
日本の西洋医学の導入は、幕末に勝海舟による海軍士官養成の長崎海軍伝習所に、軍医として入った漢方医の松本良順が、そこでオランダ人医師ポンペを講師とする医学伝習所(長崎大学医学部の前身)を作った事に始まる
まずは、オランダ語を日本語へ翻訳するのが大変
だって、
最初だから翻訳する日本語がない!
医学にとどまらず、多くの化学用語がその時の作られたらしい
例えば、
二酸化炭素とか( ̄O ̄;)oxygen酸素、水銀
そこで、
日本で初めて人体解剖も
その後、松本良順は、ポンペの帰国と共に江戸に戻り、西洋医学所(東京大学医学部の前身)の頭取となる
因みに良順の父は、順天堂大学の前身の創始者
“順天堂の治療は当時の最高水準を極めていた。
高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しい。安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術、他にも乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成”
そして、その順天堂の
高弟(せき かんさい)もポンペに学ぶ
関寛斎が学んだのは医術だけではなかった、元から思想は持っていただろうが赤十字精神
“戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))には
官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る”
その業績は西郷隆盛からも高い評価を受ける
関寛斎は、当時、
医学書も残す程の医師であり、男爵の称号も与えられたが全てを捨てて、徳島で30年町医者として庶民の医療に奉仕し、「関大明神」と慕われる。
寛斎さんは、医療は奉仕と考えていて、お金のない人からは一切もらわない
逆にあげていたとか( ̄O ̄;)
病院という名を初めて、使って掲げたのも寛斎さんだそう
その寛斎さんが、
72歳に一念発起し、北海道の最も寒さの厳しい内陸の開拓事業に全財産を投入
冬はマイナス20度以下 車のエンジンがかからない事もww
そして、北海道でも博愛精神の逸話が数々
行き倒れのアイヌを連れて看病したり
牛とか馬が産まれると、人にくれてしまう
また、網走監獄まで行って、出所者に一緒に働こうと迎えに行ったとか!
陸別には石碑が沢山ある
また、関寛斎についての本も、司馬遼太郎も「胡蝶の夢」で
実は、武田鉄也のまた三枚おろし「胡蝶の夢」を聞いて書いた(⌒-⌒; )
聞くと感動♪
武田鉄也は、あの有名な
「幸せの黄色いハンカチ」のロケで陸別の関寛斎さんの石碑を見ていて覚えていたんだって
そして
数十年経って「胡蝶の夢」を読んで、あの石碑の人かと、とっても感動したそう、それはするよねー
さて、ここからはオリジナル(^_^;)
日本の女医第1号の方も、北海道へ
代々苗字帯刀の名家で生まれた吟子は16歳で望まれて結婚するもの、夫から性病をうつされ、その性病がもとで3年で離婚ww
明治3年うつされた淋病を、あの順天堂で治療を受ける
”その時に治療にあたった医師は全て男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。“
明治12年、一期生として入学した東京女子師範学校を首席で卒業
その後、3年医学校で学び優秀な成績で修了するが、女医の前例がなくと医術開業試験を数年受けられず
やっと、明治18年に合格、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業
34歳にして、近代日本初の公許女医となる。
北海道せたな町にある銅像
背景は十字ですねー
せたな近くでは、キリスト信者の入植が多い
そして、この方の名前をほとんど皆んな知っている❗️
特に女性は、オギノ式ww 避妊法(^_^;)
でも、
偶然で、オギノ式を創始したのは別の荻野で、しかも男性だったww
絶対そうだと思っていたんだけどな( ̄▽ ̄)
日本の西洋医学の歴史は幕末からのまだ150年余りで、その前は漢方医学で
風邪の初期に葛根湯ぐらいなら効果あるけど、まあ本格的な病気には、
圧倒的に西洋医学が効果的で一気に明治維新と共に本流となっていった
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Posted at
2018/04/12 00:19:00