
ある方から聞いた話です。(≧∇≦)
1963年初の日本GPで自動車工業会の申合せでメーカーは関与しない。馬鹿正直に守ったプリンスは惨敗、トヨタは自工ではなくトヨタ自販がチューンして各クラスを制覇、翌月曜日の新聞CMで販売に結びつけた。この辺りはアメリカの動向とそっくりです、日曜に買って月曜に売る。親会社ブリジストンの石橋社長から叱責されたプリンス技術陣は捲土重来を期した。ノーズを伸ばして直6を押し込んだマシンを急遽50台生産してGTクラスの認証を取る。
1964年プリンススカイラインGTの活躍を阻止する為トヨタから資金援助された滝レーシングチームが最新のレーシングポルシェ904を購入した。クラウンは日本GPでクラス優勝したが話題はポルシェ904と戦ったプリンススカイラインGTへ。その為トヨタは本格GTカーの開発に向かう。社長同士の喧嘩で日産との共同開発が中止になった2000GTの企画をヤマハがトヨタへ持ち込む。
1965年にプリンスがR380の国際記録に挑戦しようとしたら、ある三河のメーカーが谷田部コースの公認を遅らせ妨害したのでプリンスの記録は参考記録へ。
1966年に公認取れた谷田部コースで2000GTが国際記録を作るが3ケ月後にはポルシェにやぶられる。価値がないとして当時マシンは廃却された、近年になり黄色のレプリカを作成。親会社ブリジストンがプリンスを日産へ電撃売却。トヨタからお宅のタイヤは買わないと言われ決断。
1967年レースで2000GTでは日産となったR380に敵わず、トヨタ7の開発をヤマハへ委託。2000GTはボンドカーになるがショーンコノリーの頭がつかえるから急遽屋根を切ることになる。
フォードGT40とルマン制覇の時代
1968年トヨタ7はクラウンエイトベースのV8の3Lで望む。ルマンを考え3Lだと思われてた日産R381は何とシボレー5Lで勝つ。日産は自社エンジンの遅れでドンニコルスからプライベートチューンのシボレーを買うも散々なエンジンで、かなり作り直した(ドライサンプ化とか補機)がゴール後分解したら壊れかけてた。なおクラウンエイトベースのアルミV8は素性が悪く当時ブラバムからF1に使いたい話あったが断ったそう。エンジン排気量のせいで負けたと言われているが、実はそれ以前にヤマハ設計のモノコック剛性が無くサスも悪くアクセルを踏めなかった為に負けたそう。日産は車体が良くて勝てたのだ。
1969年トヨタ7は車体をパイプフレーム化、エンジンはDFVのコピーの5Lとし万全の体制で望む。前年にコスワースから最新のDFVを購入してヤマハへ貸与、このエンジンは素性が良くインディカーでもテストした。しかしR382は何と5L以外に当日6Lも用意してた。5Lでは勝てないかもと考えルマンにも出られないスペシャルV12エンジンを用意。トヨタとの勝負にこだわる元プリンス桜井氏。
1970年トヨタは対策として7ターボを開発、日産は前年の改良6LのままR383で勝てないと思ったか排ガス対策でレース不参加を表明。行き場の無い7ターボは米カンナムを目指すも事故死で立ち消え。ポルシェ917ターボより2年早かったがブーストコントロールが未だ出来無かった。
その後
トヨタは1970年代セリカターボで名ばかりの(スカイライン)GTは道を開けるとコマーシャルしたのが印象的、そして3SGターボは1990年代初めまでWRCラリーやグループCカーで活躍。
一方の日産のR382のV12も1990年代初めまでグループCカーでトヨタと戦った。
1960年代から1990年代まで続いた因縁の対決でした。今はもうこんな事は無いですよね。(^O^)
Posted at 2018/05/23 21:48:50 | |
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自動車文化論 | 日記