2016年04月18日
震災発生後、家の中はめゃくちゃで、震災当日の夜は、ワークス君で寝ました。
余震で家にいられないってのもありましたが、当日は雪まで降って非常に寒く、さりとて家では停電で暖が取れず、テレビも見られないので全く情報が入ってこない為、止むを得ずって所でした。
当日は頻繁に起こる余震に脅え、更にはフルバケな運転席で横になれず全く眠れませんでした。
ラジオは地元の東北放送の若林区荒井にある送信所が位置的に多分津波でやられてしまい、予備の利府辺りの送信所で放送していたからか、受信感度はかなり弱かったです。
テレビは、津波の映像がひっきりなしに流れて精神的に病みそうになったので、殆ど見ませんでした。
ラジオでは、荒井地区に多くのご遺体が流れ着いて、何名亡くなったか分からない状態と放送していました。
余震で車が揺さぶられるたびに、心臓が高鳴り緊張が走ります。
緊急地震速報のチャイムと携帯のブザーの音は聞きたくなかったっすね。
当時は、水は出ましたが都市ガスと電気がダメでした。
電気は、10日くらい経ってから、都市ガスはその後4月に入ってから復旧しました。
電気が来るまでは、ワークス君で寝てました。
ガソリンは、災害発生直後から全く手に入りませんでしたが、GT-Rさんを満タンにしており、あのタンクって実は給油口からチューブでガソリンが抜けるのでカブ夫君やワークス君、嫁のラパン号に給油してました。
72L有ってすげー助かりました。
しかし、ラパン号は、震災前日ガソリンを入れて来いと嫁に言っていたにもかかわらず入れていなくて貧乏ランプが点灯してEラインより下に下がっていたので暖も取れず全く使えませんでした。
それにラパン号の実燃費が10km以下だったので、当時、福島第一原子力発電所が爆発したら北へ逃げようと考えていた私には、捨てる車であったことは間違いないですね。
って実際爆発しましたが。。。。。
10Lのガソリンを給油するのに1日並んでってのがザラでした。
まともに満タンに出来たのは、3月下旬から4月に入ってからだったと思います。
スーパーやコンビニは震災当日から閉店してしまい、その後開くのに暫く時間がかかりました。
しかし、新潟資本の武蔵だけは、中越地震で東北地域の人たちに大変世話になったという事で物資をかき集めて入場規制無しで開店していました。
こういう心意気がスゲーと思いました。
野菜が手に入ったのはありがたかったです。
移動はスーパーカブ夫君が大活躍しました。
ガソリンが手に入らないからか、車はそれほど走っておらず、バイクが結構走っていた記憶があります。
若しくは、自転車すかね。
当時、我が家には冷蔵庫の冷凍庫に大量の冷凍食品の在庫があり、更には乾麺やレトルトカレーも豊富に在庫していたので、喰う物には全く困らず、むしろ知り合いに分けてました。
気温も低く、朝方は道路が凍るくらい寒かったので、直ぐに融けてダメになるということはなかったですが、さっさと調理しました。
原発が爆発した後でしたが、余震で家の中で調理する気にもならず、嫁実家から借りてきた反射式ストーブとプロパンガスコンロで駐車場でカレーを大量に作ってました。
風向きとか考えると、福島第一原子力発電所から100km程しか離れていないこの地域でも色々降ってきただろうなぁ。
実際、県北の藁は使えないですしね。
嫁実家も農家なので米には困りませんでしたが、電気がなくて精米できないと騒いでいた記憶があります。
我が家はとりあえず水道が出たので、トイレには全く困りませんでした。
しかし、港方面にあった下水処理場が津波でやられて紙はあまり流すなといわれた記憶があります。
水は出ない人たちがいたら快く分けてあげました。
水と住む所と食料があったので、避難所には行きませんでした。
よって、支援物資等の援助は全く貰っていません。
しかし、我々夫婦は我々で生活できたので援助があっても辞退していると思います。
風呂は、実家の電源が復旧してから借りに行きましたので、震災発生後半月後に湯船に浸かった記憶があります。
自宅の電源が復旧してもガスが来ていなかったので、暫く水のシャワーで我慢していました。
後から聞いた話ですが、避難所は運営次第で天国と地獄があるようです。
この辺りだと小学校が避難所に指定されていますが、学校の責任者である校長や教頭の頭がかたいとどうも。。。と言った場所は少なからずあったようです。
そういう事態を打開するべく、避難所内で有志が集まり仕事や作業を割り振りしたという話もよく聞きました。
目の前で津波で多くの人が流され、福島第一原発は爆発してしまい、余震が収まらないなかでは、体を動かしていないと気がおかしくなってしまうっていう気持ちが正直な所だったと思います。
あと、正式な避難所ではない所は、物資が来なくて地獄だったようです。
こういう反省を今回の災害で生かして欲しいものですね。
家の辺りは、電気がくるまで10日位かかりました。
それまでは、日が落ちると真っ暗です。
あれは精神的に病みました。
仕事は、JR在来線が復旧してから行きましたので、正味5日は欠勤しました。
震災発生直後から事務所に詰めてた人もいてそういう人たちは、後々出世しています。
ワタクシはヒラなのであまり影響は有りませんでしたが、欠勤した管理職達は、現在会社からいなくなってしまいました。
コエーっすw
震災発生後、殆ど普通の生活をしていたと思っていた我々夫婦は、被災者ではないと思っていましたが、4月に入ったある日、火災保険屋から一本の電話がかかってきて、自宅の被害状況を是非見せてくれと言われて渋々見せた所、地震保険で半壊の判定がでました。
ここで、自分は被災者なんだとやっと思い、行政の被災判定を受けた所、これも半壊の判定でした。
半壊の被災証明で高速道路が無料になり、ゴールデンウィークは秋田の後生掛温泉に行って余震の無い環境でかなりリフレッシュできました。
4月7日に発生した余震を筆頭に、地震が来るたびに緊張してましたからね。
しかし、金は人の妬みを買います。
保険金が出たとか義援金が出たとかおおっぴらに言うと、身内の中でもとんでもないことになりました。
震災は、物的な面で失うものが大きいですが、心の面でもかなり失うものが大きいです。
あとは、原発の風評被害すかね。
あれは心が病みました。
治安は、震災直後はあまりよくなかったかと。
津波で流された車のガソリンタンクは軒並み荒らされてました。
震災後2~3日した商店でビールを大量に並べて売っている所がありましたが、あれって仙台港のビール工場で流れたビールを売ってた?
人って恐ろしいですね。
しかし、今回の地震で目につくのは行政機関の建物の倒壊が多いってことすかね。
内陸型で震源が浅い地震は海底で発生する地震よりもキラーパルスが大きいんですかね?
しかし、同じような地震で宮城岩手内陸地震ってのがこの辺りでもありましたが、学校を含む行政の建物が甚大な被害を被って避難所や災害対策本部の機能を喪失した何て話は聞いたことがありません。
建物の作り方の差なんですか?
この辺の公共の建物だと震災前から普通に耐震補強工事をしてて、築40年とか50年の小学校でも窓枠にでっかい補強を何ヵ所も入れて延命してますし、仙台市役所本庁舎なんかボクが物心ついてからも見慣れた建物で築うん十年経ってますがいまだに現役でつかってます。
地震が多い地域と少ない地域の差がこんなに致命的な被害を拡大するんですかね?
九州熊本地震の被災地では、東日本大震災や阪神淡路大震災の反省を踏まえて行政は対応してもらいたいものです。
Posted at 2016/04/18 23:44:01 | |
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