5/24に
マツダ・3が国内発売されましたね。さしたる興味もないので言及は控えますが、
この宣材写真はどうしてドアが凹んだ事故車を使って撮影しているのでしょうか。え? 違うって…? (´ε`)
みんカラを始めて14年。『
愛車紹介』や
ブログで一度取り上げただけで、当ブログの看板コーナー?の『
私的名車列伝』で、マツダ・3の先祖にあたる我が5代目(BD型)ファミリアをまだ取り上げてなかった事に、今更ながら気が付きました。
なんせ万人が認める名車中の名車なので、記述も膨大になってしまいそうですが....ここで書いとかなくては後悔しそうなので、書いておきましょうか。
※ ※ ※
5代目(BD型)マツダ・ファミリアがデビューしたのは1980年6月。当時の1.5リットル級ハッチバックの日本車は…『自動車ガイドブック 1980~'81』によると、
トヨタ・カローラがFR、
シューティングブレーク風のリフトバック、
ターセル/
コルサはFFながらもエンジンは縦置き、ノッチ付きの中途半端な3ドア。
日産・サニーもFR、クーペと「
カリフォルニア」と称するクーペベースのロールーフワゴンのみ。
パルサーはFF/横置きながらも
OHVでパッとしないデザイン。姉妹車の
ラングレーはBD型ファミリアと同月デビューながらもパルサーと同じ。
ホンダ・シビックはFF/横置きながらも丸っこい旧態依然なデザイン。その上級版
クイントはリアクォーターウィンドウ付きのBD型ファミリア 5ドアにそっくりな(と言ってもファミリアより4ヶ月先だが)5ドア。
三菱・ミラージュはFF/横置き、角張ったスクエアフォルムでファミリアの先駆けとも言えるデザイン(
!)、
スバル・レオーネはFF/4WDの「
スイングバック」があったが、エンジンがOHVで如何せん地味。
....といった所。そう、日本における『FF(エンジン横置き)2BOX』は決してファミリアが元祖ではなかった。ホンダ・シビックが1972年に種を蒔き、1978年に三菱・ミラージュと日産・パルサーがその畑を耕し、そして1980年にマツダ・ファミリアが大輪の花を咲かせた....そんなイメージだろうか。
かくして5代目ファミリアは大ヒット。特に3ドアのスポーティなトップグレード『
XG』の赤色が若者に爆発的に売れ、サーフィンをする訳でもないのに屋根にサーフボードを固定し女の子をナンパする〝
陸(おか)サーファー〟なる流行語をも生み出し、1980年6月の発売から1983年2月まで33ヶ月連続で販売台数を更新し続けるという信じ難い売れ行きを見せ、1982年に3度、1983年に5度、当時の〝絶対王者〟カローラを上回り月間販売台数1位を獲得する等、一躍〝
日本を代表する車〟に躍り出た。1980年度の
第1回 日本カー・オブ・ザ・イヤーも受賞している。
そんな若者に人気だった〝スポーティファミリア〟はその後、1983年6月に
ターボモデルを追加。前年に出ていた
シティターボらと共に〝ボーイズレーサー〟(今でいう
ホットハッチ) の嚆矢となり、後の
フルタイム4WD DOHCターボモデルへと受け継がれてゆく。
※ ※ ※
さて、私の父がこの5代目ファミリアの『
5ドア 1500XE』を購入したのは、1983年1月のマイナーチェンジ直後。母の記録によると、1月末にディーラーで契約を済ませ、我が家に来たのは3月末。当時、私は小学校に上がる直前だったが、日曜昼に『
たのきん全力投球!』(最終回だったらしい) を見ていた時に玄関のチャイムが鳴った事だけよく覚えている。自分でも驚きだが、それだけ子供だった私にとって〝最大級の喜び〟だったのだろう。
父は他に前述のホンダ・クイントや
トヨタ・スプリンターカリブなども検討したそうだが、このファミリアを選んだ決め手となったのは、父が当時購読していた『
ベストカーガイド』誌面で、当時の自動車評論家界の第一人者、
徳大寺有恒氏が「ゴルフを模範にした素晴らしいクルマ」と絶賛していたから、だそう。私は今でも〝自動車評論家と言えば〟
徳大寺有恒の名が真っ先に浮かぶほど氏を敬愛しているが、それはこの様にして父から受け継がれたものだった。
しかしながら、父が購入同年に登場した
トヨタ・カローラ 5ドアセダンや
ホンダ・シビックシャトルを気にしていた姿も覚えている。その
シビックシャトルの2代目に、将来息子が乗ることになろうとは...(笑)
※ ※ ※
かくして父とファミリアは、母と私を毎週末ドライブやファミレスなどに連れて行ってくれた。ボディカラーはサンビームシルバーメタリック。ショルダーラインにXE専用装備のブラックストライプが入っていた。
Wikipediaにもある通り1983年春に当時の運輸省がドアミラーを解禁。
フェンダーミラーから市販の社外ドアミラーに替えるのが大流行したが、父も同じく購入直後に自分で社外ドアミラーに換装していた。それ以外は最後までフルノーマル。鉄チン(スチールホイール)のままだった。内装色はブルーという名のほぼグレー。父が割とオーディオに五月蝿い為、カーステレオはディーラーOPで2DINの上等なAM/FMラジオ&カセットプレイヤーが奢られていた。まだ1983年だった為、
スペアナのハシりのようなカラフルなバーが付いてて、下段左側にはスピーカーの前後左右調整レバー(フェーダーコントローラー)が生えていた。そしてこれも当時流行っていたのか、リアウィンドウには黒のブラインドがディーラーOPで着けられていた。
オーナー(とその家族)しか分からない点で言うと、何年か乗って気が付けば、インパネ内の間仕切りモールがぐんにゃりと歪んでいたり、フロントドアサッシュの内張りのコーナー部分の撓み処理が雑だと父がドライブ先の休憩中に指摘したり、父もまだ30代前半でアホだったのか、郷里に帰省する際にアウトバーンを高速でカッ飛ぶVW・ゴルフの真似をして、高速道路を140km/hでぶっ飛ばしてエンジン不調に陥ったりとまぁ色々あったが、そんなことは所詮〝些細なこと〟に過ぎず、あのバランスの良い佇まいを思い返す度に「良いファミリーカーだったなぁ…」との思いを新たにする。
そんな我がファミリアの最期は、私の小学校卒業を目前に控えた1989年2月頭の日曜夜、父と(場所は失念していたが、父によると)足立区入谷の中古車店に飛び込みで訪れ、車検目前だった為、たった3万円で引き取られて行った。
舎人ライナーが通る遥か前、当該地は〝陸の孤島〟と呼ばれており帰りはバス。薄暗く狭いバスの座席で、凄く寂しい思いに囚われた事だけは今も覚えている。最期の家族ドライブは前年の暮れ、1983年の開園以来なぜか一度も訪れていなかった
東京ディズニーランドだった。
※ ※ ※
あの時、マツダ・ファミリア 5ドアハッチバックを選んだ父の選択は、当時の父の年齢を優に超えた今になって思うと とても尊敬できるものだったと改めて思うし、父が選んだファミリア 5ドアハッチバックは正に〝
ベストファミリーカー〟と言えるものだった。そう言えるような国産車、個人的には
2代目カローラスパシオや
トヨタ・ラクティス辺りがパッと浮かぶが、現行だと
日産・ノートe-POWERや
ホンダ・フィットHYBRID、
マツダ・デミオディーゼル、
トヨタ・ポルテ、
ホンダ・フリード辺りだろうか。シエンタはこねくり回したようなデザインがどうにも好きになれないし、今の時代〝ファミリーカー〟と言えば世間的にはハイルーフミニバンなのだろうが、仕事で何度も駆った上で思ったのは、一人乗車の時のあの途方もない無駄を背負っている感覚。三世代同居もしくは祖父母と近居でもなけりゃ、あれ程のスペースが必要とはどうしても思えない。
ともあれ、自動車メーカーには格好つけて若者に媚びるだけでなく、あのとき父が選んだような〝ベストファミリーカー〟をいつまでも造り続けて欲しい。
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マツダ・ファミリア 3ドアハッチバック 1500XG [FF/5MT] (1980.6~1983.1) ※前期型
全長3955mm×全幅1630mm×全高1375mm ホイールベース2365mm 車両重量820kg
1490cc(85ps/12.3kgm)※グロス 10モード燃費16.0km/L 車両価格103.8万円
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マツダ・ファミリア 5ドアハッチバック 1500XE [FF/5MT] (1983.1~1985.1) ※後期型
全長3955mm×全幅1630mm×全高1375mm ホイールベース2365mm 車両重量825kg
1490cc(85ps/12.3kgm)※グロス 10モード燃費16.0km/L 車両価格118万円
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