夏休みを利用して滋賀県湖北地方にクルマを走らせました。湖北・北近江は戦国時代後半には下克上で戦国大名にのし上った浅井氏三代の居城・小谷城がありました。三代浅井長政の時代に美濃を本拠とした織田信長と同盟を結びましたが、やがて両家は対立、激しい戦いが繰り広げられました。また、奥琵琶湖随一の景勝地といわれる賤ヶ岳をブログにしてみました。
虎御前山と小谷山
国道365号線を関ヶ原方面から北へ直進すると、やがて左手に虎御前山、そして右手に小谷山が見えてきます。天正元年(1573)8月小谷城総攻撃の際は、この虎御前山の砦から信長、秀吉ら織田軍が目前の小谷城に総攻撃をかけました。
小谷城跡
長浜戦国大河ふるさと博
3月24日から12月2日まで、ここ小谷城跡で“長浜戦国大河ふるさと博”が開催されています。まず目に飛び込んでくるのがこの大きな冑と石垣です。石垣は全国に5人しかいない野面積みの職人によって作られたものだそうです。
また、この期間はマイカーで登城できず、徒歩か送迎バス(大人500円)を利用しなければなりません。
番所跡
バスを降りると、番所跡に到着しました。このガイドの方に付いて、本丸跡まで説明を聞きながら徒歩で登山をします。所要時間は1時間30分ほどでした。
小谷城は永正13年(1516)頃、初代・浅井亮政(あざい すけまさ)によって築城されました。亮政は山上に「大獄」という居館をまず築き、その後徐々に山麓に向って「小丸」、「京極丸」、「中丸」、「本丸」と城を拡張していったそうです。
また、左手の清水谷には家臣団の住居や、浅井氏の菩提寺・徳昌寺などがありました。
「日本五大山城」という名のとおり、全部見て歩くにはまる一日はかかる規模の大きさです。
虎御前山展望所
本丸に向け直進すると、「虎御前山展望所」という場所があります。目の前の小山が虎御前山といい、天正元年(1573)8月の織田軍の総攻撃の際、砦が築かれた山です。虎御前山沿いに走っているのが現在の北陸自動車道で、その手前が国道365号線です。国道365号線は、「北国脇往環」という街道でした。
さらにその手前が小谷城清水谷の出入口で、そこから山頂にかけて家臣団の住居が建ち並んでいました。
永禄10年(1567)頃、美濃から輿入れしてきたお市の方の大行列は、ここから入城しました。お城中が歓迎の渦で沸き立ったそうです。
途中、雑木林の間に見える伊吹山です。
伊吹山の右手には田畑の後方に横山城があった山並が見えてきます。横山城は浅井長政が南近江の観音寺城主・六角氏対策として作った山城でしたが、元亀元年(1570)姉川の戦い以降、織田軍に占領されてしまい、小谷城総攻撃までの3年間は、木下秀吉が城番となり、小谷城を監視する砦になってしまっていました。
御馬屋跡
御茶屋跡を過ぎると、「御馬屋跡」です。
当時の日本は現代と違い、表日本が日本海側でした。敦賀港で陸揚げされた米や物資はここ湖北地方を経由して上方に運びこまれていました。長政は馬を使い、米や物資をここまで運び入れていました。また、清水谷から飲料水が湧き、やはり馬を使って本丸側に運び入れていたのだそうです。
ここは運搬のための馬をつなぎ止め、休息させる場所でした。
首据石
黒金御門前にある「首据石」です。天文2年(1533)初代亮政は南近江の六角氏と戦った際、家臣の今井秀信が敵に内通していたため殺害し、秀信の首を石の上に曝したと伝わる場所です。
本丸に行く家臣たちへの見せしめであったそうです。
浅井長政
浅井家三代当主・長政は天文14年(1545)に南近江・観音寺城下で生まれました。父・久政は守護・六角義賢(ろっかく よしかた)に臣従しており、人質として幼年期を過しました。
元服すると、義賢の一字から、「賢政」と改名させられ、さらには六角氏の家臣の娘を娶らされました。
これらの措置に不満をもった赤尾清綱や遠藤直経ら後の重臣は、久政を隠居させ、家督を賢政に相続させるよう働きかけました。
賢政は名を長政と改め、六角氏の家臣の娘を離縁し、永禄3年(1560)15歳の若さで六角氏を破り、戦国大名として独立することに成功しました。
北近江・小谷城主となった長政に着眼したのが、美濃岐阜城主・織田信長でした。敦賀港から上方への物資の流通ルートにあり、また美濃からの上洛途中に位置する長政は是が非でも味方に引き入れたい相手でした。
永禄10年(1567)頃、信長側から同盟を要請し、妹・お市を嫁がせました。
父・久政は信長と古くからの同盟者・朝倉義景が不仲であることを理由に反対しましたが、「朝倉への不戦の誓い」を同盟の条件として承諾しました。
ところが、元亀元年(1570)、信長はこの約束を反故にし、徳川家康とともに越前朝倉領へ侵攻すると、怒った久政は長政に同盟を破棄させ、後方から織田軍を挟み撃ちにさせました。
命からがら美濃に逃げ帰った信長は長政の裏切りに激怒し、支城である横山城を包囲すると、姉川の戦いを契機に両家は交戦状態となりました。
桜馬場跡
小谷城の幾つかある曲輪の中で、最も風光明媚な景色が見られる場所がここ「桜馬場跡」です。
昨年の大河ドラマ、「江~姫たちの戦国~」のロケ地にもなりました。
湖畔に浮かぶ小さな島は竹生島です。
黒金御門跡
大広間・本丸跡入口の門を「黒金御門跡(くろがねごもんあと)」といいます。
小谷城は落城から2年間、長浜城が完成するまで秀吉の居城となりましたが、長浜城に移転が決まると、秀吉は黒金御門の石垣を徹底的に破却しました。
この周辺の大きな石は当時の門を支えていた石垣で、破却された当時のままの状態で置かれているそうです。
大広間跡
茶々、初、江が生まれたのがここ「大広間跡」です。「千畳敷き」とも呼ばれ、小谷城で最大の曲輪です。
本丸跡
小谷城の中心となる建物があった場所です。
元亀3年(1572)9月、将軍・足利義昭の信長追討令に応えた武田信玄は甲斐を進発しました。
信玄軍は遠江から三河に進軍しましたが、翌年4月突然甲斐に撤退、帰国してしまいました。
東からの脅威がなくなった信長は、7月足利義昭を京都から追放すると、元号を天正と改め、8月5万の大軍で虎御前山に着陣しました。
信長は周囲の支城を寝返らせると、清水谷から秀吉軍を侵攻させ、次々と浅井の家臣も寝返りさせることに成功しました。
久政が籠る小丸が秀吉軍に包囲されると、8月27日久政は自刃、さらに長政が籠る本丸と小丸が完全に分断されてしまいました。
本丸下の大堀切跡の説明をしている様子です。
大堀切跡の下が赤尾清綱屋敷跡です。
赤尾清綱屋敷跡/浅井長政自刃の地
長政に付き従う家臣は赤尾清綱ら5~6人になっていました。
長政はお市の方と3人の娘を、姉のいる実宰院(じっさいいん)に逃すと、本丸下にある赤尾清綱屋敷に入り、9月1日29歳の若さで自刃しました。
長政には長男・万福丸と次男・万寿丸がいましたが、万福丸は捕えられ関ヶ原で磔刑に、幼かった万寿丸は寺に入れられたと伝えられています。
一方で、長政には側室・八重がおり、小谷城を脱出したその子七郎とその子孫は、現在の愛知県春日井市で大正時代まで居住していたという新説もあります。
横山城跡/石田山公園
長浜市と米原市との境界線にある横山城跡は、永禄4年(1561)に南近江の六角氏と対立していた浅井長政が、六角氏に対する防衛拠点として築城させた山城でした。
元亀元年(1573)の姉川の戦いで、織田軍に落ちると、木下秀吉が城番として常駐し、小谷城の監視役を務めました。
石田山公園内の横山城跡に登ってみることにしました。
横山城跡
標高312mの山頂です。小谷城跡からおよそ10km離れていますが、伊吹山が近く、綺麗な夏の伊吹山系を間近に見ることができます。
小谷城方面です。
横山城跡の麓は旧石田村、現在は長浜市石田町といい、石田三成の出生地でした。横山城城番時代の秀吉は、この近くの観音寺という寺で小姓をしていた三成と出会い、家臣として取り立てたという有名な逸話が残っています。
石田三成邸跡
偶然通りかかったところが、ここ石田三成邸跡でした。
三成の父、正継は浅井長政の家臣で、石田村の地侍でした。
このあたりに広大な屋敷を持っていたそうです。
屋敷跡石碑のちょうど対面にあった酒屋さんです。 このあたりは全部石田三成ブランドかもしれません。
伊吹山
滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山です。岐阜県側より、滋賀県側から見る伊吹山のほうが綺麗に見えます。伊吹山ドライブウェイは、岐阜県側関ヶ原町から9合目まで通じています。
賤ヶ岳
奥琵琶湖にある賤ヶ岳(しずがたけ)は、琵琶湖と余呉湖を分ける標高421mの山で、琵琶湖国定公園に指定された湖北随一の景勝地です。
北陸自動車道木之本ICから1.5kmの位置にあります。
山頂まで徒歩でも行けますが、リフトで登ってみました。
リフトで6分、そこから300m徒歩で頂上に着きます。
手前が山本山、その向う左手が小谷山、右手が虎御前山です。いちばん後に見えるのが伊吹山です。
奥琵琶湖です。小さな島は竹生島です。この辺りの水深は琵琶湖でも最も深く、およそ100mあるそうです。
余呉湖です。天正11年(1583)4月、織田家の覇権をめぐって柴田勝家軍と羽柴秀吉軍が一戦を交えたところで有名です。
両軍膠着の中、羽柴軍は中川清秀が佐久間盛政によって討たれましたが、秀吉軍本隊が急遽、美濃大垣から駆けつけると、柴田軍は北の庄城へ敗走、勝家はお市の方とともに自刃して、戦いは秀吉の勝利に終りました。
直後、秀吉は大坂城を築城、天下取りの布石となった戦いでした。
帰りのリフトです。大人往復760円です。
大溝城跡
賤ヶ岳から国道161号線・湖西道路をおよそ30km南下した高島市にある大溝城跡です。
豊臣秀吉の側室1号は松の丸殿といい、父は京極高吉、母は浅井長政の姉・マリアでした。
元々、京極家は北近江の守護で浅井家の主筋でしたが、高吉の代に下克上で領地を失い没落していました。
松の丸殿の夫と弟・京極高次は山崎の戦いで明智光秀に味方しましたが、秀吉の側室に決まると、高次はその罪を許され、大溝城主として大名に復帰しました。
京極高次は小谷城京極丸で生まれましたが、しばらくは織田信長の支配下にいました。
そして、天正15年(1587)には秀吉の計らいで、長政の次女・初を娶りました。
2人はいとこ同士の間柄でした。
京極家はこの後、明治まで大名家として存続しました。
夏休みで三重県に帰省し、お隣の滋賀県湖北地方をドライブしてきました。琵琶湖周辺は京都に近いことから多くの戦国期の名城がありますが、今回は浅井家にゆかりの小谷城、横山城、大溝城を対象にしました。
どの城も天守や櫓など建造物はありませんが、とくに小谷城は地元密着のガイドさんの説明がとてもよく、楽しい城めぐりでした。
また、初めて訪れた賤ヶ岳も琵琶湖八景といわれるだけの景勝地でした。
滋賀県は地元千葉からは遠く、また冬季は積雪があり、すぐに行ける地域ではありませんが、機会をみてまた今回未訪問の名城を見てみたいと考えています。