 架橋費用やその修復費用が惜しかった、また駿府城を守るためとか架橋の技術的問題からだと一般的によく言われてもいますが、築城技術にしても徐々に発達してきたことから特に科学技術や土木技術は、何事もやってみなければ物事は発展していかないのは歴史が証明しているところです。


 といっても江戸幕府、
 たとえ飢饉の中でも大奥には膨大な維持費をつぎ込んでいまして、私は以前本でも読みネットでも紹介されていますが、多い日には1日でなんと砂糖 600kg!ですよ、たった1日で砂糖を何百kgも大奥内だけで消費していました。

 しかも当初、白砂糖は舶来品だったようで年間数十万両?の幕府予算のうち、後年になると贅沢になりこの砂糖購入の支払いだけのために5万両/年も支払っていたようです。

 とあるサイトでは、幕府の莫大な固定費を除けば、使えるお金は13万8千両/年だったとの試算もあります。そのサイト 「大江戸財政危機~萩原重秀、徳川吉宗、田沼意次の苦悩~」はこちらです。
     → http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/Ohedo/CafeOhedo.html
    (こちらのサイト、開くと音楽が流れてきますので、その点にはご注意ください)

 
 将軍の吉宗を始め幾人かの老中も、この厄介で金食い虫の怪物大奥を改革しようとしたけれど、女ばかりのこの独特な世界、改革はことごとく失敗してこの摩訶不可思議なハーレムは結局幕末まで続き、こんな政権はもう滅びるほうが世の人々ためにも良かったですよね…これあくまで私の主観です。


         (水量がない現代の大井川 : 2006.4撮影・ウィキペディア)


 で、これらの 「橋を架けることはまかりならぬ」 という政策によって、どれほど旅人が移動に不自由していたかは計り知れません。もっとも川岸の宿場町は繁盛したかもしれませんが。まあ江戸時代は元々農民の移動は認められていませんでしたけれども、ちょっとひどすぎですよね。

 しかもこのことにより日本の土木技術、特に架橋技術とトンネル掘削技術は江戸時代の間には全く発展せず! 交通体系の整備もなく、蒸気機関の発達により諸外国では大幅に交通体系が変革していても、日本では江戸期の265年間にも渡りずっと馬かほとんどは徒歩で、産業革命を経た欧米に比べてどれほど遅れたか計りしりません。


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 ところで山口県の東端に位置する岩国市に 「錦帯橋(きんたいきょう)」 という名の橋がございまして、けっこう有名な橋なのでご存知の方も多いと思います(下写真)。


       (岩国にある現代の錦帯橋 : 2005.5.5撮影 ウィキペディアより)

 岩国市といえばただ今は米軍基地のオスプレイで有名かもしれませんが、毛利元就の毛利家家臣の位置づけらしい? 吉川広家が岩国城を1608年に築城して以来、城と城下町とを結ぶ橋が川幅200m前後の錦川に架けられたものの、やはり江戸初期ごろの架橋技術、水害のたびに橋が流失していたようです。


 私が購入して読んだ本、その名もズバリ「大井川に橋がなかった理由 (松村博著・創元社刊)」を読みますと、当時の橋の橋脚は木を使い、川底に押し込むほうの先端を尖らせて金属板を張ったりしてから、水面に垂直に立てて押し込む木の上に米俵(中身は土とか?)の重しを徐々に追加して乗せていき、ゆすりながら川の中へ橋脚となる木を押し込めていったとか。

 この工法を当時「震込」…ゆりこみ、と呼んでいたそうです。


(大井川に橋がなかった理由 : 松村博著・創元社2001年刊)


 たしかにお城と違って、橋脚を川の中に立てるのに重しを載せてゆすりながら川の中へ押し込めていくような工法では、基礎が脆くて水が出れば流されてしまうのは仕方なかったかも知れません。
 

 そこで三代目の岩国藩主の吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手します。
 橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。

 広嘉は、明の帰化僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。これをもとに連続したアーチ橋という基本構想に至った。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで洪水に耐えられるというのである。

 児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。しかし翌年の1674年(延宝2年)に洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われてその姿を保った … ウィキペディアより引用。


            (葛飾北斎が描いた錦帯橋 : ウィキペディアより)


 ウィキペディアの記事にさらに付け加えるなら、石の橋脚の周囲(前後100mに渡ってらしい)には、洪水のときに橋脚の根元が削り取られないよう=洗掘(せんくつ)されないように、橋脚の周りをさらに石で補強されているのが下写真からでも判別できると思います。


(石の橋脚の根元にさらに石を敷き詰めている錦帯橋 : 2010.7.24撮影 ウィキペディアより)


  (錦帯橋の木製によるアーチの部分 裏側 : 2009.3.21撮影 ウィキペディアより)


 当時の稀に見る優れた児玉九郎右衛門の設計と藩主の決断により、1674年に改良した錦帯橋が完成後、架け替えの保守はあったものの、江戸時代には珍しく276年間も洪水に流されることなく耐えてきました(前出の本より)。
 錦帯橋は戦後の1950年に台風により一度流されてしまったが、これは前年に米軍が岩国基地拡張のために、この橋の近辺から大量に砂利を取ったのが主な原因だとか。
 
 ということで、たとえ江戸時代でも費用と手間をかければ大井川とかでもこのような橋もできそうですが、錦帯橋は川幅が200mに対し大井川の蓬莱橋のところではほぼ900mなので、重機のない=鎖国していたこともあり当時なら蒸気機関のなかった江戸時代では相当な大工事となったことでしょう。
 でも裏をかえせば、多いときで年間5万両!ともいわれた、大奥で使った砂糖の代金をそのまま回して10年ぐらいかけて大工事をやれば、何とかできたのではないかとも言えますね。


 また大井川を渡る大名行列とかは付け届けも含めて超多額の渡河費用を出費しており、その費用を橋の建造費に回せば恐らく橋はかけられたことでしょう。ちなみに前出の本によりますと、多い時で年間1万両ぐらい?(1両=20万円とすると20億円) の大金がこの徒渡し制度によってもたらされたみたいなのです。

 これらのお金はもちろん徒渡し人足にも渡されましたが、かなりの額が宿駅制度とも宿駅伝馬制度とも言われている、江戸時代の公儀のための馬の乗り継ぎ制度の維持などに使われたようです。

 そして特に大井川の徒渡しは収入があまりにも莫大だったため、どんなに渡船設置の嘆願が出されようともそれらは一切無視され、地元の利益と相まって人足による徒渡しは、明治の世になるまでずっと続けられたことにより多くの旅人はこれに苦しめられました。そういうことを考えれば江戸時代は本当におかしな時代ともいえますね。



 こういった265年も続いた江戸時代の不便極まりない状況が、ようやく明治維新により江戸の時代は終わり、「明るく世を治める」 という意味にとれる明治の世になって、この不便な状況を打開すべく島田の宿の開墾人たちは時の県令(現在の知事にあたる)に必死に陳情して架橋が許され、1879年(明治12年)1月13日、ようやく「蓬莱橋」という名の橋が大井川にも架けられました。

 これが蓬莱橋のおおまかな歴史でございます。


              (蓬莱橋のそばに掲げられている説明看板)


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 そしてその竹生島のブログの中で取り上げたこの木製の橋、
 このたびの旅行での帰宅時に幸いこの近くを通るので、せっかくなので立ち寄ってみようと思い立ち、東名高速道路の吉田インターを途中下車し、JR島田駅方面に向かって片道7~8kmほど下道を走って到着です。何台かは橋の横の堤防に車を停められます。


     (全長897mの橋の対岸の牧之原側から : 2012.8.23 筆者撮影)


 で、上の写真は対岸の牧之原側から写した写真ですが、
 この橋、最初一目見たときにどこかで見たなぁ、と思いましたが、この看板を見て気が付きました。



 この看板、最後の最後の撮影でデジカメの電池がまた切れてしまって携帯からの撮影ですが、
 1994(平成6)年度の三田佳子さん主演の、NHK大河ドラマ「花の乱」のテーマ曲の冒頭シーンでこの橋が出てきていたのですね。


 ところで余談ですが、
 この大河ドラマの主人公ともいえる足利義政については、以前の銀閣寺のブログに取り上げたことがありました。こちらです → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/25024433/
 現代にまでずっと続く、日本文化の源を作った人でしたね。

 将軍としての職務だけを見るなら最低評価に近いと思われ、しかも政治力が足らず応仁の乱を引き起こしたという当時の人にとってはしごく迷惑な人でしたが、その代わりに東山文化に代表される日本文化の源流を作ったという大きな天命を果たしたのではないでしょうか。


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 ではこのギネスブックにも認定されている、
    「世界一長い木造歩道橋」の各部をダイジェストで。
 受付窓口で通行料100円を支払い、まだ暑いなかさっそくこの木製の橋を渡り始めます。


 まず「大井川河口より拾弐粁四百米」の碑です
    この蓬莱橋は、大井川の河口から12.4kmさかのぼった位置にあるようです







   (花の乱の看板とこの写真のみコンデジの電池切れで、ガラパゴス携帯で撮影)





      1965(昭和40)年に、さすがに橋脚だけはコンクリートパイルに変更




      蓬莱橋の下部と真下から撮影


       



      蓬莱橋から大井川下流を眺める


      何百メートルか下流にある現代の頑丈なコンクリート製の島田大橋




      3分の1ほど進んだ時点で撮影
      大河ドラマ「花の乱」の冒頭のシーンはこのあたりで撮影されたのかなぁ


             下流側を橋の上から覗く
       

       上流側を橋の上から覗く




   2011(平成23)年の9月、台風による水害で橋脚が流失、通行止めに

           (この写真はフリー百科事典のウィキペディアより借用)


  2011年の7月の大水の様子がYou Tubeにアップされていました




            2012.3に修理が完了し、2012.3.31に開通式が行われました。
            どうやらこの敷板の真新しいところが修復跡?のようです。
       

      修復跡を近撮




      上流側の川の水がきれいなエメラルドグリーン色に


             下流側の川の水も同様の色に
       

 
  
      下流側を蓬莱橋の牧之原側から撮影


      同じく牧之原入口直前の上流側。西日が水面に反射し光っています




      ゆっくりと歩いてようやく対岸の東側に位置する牧之原側へと到着
      夕刻近い16:53着でした


      元の島田側に戻りました。
      17:04着でした、橋を渡るのに徒歩10分程度でしょうか


  そしてここを夕刻の17時半ごろに発ちました。
  それから来た道をそのまま戻りガソリンを満タンにして、吉田インターから東名へ流入。


 東名の下り線の牧之原SAにはコインシャワーがありまして、蓬莱橋を歩き回って汗をベットリかいたのでシャワー待ちの列に加わりました。
 しかしこの日はシャワーが超混んでいたうえに、4つあるコインシャワーのうち1つが故障で使用不可。自分に順番が回ってくるのに1時間ほどかかり、シャワーを浴びて車に戻ったときはすでに陽が暮れていました。

 実は静岡県浜松市と湖西市にまたがる浜名湖も写真に収めたかったけれど、もうコンデジの電池もすでに全滅していたので写真撮影はあきらめて、まだまだ距離のある自宅まで帰るのに汗を流すほうを選択しました。


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 そしてこの2012.8.23の日は、
       埼玉県秩父の秩父鉄道の三峰口駅への訪問
       秩父の奥にある3つの峰がよく見渡せた三峯神社への訪問
       静岡県島田市にある明治初期に架けられた蓬莱橋への訪問
  の間をぬって山梨県の甲府市内におきましてみん友さんのあかねさんとプチオフ。
  山梨のお土産までいただきました。どうもありがとうございました。


 私が早朝から寄り道したうえに、雁坂みちと雁坂トンネルとかの道中写真を撮影したりして、最初の待ち合わせ時刻だった10:00にはとても間に合わず、再度連絡をとりまして道路地図の甲府市街のところを見ながら集合場所を変更。私が行き易いように甲府市街まで出てきていただきました。

 ちなみに集合場所はここ、国道140号線・西関東道路の終点を下りて、JR中央本線を超えてすぐのところ、和戸通りにあるファミレスの「デニーズ」にしました。到着時刻は11:20ごろとなっていました。

             (甲府市和戸町にあるファミレス デニーズ)

   あかねさんのエブリワゴンは修理中とのことで、代車のスターレットで参上です

        (あかねちゃんの代車のスターレット & 我が愛馬コンテRS号)


 私が大遅刻してしまって、AM11:30ごろから1時間半ぐらいでしょうか、もちろん暑いので涼しいファミレスの中で私は遅い朝食兼昼食を摂りました。
 もっとゆっくりできれば良かったのだけど午後13:00ごろにあかねさんとお別れして甲府を出発。帰途に就きました。

 帰宅はどのようにしようかと悩みましたが現在地は甲府市街なので、お天気も良いしせっかくなので蓬莱橋を見てから帰宅しようと思い、大回りになる中央道経由でなく、御殿場まで下道を走って東名へ出ようと決め国道137号線の御坂みちへと向かいました。

 ところが国道137号線の上黒駒バイパスへ入るあたりから雲行きが怪しくなり、
        ものすごい雷と豪雨に。この豪雨は河口湖手前付近まで続きました。


   河口湖大橋を13:50ごろに通過、今日の午後の富士山頂は雲隠れですね。

       (河口湖大橋上にて撮影 : 撮影時刻は2012.8.23 13:50)

 昨日の早朝にここの先で見た雲ひとつなかった富士山(下写真)とはえらい違いです。

    (富士河口湖町の船津付近?で撮影 : 撮影時刻は2012.8.22 6:52)


 そしてここ富士吉田からは東富士五湖道路を通って須走まで抜けて時間を稼ごうとインターチェンジへ入ると、間違えてほんの少し手前にある大月・東京方面へしか行けない河口湖インターへ入ってしまって、バックすることもできず東京方面へ。

 しかも次のインターの都留(つる)インターまで片道16kmもあり、仕方なく往復32kmを無駄に走ってしまいました。結局富士吉田料金所通過が14:30でした。
 


 甲府市内からここ富士吉田インターまで1時間もかからなかったのに、この失敗で30分近くロスタイムが生じてしまいましたね。
 それから東名御殿場インター手前2kmぐらいから国道138号線が渋滞していて、裏道も分からず東名に乗るのにひと苦労。これなら身延まわりで富士宮へ出たほうが早かったかもしれないです。


    そしてやっと御殿場インターから東名高速下り線へと流入。
    ほどなくして新東名との分岐点である御殿場JCTへと遭遇(下写真)。

  (東名と新東名の分岐点である御殿場JCT : 撮影時刻は2012.8.23 15:07)


由比の景色も見たかったし、
  蓬莱橋は旧東名の吉田インターから降りていくほうが行き易そうだったので、
  あえて旧の東名を走行しました。

  15:40ごろ東名の由比PAへと到着。
  河口湖や富士吉田市と違ってここではすこぶる晴天でしたので、思わず撮影しました。
                        伊豆半島?が良く見えています。


    新東名が開通してがぜん交通量が減ったように思える(旧)東名高速道路


  こうして由比PAでしばし休んで、吉田インターまで走って途中下車。
  タイトル写真の蓬莱橋へと行きしばし散策しました。


  17:30すぎぐらいだったでしょうか、再度東名高速へ流入。
    カメラの電池切れのため浜名湖の撮影は断念し、
    牧之原SAでコインシャワーを浴びてすっきりして、
            ここからは自宅へと帰宅の途につきました。


  この丸4日間の旅行で1754.8kmも走っていました(誤差+1.5%前後)


          初回の車検もまだなのに、どんどん走行距離が延びて67552kmに
       



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  これでようやく丸4日を要した、
    私の2012年夏の旅行 富士登山もろもろ編はすべて終了しました。
    ブログも13連投となり、旅行全体の様子をすべてアップするのに1ヶ月弱も要しました。


    そしてプチオフの設定をお願いし来てくださりましたRIKO☆さんをはじめ、
                角*鹿RSさん、依身コンテさん&たかトシさん夫妻、
    それから翌日大幅に遅刻しましたが快く応対してくださいましたあかねさん、
              どうもプチオフにお付き合いくださりありがとうございました。


下記↓関連情報URLには、江戸時代の大井川の渡しについての情報が書かれています
Posted at 2012/09/29 00:42:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2012年 夏旅行/富士登山ほか | 旅行/地域
2012年09月26日 イイね!

2012年 夏の旅行/その⑫ 1900年もの歴史を誇る三峯神社の参詣と、すでに廃墟となったギリシャのアクロポリス神殿

2012年 夏の旅行/その⑫ 1900年もの歴史を誇る三峯神社の参詣と、すでに廃墟となったギリシャのアクロポリス神殿 
昨日2012.8.22はコンテ乗りの方と急なプチオフを
 “道の駅はなぞの” で、夕方から真夜中までしたあと、
 
埼玉秩父の山奥に向かって、道の空いている真夜中に
 国道140号線を西へ向かって車を進めていきました。




 でも当然ですが昨日は朝から夜までぐるっと山梨、長野、群馬の草津、榛名、そして花園というふうに、ほぼ下道ばかりを何百キロも運転してきたので、当然ながら秩父でとうとう力尽き、“道の駅ちちぶ”で熟睡してしまいました。

 そして2012.8.23(木)の早朝、この旅行も最終日となった今日、起床後身支度をして三峰口で鉄道散策をしたあと、まだ早朝のうちに三峰へと向かっていきました。ここまでが前回のブログの内容でした。

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    さて、秩父鉄道の三峰口を出たあと、しばし走ると昨年入った温泉が。



    道の駅と併設の大滝温泉 遊湯館、
    まだ朝早いので当然閉まっています。朝10:00からだそうです。

    温泉は当然ながら閉まっていたので、
    仕方なく雁坂トンネル方面へ向かっていきますと大滝三差路へと出ます。



       (2012.8.23早朝の国道140号線 大滝三差路 : 筆者撮影)

 大滝交差点内の看板を見ますと今日の目的地、三峯(みつみね)神社までここからまだ14kmもあります。もうここまでも相当な山奥なのにさらに秩父の山奥へと入っていくようです。真冬なら雪が相当積もりそうなところですね。


 裏を返せばこんな山奥だからこそ開発もなくて、
 神社が荒れることもなく未だにパワースポットとして存在しているのだと思います。 

          (国道140号線 彩甲斐街道の旧道を進む : 筆者撮影)



    そしてやっかいな駒ヶ滝トンネル前へと出ました。
    道路看板からでも分かりますがトンネル内分岐があります。


  トンネル信号が赤です。待ち時間を表示する回転表示灯もあります。
  しかも狭いトンネルの中で分岐もあるから驚きですよ!
  当然対向車が来れば絶対にかわせません、幅2.5mで自転車でも無理そうです。


    長い信号待ちのあと、やっと信号が青になりました。


    これがトンネル内分岐です。
    画像ノイズ処理で強力にノイズを除去したうえで掲載。



     【2014.1.21 追記
 先日富士山へ行ったついでにここへ久しぶりに立ち寄りましたが、このトンネル内分岐を含む駒ヶ滝トンネルはすでに閉鎖され、ダム側に鉄骨で組まれた上下2車線の広く新しい迂回路が出来ていましてビックリです。後日その写真をここに掲載します。

 よりまして、この駒ヶ滝トンネルの記事はもう過去のものとなりました。






  そしてこの狭いトンネルを出たあと(すでにこのトンネルは閉鎖されました)、
     いきなり二瀬ダムの堤防の上を走ります。
     ここでも対向車をかわせません。ここの県道も1車線分の幅しかありません。

  それにしてもこの写真、
     2009.11.3撮影のウィキペディアに掲載されている写真ですが、
     紅葉の時期なのか路線バス?を含む何台もの車が連なっています。



      (2012.8.23 AM8:04  我がコンテRS号もここを無事通過)


    二瀬ダムをすぎ、さらに山奥へ行く途中で秩父の山奥深い谷間を撮影。



 昨年2011.6.10にここへ初めて訪れたときは、
 この辺りから急に霧がもくもくと出てきて神社の駐車場に着く頃にはすっかり周囲が真っ白に。
                             さすがすごいパワースポットですね。



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    やっと神社の駐車場ともいえる、秩父市営三峰駐車場に到着です。
    普通車と軽自動車は¥500/1日でした。

   

   駐車場から周囲を見渡すと、
   昨年訪ねたときとは打って変わって、今日はもやも一切なく素晴らしい天気です。
       白岩山も雲取山も、今日はありがたいことに晴天なので良く見えています。



    どの峰が三つの峯=三峯にあたるのか分からないので、
        駐車場に掲げられていた説明看板も合わせて掲載です。

    三峯神社のご由緒にも書かれておりますが(関連情報URL)、
        「三峯」とは字のごとく神の山の三つの峰を表しています。
        その三つの峰とは「雲取山」「白岩山」と「妙法ヶ岳」ですね。
 


   上の2枚の写真は、その中の「雲取山」と「白岩山」です。
   こちらの下の写真のほうが、神社遥拝殿(ようはいでん)から見た「妙法ヶ岳」です。



 そして富士登山した日から今日まで本当にありがたいことにお天気に恵まれて、この三つの峰も今回初めてすべて見渡すことができました。
 もちろん当然ですが、この素晴らしい風景をカメラに収めないはずはなく、カメラ電池も復活したので昨日の榛名神社とは違い、念のためいくつもの写真をしっかり撮りました。

 風景を記憶するのはけっこう難しく、画像を頭に焼き付けてもすぐに忘れてしまいます…これは私だけなのか?  そういう点から考えますと、写真というのは非常にありがたくて忘れている記憶を呼び戻してくれますね。

 

    こう思いながら工事中だった参道へと続く階段を上がっていくと売店があり、
    三峯独特の大小合計3つも鳥居がある 「三ッ鳥居」 がお出迎えしてくれます。

        (2012.8.23 AM8:30  早朝のすがすがしい三峯神社)


         (2011.6.10 初訪問時の霧に包まれてしまった三峯神社)



   三峯のご眷属(ごけんぞく)であるお犬様=オオカミ=大口真神、と言いますが、
   三ッ鳥居のそばにある狛犬ならぬ狛オオカミを撮影。独特なお姿です。  


   その独特な三ッ鳥居をくぐり、早朝のさわやかな参道をゆっくりと歩いてゆきます。



    途中遥拝所から妙法ヶ岳をご拝見し、そしてその山のお姿をカメラに収め、
    さらに奥へ進むと工事中だったため見苦しい小型ダンプとかも写っていますが、
    ここが日本武尊の銅像の上り口を示す碑です。


    まだ暑いなか階段をあがると日本武尊の銅像が、
                  この三峯神社の創始者だそうです。
    創建は西暦111年といいますから、かれこれ1900年も続いているのですね。




    日本武尊の像を拝見して神社へと行くべく参道へ戻り、
    しばし歩くと随神門(ずいしんもん)がお出迎えです。
    随神門につきましては、その⑩の榛名神社のブログでご紹介しましたね。


    たくさんの大きな木々で覆われている三峯神社境内地



    そしてやっと拝殿・本殿前に到着しました。
    階段を登れば美しい装飾で飾られた拝殿へと出ます。
         暑かったですがあと一歩です。


    急な階段を登れば左手にお手水が。




    三峯神社のご由緒板です。


    三峯神社拝殿です。色鮮やかな春日造りです。




    有栖川宮一品親王殿下の御染筆なる大額も撮影しました。



    拝殿から内部も恐れ多いことですが撮影させていただきました。
    白い半紙で作ったと思われる紙垂(しで)も、たくさんぶら下がっていますね。




    早朝なのでまだ参拝客もほとんどいなくて、
             静かでさわやかななか、ここにしばらくいました。

    樹齢800年のご神木の根元付近です。じかに手で触ることができます。


    そして樹齢800年の大きなご神木全体も撮影してみました。



    神社授与所で500円でお分けされていた、ミネラルウォータ「神乃山水」1L


    三峯の山奥で汲まれたというミネラルウォータを
        授与所で500円で求めることができたので、
      旅の疲れを癒すべく買い求めました。外箱入りの立派なものです。


   ---------------------------------


 それから榛名神社にしても三峯神社にしましても、日本の旧官幣大社といわれる歴史ある神社、あるいは都心のど真中にある明治神宮にしましても、たくさんの木々が植えられ明治神宮は新しいけれど、たいていは長い年月をかけて木々が育まれているのが特徴ですね。
 
 聞くところによりますと、現代の日本人が昔と比べて若い人から年寄りに至るまで切れやすい人間が増えた理由のひとつに、森林や木々が開発によって破壊され情緒がなくなったからだと言われてもいます。開発するにしても経済効率一辺倒でなしに、もっと緑豊かな都市にできないものかと私などつい思ってしまいます。


 現代の日本はドイツとかと比べてこういった規制が非常に甘く、無秩序に開発が行われている感があり、現在も政府はこれについては全くの野放しと言っていいほどですね。
 見苦しい電柱と電線も相も変わらず風向明媚な観光地にさえ林立しています。不景気の克服にお金の流通量を増やして、緑豊かな都市に徐々にでも変えられないものかと私などつい思ってしまいます。





  (すでに廃墟状態なギリシャのアテナのアクロポリス神殿2枚 : ウィキペディアより)


 この上の写真2枚を見ていただくと分かりますように、ギリシャのアテナ(アテナイ)にある有名なアクロポリス神殿、現在周囲は岩だらけの殺風景な姿をさらしており、すでに木々もなにもありません。

 あれだけ芸術を愛し文化が発展していたギリシャの人たちが、今のようなあんな殺風景なところに神殿など造るはずもなく、神殿の創建当時は緑豊かなブナの森が神殿の周囲に覆い茂っていて、その中にこの荘厳な神殿があったらしいです。

 でもそれって、日本の神社の形態と全くそっくりですよね!



 そしてどうやらこの神殿、ウィキペディアによると最初は日本の神社と同じように木で造られていたそうです。しかし後にペルシャに攻められてすべてが灰になったとかで、再建するときには石造りになったんだとか。


   (いっぱいブナ林が原生している白神山地 : 2004.8撮影 ウィキペディアより)


    そう、ブナ林といえば私はまだ行ったことがないのですが、
    日本では秋田県から青森県にまたがる白神山地が有名ですね。

     (白神山地のブナ林の美しい紅葉 : 2008.10撮影 ウィキペディアより)



 で、それでは大昔のギリシャ、
 その豊かだったブナの森の覆い茂ったギリシャの森やら国土は
        どうなったのか?


 これはなかなか分からなかったんですが、ネットを徘徊してやっと見つけたのが、当時勢力拡大中のローマ帝国が豊かな森林があるギリシャに目をつけて、新たな森林資源獲得のために攻めていったとか。そういえばあの有名なトロイの木馬も巨大な木製の馬でしたね。

 そして現代の兵器なら金属主体のものばかりですが、この時代は馬車にしても槍にしても弓にしても船にしても、とにかく木製品が多用されていたため豊かな森を手に入れることが戦争に勝つ早道の一つだったようです。




  (あまりにもたくさんのレンガを積み上げたローマのコロッセウム : ウィキペディア)


 今となっては有名なことですが、
 ローマ人はとにかく風呂好きでもあったので、電気とガスがないあの当時、公衆浴場の維持にたくさんの木々を伐採して風呂の燃料にどんどん使ったんだとか。

 さらには巨大な建造物もレンガを積み上げてどんどん造っていったので、そのレンガを焼くにも薪がいるわけです。これではいくら植林をしても追っかないはずですよね。


 元々地中海沿岸も大昔は緑豊かな土地だったそうですが、周囲の国たちが侵略戦争ばかりに明け暮れ、最後にはローマ人たちが風呂の燃料やら武器やら建造物のレンガを焼くためにたくさんの木々を伐採し使った結果、地中海沿岸から緑はなくなり荒地ばかりになって、結局ギリシャもローマもエジプトも偉大な国家が歴史から亡くなりました。


              (キプロスの森 : フリーサイトより転載)


 でも日本では三峯神社にしても、もっと古い伊勢神宮や三輪大社や出雲大社にしても、日本が島国だったせいもありますが、蒸気機関が発達したり飛行機ができるまでは、日本は外敵からあまり攻められることもなく、しかも古来の日本人は森林や神社仏閣を大事にする人が多かったおかげなのか、2000年以上に渡り古来からの伝統が今もなお引き継がれていますね。


   (2000年?以上の歴史を誇る出雲大社の本殿と背後の木々たち : 筆者撮影)



 一時はあれだけ発展したギリシャ文明もデルフォイとかに代表される古来のギリシャ信仰も、現代までは残らずに途絶えてしまったが、何千年もずーっと森に守られながら神社やお寺が続いている、日本という国は本当に素晴らしいです。

 同時期か日本の神社より少し古い時期に建てられたギリシャの多神教をお祭りしていたであろうと思われる神殿アクロポリスは、もうすでに過去のものとなり現在は残骸だけが残った廃墟だけれども、日本の神社は、伊勢の式年遷宮に代表されるように今なお生きています。



  …… 三峯神社など森が豊かな神社を参拝するたびに、いつもこのことが私の頭に思い浮かび感慨深いものがありますね。


   ---------------------------------


    こうして三峯神社参詣を終え、ここを離れて元来た道をそのまま戻り
    例のやっかいなダム道とトンネル分岐のある信号機の手前まで来ました。


 
この後はこの旅行前からご連絡していました、山梨県にご在宅のあかねさんとのプチオフが予定されていたので国道140号線の大滝三差路まで戻り、雁坂トンネル方面へと車を走らせていました。
 
途中であかねさんからご連絡をいただき、車内で甲府市内の詳細な地図を見ながら待ち合わせ場所を決定。そして、昨年ここへ初訪問時には撮り損ねていました甲府市からの道中写真をDP1xで撮影すべく、途中下車しながら撮影。

 その雁坂トンネルを含む山梨県甲府市へ抜ける国道140号線の道中写真ほかは、
        昨年のブログに大幅に写真を追加して書き換えました。
        その道中写真を含む、昨年初めて訪問した三峯神社のブログはこちらです。
   → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/27576935/


   結局道中写真を撮影していたこともあり、
   11時すぎにやっと甲府市の待ち合わせ場所に到着しました。


   これで「夏の旅行/その⑫ 早朝の三峯神社参詣」 は終了しました
   次回はいよいよ最後の、その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く (兼:甲府プチオフ)です
                            その⑬へとつづきます


↓の関連情報URLには、三峯神社の公式ホームページを掲載しました。
Posted at 2012/09/26 00:52:43 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2012年 夏旅行/富士登山ほか | 旅行/地域

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当然、新品のストレーナ・マグネット・ガスケットへと交換。」
何シテル?   10/26 21:55
カクシカおじさんです。 ニックネームの由来は、我が愛馬コンテカスタムRSの別称、ダイハツの『カクカクシカジカ』と現在の年齢がおじさんになっているところから...
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