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2025年01月26日 イイね!

[ショート8]震災

[ショート8]震災
身バレしそうな部分を含んでいますが、現在の勤務地とは違うところで勤めており、守秘義務を負う内容(事業所名・個人名など)を排除した上で以下に掲載します。

地震・雷・家事・親父とは昔から言うが、オヤジは別としても、まさか自分がこれらをフルコンプしてしまうとは想像していませんでした。

2011(平成23)年3月11日は金曜日でした。
その日のことは以下のブログに記載していました。

https://minkara.carview.co.jp/userid/112223/blog/21775360/

https://minkara.carview.co.jp/userid/112223/blog/21777743/

https://minkara.carview.co.jp/userid/112223/blog/21779698/

https://minkara.carview.co.jp/userid/112223/blog/21780309/

ざっくばらんに言うと、私は教員です(今は別な勤務校にいます)。

もっと細かく言うと、この日は学年末考査の最終日で、昼前にテストが終わり、昼食を挟んで部活が再開されていました。
部活のない者は帰宅したり「テスト打ち上げ」と称し、食事やカラオケ、街歩きなど思い思いのテスト明けのひとときを過ごしていたと思います。

私は昼食を掻き込んだ後、吹奏楽部の夏のコンクール自由曲候補として、オットリーノ・レスピーギの『シバの女王ベルキス』第四楽章をコピーしていました。

いきなり強い揺れが来て、尋常でない揺れ。
印刷室から職員室側を見ると、蛍光灯が天井から外れてあり得ないリズムで揺れているのが見えました。
「天井からものが落ちてきたらその施設は危ない」と何かの本で読んだのを思い出したが仕方ない。

最初の揺れが収まるような気がしたら二度目の大きな揺れ。
走って職員室から廊下に飛び出す時間的余裕はなく、印刷の手伝いに来ていたライブラリ係部員を机の下に放り込み、隣の休憩室を見ると、当時の同僚が腰を抜かしていました。腰が抜ける人ってこんな感じなんだ、と冷静であったことを記憶しています。

激しく揺れる中で窓際まで行き、同僚に声をかけながら窓を開けると、その同僚が上半身の力をつかって外に飛び出そうとする(腰は抜けたまま)ので、落ち着くよう促しながら外を見ると、裏の民家の瓦が土煙をあげながら落ち、電柱がもやしのように揺れていました。

この時、何となく頭は冷静だったのを覚えています。

「揺れの波と丁度反対の波=逆位相で揺れることができれば波を打ち消せんじゃね?」
とか、
「こんなことでは死なないぞ。来るなら来てみろ!」
と激しい揺れの中でもあっちにこっちにと動きながら考えていました。

二度目の長い揺れが収まりかけた時、三度目の大きな揺れ。
正直「来るなら来てみろ!とか思ったからかな?」と反省。もう最初の揺れから1分以上揺れていた。
「いやいやいやいや死なない。大丈夫だ」と、根拠のない自信を持ちながら、揺れが収まるのをひたすら待ちました。

揺れが収まり、机の下の部員に声をかけ、「全員校庭に出るよう声がけしてほしい」と言いながら、自分も部員も階段で4Fへ。

アンサンブル室のライブラリは棚から楽譜が落ちて散乱し、足の踏み場がなく、音楽室はヤマハのグランドピアノが2m以上動いて、置いてあったロータリーチューバをなぎ倒している有様(直すのに17万円くらいかかった)。

音楽室には数名の金管パート部員しかおらず、先のライブラリ部員に校庭へ出るよう再度お願いして一般教室へ。
いくつかの木管パート部員が楽器を持ったまま右往左往していた(本当にウロウロしていた。なんで早く逃げないのか不思議だった)ので、校庭に出るよう叫びながら各教室を周り、ケガ人や逃げ遅れがいないか声をかけて西の階段から校庭へ。

余震が幾度となくあったものの慣れてきた。少しローリングしながら揺れているように感じられたのが印象的でした。

校庭は寒く、吹きっさらしのところで部員全員の所在を確認。あまり姿が見えなかった金管・打楽器パートは総じて逃げ足が早く、先に校庭に揃っていました。

「荷物をとって来たい」「楽器をしまいたい」などの要望が出たので、いまならできると言う判断で、

「10分後にここに再集合。自分の荷物を取り、楽器はケースに入れて音楽室のフロアに置き、それ以外は放置。パート毎の声がけをしながら移動。決して一人にならず、片付けはしないこと」

と言って一旦解散。

10分かからずに全員が荷物を持参して点呼は終了。とりあえず、ここまでは何とかなったー。

雪もちらつき寒くなってきたので、当時竣工間もない校舎に、とりあえず入る話になったが、なかなか移動しない。
当時の携帯電話についていたワンセグでテレビをみると、大津波警報が画面に出て、宮城県の沿岸部と思しき映像が飛び込んできた。

校庭に面した教室に部員全員で入る方向で話が進み、当時の副校長や教頭から

•徒歩、自転車圏内の生徒は安全を確保しつつ下校してよし
•電車通学の者は学校に宿泊すべし
•市内、職員の通勤途上の地域に住む生徒は、職員の車に同乗して帰宅可
•それ以外の生徒は学校待機

という判断があった。そこからの内容は当時のブログの通り。

震災前後は私がホンダインサイトZE2、家内がスーチャ付きスバルR2タイプSのAWD(ABA-RC2)に乗っていて、私はインサイトで通勤し、近くのビル(アゼリアヒルズ)に勤める家内を朝送り、帰りに待ち合わせして乗り合わせで帰宅していたのでした。

そうこうしているうちに家内が校庭に見え、3人の生徒を乗せて車で帰ることに。
この内容も当時のブログを参照ください。

当時小学校2年だった長男、1年だった長女を小学校で迎えて帰宅し、アラジンの石油ストーブで暖をとりながら調理をし、余震が続く中で夕飯。
とりあえず4人全員無事なのが何よりだったが、21頃にガソリンのあるR2で学校に戻ることに。

信号も街灯も消え、真っ暗なR48西道路は、車通りも少なく、西道路の青葉山TNは真っ暗ではあるが通れる印象だったので突入。
なんなく通過して川内TNから市街地に入ると、放置された車、ビルの割れたガラス、トボトボと歩く人数人...まるで世紀末のような街中。

X橋手前を左折し、ショートカットしてR45に。
東六番丁小学校のところで左折して宮町通りに入ろうとすると、小学校にたくさんの人が詰めかけているのを発見。
多分、駅近くの人が「小学校に行けば何とかなるんじゃね?」と思って詰めかけているのだろうと思われました。

ここからのこともまた、当時のブログをぜひ。とにかく、これで地震・雷・火事・親父コンプリート♪

避難所の様子も、何となくわかる。
夜半に黒電話で行政に電話すると、「避難所運営のための物資を渡せない」と言われ、震災の翌日には全員近隣の公立中学校に移ってもらった。
事前に災害時協力協定を結んで無かったからだろう。たとえ実質一晩のお世話だったとしても、今なおトラウマになっている。
しかしいまにして思えば、それも良かったのかもしれない。公立の先生たちはさぞ大変だったろうと…

『花は咲く』という歌がある。仙台向山高校-早稲田出身の、菅野よう子作詞作曲の、いわゆる"震災復興支援ソング"で、ずいぶん長期間流れた曲です。
『パプリカ』という、米津玄師作詞作曲の歌もあります。
どちらの歌も、聴くと涙腺が緩む。いまだに聴きたくないのです。まして吹奏楽で演奏するとかあり得ない・・・。

その理由は、震災の翌日の出来事によります。

3月12日(土)、未明の仙台は宮城県庁とNTTのビルだけが明るく、夜空がきれいに見え、皮肉だけれど、天の川も見えた美しい夜空でした。断続的な揺れの中で、寒い校庭に出てずっと見上げていました。

朝6時、多賀城・石巻方面の生徒を車で送ることになり、下ろす度に記録をつけながら車を走らせました。
多賀城で2名降ろし、松島の高城町のコープで2名降ろし、残るは1名。ほぼ石巻というあたりだというのでさらに東に。

途中、吉田川を渡った辺りで道に迷い、道が悪く、引き返して別のルートを探そうとしていた時に、全ての窓ガラスの抜けた軽自動車を発見。黒の初代ダイハツムーブだったと思います。

シートベルトをした女性が赤ん坊を抱えている。寒く、窓ガラスが全部ないのにあり得ない。
私は、後部座席の生徒に「伏せて見ないように」と言い、車から降りてぬかるみの中を軽自動車に近づきながら「奥さん」と声を掛けました。反応はありません。

さらに近づき、肩に手をかけて身体をゆすったが反応がない。右手の甲を丸めて頬を触ると冷たい。
しかし、まるで生きているかのように赤ん坊を抱きしめたまま息絶えていました。

すぐにクルマに戻り・・・これもブログを参照されたい。

名も知らぬ母親の表情は『花は咲く』『パプリカ』を聴くたび思い出す。だから聴きたくない。

神戸や東北の地震の描写がテレビで流れる度に、いまだにいたたまれなない気持ちになる。口に出せるくらいの記憶なら、まだいい。本当にキツイと話せない。

だから語り部の話は聞きたくないのです。
実際はもっとシュールで、残酷です。デジタルの世界です。0か1か、生か死かの世界です。

それに自ら出会う必要はないだろうと。
ディストピアというのはこれなのだと。

避難所も含め、ドラマのようにはいかないのが現実で、故に私も誰にも話さないで過ごしてきました(いまようやっとここに少し記せたくらい)。

震災の話題は、
「あの母子は黄泉の国で天国に行けたのだろうか。なぜ命を落とす必要があったのだろうか。
翻っていま生きている我々は、災害にあいにくいところに住んでいたから生きているのだろうか。
しかし我々もいずれ黄泉の国に行く。それまで何をして、何をなして生きるべきなのだろうか。そもそも黄泉の国はあるのだろうか。」
と思い起こさせます。

私には必要な体験だったのでしょう。しかし、必要以上に共有すべきことではない。私自身、何を教訓とすれば良いか、まだ答えは出せていません。

楽しく毎日を生き、何か事があった時に最良の選択ができる備えと知識は不可欠ですが、あの思いまでを後世に、というのはダークすぎる。

個人的には忘れたい記憶です。
Posted at 2025/01/26 19:58:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記
2025年01月26日 イイね!

[ショート7]屋敷墓

[ショート7]屋敷墓
一部個人名について、すでに故人となられた方のお名前はそのまま記載したことを予めお断りしておきます。また、施設名についても当時の名称と現在の名称を併記しています。

1999(平成11)年12月、私は1軒目の家屋敷を仙台市青葉区西部の某町内に求め、住まうことになった。

近所に幼稚園があり、ミニ開発の住宅地が隣接していた。
土地を持っていたのは、道路向かいで一帯の土地を持っていたKさんという農家で、とても良い人だった。
その家が一帯の土地を切り売りしてきたうちの一つを私が購入し、母の弟が勤めていたハウスメーカー(〇〇マン~)の建物を建てて暮らし始め、程なく私の両親が水戸市酒門町の家土地を処分して同居することになった。
当時、仙台市青葉区五橋にあった仙台市立病院(現、東北学院大学五橋キャンパス)の泌尿器科に名医がおり、それを頼っての同居であった。

当時、私も家内も仕事においては駆け出しで、手取り月30万円程度、計60万円程度の収入だった。
母からは30万円ほどを生活費として出すよう言われ、残りの30万円のうち12万円をローンの返済、残りの18万円で水道光熱費、通信費、活動費などを捻出していたので、余裕はほとんどなかった(年金はどこいったの?)。

私は永らくいすゞビックホーンLSショート3.1ディーゼル5速+LSD(UBS69DW)(過去最高のクルマだった!)に乗っていたが、「2ドアだから子供が生まれたら不便だろう」ということで、三菱デリカスターワゴン2.5D5速サンルーフ付き(Q-P25W)に乗り換えたところだった(ちなみに家内はスズキカプチーノ(E-EA21R)5速だった)。

2002(平成14)年8月のある日、18時頃「お印が来た」と家内。
母と家内をデリカに乗せて、仙台逓信病院(現、イムス明理会仙台病院)へ向かった。父は前立腺ガンと膀胱ガンを併発し、入退院を繰り返していたため、留守番することになった。

20時ころ、仙台逓信病院に着き、エレベーターで2Fに上がり、ナースセンターに声をかけると、「主治医の先生はいまから来る。もう少し産気づくまで待合室で待ってほしい。」とのこと。

22時半頃、陣痛がいよいよひどくなってきて家内が分娩室に。
私は血を見ると気分が悪くなる性質なので立ち合いを希望しないと事前に伝えていたのだが...助産師が知り合いで、呼ばれて分娩室に入ることに。

「キャビネットのパッケージをそこの長椅子の上に出すのをお願いできますか?」

と言われ、パッケージに手を伸ばした時、分娩台の上で唸る家内が視界に入ってしまった。
産道からいま出てこようとする1号の頭部が見え、私の視界は暗くなった。

「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」

肩をゆすられ、頬を叩かれて我に帰った。
その後待合室にフラフラと行き、椅子に腰掛けた時、主治医の先生が白衣姿で分娩室に入るのが見えた。
程なくして「元気な男の子です。おめでとうございます。」と助産師さんが伝えに来てくれ、母が何か質問をしていたようだが、いろいろ分かって「帰るか」となったのが1時頃。
なんだかんだで帰宅したのは2時頃だった。

玄関の鍵を開けると、父が部屋の襖を開け、ものすごい剣幕で捲し立ててきた。

「なんなんだこの家は?40〜50人のお化けが家中ドタドタと歩き回って、やれ"子どもが生まれる"だの"お湯沸かせ"だの言いながら、階段は上り下りするしうるせーし、一体どうなってるんだ!」

と言って再び襖を閉めてしまった。
あっけに取られてしまったが、「まあ悪いお化けでもないみたいだし、いいか」ぐらいにしか考えてなかった。

それから、父の容体は一進一退をたどり、入退院を繰り返した。
水戸赤十字病院で受けたコバルト60の照射量計算に誤りがあり、患部が爛れていたのも予後の悪さに影響を与えていた。

母はあまり積極的に父を見舞ったとは言えず、私が当時の上司にお願いして退勤時刻と同時に上がらせてもらい、仙台市立病院に行くと、母の車があり、タバコの煙が窓から出ているのがわかった。おそらく日が落ちるまでそうして時間をつぶすのだろうな、と。

私が病室に行くと丁度夕食が配膳される時間で、父が食べ終わって歯磨きをし、口内炎の薬(本当は口内炎ではなく転移した舌がん)を塗ってやってから帰宅する、という日々が続いた。

2004(平成16)年1月末には2号が生まれたが、父は孫を抱くことができなかった。
1歳半違いの1号が2号を乗せたベビーカーをベッド脇まで寄せ、2号の頭を撫でるのが精一杯だったようだ。

一進一退はその後も続いた。
GW頃には危篤状態になったが持ち直し、7月の土用の丑の日には、買って行った鰻重弁当をぺろりと平らげたりしたが、明らかに身体は衰弱の一途を辿り、2004(平成16)年7月29日(土)昼過ぎ、いよいよ意識レベルも下がってきた、という段階になった。

16時頃、麻酔科の医師の勧めで、当時海外に工場を建設するため一家転住していた兄に国際電話をかけ、帰国してほしいと言うと、「それはwantなのかmustなのか」という返答。麻酔科の医師からは「mustだ。間に合わないかも知れない」との話。

16時半頃、国鉄の同期で、在宅の僧侶で、次兄の葬儀の際にお経をあげてくれた、宮城野区五輪に住む石堂さん(翌年に他界)が見舞いに来てくれた。
石堂さんが呼びかける(「あと少しだ。がんばれ」だった)と、「あー石堂さんかー」と応じた。これが最後の言葉になった。
7月30日(日)12:46死去。

兄一家は間に合わなかったが、機上で逝ったことが分かったという。

それから数週間。葬儀も四十九日までの法要も終わった頃、母が家の周りの掃除をしていると、家のすぐ裏にある踏切を渡って歩いてくる人と言葉を交わすようになり、仲良くなったという。

しばらくしてその人の言うには、

•よくこの土地を買った
•ここにはK家の屋敷墓があった
•昔だからね、生で(火葬せずに)埋めてたよ
•昭和20年台からこの踏切を行き来しているから間違いない
•そのことは土地を買う時に聞いてないの?

私はこの話で母から随分説教をされた。

「地盤調査」という名目で非破壊検査(つまりソナー)により家の敷地を検査してもらうと、地中1mくらいまで柔らかいところがほぼ等間隔で、全部で27ヶ所あった。これは──間違いなく墓だろう。
1号が生まれる際に父が言っていたことと符合するような話が、実際にあったのである。

父の百箇日が終わった頃、私は別のハウスメーカーで現在の場所に家を建てることを決め、系列の不動産会社で家を売却した。

売却した家は、すぐに企業の買い手がつき、そこがさらに売るという形でとある夫婦と出戻り子連れの娘さんが住むことになったらしいが、引っ越しの際に奥さんが玄関ドアに手を挟み、指を一本欠損したのだ、という話を聞いた。
屋敷墓の人たちは(私に取って)悪い人たちではなかったのだな、とその話を聞いた時に思ってしまった。

やがて、2号が中学校に進み、吹奏楽部に所属すると、部活の先輩がその家に住んでいるとかで、その後、県立の中堅進学校に進んだようだ。世の中は狭い。
Posted at 2025/01/26 15:08:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記
2025年01月26日 イイね!

そろそろ光の春

そろそろ光の春乗り始めてすぐに冬。そしてガソリン価格の高騰。ほぼ通勤のみに使用とはいえ10日に一度の給油...

9〜10km/ℓでの運用というところか。燃費以外は言うことなし。強いて言えば横幅が大きいかな...もう少しコンパクトでもいいのだけれど。

そろそろ2月。オイル交換して、春に向けていろいろ準備しないと(するのか?)。

それから、新カテゴリ[創作(ほぼNF)]に、あまりクルマとは関係のないものを載せています。
fbやInstagramではないだろうし、サイトをどこかに立ち上げても...と逡巡した末の新カテゴリです。

洗車の合間にでもご一瞥いただき、「ああ、こんなものもあったな」とか「怖いな」とか「あの頃はああだったよな、こうだったよな」と思っていただければ幸いです。

さ、タバコでも買いに行くか♪
Posted at 2025/01/26 14:39:02 | コメント(0) | トラックバック(0)
2025年01月26日 イイね!

[ショート6]自分

[ショート6]自分
私が卒業したのは、茨城県で最も古い小学校──水戸市立五軒小学校である。
今の水戸芸術館の場所に水戸市立五軒小学校があった。
現在、五軒小学校自体は水戸市金町三丁目にかつてあった茨城県警警察学校跡地に移転して存続している。

いま現在ある水戸芸術館は、イ・ソリスティ水戸室内管弦楽団(小澤征爾指揮)が有名だが、大人になった自分がいま改めて見るとその施設は決して広くない。
しかし小学生だった自分にとってはとても大きく、広く感じられた。

当時自宅のあった水戸市金町二丁目の国鉄官舎からR123号線を東に進み、平戸材木店の角を曲がって南に150mほど進むと五軒小学校の北の角であった。
子供の自分には遠く感じられたが、今なら至近距離なので、子供が育つ環境としてはベストであったろうと思われる。

小学校には木造校舎とコンクリート造りの校舎が二つ、体育館とプールがあった。
その間にビオトープや田んぼ、動物の飼育小屋、回旋塔やジャングルジム、ブランコ、鉄棒などがあった。
低学年は昭和21年竣工(と聞いているが不確か)の木造校舎、中学年は昭和39年竣工の体育館脇の2階建てコンクリート校舎、高学年は昭和33年竣工の「本校舎」と呼ばれていた4階建のコンクリート校舎で学んだ。屋上も解放されて使用できた。

街中にある小学校だったので、学校帰りには走っている車をよく観察したし、近くには茨城いすゞや茨城トヨタのお店があったので、今にしてみれば挙動不審者のように車を眺めていた。

小学校3年生のころには、毎日帰宅する時間に走っていたいすゞのヒルマンミンクス(PH300)を珍しく見ていたし、近所の駐車場にいつも停まっていたクリーム色のいすゞ117クーペ(PA90)はひそかなお気に入りだった。

当時、我が家の車は日産チェリー(E10)からトヨタマークⅡ(LX10)に変わった。
EFI搭載、カーステレオはリヤ2スピーカーのみの富士通TENだったと思う。
5速フロアシフト、エアコンはなかった。

さて、本題に戻ろう。
私は小学校3年生となり、木造校舎から2階建てコンクリート校舎に移ったばかりで、1・2年とも同じ先生から少しお年を召した厳しめの女性の先生に担任が変わり、少し背筋が伸びた心持ちで登校したのを覚えている。
鼓笛隊(音楽クラブ)と放送委員会に所属し、プラモデルと電子工作とテレビとサイクリングが好きでスポーツが苦手な、まるで野比のび太のような小学生だった(と思う)。

2階建てコンクリート校舎に通うようになった私は、校舎と「本校舎」の間にある田んぼのあった場所を通り、北門(自校式給食の調理室があった)から学校を出て、横断歩道を渡って材木店の角でR123号線を渡り帰宅する、というのが常であった。

三年生の頃のある日、いつものように北門を抜けて、材木店の角で信号待ちをしていた。
重いランドセルのほか、給食着の袋を持っていたので金曜だったかと思う。
晴れていて、日の傾いた10月の午後4時頃だったと思う。

急いで帰ると「3時に会いましょう」のラストが観られた。午後4時からはドラマの再放送、5時からは子ども向けテレビアニメ、という番組構成で、テレビを観ながら宿題をこなす、というのが日課だった。

信号待ちの間、今から帰ったら何が観れるか──そんなことを考えていたと思う。
横断歩道の向こう側、自宅のある側の歩道の左からをスーツの男が歩いてきた。少し半透明のように見えて、すごく気になった。
右からはおばあちゃん(いや、今の基準で考えれば初老のご婦人)が歩いてきた。

それが歩道の上ですれ違ったのだが、自分には男がおばあちゃんをすり抜けたように見えた。
ちょっと驚いたが、その男が自分のほぼ正面に立って信号待ちを始めた。どこかで見たような顔だ。
しかい、いま目の前で起こったことに驚いた自分は、何となくその男を見てはいけないような気がして、俯いて、しかし「ああ、怖い。何かの見間違いかな。いや、うーん」と混乱していた。

信号が青になった。
当時出始めの音声式信号機。「とおりゃんせ」のメロディが鳴り、青の点灯を再度確認して前に進み始めた。
私は前に進むため、若干顔を上げた。黄色い学童帽のつばの前端から信号がかろうじて見えるくらいの上げ具合だった。
当然男も前に進んできた。信号の青表示と進んでくる男の姿───道路の真ん中あたりで男とすれ違う時、男が私の顔を見ながら少し前に屈んで話しかけて来た。

「よく、分かったね」

スーツの男は眼鏡こそかけていたが、紛れもなく自分であった。
私は驚いて走り出して、大急ぎで帰り、台所で水を飲んで、テレビも観ずにいろいろ考えた。

あの男は自分。

───何のために自分に会ったのだろう?また来るのか?何ですり抜けたんだ?───

それ以来今まで同じような経験はない。あの男(多分自分)はどこから来て、どこへ行ったのだろう。
Posted at 2025/01/26 13:36:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記
2025年01月25日 イイね!

[ショート5]電話交換手

[ショート5]電話交換手
母は2022年に他界した。寿命を全うしたのだと思う。2番目の子を心臓病で亡くし、ブルースを抱えた半生だった。
それを支えて(というか立場を支持した)自身の親兄弟と縁を切った父もすごいと思う。

いや、むしろ「家」というものに関わる人間関係や考え方が、なまじ東京の国鉄本社で仕事をした父のそれにそぐわなかったのだろうし、そのおかげでで私達の今があると言っても過言ではないだろう。
しかし、母はどこか、最後までブルースを抱えた思考の人だった。最期はたくさんの人に迷惑をかけ、お世話になり、しかし、ご年配の多くの方が達するだろう”達観”の境地に辿り着くことなく、自らがブルースを抱えた”悲劇の人”として生涯を閉じることとなった。せめて黄泉の国では光り輝くところにいてほしいと願っている。

母は昭和14(1939)年、宮城県登米郡登米町(現、登米市)にて出生。程なくして親の転勤で福島県原町市(現、南相馬市)に転居。
戦時中は双葉郡内の親戚宅を転々とするが、戦後は原町市に戻り、高校は福島県立原町高校普通科を卒業。

高校卒業後は宮城県仙台市の老舗ホテル「江陽グランドホテル」に勤めるが3日で退職。
当時の実家に戻り在宅となるが、程なくして逓信省は郵政省となり、郵政省の外郭団体、いわゆる「三公社五現業」の一つとして発足した電電公社(現、NTT)の電話交換手として勤務。
3年ほど働いた後にとある市の総務課秘書室付きとして働き、父と出会って結婚することになる。
(父の晩年まで見舞いに来てくれた高橋衛馬さん(「魂の〇〇」など一世を風靡した歌手の父君)が結婚したのもほぼ同時であった)

さて、母が独身で電話交換手時代の話。

昭和32-33(1952-53)年頃は、日本が戦争から立ち直り、高度経済成長に向かう前の時期で、漸く景気が上向いてきたあたり。
さまざまなインフラが整備され始め、人も社会も慌ただしく、しかし明るく前向きになり始めた時代である。

とはいえ福島県。しかも浜通りにおいて、その歩みは多少なりとも国土軸よりは遅く、一級国道以外にやっと舗装路が増えてきたかなと感じられるくらいで、のどかな、要は田舎風情の街であった。

福島第一原発がまだ計画段階で、「浜通りには何も無い」───街には使われなくなった旧軍の無線塔が聳えるばかり(大き過ぎて昭和の終わりごろまで壊せなかった)。

これといった産業はさらに15年時代が下ってからで、この地域の盛り上がりに先行して「○○事務所」とか「○○製作所福島出張所」などができ始め、これに伴う電話需要が増え始めた頃に、母は電話交換手として働き始めた。

母の父親が旧逓信省時代からの電話技師であったこともあり、その伝手を頼って、というところもあった。数ヶ月の研修・認定試験を経て、電話局での勤務が始まった。

ダイヤル式の電話(いわゆる黒電話)と交換式の過渡期にあり、交換式でかかってきたら相手先番号と名前を聞いて、コードを繋ぎ直すというものだった。

三交代制ではあったものの前述の通りの状況なので、仕事の少ない、落ち着いた時間というのもしばしばあった。

この頃、稀に大きな台風だったり、大雨に見舞われることがあった。

ある雨の降る日、昼過ぎの交代勤務となった。当時は女性の勤務は21時までに規制されており、それまでの間の勤務だったが、帰る頃は当然暗い夜道であった(友人が出始めのスバル360(K111)でたまに送ってくれる以外は徒歩かボンネットバスでの移動だったという)。

電話局は市の中心部にあり、公苑近くの自宅まではかろうじて舗装路を歩いて帰れる、という状況だった。

交換所には旧来の回線交換機と、ようやく1台配備された市外通話用ステップ・バイ・ステップ交換機があったが、未だ手動の交換機が主流であった。
壁には交換所周辺の地図が貼ってあり、担当する台によって大まかな担当地域がわかるようになっていた。

この日は雨ということもあり、はじめ電話もあまりなく、暇な時間が多くあった。
同僚の交換手がたまに電話に出たり、自分が出たり...当直の3名がひっきりなしという状況には程遠かった。

しかし、日が暮れてから徐々に慌ただしくなってきた。雨脚と風が強まり──停電したから復旧してほしい、川の水位が上がってきたから消防署に繋いでほしい──多分そういう用件なのだろうと思われる接続要求が増えてきた。
外は土砂降り。風も強く、交換所の建物自体もガタガタと音を立てて、軋む時さえあった。

その中で、ある集落の集会所からの電話が鳴った。電話口からは「警察か消防に繋いでくんねぇべか」と。
交換手としてはどちらかに決めてもらわないと繋げないと伝えると「どっちでもいい。山が崩れるかも知んねぇから助けてくれるところに繋いでくんねぇか」との荒い声。

「わかりました、お待ちください」と応え、保留にして警察と消防のいずれかに───しかしどちらも回線が塞がっている。
保留にしている回線では、電話口でがなりたてる声。
引き続き警察と消防に繋ごうとするが回線は埋まったまま。
保留のまま10分ほど経った頃、「うわー」という大きな声の後、音声は途絶えた。
どうしたらいいかわからなくなった。

程なく警察の回線が1つ空いた。
すかさずジャックを差し込むと、忙しそうな声。

「はい、××警察」
「こちら交換局です。今しがた○○集落の集会所から入電してたのですが、保留中に大きな声が聞こえたあと回線が切れました。そちらか消防に繋ぐのに10分ほど保留でした。できれば確認願います。」
「了解。」

21時に男性職員と交代し、長靴を履きレインコートを着て、傘を持って交換局の通用口へ。しかし外は暴風雨。
傘をささず、首周りにタオルを巻きフードをかぶって表へ。
強い雨風が身体を襲うが、家まで約1kmをトボトボと歩く。
街灯もそれなりにあり、不自由はなかった。
大通りから左に曲がり自宅方面に、というところで、けたたましくサイレンを鳴らして山の方に走っていく消防車1台、救急車1台。少し遅れて警察車両が3台。
「ああ、○○か──」

あの電話口の人や周りの人は大丈夫だったろうか、山が崩れるってどういうことなんだろう、自分はできることをやったから問題ないよな...そんなことを考えながら自宅に着き、レインコートを玄関に吊るし長靴を脱いだ。

翌朝、台風一過の晴天であった。昨日までの荒天が嘘のようで、明るい日差しと穏やかな天候に恵まれ、すっかり昨晩の電話のことは忘れていた。

「今日は中番(三交代制で早番・中番・遅番があった)だな」
身支度をして家を出て、大通りに最近できた喫茶店に行くと、古くからの同級生(Hさん。近年まで茨城県北茨城市で存命だった)いた。その同級生から「○○の集落が無くなってしまったようだ」と聞いた。山ごと滑ってきて集会所や周辺の家屋を飲み込んでしまった、とのこと。

さらに翌日の新聞には小さな記事。
その後、救出活動がされたとか、生存者や死者や重症者の話など後日談の類は聞かれなかった。

数ヶ月後、交換局周辺の新しい地図が貼られた。その地図にこの集落の記載は無かった。

母が昔話をする時の話題の一つとして、しばしばこの話があがった。
「昔の日本はこんなんじゃ無かったのよ。貧しかったし、物がなかったし、できる人もいなかったのよね。」
Posted at 2025/01/25 22:54:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 創作(ほぼNF) | 日記

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何シテル?   01/26 19:58
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