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Cyber Xのブログ一覧

2011年12月30日 イイね!

2011年紀行Ⅲ <小谷城跡、長浜城、伊勢上野城跡、本能寺跡、坂本城址公園、安土城跡、淀城跡、石垣山一夜城跡、関ヶ原古戦場/笹尾山石田三成陣跡他>  

2011年紀行Ⅲ <小谷城跡、長浜城、伊勢上野城跡、本能寺跡、坂本城址公園、安土城跡、淀城跡、石垣山一夜城跡、関ヶ原古戦場/笹尾山石田三成陣跡他>  2011年大河ドラマ「江~姫たちの戦国~紀行」で紹介された城と史跡を中心にブログにしてみました。冬休みで中学生や高校生のひと達も日本史がわかるよう、できるかぎり年代順に並べてみました。





小谷城跡
小谷城は天正元年(1573)9月1日、浅井長政が自刃したことにより落城しました。織豊時代を描いた小説やドラマ・映画では必ず登場する日本を代表する山城です。


長浜城/豊公園
羽柴秀吉は織田信長より小谷城を与えられましたが、今浜といわれた土地に新城を築城し、信長の一字を取って長浜と改名しました。長浜城は琵琶湖畔に建つ模擬天守で、「さくら名所百選」に選定された名勝です。また、長浜市街には戦国時代の遺構が所々に残っています。


伊勢上野城跡
お市の方と三姉妹が天正元年から約6年間移り住んだといわれる伊勢上野城跡です。信長の弟、信包(のぶかね)が城主となっていました。


本能寺跡
天正10年(1582)6月2日早暁、明智光秀は大軍をもって織田信長が寄宿する本能寺を囲み、信長を自刃に追い込みました。この「本能寺の変」が、その後の歴史を変える大きな転換点となりました。
「敵は本能寺にあり!」、光秀は主君信長を討ちましたが、縁戚であった細川藤孝らは味方につかず、6月13日羽柴秀吉らとの山崎の戦いで敗れ、坂本城に敗走途中、京都小栗栖の竹やぶで落武者狩りの百姓に刺し殺されてしまいした。今は老人ホームが建っています。


坂本城址公園
大津市街から国道161号を北上すると、下阪本の琵琶湖畔にある公園です。坂本城はこれより100mほど北に立地していました。


坂本城二ノ丸跡
イエズス会宣教師ルイス・フロイスはその著書「日本史」の中で、「明智光秀は近江国の大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と書いています。
残念ながら、遺構はほとんんど残っていません。その後の大津城築城で取り壊されてしまいました。


安土城跡
安土城は本能寺の変後、天主を焼失しましたが、しばらく存続しました。近江八幡城が築城されると廃城になったと伝えられています。


淀城跡/妙教寺
淀城は豊臣秀吉が茶々の産所として天正17年(1589)に築城させた城でした。淀城は木津川、桂川、宇治川が合流する天然の要害で、古くから商業地として栄えた京都淀の納所(のうそ)にありました。
豊臣秀次が失脚すると、淀城も取り壊されました。 この頃から、茶々は淀殿と呼ばれるようになりました。


石垣山一夜城跡
天正18年(1590)4月、豊臣秀吉は15万の大軍で北条氏政、氏直が籠城する小田原城をとり囲みました。その時、陣を敷いたのがここ石垣山でした。近江穴太衆による野面積みの石垣工法で、約80日間の時間を費やし出城を築城しました。城ができるまでの間、秀吉は大坂城から淀殿を呼び寄せ、千利休を招き、盛大な茶会を催していました。
石垣山城が完成すると、秀吉は直ちに山の樹木を伐採させました。一夜で眼前に出現した城を見るにつけ、北条氏直は激しい衝撃を受け、小田原城を開城しました。


一条戻り橋
信長時代から茶湯の師匠・千利休は、茶湯を通して長く大名らとの親交を深めていきましたが、秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉との仲が次第に険悪なものに変わっていきました。
京都大徳寺の三門に、利休は自身の木造を飾るなど、秀吉の逆鱗に触る行いがあったと伝えられています。
天正19年(1591)、秀吉より切腹を命じられた利休は、京都聚楽第内の屋敷で自刃し、首はここ一条戻り橋で晒されました。
現在の一条戻り橋は平成になって架け替えられたものです。


高瀬川
高瀬川は鴨川西岸を流れる川で、三条から四条にかけて高瀬川周辺は京都の歓楽街として発展してきました。慶長16年(1611)に幕府の命で、京都の豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)が開削した人工の河川でした。


瑞泉寺
角倉了以が高瀬川を開削中に発掘されたのが、「畜生塚」と刻印された石碑でした。
文禄4年(1591)7月、関白豊臣秀次が高野山で切腹すると、翌8月には秀吉の命で、秀次の妻子や侍女ら総勢39名が、三条橋で次々と処刑されました。遺骸は即座に埋められ、「畜生塚」と名付けられました。
角倉了以は秀次ら一族の菩提を弔うため、秀次の法号「瑞泉寺殿」からこの塚跡に瑞泉寺を建立しました。
側室で処刑された者の中には、遠く山形から出てきて間もない最上家の娘も含まれていました。
この「秀次事件」と、二度の朝鮮出兵が秀吉死後、急速に豊臣家の求心力を失わせた秀吉晩年の失政といわれています。


豊臣秀次の墓
豊臣秀次は秀吉の姉ともの長男で、淀殿と秀吉の第一子・鶴松が夭折すると、跡継ぎがいなかった秀吉は関白職を甥の秀次に譲りましたが、文禄2年(1593)に秀頼が生まれると、次第に疎んじるようになり、遂には秀次一族と家臣ともども抹殺してしまいました。
それとともに秀次の政庁であった聚楽第や淀城もすべて跡形もなく破却してしまいました。


聚楽第跡
秀吉が京都の朝廷との結びつきを固めるため、京都市中に建てた平城でした。近年、多数の瓦などが発掘されています。
 

三条大橋


伏見桃山城




勝竜寺城公園/細川忠興・ガラシャ像


越中井/大坂玉造細川邸跡
現在の大阪市・法円坂にあたるこの地に細川越中守忠興の屋敷がありました。この越中井は細川邸の台所部分にあたる井戸でした。
慶長5年(1600)7月、関ヶ原の戦いの2ヶ月前、徳川家康の会津征伐で当主忠興が留守のとき悲劇が起りました。徳川家康と対立した石田三成は大坂城で挙兵し、諸大名を自分の味方に付けるため奥方を人質にしようと企て、ここ玉造の細川邸を軍勢で囲みました。
忠興の正室ガラシャは人質となっては夫・忠興の足手まといとなると判断し、キリシタンは自害が禁じられていたため家老の小笠原少斎に槍で胸を貫かせて亡くなりました。


江~姫たちの戦国~ 第34話「姫の十字架」より








大津城跡
石田三成ら西軍は細川ガラシャの人質工作に失敗すると、徳川家康の東軍に付き従った大名の伏見城、田辺城、津城等に総攻撃をかけました。
大津城は京極高次が守備を固めていましたが、9月7日に総攻撃を受け、9月15日降伏し開城しました。
京阪浜大津駅辺りに天守をもつ城郭がありました。



関ヶ原古戦場/笹尾山石田三成陣跡
大津城開城の当日、9月15日美濃関ヶ原で石田三成ら西軍と、徳川家康を総大将とする東軍合せて15万の大軍が激突しました。天下分け目の戦いは、西軍小早川秀秋らの寝返りと、南宮山に陣を張った吉川広家らの不参戦で、わずか一日で決着がつき、勝った徳川家康が名実ともに天下を治める日本史上、大きな転換点となった戦いとなりました。



関ヶ原の戦いの後、豊臣家は徳川家康より摂津・河内・和泉65万石の一大名の地位に落され、一方で家康の石高は合戦前の255万石から佐渡金山や生野銀山などを含め、400万石へと大きく飛躍しました。
慶長8年(1603)には、征夷大将軍となり江戸に幕府を開くと、2年後に秀忠に将軍職を譲り、大御所として全国の大名を従えるようになりました。

二条城
慶長16年(1611)3月28日、京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見が初めて行われました。
この会見で家康は豊臣家を滅ぼすことを決意したといわれていますが、一説には秀頼は身長が1m90cmの大男で、大きな米俵を持ち上げられる人並みはずれた怪力の持ち主だったとも伝えられています。


方広寺大仏殿跡
豊臣秀吉は関白に就任すると、奈良東大寺の大仏に倣って、京都にも大仏建立の工事を開始しました。一旦、大仏殿は完成しましたが、慶長大地震で倒壊すると、間もなくこの世を去ってしまいました。
秀頼がこれを継承し、遂に慶長17年(1612)大仏を方広寺に完成させました。
寛政10年(1798)に落雷により炎上するまで「京の大仏つぁん」としてひとびとに親しまれました。


方広寺鐘銘事件
慶長19年(1614)4月、方広寺の鐘が完成すると、7月家康は本多正純を通して、鐘の銘文に不吉な文字があるとクレームを付け、大仏殿開眼供養を延期させる通告を行いました。
「国家安康」「君臣豊楽」という銘文に対して、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家に対する呪詛が込められていると断定し、大坂冬の陣の口実としました。





江~姫たちの戦国~ 第43話「淀、散る!」より
慶長19年(1614)11月、大坂冬の陣が始まり、難攻不落の大坂城を落すことは不可能と考えていた家康は、大筒を打ち込み、恐怖に慄いた淀殿に和議を結ばせるよう工作。
豊臣方は妹・常高院の協力で冬の陣は休戦となりましたが、堀をすべて埋められ、天守閣が裸城となったことは周知の事実です。
翌慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣が再び起き、大坂城は炎上。秀頼と淀殿ら豊臣方は山里曲輪に逃れましたが、徳川方の攻撃にさらされ、遂に自刃。逃走していた秀頼の嫡男・国松は処刑され、豊臣家は滅亡したのでした。
翌元和2年(1616)、駿府で家康はこの世を去りましたが、その後260年もの長きにわたり徳川幕府の治世が続くことになりました。














Posted at 2011/12/30 02:11:40 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年12月27日 イイね!

2011年紀行Ⅱ < 駿府城跡、久能山東照宮 >

2011年紀行Ⅱ < 駿府城跡、久能山東照宮 >今年3月、静岡市の駿府城跡と久能山東照宮へ行ったときのものをブログにアップしてみました。
駿府城は徳川家康が最晩年をここで過し、亡くなったお城で、久能山東照宮はその家康を祀った神社で、境内には家康のお墓がある静岡市屈指の史跡です。

駿府には14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏の今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていました。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の北条氏と同盟を結び領国支配を行っていましたが、16世紀には甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され、城館は失われました。
ところが、武田氏は天正10年(1582)に織田・徳川勢力により滅亡し、甲斐・駿河の武田遺領は三河の徳川家康が領有することになりました。

駿府城跡
天正18年(1590)には、豊臣秀吉により相模国北条氏が滅亡すると、関八州の土地は家康に与えられ、駿府城からまだ未開の江戸屋敷に国替えを命じられたのでした。
替わって駿府城には、江戸と京都を結ぶ東海道の要衝であるこの地に豊臣系大名の中村一氏が入りました。


四足御門
駿府城南辺の西寄りの箇所に設けられた出入口で、東側の大手御門と並び、東海道筋から城へ入る重要な出入口のひとつでした。


駿府城二ノ丸
駿府城は駿府公園とも呼ばれ、東京ドームひとつがゆうに入るとても大きな公園です。二ノ丸内部から見えるのは、復元建築された「巽櫓」と「東御門」です。


巽櫓
城の南東部分にあたる巽櫓です。平成元年に復元されました。


東御門(高麗門)
東御門の高麗門です。東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。
この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南西の多聞櫓で構成される枡形門です。
江戸城や大阪城でも見られる二重門で、外側の門にあたります。


東御門(櫓門)
高麗門をくぐると、右手に櫓門があります。万一敵に攻められたときに、通路を直角(枡形)にし、一気に攻められないように工夫してあります。櫓門前で足止めさせ、櫓門から弓矢や槍で攻撃できるように造ってあります。


清水御門跡
二ノ丸へ入る西側の出入口です。ここも東御門同様、二重門になっていましたが、現在は内側の櫓門が取り除かれ、外側の高麗門だけが残されています。


北御門・馬場先御門跡
城の北側から二ノ丸への出入口がここにありました。ここもやはり二重門で守りを固めていました。


紅葉山庭園
駿府公園の北東隅に造られた庭園です。入園したかったのですが、当日貸切で入れませんでした。


本丸堀
本丸堀は駿府城の三重堀の一番内側の堀でした。明治29年(1896)に埋められてしまいましたが、発掘調査により南東部分が現れました。


本丸御殿跡
慶長10年(1605)、初代江戸幕府将軍であった徳川家康は、息子秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居しました。駿府城に再び戻った家康は、「天下普請」により諸大名に命じて大修築させ、ほぼ現在の形である三重堀をもつ平城を完成させました。
本丸跡にはとても大きな徳川家康の像が建立されています。鷹狩りが好きだった家康を模しています。


駿府城天守閣跡
駿府城には大御所徳川家康の居城に相応しく、五層七階の天守閣がありました。家康在城時に火事で焼け、直ちに立て直されましたが、寛永12年(1635)に再び火災を起こし、以後再建されることはありませんでした。また、天守台や石垣は残っていましたが、明治29年(1896)に埋められてしまいました。
私はよく友人とも話すのですが、仮に模擬天守であっても、あるのとないのとでは全然違い、大阪城や名古屋城も天守閣を造って多くのひとが見に来るように、駿府城や江戸城にも是非とも天守閣を造ってもらいたいと、この駿府城跡を見て改めて実感しました。


家康公の散歩道
城の南東、巽櫓の前、「家康公の散歩道」です。


中堀と石垣
本丸と二ノ丸の間には、中堀があります。この中堀と一番外側の外堀の中間が三ノ丸と呼ばれていたところで、現在は静岡県庁、静岡税務署、静岡地方裁判所や小学校など公立の役所や学校が建ち並んでいます。





久能山東照宮
徳川家康は、大坂夏の陣の翌元和2年(1616)4月17日に駿府城で亡くなりました。
生前家康は徳川家が存続するには、江戸幕府征夷大将軍というだけではひとびとの崇拝を得られない、自らが神になることで徳川家の治世を存続させなければならないと考えていました。余命いくばくもなくなった家康は遺言で、「遺骸は久能山に埋葬すること。一周忌を経たのち、日光へ改葬すること」と家臣たちに告げました。
遺骸は息子秀忠によって直ちに久能山に埋葬され、久能山に家康を祀る神社を創建することを命じました。こうして完成したのが、久能山東照宮でした。
平成22年には、国宝に指定されました。

一ノ門
参道を徒歩で909段の階段を登ると、ここ一ノ門に着きます。駿河湾といちご畑が綺麗に見渡せます。


楼門
この門をくぐって東照宮詣でが始まります。二階部分には後水尾天皇の宸筆(天皇陛下御自ら書かれた書)である「東照大権現」の扁額が掲げてあり、勅額御門とも言われています。


五重塔跡
三代将軍家光の命により建立された五重塔が明治時代まで設置されていました。江戸時代に作成された地図などには久能山のシンボルとして描かれることが多く、30mを超える技術的・芸術的にも優れた塔と伝わっていますが、神仏分離令を受けて明治6年(1873)に取払われ、現在は礎石が残されています。


社殿


神廟
徳川家康の遺骸が埋葬された場所に立つ廟です。当初、この地には小さな祠が建てられていましたが、家光によって高さ5.5m、まわり8mの石塔が建てられ、現在に至っています。家康の遺命に従い、西向きに建てられています。
西向きに建てられた理由はあり、関ヶ原の戦いで西軍についた薩摩・島津家を唯一処分できなかったことを最期まで悔やんだ家康の遺言でした。
家康の危惧は当たり、250年後その薩摩藩島津家を中心とした倒幕派によって徳川幕府は幕を降ろすことになりました。
最後に、この「神廟」と、日光東照宮に一年後に建てられた家康の墓所「奥社宝塔」は、真ん中に富士山を挟んで、地図上に一直線でつながっているそうです(歴史秘話ヒストリアより)。 家康は江戸時代を通して、まさしく「神」になったのでした。
Posted at 2011/12/27 01:00:14 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年12月23日 イイね!

2011年紀行 <明智神社/細川ガラシャ生誕の地、北ノ庄城跡/柴田神社、北ノ庄西光寺、丸岡城、金ヶ崎城跡、小浜城跡、常高寺、田辺城、細川ガラシャ隠棲地/味土野女城跡 >

2011年紀行 <明智神社/細川ガラシャ生誕の地、北ノ庄城跡/柴田神社、北ノ庄西光寺、丸岡城、金ヶ崎城跡、小浜城跡、常高寺、田辺城、細川ガラシャ隠棲地/味土野女城跡 >今年の夏に何年かぶりに、福井に行ってきました。梅雨明けの猛暑日で、とても暑い日でした。大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」ゆかりの史跡を見てきました。中にはドラマの最後「紀行」で紹介されたところもありました。夏の追憶をブログにUPしてみました。




明智神社/細川ガラシャ生誕の地
明智光秀が織田信長に仕える前は、越前国守護一乗谷の朝倉義景に仕えていました。現在の福井市東大味のここ明智神社には光秀の屋敷がありました。
天正3年(1575)、織田信長の命を受けた柴田勝家軍は越前一向一揆の掃討作戦を開始しました。府中(武生)を中心に家々を焼払いましたが、光秀ははかつて家族と親しく過ごし、浪人となった光秀を快く迎え入れてくれた民を守るため、柴田勝家・勝定兄弟に東大味地区を守らせる安堵状を出させることによって、戦禍になることを事前に阻止しました。
本能寺の変で逆臣となった光秀でしたが、当時の明智屋敷跡に住む三件の農家のひとたちが、430年もの間代々ここに祀られた光秀の秘仏(高さ13cmの木像)を秘かに守り続けてきたのがここ明智神社です。
この脇に畳一畳ほどの大きさの歴史資料館があり、農家の末裔の方のお話を直接聞きたかったのですが、夕方5時をまわっており、残念ながら聞くことはできませんでした。

また、ここは光秀の三女で細川家に輿入れした明智たま、のちの細川ガラシャが生まれた場所でもありました。




北ノ庄城跡/柴田神社
北ノ庄城は天正3年(1575)、越前一向一揆を平定した柴田勝家が信長から49万石を与えられ築城した天守をもつお城でした。しかし、天正11年(1583)、勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れると、北ノ庄城に火を放ち、妻・お市の方とともに自害しました。
明治23年(1890)、旧福井藩主松平春嶽らの発意により小祠のある場所に神社が作られ、「柴田神社」が創建されました。
 以前訪れたときより整備され、とても綺麗な公園でした。


柴田勝家、お市の方と三姉妹(茶々・初・江)の像


北ノ庄城石垣
北ノ庄城石垣の遺構です。のちに越前福井城主となった徳川家康次男・結城秀康が福井城築城に際し取り除かれ、石垣の根石のみが残った状態であるようです。


北ノ庄西光寺
北ノ庄城跡から車で10分ほど足羽山(あすわやま)の麓にある西光寺といい、柴田勝家の菩提寺です。境内には勝家とお市の方の墓があります。毎年4月24日の命日に全国から柴田家の末裔が集まり、現在でも法要がとり行われているそうです。


柴田勝家とお市の墓


北ノ庄城礎石
この礎石は明治7年(1874)に発掘調査をした際、出土したものです。


丸岡城
丸岡城は別名霞ヶ城とも呼ばれ、天正4年(1576)越前国を領していた柴田勝家の甥である柴田勝豊により築城されました。天守は現存天守といい、江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されている日本に12基しか残っていない「現存12天守」のひとつです。
昭和23年(1948)、福井地震のため天守が崩壊しましたが、昭和30年(1955)、再建されました(旧国宝)。


天守閣
外は30℃を超える気温でしたが、天守閣の中は意外やとても涼しく、これならエアコンは要りません。


金ヶ崎城跡
元亀元年(1570)4月に、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、お市の方の嫁ぎ先であった浅井長政が裏切り、朝倉氏に味方するとの報告が入ったため、信長は朝倉義景と浅井長政に挟み討ちにされました。信長は京都へ急遽退却し、この時金ヶ崎城に残り殿軍を務めてこの難関を救ったのが、のちの豊臣秀吉と伝えられています。


金崎宮


小浜城跡
慶長5年(1600)9月15日、石田三成方1万5千の軍に攻撃され開城した大津城主京極高次は、同日起きた関ヶ原の戦いで西軍の大軍を瀬田の唐橋で足止めさせた功績を家康に認められ、若狭小浜8万5千石に加増、国替えされました。
高次ははじめ、後瀬山城(のちせやまじょう)に入城しましたが、海岸沿いに新城を建築することにしました。息子忠高の代になって、京極家は小浜城の完成を見ずに出雲松江に国替えとなりました。
その後、小浜に入った酒井家により小浜城は完成しましたが、明治4年(1871)出火により焼失してしまいました。
天守閣跡からは小浜湾と後瀬山が綺麗に見渡せます。


常高寺
常高寺は京極高次正室・常高院の願いによって建立された寺院です。常高院は寛永10年(1633)、江戸にて没し、その遺骸は後瀬山麓にあるここ常高寺の境内地に葬られました。


本堂
近年になって再建された常高寺本堂です。中へは入りませんでしたが、お初の方・常高院の肖像画はここで保管されています。


常高院の墓
お市の方次女・初は慶長14年(1609)、夫・高次が亡くなると剃髪・出家して常高院と号しました。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣では徳川家康側室阿茶局とともに和議を取りまとめ両家の和議に尽力しました。
寛永10年(1633)、京極忠高の江戸屋敷(現・東京都港区虎ノ門)で死去しましたが、遺言で「もし、将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に、留めおいて下さい」と遺言に残したため、常高院没後の翌寛永11年(1634)、京極氏は出雲松江藩に国替えされた時も、常高院の墓所である常高寺は若狭に残されました。以後、京極家が出雲、播磨、讃岐へと国替えになっても、その庇護を受け続けました。
大名級の高さ4mもある宝塔です。周りの小さなお墓は次女たちのもので、常高院を次女たちが囲み、会食をしている様を表したものです。。
大阪市太融寺にある淀殿もそうですが、とても多くのひとたちがこの常高院のお墓を訪れていました。しかも、女性の多さが目立ちました。


田辺城
京都府舞鶴市の田辺城(復元)です。天正6年(1578)、織田信長の命によって守護大名の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧した細川藤孝がこの地を与えられ築城しました。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起ると、藤孝嫡男・当主忠興は石田三成率いる西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢しました。 隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城しました。
田辺城はすぐさま、石田三成の西軍・1万5千もの大軍で包囲されると、50日にも及ぶ長期戦となりました(田辺城の戦い)。
激闘の末、弾薬が尽きた藤孝は自身のもつ「古今伝授の書」が戦火で忘却されるのを恐れ、それを後陽成天皇に献上しました。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられました。


細川ガラシャ隠棲地/味土野女城跡
田辺城のある宮津市から車で約1時間、丹後半島のほぼ中央にある味土野女城跡(みどのおなじろあと)です。
天正10年(1582)、明智光秀が本能寺の変で主君織田信長を討つと、光秀の娘・細川たまは逆臣の娘というレッテルを貼られ、夫・細川忠興は累が及ぶのを恐れ、次女らを伴い山奥のここ味土野の地に約2年間たまを幽閉しました。
そのとき、たまが詠んだといわれる句です。

身を隠す 里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼小鳥啼く
(野間の吉野は、奈良の吉野に比せられるほどの桜の名所なのに、その更に山奥に住む私は 花をめでる事もなく小鳥の鳴き声を聞いています。)

昭和初期までここ「味土野」は一体どこにあるのか場所が特定できていませんでした。理由は当時の文献には、たまの幽閉地が「三戸野」と書かれていたためでした。昭和10年(1935)に上智大学教授へルマン・ホイヴェルス氏と東京女子師範学校長の下村寿一氏らが、それまで候補地として考えられていた京丹波町(京都府船井郡京丹波町水戸) を含めた京都府北部を調査し、地形・遺跡・地元の言い伝えなどから京都府与謝郡野間村(現在の京丹後市弥栄町須川)の山中であることが確認されたのでした。 この碑は翌昭和11年(1936)に建てられたものです。
 

Merry Christmas!
Posted at 2011/12/23 23:00:01 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年12月18日 イイね!

元禄赤穂事件 <泉岳寺、江戸城松の大廊下跡、浅野内匠頭終焉の地、吉良邸跡>

元禄赤穂事件 <泉岳寺、江戸城松の大廊下跡、浅野内匠頭終焉の地、吉良邸跡>毎年12月14日は、東京都港区高輪の泉岳寺で「義士祭」がとり行われます。近所に住むひとの話によると、屋台がでて毎年多くのひとたちが泉岳寺に参拝するそうです。
泉岳寺は慶長17年(1612)に徳川家康が創建した曹洞宗の寺院で、寛永18年(1641)寛永の大火で焼失しましたが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建されました。




刃傷松の廊下事件
元禄14年(1701)3月14日午前10時頃、赤穂藩主で勅使饗応役であった浅野内匠頭長矩が江戸城内の松の大廊下で高家旗本の吉良上野介義央に斬りかかった事件です。
今から300年以上も前の出来事は、謎の部分が多いのですが、現代もなお多くの人達に感銘を与えています。

江戸城松の大廊下跡


浅野内匠頭長矩(1667-1701)
浅野内匠頭は事件当時、赤穂浅野家5万石の藩主で、この赤穂浅野家は、広島浅野家の傍流の一つで、元は豊臣秀吉の奉行として仕えた浅野長政の三男長重を祖とする家柄でした。長政の長男幸長は、石田三成と対立し、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に属した豊臣系大名でした。浅野内匠頭は長政から数えて五代目の嫡男でした。
しかし、刃傷松の廊下事件を引き起こしてしまい、浅野内匠頭は時の将軍徳川綱吉の裁定で即日切腹、赤穂藩もお家お取り潰しとなった事件でした。


浅野内匠頭終焉の地
現在の港区新橋4丁目付近にある説明板です。浅野内匠頭はここにあった田村右京太夫の屋敷に送られ自刃しました。


吉良上野介義央(1641-1702)
吉良上野介は、現在の愛知県吉良町を領地としており、朝廷の勅使の饗応を務める者たちの指南役をしていました。また、長男を米沢藩上杉家の跡継ぎとして、名家上杉家との縁戚関係をもった人物でした。
元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の大廊下で浅野内匠頭に突然脇差で斬りかけられた上野介は幸い命に別状はありませんでしたが、これが彼の運命を変える大きな出来事になってしまいました。
この事件の結果、邸宅を当時江戸中心部から離れた本所に移され、家督を息子に譲り隠居しましたが、翌元禄15年12月14日(15日未明)に大石内蔵助を始めとする赤穂浪士四十七士の討ち入りに遭い家臣たちともども斬り捨てられてしまいました。
忠臣蔵では悪役の上野介も、地元吉良町ではすこぶる評判がよいお殿様で、現在でもこの討ち入りを非難する声があるようです。しかし、史実的には上野介は領地を殆ど訪れた形跡がないことから、真相は不明のようです。


吉良邸跡
墨田区両国にある吉良邸跡(本所松坂公園)です。当時の吉良邸は広大な屋敷でしたが、一部が本所松坂公園として墨田区の管理のもと無料公開されています。


泉岳寺


史跡赤穂義士墓所

赤穂義士たちは討ち取った上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供し供養としました。
元禄16年(1703)2月4日、将軍綱吉の裁定により切腹した大石内蔵助らは直ちにこの墓に埋葬されました。

浅野内匠頭の墓
 

瑤泉院(浅野内匠頭夫人)の墓


大石内蔵助の墓


大石主税(内蔵助長男)の墓


四十七士の墓


天和3年(1683)に将軍徳川綱吉は武家諸法度のほぼ全条項を改訂しました。戦国時代の終焉から半世紀、幕府の政治は武断主義から文治主義へと転換されましたが、天和の改訂でも家康以来の第一条「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」が「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」と改訂されるなど、儒学(特に朱子学)を重んじる綱吉色のものに変わりました。
そこで綱吉を困らせたのが、赤穂四十七士の主君の仇討でした。彼らの行為はまさに武家諸法度の第一条「忠孝」にあたるものではないかという疑念が湧いたのです。討ち入りを許すのか、それとも処罰するのか大いに悩みました。
結局、主君の仇討を果たし、本懐を遂げた赤穂浪士に名誉の死、切腹を言い渡しました。

また、今回の事件とは直接の関係がない浪士の遺族も処分する裁定を下しましたが、宝永6年(1709)1月、63歳でこの世を去ると、遺族らの処分は取り消されることになりました。

この後、元禄赤穂事件は、庶民の知るところとなり、浪士を取りまとめた大石内蔵助の人気はうなぎ登りに上がり、その元夫人(離縁していた)で実家豊岡に租界していた、りくと三男・大三郎は浅野家の本家広島藩に仕官し、大石姓を名のることが許されました。


Posted at 2011/12/18 01:00:40 | コメント(5) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年12月11日 イイね!

東京モーターショー 2011 < 東京ビッグサイト >

東京モーターショー 2011  < 東京ビッグサイト >東京ビッグサイトで開催中の東京モーターショー2011を見てきました。
前回開催は幕張メッセでしたが、今回は東京・有明で開催されるということで、ドライブがてら「ショー」を楽しんできました。
今回のモーターショーは、来年春に発売が決まったトヨタ「86」とスバル「BRZ」を一度この目でみたいというのが一番の動機でした。



SUBARU BRZ
純白のBRZです。意外とコンパクトな印象です。新聞記事によると、スバルとトヨタの共同開発で、エンジンはスバル伝統の水平対向4気筒ボクサーエンジン、駆動方式はFR、排気量は2L、最高出力は200PSの性能だそうです。
真横からのフォルムを見ての感想は、やや古典的な、昔のトヨタ2000GTを少し彷彿とさせるリアガラスの造詣を思い浮かべました。乗員は2+2と割り切ったもので、前後のオーバーハングが短く、回頭性がよさそうなスポーツモデルらしいエクステリアであるという印象です。
 


AMG



BMW ALPINA B3 GT3
憧れのブランド「アルピナ」です。世界限定99台のフラッグシップモデルです。お値段は\13,000,000です。とくに目新しさはないのですが、一度「駆けぬける歓び」というものを体験してみたいですね。 エクステリアは2枚ドアより、4枚ドアが好きです。



TOYOTA 86
キャッチフレーズは「Re BORN」、「86」です。スバルとの共同開発車だそうです。ここのひとだかりはもの凄いものでした。私は結局4枚しか写真が撮れなかったのですが、待ち時間は約15分でした。後になればなるほど、30分、40分と待ち時間が増えていったようです。この混雑は、まるでラッシュ時の東京駅コンコースに匹敵すると感じました。
 
詳細はわかりませんが、「BRZ」と「86」は兄弟車というより、双子車?という印象でどこがどう違うのか、少なくともエクステリアを見ただけでは区別がつきませんでした。
BRZ

86



DAIHATSU ブース
「86」のすぐお隣、ダイハツブースです。ベースのきいたリズカミカルなサウンドで、クルマそっちのけで皆カメラ片手にコンパニオンさんに夢中でした。皆さん、スタイルがいいですね。


過去に幕張メッセのモーターショーも見たことがありますが、今回は何年かぶりの東京開催もあって、それはそれはひとひとひと・・・もの凄い数の人たちがここ東京ビッグサイト国際展示場に集まってきました。
スバル「BRZ」と、トヨタ「86」に焦点を当てましたが、メーカーサイドでは、ハイパワーよりも楽しいドライビングを追及したものだそうです。価格がどれくらいに設定されるのかわかりませんが、今の時代クルマに対する価値観が多様化しています。そんな時代に一石を投じたスバルとトヨタのコラボカーにエールを送りたい、そんな感想をもちました。
Posted at 2011/12/11 00:00:05 | コメント(4) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記

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