
秘密というか私が知らなかった事です。トヨタ自動車75年史から。当然飛ばし読みです。(^_^) 私の理解です
市販の本は読んだことあるが、社内の本は初めて読みます。図書館にありました。寄贈されたんですかね。

1930快進社と白楊社、中京デトロイト化構想の破綻。
快進社は日産へ繋がり、白楊社からはトヨタへ人が移籍します。
1933トヨタ創業。豊田自動織機の自動車部から発足。織り機の資金を自動車起業に賭けた。中京デトロイト化構想の破綻を受け喜一郎は周囲の反対を押し切り自力で始めます。

1935シボレーとフォードとクライスラーから借用のAA型。サービスパーツは日本国内でも米車のほうが入手し易い時代でしたから所謂デッドコピーです。

1950海外進出はアジアから、アメリカからは一時撤退。日本と条件の似てるアジアからと堅実な方法。アメリカの高速を走ったら直ぐに故障した、日本車は皆同じ。
1950労働争議と御用組合化。ドッジ不況や激しいストで倒産直前まで追い込まれ喜一郎は社長退任、朝鮮戦争景気での復帰叶わず亡くなる。その反省で組合と調印。
1955クラウン発売。タクシーとして人気になる。

1956社内テストコース完成。先進国で売るには高速テストが必要だと痛感。鈴鹿サーキットより5年早い。

1960トヨタ生産方式とはジャストインタイムと省力化。
隣にあったトヨタウェイの本。トヨタ生産方式は分かりにくい、常に改善しなければならないから。トヨタでさえ文書化出来ない。ストップウォッチを手にした究極のムダ減らし。(確かに会社の効率は上がるが、人には辛いとのネットの声もある)
1967カローラ発売。量産体制が完成。

1970外資による資本自由化に備えてトラック日野と軽ダイハツと提携。200万台クラブを志向した。(どこかで聞いたな400万台、1000万台クラブ・・)
プリンス自動車買収は拒否したからBS石橋さんは日産へ売り込んだ。競合する会社は要らない。

1950.1979フォードとの2度の提携中止とGMとの合弁。
フォードに思いがあったのだが上手くいかず、GMはゆるやかな条件だったので合弁現地生産をスタート日米貿易摩擦解消の為。
1979 ジャパン・アズ・ナンバーワンの本が発刊。

1955-1980工販分離から工販合併へ。
倒産直前から銀行より販売分離指示、ここから販売のトヨタになっていく、銀行から金を借りないトヨタ銀行を目指しました。25年を経て販売の神様、神谷氏が亡くなった年に合併。
1989セルシオ発売。ベンツを焦らせた。

1990新事業への進出。
住宅は昔からやっていたが黒字化には20年かかった。マリンは未だ赤字、エアロは事業化を中止。このころ他社研究として新事業をいろいろ検討したらしい。初の豊田家以外からの奥田社長の危機感。

1991九州・北海道への工場進出🏭の理由。
増産するにも中京地区にはもう労働力が無くなったから。海外生産ではなく国内増産を選ぶのがトヨタ。もちろん賃金を考えて別会社化。
2010豊田章男社長の試練。大政奉還のつもりが・・

リーマンショック、GM合弁工場閉鎖、F1撤退、

米国急発進リコールの公聴会では社内からも見放されていたが。アイラブCAR発言で潮目が変わり、

帰国後には章男を支援するオールトヨタ緊急ミーティングが開かれたほど。室内マットが引っかかったり、アクセルペダルが渋かったりしたが、システム異常ではなかった。

1年後には経営体制も一新された。
株主、サプライヤー、車名の由来。

株主、創業直後は豊田家が占めてます。

30年後は豊田章一郎以外は銀行です。

75年後は豊田自動織機とデンソー以外は銀行です。
サプライヤー数は数えたら約400社。(新聞によるとマツダにはその倍以上もある)

サーフはサーフィンからだと思いますが?
bBはブラックボックスですって。
今トヨタは危機感のある良い状態と思います。しかしこれは多分に現社長、豊田章男氏のなせる技です。スズキと同じで社長個人の力で支えてる。
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自動車文化論 | 日記
Posted at
2019/12/14 19:30:59