グランドスタンド上部からのカメラアングルで捉えた貴重な「バトルシーン」はわずかに22秒ほどで終わってしまった。
最終コーナーを立ち上がり、ペースカーがピットロードへ逸れはじめた時、全車がアクセル全開状態に入る。高橋国光車を先頭に、黒沢、北野、高原、都平、風戸、米山(二郎)、生沢徹、鈴木誠一、従野、長谷見、川口吉正、津々見、漆原、寺田(陽次郎)、竹下憲一、竜正宗の順で「クリスマスツリー」の前を通過する。
もちろん映像では、それも一瞬のこと。バンクに向かって猛獣さながらに疾駆してゆく彼らの後姿を追って行くしかない。と、右サイドに設けられているピットロードと白いガードフェンスが切れるあたりで映像は凍ってしまう。わずか22秒足らずの「記録」に過ぎない。が、目を凝らすと、この時、トップを行く国光車の背後で、黒沢、北野車に加えて、高原車までが異常にくっつきあっているのがわかる。
実は、そこからが、ずっと封印されつづけている「核心」だというのに。あまりにも不自然な録画編集ではないか。かえって疑惑を生んでしまう強引な処理の仕方だといっていい。
この時の各車の走行見取り図は、『AUTO SPORT YEAR’75』所載のものと照合すると、ぴったり重なり合う。が、それも「第2図」と「第3図」までで、「第4図」から「第6図」の分には重ね合わせる映像はない。ただし、まるでそれを補うためだろうか、正面から捉えているシーンにスローモーションをかけて、じっくりと何かを伝えようとしている。
2月12日にアップした『「秘められた映像」の封印を解く』で紹介している第1コーナー奥からの、あのアングルのものだが、これなら各車の挙動がある程度、読み取れる。恐らく、ここで引用させていただいた「第5図」「第6図」がちょうどそのシーンに該当するのではないか。ここで、フイと気づいた。ひょっとしたら、この走行見取り図の作成にあたって、担当編集者は何らかの形で、断ち切られた映像の続きを見ることができていたのではないか、と。それなら、この先、まだ「めぐり合う」可能性が残されているかもしれない。
*「レーシングオン」2008年4月号で紹介された「決定的瞬間」は稲田理人氏が撮影したものだった。
*グラスゾーンからいきなりイン側に切れ込んできた⑥北野車が⑩風戸車と(84)鈴木車の間を通ってコースを横切ろうとしているのが判る(「レーシングオン」2008年3月号所載 撮影・稲田理人)
再び、iPadの画面に戻ろう。カウントは17分58秒。胸騒ぎを増幅するような効果音とともに、一塊でこちらへ向かっていたマシンたちがパッと左右に散った。右端の白いマシン(北野車)がグリーンにはみ出し、次の瞬間、白い風船を吐き出すように、右側がぷっくりと膨らむ。そこで、画面は3秒ほど静止したままだ。ドラマの最高潮時に聴くようなオーケストラ音が奏でる不思議なシーンが用意されていた。と、ひょいと白い風船のような球体(じつは接触によって留め金が壊れ、フロントカウルが持ち上がったのである)が消える。その瞬間、北野車のノーズがインに切れ込んだ。スローモーションだからわかる、突進ぶりだった。土煙を跳ね上げ、黄色いマシンとヒットしたのがわかる。さらに、白いマシン(これが風戸車)の鼻づらを削って、さらに加速するように、何台かと絡み合う。黒いパーツが空に舞う。カメラはさらに滑走する北野車を追って行く。クルリとリアからショートカット・ゾーンへ流れ出した北野車に、漆原車が覆いかぶさるように激突した。
それはもう地獄図としかいいようのないシーンが連続する。北野車と漆原車の絡み合いに巻き込まれて⑪米山車が物凄い勢いでエスケープゾーンへ弾かれた。と、漆原車が火を噴いた。その手前で、30度バンク方向へ崩れ落ちるようにスピンしながら、リアから叢にと飛び込む川口車。そのそばを、白煙を上げながらすり抜けていく高原車の姿。
カメラがズームアップする。炎を上げるマシンに中からすっくと立ち上がるドライバーの姿。黒いヘルメットがジャンプしながら、難を逃れようとしている。が、一瞬、何かに気づいたように身をかがめた。そして再びジャンプする。と、その腕は、なんともう一人のドライバーの腕をつかんでいたのだ。転がり出るふたりの姿。漆原と北野の両選手の奇跡的な生還だった。
――アコースティックギターの奏でる哀しげなアルベジオが流れてきた。
これは中部博さんの「悲しみのラストシーン」と謳った章の書き出しである。画面での磯部アナウンサーの神妙な語り口が、事の重大さを訴える。
「ご覧いただきました富士グラン300キロ。第2ヒートにおきまして、たいへん大きな事故が起きてしまいました。ただちにレースは中止となりましたが、ローラT292に乗ります大ベテランの鈴木誠一選手と、シェブロンB26に乗ります若手のホープ、風戸裕選手が亡くなりました。田中さん、辻本さん、惜しい選手を失いましたね」
田中健二郎解説者が応じる。
「まったく、そのとおりです。実はね、鈴木君は2日前に、どうもいまひとつ乗れない、と。健さん、ボツボツ引退してね、若手の今後の、その指導をしたいと。彼は実は言っていたんですよ。それから、風戸君。昨年の第4戦で優勝し、涙を流しながら喜んでね。これから日本のレース界の第1人者に育っている最中。もうね、残念だね」
磯部アナも痛恨の想いを隠さない。が、そこは健さんに話題を振る。
「田中さん、とにかくあの、風戸選手が、いろいろ田中さんからレクチュアをうけていましたね」
「そうそう、予選の前に、どうしてもS字が乗れないと。田中さんね、。ちょっと見てくれと言ってね。私は約2時間ぐらい見ましたけれどね。いやーっ、この次はもっと研究しますという、あの笑顔が、いまもそこに何かあるような気がしますね」
ここで磯部アナが静かに結ぶ。
「残念です。亡くなられた、おふたりのご冥福を、心からお祈り申し上げたいと思います」
中部さんは、こう同調していた。田中健二郎の語りがいい。悲しみに負けじと、精一杯の声を上げている。それが亡くなったふたりのドライバーを心底から追悼する振る舞いなのだと言いたげだ。生き残った者が、天命を終えたふたりへの最高の儀礼をもって語っている、と。
映像は、そうした鎮魂の想いをつたえながら、焼け崩れた鈴木車や漆原車を見守る選手たちの姿を映し出す。そこにはレーシングスーツからカジュアルなスポーツシャツに着替えた北野元選手や、その頃、選手会長だった浅岡重輝選手と津々見選手が沈鬱な表情で語り合っている様子を捉えている。そして走行路に黒々と刻まれたタイヤ痕を大写しにしたところで終わっていた。
「題名のない映像」は確かに終わった。が、ここからさまざまな問題が噴出していく。その一つが新聞報道である。「レーサーの死=封印された魔の30度バンク」のなかで、黒井尚志さんも「それは事故ではなく事件扱いとなっていた」と指摘していた。
――事故は新聞で派手に報じられ、朝日新聞は中野雅晴が死亡したときと同じく、偏見に満ちた記事を掲載した(後略)。その影響もあって、事件の翌日、ガンさんは任意の事情聴取といいながら、はだか電球のぶら下がった取調室に通されたというのだ。
さて、それがどんな報道ぶりだったのか。過日、ぼくは国立国会図書館に赴き、朝日新聞だけではなく、ほかの新聞の扱いも同時に検証した。確かに朝日は、読売、毎日の事故現場写真をあしらったレポート記事と異なり、「山下記者」のクレジットの入った、いわゆる署名記事となっていた。 (その内容は次のエントリーで)
*事故を報じた1974年6月3日の毎日新聞社会面
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実録・汚された英雄 | 日記
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2012/02/18 04:09:44