
村橋久成の小説は、かなり寂しい感じが全体を包んでしました
北海道開拓使は、当初東京にビール工場を試験的に建設する予定でいた、それを始めから札幌にビール工場建設すべしとし、建設場所の選定、ビール技術者の雇い入れその他を全て取り仕切ったのが村橋久成でした
それから、製造したビールを売りさばく為に、東京に販売所を設けたのも
サッポロビールの礎を築いたのは、間違いなく村橋久成
今は、サッポロビールのサイトで紹介されている
それは、日本にビール産業の黎明期に筆頭になって官僚として取組んだ人物
日本のビールを沢山飲んでいる人は、必ず知らなければならないww
出身は薩摩藩、家老職につける寄合並
しかも、頭脳も優秀で薩摩藩時代に国禁を犯した第一次イギリス留学生
そこで、
日本人としていち早くビールを飲んでいた❗️
更には、大規模農場も見てきていた
旧幕府軍が北海道に新天地を求め進出し占拠
新政府の中心の薩長による奪回、戦闘の中心である陸軍の参謀は薩摩藩士の黒田清隆
その下に村橋久成がいた
しかし、
薩摩藩の家柄で言えば、黒田は村橋久成の配下だった
この微妙な関係が最後まで尾をひく
村橋久成が、千代ケ岡に集中砲火して函館戦争は終結した
もちろん、制圧したのは村橋側の新政府軍
千代ケ岡で、二人の息子と共に戦死したのが中島三郎助とは、以前のブログで書いた!
一旦、村橋は薩摩、鹿児島へ帰るが、陸軍参謀だった黒田清隆は新政府に働きかけ、後に北海道開拓使長官になる
そして、黒田は村橋を開拓使に呼び寄こす
村橋自身も、海外での大規模農業をイギリス留学で知っていているし、明治維新で藩が無くなって北海道開拓に夢を持った❗️
北海道開拓使は、当初に本庁は札幌ではなく東京にあった。
村橋は、トップクラスの官僚で、農業試験場なども東京にある事を批判し、自ら北海道の地で先頭に立って開拓にたずさわる
函館の隣、今の北海道新幹線の終点にある七飯での耕地の測量
私の住んでいるところに近い琴似へ屯田兵村の構築
歩いて行ってきました^_^;
でも、村橋の名はありません!
新政府軍に抵抗した東北地方の貧窮士族を屯田兵として入植させる計画
予算の都合で、満足な施設とは言えなかったようです。
だって、明治政府が出来て数年、お金がない
村橋の評判は悪いというか、一切言い訳せず批判を一身に受けている感じ
琴似の屯田兵村は、村橋が琴似への場所の選定、区画整理 、授産場所の決定
当時の授産所は、絹糸を作る施設を計画
村橋は、自己主張するタイプでなく、結局、
琴似屯田兵村も企画のみで実際の構築は横取りされてしまいます。
当時は、今迄の家柄による世が破壊されて、下剋上
今の世でもでしょうが、上司に媚びをふり
うまく立ち回る人は得をする
村橋は、そんな当時の風潮に反感していたようです
うまく立ち回った薩長藩士は、官僚になり江戸時代の各藩の屋敷を払下げてもらいます
それが、現在も地主になったり、金持ちで子孫がいるのは間違いないでしょう
北海道でも、黒田長官が先頭になり、札幌に新政府が建築した施設を薩摩藩関係者などに払下げます
これは事件にもなっています
村橋は、生涯宿舎暮らしで、勧められても一切払下げは受けず!
これが、周りから良い子ぶり、逆に疎まれていたよう
想像出来ますねー
更には、払下げの阻止をも企てような動きもしている
それは、例えば札幌ビール工場を構築するにあたり、必要な敷地の確保や官舎は札幌農学校に赴任する官員の為に建設しなければならず、払下げどころではないと言う真っ当な理由
開拓使は、本庁が東京にあったのが札幌に移されます。
東京出張所は縮小、黒田長官が札幌に来ると村橋は東京へ
そして、数年して官職を辞して、行方不明になります
村橋久成さんは、北海道開拓黎明期の実務のトップであり、私の住んでいる北海道の函館から札幌が、村橋さんの構想を元に発展してきた事が、この本「残響」を読んで伝わってきました!
村橋さんは、家族からも消え、11年間失踪
雲水となって諸国行脚に出て、布切れ一枚の姿でいき倒れ、死亡広告
明治25年(1892年)
歴史からも、葬りされた
それから、100年
この小説「残響」の著者、田中和夫氏が村橋久成を掘り起こした❗️
そして、
私が偶然出会い、この銅像の人物にひかれ
この胸像は、村橋久成を小説「残響」で知った鹿児島県にゆかりの彫刻家が彫刻の世界でも蘇らせたいと作成
自分の美術館に展示していたものを、希望がかなって夢を追った北の地へと移設
子孫の方がいて、死亡広告の後、事実を知った友人が葬儀を行なっていた香典台帳が現存していた
そこには、黒田長官始め、主には薩摩藩出身で出世した政府の要人名が連なり、葬儀も取り仕切っていた!
これらの、掘り起こしにより村橋久成はサッポロビールの正史に創業の功労者として加えられ
子孫が保管していたこれらの資料は、現在はサッポロビール博物館に保存されているそうなので見に行きたいものである
この要人の中に、薩摩藩出身の時任為基がいて、警察署に電報を打ち丁重な処理を依頼
時任為基は、当時は愛知県知事
以前には、函館県令、函館支庁長
子孫に時任三郎
私が高校時代に
五稜郭に住み
「龍馬が行く」など幕末の歴史小説を読んだりしていた頃
寝る時は、FMラジオ番組ジェットストリーム
この時任三郎の「川の流れを抱いて眠りたい」もよく流れてきました♪
実は、村橋久成の指揮で攻めて全滅した千代ヶ岡陣屋の中島隊
中島三郎助の偉業をたたえ、千代ヶ岡(千代ヶ丘、千代台)の地域が中島町になった
それと同じく、函館県令だった時任為基にちなみ隣町が時任町になった事実も知った!ーぇー
中島町と時任町、二人を結ぶ接点は、村橋久成
そして、
時任為基の孫、三郎が
歌の世界でも村橋久成を蘇らせるように、
小説「残響」発表と同時の1981年にこの歌でレコードデビュー
これを時任三郎は村橋を知って歌っているのかは定かではないが
コンクリートが鈍く光ってる
この街を この人ごみを
いつだって見ていただけの 見ていただけのこの俺さ
落ちてゆく あの夕陽を 追いかけて 追いつづけて
歌のない寂しい国で くたばっちまった奴がいた
oh my journey あんたそいつを
oh my journey 馬鹿だと思うのかい
今は今は あいつのそばで 川の流れを抱いて眠りたい
これらの全てを知って、
俺は稲妻に打たれた
高校時代のあの場所、あの時と今とが繋がって
そして、メロディーが聞こえてきた
村橋久成の人物像に触れるに付け、自分の想いと共通する部分も強く感じ
まさに、「川の流れを抱いて眠りたい」の歌のように残響が残りました
名も無き先人が実は沢山いて
しっかり仕事をした人は、死してからでも、このように発掘され感銘を受ける
Posted at 2016/10/21 21:47:09 | |
トラックバック(0) |
歴史 | 日記