
ヌマジミュージアム広島市交通科学館へ行ってまいりました。日本の4メーカーのレーサーが一同に会するのはとても珍しいです

子供受けしないのか夏休みなのに空いてました

1966年バンク角45°リーンウィズ、マイク・ザ・バイク

1983年50°ハングオン、フレディ・スペンサー

2018年60°転んでも起き上がる!マルク・マルケス

1959年からホンダが世界GP参戦、61年チャンピオン、62年スズキ、63年ヤマハも参戦

1954年 参戦宣言、実は部品サプライヤーへの支払いを猶予して貰う為に夢ニンジン🥕として専務がホンダ社長に書かせた

1962年スズキ2サイクル50cc

パワーの出る2サイクルはバルブ無し、ピストンがバルブの代わり。これは草刈機

1968年ヤマハ2サイクル250cc V4 並列2気筒を上下に配置したマルチシリンダー

1960年代マルチシリンダー化で日本車がチャンピオンを独占(500クラスを除く)

1966年ホンダは不利な4サイクルを超マルチ化、250cc 直6並列、時計のように精密と言われた。
しかし気筒数制限ルールで日本勢は撤退1968年

熱で苦しいと言われた2サイクルを水冷化して、1973年ヤマハと1974年スズキが最高クラス500ccへ再参戦し勝利、アゴスチーニ、リード、シーンとロバーツの日本車4メーカーでなければ勝てない時代へ

1975年ヤマハYZR500

1981年スズキRGガンマ500

1979年カワサキKR250

1979年ホンダはあくまで4サイクルで対抗NR500、楕円ピストンで2万回転回す

1987年 勝つ為の2サイクルNSR500ホンダ、ミック・ドーハン。これらの技術が市販車へ反映されてレーサーレプリカブームへYH戦争もこのころ。外国メーカーは倒産するところが多かった

2002年 最高クラスは2サイクル500ccから4サイクル1000ccのモトGPへ。これを契機に外国メーカーが復活

2003年バレンティーノ・ロッシ、ホンダRC211V

2011年スズキGSV-R

300馬力は俺のマスタングと同じだ!2017年ヤマハYZR-M1エンジン

2003年スーパースポーツマシンはモトGPレプリカへ

2015年スズキGSX-R1000R

ジョナサン・レイ 2020年Ninja ZX-10RR WSBK

オートバイのレーシングマシンの将来

2021年スズキGSX1000RとヤマハR1M

ちょっと跨ってみた!
Posted at 2021/08/05 10:07:45 | |
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