※この物語はフィクションです。登場する人物、企業、製品、団体等は実在するものとは全く関係ありません。本当にw
第二章:開発経緯
2013年12月某日。小峰は新幹線の車中にあった。11月のあの日以来、課長、主任と三人で密かに事を進め、慌ただしい日々を過ごしていた。新幹線の車中で時間があったことからふと、これまでの開発の経緯に思いが至った。
後にマツダコネクトと命名される新世代商品向けのインフォテインメントシステムの概要がまとまりつつあったとき、最後の検討事項となっていたのがナビゲーションシステムだった。自動車メーカーは自らナビゲーションソフトを開発することはなく、基本的に専業のサプライヤーから提供を受ける立場である。トヨタも日産もホンダも、車種別に専用設計され標準搭載されるナビの中身はナビ専業メーカーから提供されるソレである。マツダにとっては久々の、否、初めてと言っていい自社製システムに載せるナビをどうするか、ナビ関連の数社に協力を求めて勉強会などを行ってきた。
様々な事が解った。
先ず自社ブランドでナビを市販しているナビメーカーは、例え車種別の専用設計であっても原則としてアセンブリ提供に拘る事。つまりユーザーから見れば車両のダッシュボードに完全にビルドインされ、車両専用の情報表示や設定変更などの機能があったとしても、それはあくまでナビメーカーが「自社製ナビに車両固有の機能を組み込んだ製品」としてアセンブリ提供し、自動車メーカーの工場で車両に組み付けられるという事。逆にマツダコネクトのように、自動車メーカー主導で設計されたシステムにナビソフトのみを提供するというビジネスには消極的であること。
一方、ハードウェアの製造は行わずナビゲーションソフトのみを提供するナビベンダーも存在し、彼らは基本的に自社が持っているナビソフトに市場に応じた地図ソフト等を組み合わせ、自動車メーカーの要求に応じてHMIをカスタマイズして提供してくれる。こういったナビベンダーのソフトは基本的に持っている機能は同じでも自動車メーカーに応じて画面デザインが全く異なるため、カスタマイズの程度によっては中身が同じとは全く思えないような場合もあるほどだ。
以上からマツダコネクトに採用するナビは後者から提供を受けることになるだろうという結論になったのだが、ここで課題となったのがナビベンダー各社の対応地域のカバー範囲の問題である。意外やマツダが販売を行っている全地域をカバーできる会社は存在しなかった。欧米で実績があってもアジア圏に無い会社。主要国をカバーするが途上国や小国が対応範囲から漏れる会社。これは多分に、ナビゲーションソフトに対する各地域の需要にも影響されていると思われた。日本のように非常に高い要求水準の国と、現在位置と地図が見れれば良い程度の国とでは、当然のことながらナビゲーションソフトがビジネスになるかならないかに大きな差が生じる。それが各社の対応状況にも影響する。至極当り前の話だが、そういった事情についても改めて確認できた。
これらの事情を踏まえ、H/Wの仕様は統一したい、ナビベンダー複数社からソフトの供給を受けて全販売地域をカバーすること、ナビは基本的にはオプションとすること、といった基本要件を固めつつあった。
そんな矢先、2013年第3四半期に発売予定のアクセラにマツダコネクトを搭載できないか?という話が持ち上がった。検討チームは市場投入の時期を当初、2014年後半から2015年と考えていて、SKYACTIVを全面採用した新世代商品の最初のマイナーチェンジに間に合えば、というスケジュール感であったため1年以上の前倒しが必要となる。非常に高いハードルでチームにとっては大きなチャレンジとなるが、臆するメンバーはひとりとして居なかった。2013年の暮れをターゲットに新しいインフォテインメントシステムを世に問う。具体的な目標が明確に定まり、チームの士気はいやがうえにも高まった。
ところがアクセラを先行開発から、マツダコネクトの搭載を含めた量産試作へ移行させる件を諮った役員会で「ナビベンダーを一社に絞ることを検討せよ」という条件が付いた。
これまでの検討を踏まえて複数のナビベンダーから供給を受けるという申立に、あえてこの条件が付いた事情は些か説明が必要である。実は当時のマツダの台所事情は厳しかった。SKYACTIVを部分採用した既存車種の販売は思わしく無く、全面採用したCX-5のデビューは数ヶ月後。後にCX-5は大ブレイクしてマツダは業績を急速に回復していくのだが、このときその未来を予測出来た者は誰も居ない。もちろん社内の誰もが望んではいたが。開発コストは厳しく制限せざるを得ない。ここでいうコストとはすなわち人である。ベンダーが複数となれば対応すべき人的リソースも増やさざるを得ない。また、マツダコネクトは近年のマツダでは手掛けてこなかった全く新しい分野のシステムである。販売地域を網羅することに拘って限られた社内リソースを分散、手薄にした挙句に品質の悪い製品を世に出すことになる愚は避けたい。であれば先ずはシステムの土台を安定させる事を最優先に、ナビベンダーは一社に絞って限られたリソースを集中投下する。結果としてナビゲーションを提供出来ない地域が生じるのは止む無し。マツダにとって最重要となる地域(市場)さえ網羅出来れば"先ずは良し"という選択と集中を役員たちは考えたのだ。一旦安定したシステムさえ出来てしまえば、ナビの対応地域は徐々に拡大していけば良い。
至極、真っ当な経営判断である。
この指示(条件)を受けて、早速勉強会などに協力してくれた日本のA社、そして欧州のN社に具体的な協業の提案を求めた。つい先日まではまだ先行開発の段階であったモノが市販に向けたプロジェクトとなった事を両社は驚き、そして喜んだが、実はこのとき密かに日本のA社を採用することになるだろうとマツダ側では半ば結論付けていた。なぜならば、欧州のN社は日本をはじめとしたアジア圏に実績が無く、日本市場にナビを提供しないという選択肢は有り得ないからだ。N社は云わば、A社に決定するに当って複数社から相見積もりを取ったという事実を作る当て馬だったのだ。
ところがN社の提案は事前の予想を覆す驚くべき内容だった。先ず主要な取引先となる自動車メーカー、ナビメーカーとこれまでの実績、市場シェア、同社製品の特長や強みといった自社の紹介からはじまり、このプロジェクトを通じて日本市場に固有の要件(VICS、ETC/DSRC対応など)を実装するに留まらず、日本の地図に特有と思われる様々なチューニングを施すばかりか、日本製ナビの多くが持っているいくつかのメジャーな機能(オートフリーズームなど)まで盛り込むなど、24件に上る変更を施したナビソフトを提供すると提案してきたのだ。そしてそれらの実装に掛かる費用は彼らが負担。マツダには日本向けソフトの性能評価に協力を願いたいという要望。更に提供する日本仕様のソフトウェアのライセンスは他地域向けと遜色がないレベルに抑えること、今後想定される様々な機能強化などは希望に応じて受けられる(無償バージョンアップ)ことなど。その並々ならぬ意欲は、この提案を同社のCEOが自ら広島を訪れて行った事にも表れていた。
実はN社は欧米で主要自動車メーカーにナビを提供して20%以上のシェアを持つものの、日本をはじめとしたアジア圏に実績が無く、そこへの進出が近年の経営課題だった。欧米で販売する日本の自動車メーカーにナビを提供した実績は勿論あったが、日本国内向けには日本の強力なナビメーカー各社に阻まれ、なかなか参入のキッカケを掴めずにいたという背景があった。そこへ舞い込んだ日本の新車市場シェア4位のマツダへのナビ提供の話。しかもナビメーカーを一社に絞りたいというのであれば、これを受注出来れば独占供給の道を開くことになり、労せずして日本の新車市場の数%を握ることになる。気合が入らない経営者は居ないだろう。更に同社のCEOは、マツダコネクトを通じて同社のナビが日本市場に投入されてから1年以内に日本にオフィスを開設し、更なるビジネスの拡大を目指すという同社の方針を説明。もちろんマツダコネクト・ナビのサポート体制についても同オフィスが開設されれば、より充実したものになるだろうと語った。
一方で日本のA社の提案は極めて実直で、主要対応地域はカバーしているもののN社の提案に比べれば見劣りし、欧米地域での実績もN社には及ばなかった。N社が日本市場をカバーすると提案した時点で、A社の提案は手堅く安心感はあるものの、正直魅力には欠けると言わざるを得なかった。
こうして、ナビベンダーのN社と組むことに決め、マツダコネクトの開発は本格始動することになる。このとき、両社の関係者には確かに希望の光と明るい未来が見えていた。N社の実績には信頼感があり、技術力にも自信を持っている。日本市場への初参入と言う課題も、同社ならきっと無事にクリアしてくれるに違いない。
しかしその期待は、開発の途中から陰りが見え始める。
最初の兆候は、日本向けにカスタマイズとチューニングを施したソフトウェアのアルファ版が提供されたときのことだ。日本市場向けの25もの機能が実装を終え、基本的なテストが完了したバージョンである。その評価はアルファ版とは思えない素晴らしいもので、期待する機能がほぼ問題なく動作した。様々な条件で問題無い事を確認するなど本格的なテストとチューニングはこれからだが、今後大きな問題は起きないのでは?と思わせる程の見事な仕事ぶりであった。ところが追加された25機能とは裏腹に、ナビゲーションの基本性能とも言える自車位置精度が思いの外、良く無いことに評価担当者が気が付いた。ルート通りに走っているにも関わらず、なぜかリルートが起こる。最初は理由がわからなかったが、アルファ版であるということを鑑みて深く追求するつもりは無かった。しかし発生頻度が高いため注意して見ていると、ルート通りに走行しているのにどうやら自車位置がルートから外れたと判定されてリルートが起こるらしいという印象を持った。この件はこの時点でN社には伝えられる事は無かったが、ベータ版のテスト項目に確認事項として追加されることとなった。
この問題が注目を浴びはじめたのがベータ版の評価結果をN社に送り、対応版となるベータ2が提供された後であった。
ベータ版でも思いの外、厳しい評価となった自車位置の問題だが、これに対する両社の見解と対応がこのプロジェクトの課題を象徴していた。マツダはこのままの性能では市場ニーズを満たせないと大幅な性能向上を要求、一方でN社は自車位置精度の向上には十分な対策を講じており、後は実走テストを通じたパラメータチューニングで十分と考えていた。このような見解の相違に至った原因はやや複雑で、N社は自車位置精度向上のためのソフトウェアの改善を怠ったワケでは無い。それが証拠に、同一のソフトウェアコアを使用する他地域向けの仕様では、自車位置精度には何の問題も無く、むしろN社が他の自動車メーカーに提供している製品より動作が安定しているという印象すらあると、各地のテスト担当から報告が上がっていた。先ずこの報告でN社は自分たちの仕事の成果に自信を持つことになる。ところが日本の路上では実際に自車位置精度には問題があり、日本製のナビとの比較でも性能向上の必要性は明らかだった。これは客観的に見れば日本の地図、道路という環境の特異性に対するN社ソフトウェアの適合性の問題と言えたかもしれないが、或る程度の自信を持って提供した製品に対する意外に低い日本側の評価と、思惑通りの評価となった欧米等他地域の評価によって、N社は日本の評価チームが評価基準を不当に高く設定しているのでは?という疑念を持つに至る。これは日本市場に実績の無い彼らの誤解であったのだが、当時それを彼らは知る由もない。一方マツダ側は、日本以外の地域向け製品の高評価と、あまりに乖離した日本仕様の性能に困惑していた。各地域の担当に自車位置精度の性能評価に特に注意するように通達を出したくらいだが、「全く問題ない(No problem)」「素晴らしい(excellent)」といったレポートが返ってくる始末。担当が思わず現地に電話を掛け「本当か?(Really?)」「確かか?(Are you sure?)」などと確認したというエピソードがあるほどだ。やがてこの自車位置精度の問題は日本向けナビに固有のモノらしいとの結論に至り、特別なチューニングが必要との見解をN社に打診することになるのだが、この課題認識をN社と十分に共有出来たとは言い難い。N社の「前向きに検討する」という正式回答とは裏腹に、不当な評価基準で自分たちの製品を正当に評価してくれない発注先、と一旦思い込んでしまった現場の腰は重くならざるを得ない。両社の担当間のやり取りは次第に険悪になり、感情をぶつけ合うような場面も度々起こるに至って、両社の役員クラスが仲裁に入るといった異常事態にまで発展した。
ちなみにこのときN社の担当を感情に任せて罵倒してしまったのが小峰技術者で、N社からの冷静だが容赦のないクレームによって窓口担当から外され、社内のテストチームに配置換えされたのだった。
結局、日本向けナビの自車位置精度が劇的な向上を見ることは無く、不安を持った開発チームは急遽国産ナビの開発を一旦は検討するが、既に貴重な開発時間の多くが失われて如何せん発売の期日まで時間が足りない。またN社はこのナビを足掛かりに日本市場への進出を目論んいることから、今更日本市場向けには他社製品を準備するという事も出来ない。マツダコネクト開発チームはこの時点で、退路は断たれた。後はN社に粘り強く交渉して少しでもナビの品質を上げること、発売後に寄せられるであろうお客様から不満に可能な限りの誠意ある対応を取るべく、サポート体制を厚く準備することくらいしかやれることは無かった。
関係者にとっては悲願とも言うべき自社製のコネクティビティシステムだが、よりにもよってお膝元の日本向けの、しかもクルマにとっても、マツダコネクトと言うシステムにとってもあくまで付加機能部分であって本流とは必ずしも言えないナビゲーションシステムの自車位置精度問題。ここに大きな不安を抱えながら、それでもアクセラの発売日に合せてなんとか落としどころを見つけなければならないという事態に、関係者は皆やるせない想いを抱きながら、それでも目の前の仕事をこなすしか無かった。
因みにこの問題に多くのリソースを割かれた結果、マツダコネクトのシステム全体の安定性向上にも十分な施策が打てなかった事は、製品が市場に出た後の顧客からの容赦ない指摘によって明らかになる。この点を象徴する出来事が、発売前の販社への商品説明会で指摘されたテレビシステムの画質問題である。テレビの基本機能や電波の受信感度については勿論検証はしていたが、画質と言うある種人間が定性評価すべき点が疎かで、それを販売店の営業マンに指摘されるという失態である。
これには早急に対策が打たれたのだが、製品の未来を暗示する象徴的なエピソードであった。
小峰は静岡に向かっていた。そこにはナビベンダーであるA社の本社があった。
第三章につづく