最近、お気に入りの玉手ゆういちさんが復活され、毎日、聴いています!^^。
ふと、気になったので調べると、面白い本があったので注文したよ!^^。
音楽の好み・・・・学生時代から不思議だった。
ロック好きやアイドル曲、ポップス(死語^^;)、ビートルズやヘビメタ、フュージョン、ジャズ、ボサノバ、他にも沢山あるんだけど、聴く人によって好みが違う。
自身の経験でも、ヒット曲やレコード大賞!?とかの曲は、何も感じない。・・・・大分前、ミーシャさんのエブリシング?は涙が出たけど・・・・^^;。
例えば、通勤時のラジオでよく流れてる・・・・・ファンの方には申し訳ない^^;けど、飛来権^^?さんとか「どんなときも?」を歌ってる方とか、徳●英●?さん・・・・他にも沢山いらっしゃるんだろうケド、兎に角!何も感じない。
休日、5000円やるから彼らのコンサートに行けといわれても、多分、スロット打ちに行くだろうね!^^;。
時には、こんなもの聴きたくも無いっと、ラジオ消すことも多々。後は、社会人になって圧倒的に音楽を聴く頻度が減った気もします。
それをカバーしてくれるのが・・・・iPhoneでもあるんだけど。^^。見つけた本では、色んな分析されてるみたいです!^^。
原因は色々あるんだろうケド、幼少期の両親が聞いていたのも影響大らしい。しるくの場合はグレンミラー楽団とか家にレコードがあった。
かのヘンリーマンシーニもおられたらしいし、歌無しのフュージョンとかジャズ系が好きなのは、そこにルーツがあるのかも!?^^;。
後は、圧倒的に子供の頃のロボットアニメとかもね。ヤマト、マジンガー、ライダー、ライディーン、コンバトラー。
戦闘中のピンチの曲。だからスリリングなのが好きとか^_^。
でも、歌モノも好きなのは好き!・・・究極の楽器って、人間の歌声かもだから!^^。
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科学には、私たちが好きだと感じる音楽をなぜ好きかについて、言うことがあるらしい。
そしてその話は、ニューロンと音符とが見せる相互作用の、もうひとつの興味深い側面を明らかにしてくれる。
人間の脳と、人間が使っている音階とは、共進化してきたと言える。長音階の音符が均整のとれていないおかしな配置になっているのは、偶然ではない。
この配置のほうがメロディーを覚えるのが簡単で、それは音の発生に関する物的な現象から導かれた(この本ですでに取り上げた倍音列を通しての)結論だったのだ。
私たちが長音階で使っている音のピッチは、倍音列を構成している音のピッチは、倍音列を構成している音のピッチに非常に近い。ほとんどの子どもたちは生まれて間もないころから自然に声を出し始め、そうした初期の発声はまるで歌っているように聞こえる。
赤ちゃんは自分の声の範囲を探り、まわりの世界から取り入れる音に応えながら、発音する方法を探る。赤ちゃんの耳にたくさんの音楽が届けば届くほど、自然に起こる発声に含まれるピッチやリズムのバリエーションは増えていくだろう。
何歳になっても新しい音楽を好きになれるようには思えるが、大多数の人の好みは18歳か20歳までに固まる。なぜかはまだはっきりしていないものの、いくつかの研究によって実証されてきた。
人は敏を重ねるにつれ、どちらかというと新しい経験の影響を受けにくくなっていくのが、その理由のひとつだろう。私たちは十代の間に、違う考え方、違う文化、違う人たちの世界が存在することに気づき始める。
そして自分の人生や個性、あるいは決意を、親から教えられたことや育ってきた道に閉じ込めなくてすむよう、違う考え方を試して見る。同じようにして、新しい種類の音楽を探す。
とくに西欧の文化では、どんな音楽を選ぶかは社会的に大きな意味を持つ。私たちは友だちと同じ音楽を聴く。若くて、自己を確立しようともがいている間ならなおさら、自分も同じようになりたい人、どこかに共通点があると感じられる人と、社会的な集団を作って絆を結ぶ。
その絆を結ぶ。その絆を具体的に表す方法として、同じような服装をし、いっしょに活動し、同じ音楽を聴く。自分のグループはこんな音楽を聴いているけど、あいつらはあんな音楽を聴いている。
こうして、音楽は社会的な結びつきや社会行動の結束を強める働きをするという進化論的な考え方につながっていく。
音楽と音楽の好みは個人とグループのアイデンティティーを表わし、それぞれ区別する目印になるのだ。好きな音楽はその人の個性とつながりがある、その人の個性を表わしていると、ある程度までは言っていいだろう。
それでも大体の場合、そうした好みは多かれ少なかれ偶然の要素に導かれて決まるものだ─どこで学校に通ったか、誰と仲良くしていたか、そしてその仲間がどんな音楽を聴いていたのかが大きく影響する。
音楽の単純さと複雑さのバランスも、好みの要因になる。
さまざまな芸術分野─絵画、詩、ダンス、音楽─の好き嫌いに関する科学的研究によれば、芸術作品の複雑さとそれを好きになる程度の間には、規則的な関係がある。
複雑さというのは、もちろんまったく主観的な概念になる。この概念をきちんと理解するには、ある人にとっては計り知れない程複雑に思えるものが、別の人の好みにピッタリはまることがあるかもしれないのを、知っておく必要がある。
同じように、誰かがおそろしく単純で味気ないと思ったものを、別の人は難しくて理解できないと感じるかもしれない。それはひとりひとりの経歴、経験、理解力、認知のスキーマの違いによるものだ。
ある意味ではスキーマが最も大切になる。それは私たちの理解力の枠組みを作るもので、その体系の中に、ある芸術作品の要素やそれに対する解釈を当てはめていく。
スキーマは人が持っている認知モデルと期待に関する情報を伝える。あるスキーマを持っていれば、マーラーの第5番は完全に解釈できるもので、たとえ生まれて初めて聞いた場合でも大丈夫だ。
それは交響曲であり、四楽章をもつ交響曲の形式に従っている.メインテーマとサブテーマをもち、テーマの反復がある。テーマはオーケストラの楽器によって奏でられ、アフリカのトーキングドラムやファズベースは使われない。
マーラーの交響曲第4番を聴きなれている人は、第5番が同じテーマの変奏で始まり、ピッチまで同じだと分かる。マーラーの作品に詳しい人は、この作曲家が自分の作曲した三つの歌曲から、曲調の一部をこの交響曲に取り入れているのが分かる。
音楽教育を受けた聴き手なら、ハイドンからブラームス、ブルックナーに至るほとんどの交響曲で、通常は始まりと終わりが同じ調性あることに気づく。マーラーは第5番でこの慣習を破り、嬰ハ短調で始め、イ短調を経てから、最後をニ長調で締めくくった。
交響曲の進行とともに調性を追うことを学んでいなければ、あるいは交響曲の標準的な軌跡を知っていなければ、このことは意味がない。しかし、年季の入った聴き手にとっては、
この慣習の無視は満足感を伴う驚きをもたらし、期待を裏切る。調性の変更が耳ざわりにならない巧みな演奏なら、なおさら素晴らしい。
ところが、適切な交響曲のスキーマをもっていない聴き手、あるいは別のスキーマ、インドのラーガの熱烈なファンというようなスキーマをもっている聴き手にとっては、マーラーの第5番は意味のない、またはとりとめのない音楽で、ひとつの音楽的意図が、始まりや終わりの境界もなしに次のものと曖昧に混ざり合って、まとまりのある全体をなしているにすぎない。
スキーマは、私たちの知覚の、認知処理の、最終的には私たちの経験の、枠組みをつくる。曲が単純すぎれば、つまらないものに見えてしまい、あまり好まれない。複雑すぎても、今度は理解できなくて、やっぱり好まれない傾向がある─私たちにはそれが、何かよく知っているものに根ざしていると感じられないからだ。
音楽は、ついでに言うならどんな芸術も、好まれるためには単純さと複雑さのバランスをうまくとっていなければならない。単純さと複雑さは知っているかどうかに関係し、知っているかどうかは、スキーマの別名にすぎない。
私たちの音楽の好みはほかの好みと同様に、以前の経験と、その経験の結果がよかったか悪かったかによっても影響される。心地よいと感じるサウンド、リズム、音楽的味わいの種類は、人生における音楽的体験のなかでプラスの要素をもった経験の延長であることが多い。
好きな曲を聴くことは、ほかの心地よい感覚経験とよく似ているからだ。チョコレートや摘みたてのラズベリーを食べる、朝のコーヒーの香りを嗅ぐ、芸術作品や、愛する者が眠る平和な顔を見るなど、心地よい感覚経験はいろいろある。
その感覚経験を楽しむと、よく知っている感覚と、よく知っていることがもたらす安全に、心地よさを覚える。私は熟したラズベリーを見て香りを嗅ぐだけで、おいしいであろうことも、食べても安全でお腹をこわしたりしないことも、予想できる。
ローガンベリーをはじめて見たときにも、ラズベリーとよく似ているので、食べてみようと思い、安全だろうと予想できる。安全なことは、多くの人が音楽を選ぶ際のポイントだ。
私たちは聴いている音楽に、ある程度まで身をゆだねることになる。作曲家と演奏家を信頼して、自分の心を許すことになるのだ─音楽は自分自身を、どこか外の世界に連れ出してしまう。
素晴らしい音楽が自分をもっと大きい何かに、他の人々に、あるいは神に結びつけてくれると感じる人は多い。アメグレw
音楽が感情をどこか超越したところに連れこんでくれないとしても、いやな気分を一新することはできる。そういうときには、誰にも隙を見せたくない、心の鎧をはずしたくないと感じているものだ。
もし演奏家と作曲家が安全な気持ちにさせてくれるなら、心を許す気持ちになる。偉大な作曲家の音楽を聴くとき、私はどこかでその作曲家と一体になるような、または作曲家の一部を自分の中に引き入れるような、そんな気持ちになる。
このような聴き手の脆弱さ、すべてをゆだねる感覚は、この40年間、ロックやポップ音楽ではおなじみの光景だ。これでポップ・ミュージックを取り巻くファンの説明がつく。
私たちはミュージシャンに、感情をゆだね、時には生き方までまかせてしまう。ミュージシャンは私たちの気分を高揚させ、落ち込ませ、安らぎをもたらし、閃きを与える。
ほかに誰もいない私たちの居間や寝室にも、自由に入ってくる。そして私たちは彼らを、直接、イヤフォンで、ヘッドフォンで、耳の中にまで招き入れ、その間は世界じゅうのほかの誰とも話をしない。
赤の他人にここまで身をさらけ出すことなど、そうそうあることではない。それに対して、好きなミュージシャンには進んで自分自身をさらけ出してしまう理由のひとつは、ミュージシャンのほうが私たちに自分をさらけ出してくることにある。(作品を通してわが身の弱さを伝える─実際に弱いのか、またはただ芸術的に表現しているのかの区別は、ここでは重要ではない)
芸術の力は、私たちを互いに結びつけ、また生きていることの意味、人間であることの意味についての、もっと大きい真実へと結びつけることにある。アーティストとのつながり、またはアーティストが支持していることへのつながりは、こうして音楽を好きになるひとつの要因となる。
私たちは音楽を聴くことによって、音楽のジャンルや形式に関するスキーマを作り上げている。何気なく耳に入ってきているだけでも、とくに音楽を分析しようと思わなくていい。
ごく幼いころから、人は自分の文化の音楽で決められた、正しい音の動きを知っている。やがて生まれる音楽の好き嫌いは、たいていの場合、子どものころ耳にした音楽によって出来上がった認知スキーマの種類で決まってくる。
ただし必ずしも、子どもの頃聴く音楽によって人生を通した音楽の好みが決まってしまうという意味ではない。多くの人々は異なる文化や様式の音楽を聴いたり学んだりして、それに同化していくとともに、スキーマも身に付けていく。
重要なのは、私たちの幼いころの音楽とのふれあいは心の最も奥深いに根をおろすことが多く、将来にわたって音楽を理解していく土台になるという点だ。
音楽の好みには社会的な要素も大きく影響し、歌手や音楽家についての知識、家族や友だちが何を好きかという知識、そしてその曲が何を支持しているかという知識に左右される。歴史的に見て、とくに進化的に見て、音楽は社会活動に関わりをもってきた。
最も多い音楽表現がラブソングであること、そしてほとんどの人のお気に入りにラブソングが入っているのは、そんな理由かもしれない。