
いろいろ論争のあるこの2国の関係
著者は地元の方で歴史学者でもない
(地元の話は省きます)
独自の論理と証拠に基く新解釈です
当時は日本には文字がなかったから話言葉なら
ヤマタイコク、ヤマト 似てませんか?
邪馬台国(筑紫)は北九州で中国隋からは倭国と呼ばれた呪術の政権

ここから一部が神武東征300年頃で東に向かって大和の地に新政権を築くがまだ弱く、倭国には叶わなかった。卑弥呼のことは後の日本書紀では辻褄合わせとして14代天皇の神功皇后の話にすり替わっていて九州に出かけ朝鮮で戦ったと。遣隋使を派遣したのは筑紫の倭国政権、大和は随行員

倭国が弱体化するのは白村江での敗戦660年唐が太宰府を占領する。この戦いには大和は参加してないが都を大津へ避難

倭国系の蘇我氏を倒し大化の改新645-672年で政権を奪取する、この後に大和は702年遣唐使を送り御墨付きを貰う。ここから大和政権の本当の歴史が始まり仏教を取り入れて政治を行う。天皇家の正統性を描く古事記と日本書紀を編纂。文字を使うようになる

神代の物語(邪馬台国)の古事記711年は内部資料で公開せず漢字だが日本語で書かれているのは女帝が編纂を命じた為

その翌年各地へ風土記の編纂を命じた。各地にわざと風土記を作成させ、そこから邪馬台国の記述を抹消して破棄させる。大和政権に都合よい出雲の国譲りなどのみを残す、これが日本書紀720年であり中国へ知らしめる漢文で書かれてる。狭くなった大和から都を奈良へ移す平城宮
かな文字が登場するのは平安時代794年から。女性ことばで女流文学家が登場NHK大河ドラマ光る君へ。強大になり過ぎた仏教勢力から離れる為に京都へ遷都した平安京。最澄と空海の密教を政治に採用する。藤原家による摂関政治へ
天皇の子孫の平家、源氏が朝廷内乱で活躍して武家政権を確立するのが鎌倉時代
次第に守護大名が強大化して戦国時代となり、やがて天下統一の江戸時代へ。天皇の子孫である清和源氏との血縁を正統性に利用
政権の交代には必ず理由があり、権威付けもしますね
Posted at 2024/04/23 22:43:00 | |
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