米沢市は山形県最南端にある人口およそ9万人の町です。江戸時代を通して、上杉謙信を始祖とする上杉家が代々治めた米沢藩がありました。2代上杉景勝と重臣・直江兼続の時代に豊臣秀吉に臣従し、一時は会津を拠点に120万石もの大大名になりましたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に領地の大部分を没収され、米沢30万石に封じられました。その後、幾度となく存亡の危機に直面しましたが、10代上杉鷹山の時代に奇跡的な復興をなし遂げました。「上杉の城下町 米沢」をブログにしてみました。
米沢城跡
16世紀半ば、米沢城は伊達氏の居城でした。17代当主・伊達政宗は永禄10年(1567)、ここで生まれました。天正17年(1589)に会津に侵攻し領地としましたが、翌年豊臣秀吉にその会津領を没収され、岩出山城(宮城県大崎市)に国替えをされました。
米沢城は新たに会津領主となった蒲生氏郷の支城となりましたが、慶長3年(1598)には秀吉の信任が厚かった越後・春日山城主、上杉景勝が会津に入りました。景勝は120万石(会津・米沢・庄内・佐渡)の大封を得て鶴ヶ城を拠点にし、米沢は景勝の重臣・直江兼続の領地となりました。
上杉謙信
上杉謙信は越後守護を務め、はじめ長尾景虎といいました。関東管領・上杉憲政から上杉姓を譲られ、上杉政虎と改名しました。上洛し室町幕府・足利義輝から一字をもらい、上杉輝虎とも名乗りました。謙信は晩年に名乗った法号です。
内乱が続いた越後を兄に代わって統一すると、他国からの救援要請に何度となく出兵し、武田信玄や北条氏康らと戦いました。
上杉謙信・祠堂跡
天正6年(1578)に春日山城で亡くなった謙信の遺骸は、2代景勝の国替えに伴い会津、そして米沢城に移されました。ここには遺骸を納めた祠堂がありましたが、明治9年(1876)に「上杉家御廟所」へ移されました。
上杉景勝と直江兼続
謙信の死後、家督争い・御館の乱に勝利した謙信の甥・景勝と、幼馴染みで景勝を補佐した直江兼続 は、織田軍の侵攻に悩まされましたが、中央に豊臣政権が誕生すると、いち早く秀吉に臣従しました。
兼続は聡明で、秀吉から直臣の誘いを受けましたが、上杉に対する「義」を重んじ、終生景勝を補佐しました。
上杉鷹山
江戸の日向高鍋藩邸で生まれた鷹山は養子となり、上杉家10代(米沢藩9代)を継ぎました。藩主時代は治憲と名乗り、晩年自らの雅号「鷹山」を名乗りました。
鷹山時代の米沢藩は15万石まで石高を削られていましたが、藩士の数は120万石時代と変わらず、およそ6,000名を雇っていました。さらに米沢藩の借金は16万両(幕府の御金蔵が16万両だったとか)にも膨れ上がり、破産寸前でした。
海に面しておらず、盆地にあった米沢藩は飢饉や積雪で農作物が思うように収穫できず、さらに「大倹約令」に対して重臣7名が反抗する流血事件(七家騒動)が起りましたが、財政改革の意志を貫き通し、遂には切り札ともいえる米沢産の大ヒット商品を産み、借金の返済に成功しました。
米沢を代表する偉人です。
上杉神社
上杉神社は明治9年(1876)、上杉謙信と上杉鷹山を祭神として、米沢城本丸跡に建立されました。明治35年(1902)には鷹山は分祀され、城内の松岬神社に移されました。
売店に置いてある「天地人」の絵葉書です。直江兼続は米沢ではとても有名だったそうですが、この番組で全国区にのし上がりました。ここ10年の大河ドラマでは、年間を通して最も面白い番組でした。
上杉を中心に描いたドラマや小説はほとんど見たことがなかったので、とても新鮮でストーリーも斬新でした。
徳川家康・会津(上杉)征伐の標的とされた神指城跡
福島県会津若松市郊外に残る神指城(こうざしじょう)跡です。
慶長5年(1600)3月、手狭になった会津・鶴ヶ城に替わり、兼続が築城を開始した城でした。4月に徳川家康から築城の理由を上洛し弁明せよとの知らせが届きました。秀吉亡き後、家康の横行は目を見張るものがあり、上洛命令に対し、兼続は家康を弾劾する「直江状」を送り付けました。
これを受け取った家康は激怒し、6月に挙兵し会津に向けて進軍を開始しました。工事は中断され、現在に至っています。完成すれば、東北随一の巨大城が会津の地にできていたことになります。
兼続は東北で家康についた伊達政宗、最上義光と戦いましたが、盟友・石田三成が関ヶ原で敗戦した報が入ると停戦し、翌年景勝とともに上洛し家康に謝罪しましたが、会津・庄内・佐渡を没収され、米沢一国30万石と大幅な領地削減を強いられました。
家康に次ぐ120万石という大封を秀吉から拝領された上杉の全盛期はわずか3年で終焉し、凋落は決定的となりました。
二の丸跡には当地で有名な樹齢千年といわれる巨木ヒノキがあります。兼続はこのヒノキがあるここに土塁を造るつもりでいました。
上杉城史苑
米沢城跡の上杉城史苑に入ってみることにしました。レストランや米沢産の伝統工芸品の売店です。
米沢鯉
米沢で有名な養殖鯉「鯉甘煮」です。鯉の養殖は上杉鷹山の時代に始まりました。内陸にあった米沢はビタミン不足を補うため、鷹山が沿岸地方から仕入れた鯉を領内で養殖したのが始まりだったそうです。
笹野一刀彫り
笹野地区の特産品で、サルキリという独特な刃物一本で彫り上げる伝統工芸品です。やはりこれも鷹山が農家に副業として奨励したものだそうです。
米沢織
上杉鷹山は窮乏した藩の財政改革の切り札として養蚕業を奨励しました。領内に150万本もの桑の木を植え、蚕を飼いました。蚕から生糸を作り、京都から機(はた)職人を呼び寄せると同時に機織機(はたおりき)を導入、藩内の農民から武士の奥方に機を織らせました。完成した着物は夏は涼しく、着心地もよく、吸水性に富み、これが大ヒット商品となりました。藩主就任時に16万両もあった借金は後の世代で完済したといわれています。
現代でもこの機織は盛んに行われており、「米沢織」として売られています。
上杉家御廟所
元和9年(1623)、初代藩主(上杉家2代)上杉景勝が亡くなると、当地が埋葬地とされ、以後12代斉定まで歴代藩主の廟所とされました。
上杉家初代・謙信は祠堂が春日山城、鶴ヶ城、米沢城と国替えごとに移されましたが、米沢城が破却された後、明治9年(1876)にこの廟所に改葬されました。
上杉謙信祠堂
御廟所の配列は、中央正面に初代謙信、向って左に2代景勝、4代綱勝、6代吉憲、8代宗房、10代鷹山(治憲)、斜め後方に息子・顕孝、12代斉定、中央より右が3代定勝、5代綱憲、7代宗憲、9代重定、11代治広と並びます。
ガイドさんの話を聞いてわかったことですが面白いことに、廟所の屋根の形で火葬と土葬の見分けができるようになっています。
2代景勝から8代宗房までは火葬、9代重定から12代斉定までは土葬で埋葬されています。
2代から8代までは火葬が習慣となっていましたが、9代重定のとき10代鷹山の進言により土葬に切り替えられました。理由は火葬の場合、高野山(和歌山)と米沢に分骨するのですが、高野山に納骨するにはお金がかかり、当時15万石に削られていた米沢藩では余分なお金がなかったためだそうです。
土葬にすれば、米沢で葬式を済ませ、幕府に届け出を出せば事は足り、出費も火葬に比べれば格段に安かったのだそうです。
また、後になればなるほど廟所の作りは簡素で、窓格子ひとつとってもコストのかけ方に大きな差があるそうです。
上杉景勝廟所
上杉鷹山と長男・顕孝
鷹山と側室お豊の方の長男・顕孝(あきたか)の墓です。顕孝は早世し藩主にはなれなかったのですが、生前の鷹山の願いで父の隣に埋葬されました。
春日山 林泉寺
米沢城からおよそ1kmの場所にある春日山 林泉寺です。ここには、直江兼続とお船(せん)をはじめ、上杉景勝の母であり謙信の姉、仙洞院、武田信玄の四女で景勝正室・菊姫、信玄六男で菊姫の弟・武田信清、上杉鷹山側室・お豊の墓があります。
直江兼続とお船の方
直江兼続は直江家の婿養子でした。お船は直江家の娘で再婚でした。3人の子がおり、長女は上杉家が米沢に移った後に、徳川家康の重臣・本多正信の次男に嫁ぎましたが翌年亡くなり、あとの子も早世しました。
兼続は元和5年(1619)に江戸で亡くなると、お船は景勝から3,000石の化粧料を与えられました。お船も寛永13年(1636)に江戸で亡くなり、直江家は断絶しました。夫婦の墓所としては珍しく、共に同じ大きさの墓となっています。
上杉家廟所
仙洞院
菊姫
武田信清
武田信玄の六男で菊姫の弟・武田信清は、天正10年(1582)に天目山の戦いで兄・勝頼が滅亡すると、姉・菊姫を頼って春日山に身を寄せました。景勝はかつての敵将の息子・信清を匿い、処遇しました。
お豊の方
上杉鷹山の側室で、長男・顕孝を産みました。正室・幸姫(よしひめ)は前藩主・重定の娘でしたが、背丈が10歳の子供くらいしかなく、障害がありました。鷹山は愛想をつかすことなく、羽子板などをし、幸姫と接しましたが早世しました。
上杉の城下町米沢は初めて訪れました。米沢城、神指城、上杉家御廟所、春日山林泉寺とまわった感想は、やはり圧倒的に大河ドラマ「天地人」の影響の大きさを感じました。3年前のTVドラマですが、未だに売店や、観光ガイドさんの話にでてきていました。
また、米沢藩の危機を救った上杉鷹山は米沢の小学校の体育館には必ず肖像画が掲げられているそうです。
鷹山は藩の財政改革だけではなく、領民にも広く慕われたお殿様であったと伝えられています。
あるアンケート調査で、歴史上の人物で日本の首相になってもらいたい第3位が上杉鷹山だったそうです。
最後に上杉鷹山、そのひとが残した言葉です。