2011年大河ドラマ「江~姫たちの戦国~紀行」で紹介された城と史跡を中心にブログにしてみました。冬休みで中学生や高校生のひと達も日本史がわかるよう、できるかぎり年代順に並べてみました。
小谷城跡
小谷城は天正元年(1573)9月1日、浅井長政が自刃したことにより落城しました。織豊時代を描いた小説やドラマ・映画では必ず登場する日本を代表する山城です。
長浜城/豊公園
羽柴秀吉は織田信長より小谷城を与えられましたが、今浜といわれた土地に新城を築城し、信長の一字を取って長浜と改名しました。長浜城は琵琶湖畔に建つ模擬天守で、「さくら名所百選」に選定された名勝です。また、長浜市街には戦国時代の遺構が所々に残っています。
伊勢上野城跡
お市の方と三姉妹が天正元年から約6年間移り住んだといわれる伊勢上野城跡です。信長の弟、信包(のぶかね)が城主となっていました。
本能寺跡
天正10年(1582)6月2日早暁、明智光秀は大軍をもって織田信長が寄宿する本能寺を囲み、信長を自刃に追い込みました。この「本能寺の変」が、その後の歴史を変える大きな転換点となりました。
「敵は本能寺にあり!」、光秀は主君信長を討ちましたが、縁戚であった細川藤孝らは味方につかず、6月13日羽柴秀吉らとの山崎の戦いで敗れ、坂本城に敗走途中、京都小栗栖の竹やぶで落武者狩りの百姓に刺し殺されてしまいした。今は老人ホームが建っています。
坂本城址公園
大津市街から国道161号を北上すると、下阪本の琵琶湖畔にある公園です。坂本城はこれより100mほど北に立地していました。
坂本城二ノ丸跡
イエズス会宣教師ルイス・フロイスはその著書「日本史」の中で、「明智光秀は近江国の大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と書いています。
残念ながら、遺構はほとんんど残っていません。その後の大津城築城で取り壊されてしまいました。
安土城跡
安土城は本能寺の変後、天主を焼失しましたが、しばらく存続しました。近江八幡城が築城されると廃城になったと伝えられています。
淀城跡/妙教寺
淀城は豊臣秀吉が茶々の産所として天正17年(1589)に築城させた城でした。淀城は木津川、桂川、宇治川が合流する天然の要害で、古くから商業地として栄えた京都淀の納所(のうそ)にありました。
豊臣秀次が失脚すると、淀城も取り壊されました。 この頃から、茶々は淀殿と呼ばれるようになりました。
石垣山一夜城跡
天正18年(1590)4月、豊臣秀吉は15万の大軍で北条氏政、氏直が籠城する小田原城をとり囲みました。その時、陣を敷いたのがここ石垣山でした。近江穴太衆による野面積みの石垣工法で、約80日間の時間を費やし出城を築城しました。城ができるまでの間、秀吉は大坂城から淀殿を呼び寄せ、千利休を招き、盛大な茶会を催していました。
石垣山城が完成すると、秀吉は直ちに山の樹木を伐採させました。一夜で眼前に出現した城を見るにつけ、北条氏直は激しい衝撃を受け、小田原城を開城しました。
一条戻り橋
信長時代から茶湯の師匠・千利休は、茶湯を通して長く大名らとの親交を深めていきましたが、秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉との仲が次第に険悪なものに変わっていきました。
京都大徳寺の三門に、利休は自身の木造を飾るなど、秀吉の逆鱗に触る行いがあったと伝えられています。
天正19年(1591)、秀吉より切腹を命じられた利休は、京都聚楽第内の屋敷で自刃し、首はここ一条戻り橋で晒されました。
現在の一条戻り橋は平成になって架け替えられたものです。
高瀬川
高瀬川は鴨川西岸を流れる川で、三条から四条にかけて高瀬川周辺は京都の歓楽街として発展してきました。慶長16年(1611)に幕府の命で、京都の豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)が開削した人工の河川でした。
瑞泉寺
角倉了以が高瀬川を開削中に発掘されたのが、「畜生塚」と刻印された石碑でした。
文禄4年(1591)7月、関白豊臣秀次が高野山で切腹すると、翌8月には秀吉の命で、秀次の妻子や侍女ら総勢39名が、三条橋で次々と処刑されました。遺骸は即座に埋められ、「畜生塚」と名付けられました。
角倉了以は秀次ら一族の菩提を弔うため、秀次の法号「瑞泉寺殿」からこの塚跡に瑞泉寺を建立しました。
側室で処刑された者の中には、遠く山形から出てきて間もない最上家の娘も含まれていました。
この「秀次事件」と、二度の朝鮮出兵が秀吉死後、急速に豊臣家の求心力を失わせた秀吉晩年の失政といわれています。
豊臣秀次の墓
豊臣秀次は秀吉の姉ともの長男で、淀殿と秀吉の第一子・鶴松が夭折すると、跡継ぎがいなかった秀吉は関白職を甥の秀次に譲りましたが、文禄2年(1593)に秀頼が生まれると、次第に疎んじるようになり、遂には秀次一族と家臣ともども抹殺してしまいました。
それとともに秀次の政庁であった聚楽第や淀城もすべて跡形もなく破却してしまいました。
聚楽第跡
秀吉が京都の朝廷との結びつきを固めるため、京都市中に建てた平城でした。近年、多数の瓦などが発掘されています。
三条大橋
伏見桃山城
VIDEO
勝竜寺城公園/細川忠興・ガラシャ像
越中井/大坂玉造細川邸跡
現在の大阪市・法円坂にあたるこの地に細川越中守忠興の屋敷がありました。この越中井は細川邸の台所部分にあたる井戸でした。
慶長5年(1600)7月、関ヶ原の戦いの2ヶ月前、徳川家康の会津征伐で当主忠興が留守のとき悲劇が起りました。徳川家康と対立した石田三成は大坂城で挙兵し、諸大名を自分の味方に付けるため奥方を人質にしようと企て、ここ玉造の細川邸を軍勢で囲みました。
忠興の正室ガラシャは人質となっては夫・忠興の足手まといとなると判断し、キリシタンは自害が禁じられていたため家老の小笠原少斎に槍で胸を貫かせて亡くなりました。
江~姫たちの戦国~ 第34話「姫の十字架」より
VIDEO
大津城跡
石田三成ら西軍は細川ガラシャの人質工作に失敗すると、徳川家康の東軍に付き従った大名の伏見城、田辺城、津城等に総攻撃をかけました。
大津城は京極高次が守備を固めていましたが、9月7日に総攻撃を受け、9月15日降伏し開城しました。
京阪浜大津駅辺りに天守をもつ城郭がありました。
関ヶ原古戦場/笹尾山石田三成陣跡
大津城開城の当日、9月15日美濃関ヶ原で石田三成ら西軍と、徳川家康を総大将とする東軍合せて15万の大軍が激突しました。天下分け目の戦いは、西軍小早川秀秋らの寝返りと、南宮山に陣を張った吉川広家らの不参戦で、わずか一日で決着がつき、勝った徳川家康が名実ともに天下を治める日本史上、大きな転換点となった戦いとなりました。
関ヶ原の戦いの後、豊臣家は徳川家康より摂津・河内・和泉65万石の一大名の地位に落され、一方で家康の石高は合戦前の255万石から佐渡金山や生野銀山などを含め、400万石へと大きく飛躍しました。
慶長8年(1603)には、征夷大将軍となり江戸に幕府を開くと、2年後に秀忠に将軍職を譲り、大御所として全国の大名を従えるようになりました。
二条城
慶長16年(1611)3月28日、京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見が初めて行われました。
この会見で家康は豊臣家を滅ぼすことを決意したといわれていますが、一説には秀頼は身長が1m90cmの大男で、大きな米俵を持ち上げられる人並みはずれた怪力の持ち主だったとも伝えられています。
方広寺大仏殿跡
豊臣秀吉は関白に就任すると、奈良東大寺の大仏に倣って、京都にも大仏建立の工事を開始しました。一旦、大仏殿は完成しましたが、慶長大地震で倒壊すると、間もなくこの世を去ってしまいました。
秀頼がこれを継承し、遂に慶長17年(1612)大仏を方広寺に完成させました。
寛政10年(1798)に落雷により炎上するまで「京の大仏つぁん」としてひとびとに親しまれました。
方広寺鐘銘事件
慶長19年(1614)4月、方広寺の鐘が完成すると、7月家康は本多正純を通して、鐘の銘文に不吉な文字があるとクレームを付け、大仏殿開眼供養を延期させる通告を行いました。
「国家安康」「君臣豊楽」という銘文に対して、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家に対する呪詛が込められていると断定し、大坂冬の陣の口実としました。
VIDEO
江~姫たちの戦国~ 第43話「淀、散る!」より
慶長19年(1614)11月、大坂冬の陣が始まり、難攻不落の大坂城を落すことは不可能と考えていた家康は、大筒を打ち込み、恐怖に慄いた淀殿に和議を結ばせるよう工作。
豊臣方は妹・常高院の協力で冬の陣は休戦となりましたが、堀をすべて埋められ、天守閣が裸城となったことは周知の事実です。
翌慶長20年(1615)4月、大坂夏の陣が再び起き、大坂城は炎上。秀頼と淀殿ら豊臣方は山里曲輪に逃れましたが、徳川方の攻撃にさらされ、遂に自刃。逃走していた秀頼の嫡男・国松は処刑され、豊臣家は滅亡したのでした。
翌元和2年(1616)、駿府で家康はこの世を去りましたが、その後260年もの長きにわたり徳川幕府の治世が続くことになりました。