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2023年10月27日 イイね!

犬塚弘さん 死去 94歳 202310

犬塚弘さん 死去 94歳 202310



ハナ肇とクレージーキャッツ 最後の存命者 犬塚弘さん

渡辺プロダクション の 創成期 に 渡辺プロダクション の稼ぎ頭だった ハナ肇とクレージーキャッツ

とうとう クレージーキャッツ は幕を閉じた


某 芸能プロダクション の スキャンダル が、表に出て来て、マスコミが右往左往している 昨今

今の芸能プロダクション の システムを築いたのが、渡辺プロダクション ともいえるだろう

長年フジテレビ の 新春隠し芸大会 を 制作し放送していたのが、渡辺プロダクション

おとなのマンガ や シャボン玉ホリデイ など 渡辺プロダクション が そして、ハナ肇とクレージーキャッツ が 関わった 番組は数知れず。

映画に、テレビに 1960年代 そして1970年代 の エンターテイメント の 一躍を担った バンド。

ハナ肇とクレージーキャッツ は バンドとして活動が無くなって 犬塚弘さんは、俳優として 数多くの 映画、ドラマ に出演していた。

しかし、ハナ肇とクレージーキャッツ の原点は JAZZバンドであり、犬塚弘といえば ベーシスト

その 音楽がベースとなっての エンターテイメント は、見る人を引き込ませるだけの エンターテイメントがあった。


有り難うございました。

さようなら


犬塚弘 さん



そして

ハナ肇とクレージーキャッツ







クレージーキャッツ犬塚弘さん死去、94歳 10/27(金) 9:50

人気グループ「クレージーキャッツ」の一員として活躍し、俳優としても知られた犬塚弘さんが死去したことが27日、分かった。東京都出身。94歳。

犬塚さんの死去で、クレージーキャッツのメンバーは全員が亡くなったことになった。 1955年にハナ肇さんらと「キューバン・キャッツ」を結成。クレージーキャッツと改名し、谷啓さん、植木等さんも加わった。「クレージー黄金作戦」などの喜劇映画で人気を集め、テレビでもバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」などにレギュラー出演した。 山田洋次監督の映画「馬鹿が戦車でやって来る」や「男はつらいよ」にも出演した。



最後の「クレージーキャッツ」犬塚弘さん逝く おとぼけキャラ!「ワンちゃん」の愛称で親しまれた 90歳での映画出演が最後の仕事

1960年代に国民的人気を集めたグループ「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバーで、俳優としても活躍した犬塚弘(いぬづか・ひろし=本名・弘=ひろむ)さんが27日までに死去した。94歳だった。犬塚さんの死去でハナ肇さん、植木等さん、谷啓さんらメンバー7人全員が他界した。犬塚さんは4年前、サンケイスポーツの取材に「あと3年ぐらいで、あの世に行く」とブラックジョークを飛ばしていた。

昭和の高度経済成長期(1955~73年)を中心に、歌やテレビ、映画で国民を元気づけたクレージー。最後の生き証人で愛称「ワンちゃん」、ひょうひょうとした演技で魅了した名脇役が永遠の眠りについた。

元所属事務所によると、通夜と葬儀・告別式はすでに執り行ったが、死亡日時や死因などの詳細は「生前の本人の意志により公表を控えさせていただきます」とした。
子供のいなかった犬塚さんは2011年、唯一の肉親だった妻の幸子さんと東京都内から静岡・熱海市のシニア向けマンションに移り住んだ。1日3食付きで、夫婦水入らずの生活だった。

しかし、病弱な幸子さんが、15年に84歳で死去後は1人暮らし。90歳の卒寿を迎えた19年、盟友・大林宣彦監督(20年死去)の遺作映画「海辺の映画館-キネマの玉手箱」(20年7月公開)に出演。映画館の常連とコントラバスを弾く老人の一人二役を演じたのが、最後の仕事となった。

犬塚さんは「海辺-」のパンフレットにコメントを寄せ、「80歳になった際に芸能界を引退しましたが、90歳となって再び大林監督からのお誘いもあり参加しました」と説明。「人生最後の花道を飾ることができて感謝の気持ちで一杯です」とつづっていた。

東京生まれで、父親は三井物産などに勤務。ウクレレを弾いていた兄の影響で音楽好きに。ジャズバンドを経て、ドラマーのハナ肇さんの呼びかけで55年に結成されたコミックバンドのクレージーで、ベーシストを務めた。61年に始まったバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」やヒット曲「スーダラ節」などで一世を風靡した。

70年代以降はグループとしての活動は下火となったが、俳優業に傾注。88年公開の映画「会社物語」では再び7人が顔をそろえ、主演のハナさんを支えた。その際「古里に帰ってきた気がする」とクレージー愛を明かしていた。

晩年は腰を痛め、手押し車を使って生活。19年にサンケイスポーツの取材に応じた際「頭も口も大丈夫だけど、下半身が駄目。今回で俳優はやめた」と宣言。「クレージーのおかげで、いろんな仕事ができて感謝しています。でも、これからはゆっくりして、あと3年ぐらいで、あの世に行く」と自らの将来を見越したように淡々と語っていた。

仲間を、妻を大事にしつつ、自分の限界も直視。引き際も見事な人生だった。

■犬塚 弘(いぬづか・ひろし) 1929(昭和4)年3月23日生まれ。東京都出身。文化学院在学中からハワイアンバンドを結成し、卒業後に2年間、テクノロジー関連企業IBMでサラリーマン生活を送った。その後、55年結成のハナ肇とクレージーキャッツにベーシストとして加入。ピアニストの桜井センリさんが2012年に他界し、唯一の存命者に。俳優としても活躍し、「男はつらいよ」シリーズなどの映画や舞台に多数出演した。



Posted at 2023/10/27 10:45:39 | 墓標 | 日記
2023年10月08日 イイね!

谷村新司 74歳 20231008


谷村新司 といえば バンバンこと ばんばひろふみ との セイヤング の「天才 秀才 馬鹿」の コーナー が 思い浮かぶ。

ロック フォーク ニューミュージック に カテゴライズ される アーティスト には、自分のラジオ番組を持っている アーティストが多くいた。

谷村新司 も その一人であった

晩年 「純喫茶 谷村新司」という 平日の帯番組をされていたが、懐かしい。

今年 アリス 50周年 として アリスの記念ライブ が行われるよていだったが、実現すること は 叶わなかった。

日本の 一時代を彩った 曲の数々

一曲 あげるとすれば 個人的には


いい日旅立ち


ああ日本の何処かに 私を待ってる人がいる♪


谷村新司 が 逝去してから 谷村新司の追悼番組を、見たが 谷村新司の若い頃の映像は、それはそれは、若々しく 別人のように感じるものだった。



合 掌


Posted at 2023/11/06 14:16:40 | トラックバック(0) | 墓標
2023年05月19日 イイね!

上岡龍太郎さん死去 81歳 20230519



2000年に 突如 芸能界を引退した 上岡龍太郎さん

それ以降 ほとんど カメラの前に出る事もなく・・・

上岡龍太郎さん の 出演した番組で、上岡節炸裂で面白かったのは 、笑福亭鶴瓶 と 二人でやっていた 「パペポ」

番組コンテンツ として、面白かったのは「探偵ナイトスクープ」が、記憶に残る。

探偵ナイト は 今も続いているが、上岡局長 の時代の 初期 作品は 探偵も若々しく エネルギッシュで、依頼の内容も 面白かった。

バカ と アホ の 境界線 の回や、個人的には、家族が、居なくなる3日間で、沖縄から、北海道まで、いきたい観光地を巡って きたい という、主婦の依頼 の 回

飛行機に乗り、寝台列車に乗り、何とか 全国の観光地を巡るものの、写真を撮影したら すぐ移動の連続 の ものすごい 観光旅!! あれは 面白かった。

上岡龍太郎とは 直接関係ないけど・・・

本当は 、パペポ の 話とかいろいろあるはずなんだが・・・


パペポ って 87年 放送開始だったのか!

時の流れは早いなあ

というか 上岡龍太郎 引退 58歳 って 早!!

昔の 定年って 55歳 だったけど そんな感じで 芸能界 から 去ったのか?

ヨレヨレの 老いた 上岡龍太郎 を 見たいとは思わないが もう一度 上岡龍太郎節 を聞きたかった。



合 掌




上岡龍太郎さん死去 81歳 『ナイトスクープ』初代局長として活躍 6/2(金) 12:09

2000年に芸能界を引退した元タレントの上岡龍太郎さんが、5月19日に大阪市内の病院で肺癌と間質性肺炎のため死去した。81歳だった。2日に米朝事務所が報告した。


本人の強い意向により、ごく限られた身内で密葬を済ませており、お別れの会なども固辞したいとの旨を伝えていたという。 上岡さんは1942年3月20日生まれ、京都市出身。横山パンチの芸名で、60年に横山ノックさん、横山フックさんと「漫画トリオ」を結成。68年に解散後は、テレビやラジオ番組の司会などで、絶妙な笑いを交えたトークを繰り広げ、関西を中心に絶大な支持を誇った。 笑福亭鶴瓶と共演した『鶴瓶上岡パペポTV』や、初代探偵局長を務めた『探偵!ナイトスクープ』をはじめ、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』などヒット番組多数。「東京嫌い」で知られたが、全国ネットの番組でも人気となった。 講談師としての顔や、劇団の主宰、さらに阪神タイガースのオーナーを気どるなど、幅広い知識を生かし、大阪文化をけん引。「芸能生活40周年で隠居する」と公言し、惜しまれながら2000年に芸能界を引退。その後は公の場に姿を見せることはほとんどなかった。 息子は映画監督の小林聖太郎氏。お笑いコンビのミキ(昴生、亜生)はおいにあたる。

■上岡龍太郎さん家族からのコメント

お世話になった方々にも突然のお知らせとなってしまったことを深くお詫びいたします。昨年秋頃、積極的治療の術がなく本人も延命を求めていない、と知らされた時に少しは覚悟しておりましたが、あれよあれよという急展開で母も私もまだ気持が追いついていない状態です。
とにかく矛盾の塊のような人でした。父と子なんてそんなものかもしれませんが、本心を窺い知ることは死ぬまでついに叶わなかったような気もします。
弱みを見せず格好つけて口先三寸……。
運と縁に恵まれて勝ち逃げできた幸せな人生だったと思います。縁を授けてくださった皆様方に深く感謝いたします。 小林聖太郎




【追悼】「関西最後の大物芸人」上岡龍太郎氏が58歳で芸能界引退した理由 6/2(金) 14:47 Yahoo!ニュース 個人 ラリー遠田 作家・お笑い評論家

元タレントの上岡龍太郎氏が、5月19日に大阪府内の病院で肺がんと間質性肺炎のため亡くなっていたことが発表された。81歳だった。 いま40代以上の一般的なテレビ視聴者であれば、上岡のことを知らない人はほとんどいないだろう。彼はかつて数多くの番組で司会を務めた人気芸人だった。 しかし、若い世代の中には彼のことをよく知らないという人もいるかもしれない。その理由は、上岡が2000年に引退を発表して、二度と表舞台に復帰することがなかったからだ。去り際があまりにも鮮やかだったため、下の世代の人にはその存在すら認知されていない可能性がある。 彼は人気絶頂期になぜ自ら引退を選んだのか。毀誉褒貶の激しい上岡龍太郎とはそもそもいかなる人物だったのか。その歩みを紐解いていきたい。 1942年、上岡龍太郎は京都府に生まれた。物心ついたときからラジオで流れてくる漫才や落語を熱心に聞いていた。中学生のときには時代劇に夢中になり、役者を志すようになった。だが、高校に入ると一転してロカビリーに目覚めて、ジャズ喫茶に出入りするようになった。 ミュージシャンになることを考えたこともあったが、歌は上手くなく、楽器の練習をするのも面倒だったため、司会者の勉強をすることにした。 1960年、横山ノックに誘われて「横山パンチ」という芸名で漫才を始めることにした。のちに横山フックも加わり「漫画トリオ」という3人組での活動が始まった。 「パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン、今週のハイライト」という決まり文句で始まるテンポのいい時事ネタ漫才は当時としては斬新だった。 1960年代半ばにはお笑い界で「トリオブーム」が起こり、てんぷくトリオ、トリオ・ザ・パンチ、トリオ・スカイラインなど多くのトリオ芸人が爆発的な人気を博した。大阪を拠点に活動していた漫画トリオもその波に乗って全国的にその名を知られるようになった。 ここまでは順調だったのだが、1968年にノックが参議院議員選挙に出馬することを発表して、漫画トリオは活動を休止することになった。 このときから芸名を「上岡龍太郎」に変えて、大阪のラジオ番組で話術を磨いた。ここで難しい言葉で聞き手を煙に巻き、立て板に水でしゃべり続ける上岡流の話術が確立された。 これを武器にして上岡は徐々に大阪のテレビでも活躍するようになった。1987年に大阪ローカルで始まった『鶴瓶上岡のパペポTV』(読売テレビ)が1988年10月から東京でも放送されるようになると、東京の業界人の間でこの番組が話題になった。 『パペポTV』は笑福亭鶴瓶と上岡が何のテーマも決めずに60分間しゃべるだけの番組だ。自分の体験したことや感じたことをストレートに話す鶴瓶に対して、上岡は理屈っぽくクールに対応する。その対象的なキャラクターのぶつかり合いによって笑いが生まれていた。 「面白ければ何でもあり」「東京のテレビには負けない」という雰囲気があった大阪のテレビ界で、上岡は数々の型破りな番組に携わっていた。東京でも放送されていたこれらの番組を見て、東京のテレビ制作者は衝撃を受けた。彼らの間で、上岡を「ポストたけし・さんま」として東京のテレビでも起用しようという機運が高まっていった。 いざ上岡が東京で番組を始めてみると、評判も上々で、どんどん仕事は増えていった。当時の東京のテレビ界では、上岡のように断定口調で偉そうにものを言う大人向けの司会者が不在だったのだ。 上岡は東京進出に成功した。好き嫌いの分かれる憎まれ役ではあるものの、司会者としてもゲストとしてもスタッフが期待する役割をしっかりこなせるため、重宝された。 しかし、上岡自身はそんな状況に満足はしていなかった。昔からの趣味である古代史の研究や、新たに始めたゴルフやマラソンに夢中になったりしていた。また、テレビ以外の場所で芸人として自主的な活動も行っていた。 劇団を旗揚げして、もともとの夢だった芝居、そして講談、さらに漫談のライブまで開催していた。テレビの枠にとらわれず、芸人としての芸を磨くことを怠ってはいなかった。だが、それらはあくまでも舞台の活動にとどまっていて、世間にはあまり認知されていなかった。 そして、あるとき、上岡は引退を決意した。引退の理由については本人がいろいろな場所でいくつかの違った理由を挙げている。 そのうちの1つは、自分が引退した方がいいタイミングが来たら教えてほしいと妻に話したら「今やで」と言われたという話。 別の話としては、楽屋の鏡で白髪交じりの老人になった自分の姿を見て、内面は変わっていないのに体は確実に衰えているのが許せないと思った、というのがある。 また、もっともらしい理由としては、ゴルフにはまっているのでアメリカに渡ってゴルフのプロになりたい、という夢を語っていたこともあった。 ただ、どの理由に関しても、世間やタレント仲間からは真剣に受け取られていなかった。上岡と言えば、その場しのぎの口から出まかせが得意な屁理屈人間である。前言撤回も日常茶飯事だ。上岡もすぐに帰ってくるだろう。誰もがそう思っていた。 ところが、上岡は本当に姿を消した。2000年3月ですべてのテレビの仕事を終えて、きれいさっぱりいなくなってしまったのだ。 上岡はなぜ引退したのか。基本的には、引退口上での「もう思い残すことはございません」という言葉が文字通り本音に近いのではないかと思う。テレビという分野でも、舞台という分野でも、上岡は自分にできることを一通りやり尽くしていた。それ以上の夢や野望はなかった。だから潔く引退を決めたのである。 上岡は、自分が本質的にはテレビに向いていない芸人であると思っていた。「テレビで面白いのは、素人が芸をやるか、玄人が私生活を見せるか、2つに1つだ」という彼の持論がある。 テレビはリアルを見せるものなので、素人が背伸びして芸をやろうとして上手くできないのがおかしい。また、玄人がプライベートな一面を見せるというのも、それはそれで身近に感じられて面白い。 だが、玄人が芸をやると、あざといし嫌味に見えてしまう。テレビではそういうものが通用しないのだ。 上岡はつねづね「テレビ芸の理想は明石家さんまや笑福亭鶴瓶である」と語っていた。彼らは、何十年も前から話しているエピソードを、まるで昨日のことのように臨場感を出しながら熱く語ることができる。鶴瓶は興奮すると言葉を詰まらせながらも必死でしゃべる。これがテレビの話芸というものだ。 一方、上岡自身は何でもよどみなくペラペラと話をすることができる。これは芸としては優れている部分もあるのだが、テレビという枠の中ではリアリティが感じられず、違和感が出てきてしまう。 「自分には鶴瓶のようなしゃべりはできない」と思っていた上岡は、テレビ芸に向いていない自分の才能を見限っていた。 また、東京のテレビでは、大阪でやっていたような「嫌味な屁理屈キャラ」というのが通じなかった。上岡が感じの悪いことを言うと、東京の視聴者にはそのまま「なんて嫌なやつだ」と受け取られてしまう。何でも「笑い」というフィルターを通して受け止めようとしてくれる関西とは違っていた。東京では、ありのまま、見たままの表層的な部分にしか注目されない。そのことにも違和感を感じていた。 上岡の流暢なしゃべりや強引な屁理屈は、東京のテレビでは芸としてウケていたわけではなかった。「偏屈な頑固オヤジ」という分かりやすいアイコンとして消費されていただけだった。 彼は芸の世界に憧れ、芸人に憧れながらも、自分自身が芸人であることには見切りをつけていたのである。上岡の才能を高く買い、弟のようにかわいがってきたという落語家の立川談志氏も、著書の中でこう書いていた。 上岡龍太郎は芸能、つまり芸人の世界に憧れ、惚れまくっているくせに、己れはそれに入っていけないのだ。 (立川談志著『談志百選』講談社) 上岡龍太郎は最後までテレビ芸を極めることはできず、芸の道を極めることもできなかった。自分の才能の限界を誰よりも冷静に見極めていた。だからこそ、あれほどあっさりと引退を選ぶことができたのである。 上岡が引退した2000年には「IT革命」という言葉が新語・流行語大賞の年間大賞を受賞している。21世紀を前にして、インターネットがいよいよ力を持ち始める時期だった。 今、インターネットは人々を連帯させるのではなく、世界を分断させる方向に働いている。ネット上では人々が自分の好きなものだけを見て、自分の主義主張に合う情報だけに触れることができる。 かつてのテレビの世界にあったような、さまざまな価値観が入り乱れる「ごった煮」の面白さを楽しむ余裕はもうない。テレビの中で異物として機能していた上岡のような芸人はもう出てこないかもしれない。誰も頑固オヤジの説教など聞きたくはないのだ。 稀代の「憎まれっ子」は、時代の空気を読み、己の資質を見極めて、憎らしいほど完璧に芸能界から退いていった。そして、最期まで人前にその姿を見せることはなかったのである。 上岡龍太郎さんのご冥福をお祈りします。



Posted at 2023/06/02 15:36:14 | トラックバック(0) | 墓標
2023年03月28日 イイね!

坂本龍一 71歳 20230328

坂本龍一 71歳 20230328
大変残念なお知らせ

多くの人が それぞれの思いで、この 知らせ に 接した事だろう。



高橋幸宏 さんが逝去 したのが、1月



坂本龍一さんが 悪性腫瘍 になったと公表したのが、2014年だった。



正直、その時から いつか この日がやってくるのは、心してたので、とうとうその日がきたか・・・




ただ、今日の訃報より先に 高橋幸宏 の その日 がくるとは、思っていなかった。

高橋幸宏 坂本龍一

YMO の 両名 が相次いで 鬼籍 となるという 悲しき2023年春

高橋幸宏さん の 訃報に 無言で 応えた 坂本龍一さんの tweet

坂本龍一 さん の 悲痛な胸のうち が、読み取れて 言葉がなかった。

その後、外苑の街路樹の伐採に抗議する 坂本龍一さんの報道を目にして、まだまだ、坂本龍一さんの 息が聞こえていただけに、

とうとう 力 尽きた 教授 に対して

糸井重里さん は

「そうか」

と、3文字 の 言葉 が、上がっていたが

その3文字が全てであろう。


そして、細野晴臣 さん の グレーの画像

細野晴臣さんが、坂本龍一 さん と、高橋幸宏 に 声をかけて、細野晴臣 さん 宅の こたつ で みかん を食べて 始まった YMO

こたつ で みかん が なければ ユキヒロ も、教授 の 今日までの歴史は 違っていただろう





お疲れ様でした。

有り難うございました。








坂本龍一さん死去「つらい。もう、逝かせてくれ」家族、医師に漏らす…凄絶がん闘病 音楽家のまま力尽く

4/3(月) 5:00配信

 「世界のサカモト」と評された音楽家の坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、都内の病院で死去した。71歳。東京都出身。葬儀は家族葬で執り行った。1980年代に3人組バンド「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)で世界的ヒット曲を生み出し、88年には米映画「ラストエンペラー」で米アカデミー賞作曲賞を日本人として初めて受賞した。晩年はがんとの闘いが続いたが、最後まで音楽作りに情熱を注いだ。

 YMOで共に活躍したドラマーの高橋幸宏さん(享年70)が1月に死去してから3カ月。坂本さんが静かに旅立った。  葬儀は家族葬で営まれ、娘で歌手の坂本美雨(42)ら子供たちも見送った。お別れの会は本人の遺志により行わない。死因は明らかにされていないが、20年6月に直腸がんと診断された。両肺などにも転移し、ステージ4と公表していた。

 特にここ半年は凄絶な闘病だった。亡くなる1、2日前には家族や医師に「つらい。もう、逝かせてくれ」と頼み込むほど。関係者は「弱音を吐かなかった彼がそんなことを言うとは…。よほど苦しかったのだろう」と思いやった。

 14年に中咽頭がんと診断され、治療の末に寛解。だが、直腸がんと診断された20年6月には、治療しなければ「余命半年」と告げられた。手術では、最初にがんが発生した原発巣と肝臓2カ所、転移したリンパの腫瘍、さらに大腸を30センチも切除。両肺に転移したがんを摘出するなど、1年で6回の手術を受けた。その後は通院して投薬治療を続けてきた。

 そんな状況下で全身全霊で取り組んだのが、昨年12月11日に全世界配信したピアノコンサートだった。同9月中旬に事前収録し、数日かけてコンサートに仕立てた。「最後になるかもしれない」と死を意識しながら、繊細な音色を奏でた。痩せた印象だったが、力強いまなざしで鍵盤と向き合った。「アレンジも選曲も時間をかけて慎重にやった」という13曲、約60分の演奏。「大きな達成感を得ていた」(関係者)というこの映像が、世界に届けた人生最後の演奏となった。

 3歳でピアノを始め、東京芸大大学院を経て、78年に高橋さん、細野晴臣(75)とYMOを結成。79年にシンセサイザーを使った斬新な音楽が海外で受け、世界ツアーを2度成功させた。  個人でも「世界のサカモト」と呼ばれ、抜群の知名度を誇った。俳優としても活躍し、83年公開の映画「戦場のメリークリスマス」では、英ロック歌手のデビッド・ボウイさん(16年死去、享年69)と共演。男性同士のキスシーンも熱演し、話題となった。また、劇中音楽を手がけ、出演もした87年公開の米映画「ラストエンペラー」では、88年の米アカデミー賞作曲賞を日本人として初受賞した。

 理知的でニックネームは「教授」。興味こそ原動力で、既成の価値観にとらわれず、やりたいと思ったことに全力で取り組んだ。  所属事務所は2日に発表した訃報を伝える文書に、坂本さんが好んだラテン語の一節を添えた。

 「Ars longa, vita brevis」(芸術は長く、人生は短し)

 「人の命は短いが、優れた芸術作品は死後も後世に残る」ということわざだ。

 坂本さんの公式サイトでは英語でも訃報を伝え、英BBCや米CNNなどの海外メディアが速報。世界中から追悼コメントが相次いだ。「世界のサカモト」ならではのエピローグとなった。

 ≪「ラストエンペラー」でアカデミー作曲賞≫

 坂本 龍一(さかもと・りゅういち)1952年(昭27)1月17日生まれ、東京都出身。3歳でピアノを始め、小2でバッハの音楽に傾倒する。78年11月にYMOとしてデビューし、83年に“散開”。88年、映画「ラストエンペラー」のサウンドトラックでアカデミー賞作曲賞だけでなく、ゴールデングローブ賞作曲賞、翌89年にグラミー賞最優秀オリジナル映画音楽賞も受賞。父は「伝説の編集者」と呼ばれた坂本一亀(かずき)さん。


細野晴臣「言葉にはできません」自身のラジオ番組1曲目を選んだのは坂本龍一さん死の当日

4/3(月) 10:26 Yahoo!ニュース

細野晴臣(75)が3日、インスタグラムのストーリーズを更新。がんで闘病中だったイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の盟友坂本龍一さん(さかもと・りゅういち、本名同じ)が、3月28日に71歳で亡くなったと前日2日に発表されたことを受けて「知らせはいつも不意に訪れる 言葉にはできません」と、沈痛な思いをつづった。


細野は東京のラジオ局インターエフエムの番組「Daisy Holiday!」(日曜深夜1時)でパーソナリティーを務めているが、2日放送回は、1月11日に70歳で亡くなったもう1人のYMOの盟友・高橋幸宏さんとのトークを再編集したものを放送。その1曲目には、1983年(昭58)にリリースした、YMO11枚目のシングル「Be a Superman」を選んだが、決めた日は坂本さんが亡くなった3月28日だったという。

細野は「今回の手作りデイジー 何も知らずに作ってました インスタ・ストーリーズも含めYMOの回になったのは偶然です でも何かを感じていたのかもしれない Be A Supermanを1曲めに決めたのは28日でした 楽しくも苦しい時代を思い出していました 知らせはいつも不意に訪れる 言葉にはできません」とつづった。


坂本さんの死を知らずに、その当日に「Be a Superman」を流すと決め、放送前に坂本さんの訃報が流れたことに、細野は複雑な心情を吐露した。





Posted at 2023/04/03 12:01:10 | トラックバック(0) | 墓標
2023年03月24日 イイね!

団時朗さん 死去 74歳 20230322

団時朗さん 死去 74歳  20230322団時朗さん、いろいろな役を演じていましたが、私が記憶に残るのは、

「京都人の密かな愉しみ」

の、エドワード・ヒースロー 役 だ。



合 掌





「帰ってきたウルトラマン」団時朗さん死去、74歳 17年に肺がん診断、昨年末悪化し力尽きる 3/24(金) 10:14


1971年(昭46)のTBS系特撮ドラマ「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹役などで知られる、俳優の団時朗(だん・じろう、本名・村田秀雄=むらた・ひでお)さんが22日午前4時14分、肺がんのため亡くなったことが分かった。74歳だった。24日に所属のアルファエージェンシーが発表した。

同事務所は、万代博実代表取締役名の文書を発表。 「悲しいお知らせです。3月22日早暁4時14分、団時朗(享年74歳)が永眠いたしました。2017年夏に肺癌との診断を受けました。病気になってからも、ユーモアと優しさを失わず、生きるパワーに満ち溢れて仕事に邁進しておりました。残念ながら昨年末より悪化をたどり、力尽きました。葬儀は近親者のみにて執り行います。皆さまには生前のご厚誼に深く感謝いたしますとともに、ここに謹んでご報告申し上げます。アルファエージェンシー代表取締役 万代博実」 団さんは、1949年(昭24)1月30日に京都府京都市に英国系米国人の父と母の間に生まれた。米国空軍の軍人だった父は、団さんが2歳の時に朝鮮戦争で戦死したという。1966年(昭41)に、勝新太郎さんが主演した大映の映画「酔いどれ博士」(三隅研次監督)に脇役として出演。役名も、せりふもない役どころだった。 翌67年に、大手化粧品メーカー資生堂の専属モデルとなり、68年に男性化粧品「MG5」のCMで一躍、その名が知られた。同年には新人俳優・団次郎として、渡哲也さん主演の日活映画「わが命の唄 艶歌」(舛田利雄監督)に青山浩二役で出演。日活がクラウンレコード(現日本クラウン)と提携し、黒沢明とロス・プリモス、美川憲一ら同社のオールスターが総出演した同作で、水前寺清子の「艶歌」とともに主題歌となった「バラの恋」で歌手デビューも果たすなど、この年が実質的なデビュー年となった。 そして71年に「帰ってきたウルトラマン」(TBS)で主人公・郷秀樹を演じた。郷はハンサムで、一本気で時に突っ走りつつも、苦悩するナイーブな一面もある役どころで、団さんの人気は不動のものとなった。また、ウルトラマンと融合したまま地球を去るというパターンの、最初の主人公だったことも、その人気に拍車をかけた。 84年に、片岡仁左衛門(当時は片岡孝夫)主演の「ハムレット」(木村光一)でフォーティンブラスを演じ、それ以降は活躍の場を舞台に移した。同年、江守徹、日下武史主演の「Good」、坂東玉三郎公演「長崎十二景」、85年杉村春子主演「浮巣」、森光子さん主演の芸術座公演、森繁久弥さん座長公演に立て続けに出演し、舞台俳優としての地位を確立していた。




Posted at 2023/03/24 13:45:24 | トラックバック(0) | 墓標

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