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カクシカおじさん(プレミオおじさん)のブログ一覧

2012年11月03日 イイね!

平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣

平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
   
 驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
    
    猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。


        《プロローグ》
 この一文、桓武平氏が全盛を迎えてのち、源氏に追われて徐々に没落していくさまを詠んだ平家物語のあまりにも有名な冒頭部分ですね。

 冒頭のタイトル写真(この写真はウィキペディア)の、瀬戸内の海に浮かぶ朱塗りの厳島神社の鳥居は全国的によく知られていると思いますが、そう、この日本三景のひとつに数えられている安芸の宮島にあります厳島神社、平氏には非常に縁の深い神社でございます。



 もともと厳島(宮島)は、島内の最高峰「弥山(みせん)」を中心とした古代からの霊場があったところなので、そのため島内に人が住むのは恐れ多いこととして昔は誰も人は住んでいませんでした。俗に言う「ご神体山」です。


      (厳島・宮島の弥山 : 2012.10.27 宮島フェリー内より筆者撮影)

       
        (海の上に浮かぶ厳島神社の大鳥居 : 2014.11.5 宮島フェリー内より筆者撮影)


 そして推古元年(593年)に、ここ厳島神社が創建されましたが、推古元年っていえば以前の法隆寺参詣のブログでも触れましたが、女帝であった推古(すいこ)天皇がちょうど即位した年にあたり、その補佐役の聖徳太子が摂政となって手腕を振るい始めたのと合わせたように、ここ厳島神社は創建されたようです。


 そして厳島神社のご祭神は、もともと九州の玄界灘に面して建てられている宗像(むなかた)大社の三女神で、市杵島姫命(いちきしま ひめ の みこと)、田心姫命(たごりひめ の みこと)、湍津姫命(たぎつひめ の みこと)です。俗に言う弁財天女ですね。

 そして弁財天は水気を好まれることから、発祥の宗像大社にしても、三大弁天である厳島・竹生島・江ノ島弁天も、弁財天をお祭りするところは水辺の傍ということになっています。


            (九州玄界灘に浮かぶ周囲4kmの孤島 沖ノ島)

 そういえば弁財天の元にあたる宗像大社奥宮は、日本海にある玄界灘沖合い49kmに浮かぶ周囲4kmの小島のような沖ノ島にある沖津宮です。こちらは現在も女人禁制のご神体山として、神職以外は年に一度の大祭しか上陸が許されないことになっています。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 その厳島神社が創建されてから時を経ること約500年、
 冒頭にも記した平家物語によると、当時国司(安芸守)だった若い頃の平清盛が高野山の大塔の修理をしていたところ、夢枕に一人の僧が立ちはだかり 「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」 との霊告があったため、
 それからの清盛、この厳島の神社を何十回も参詣してたくさんのお経を納経したり、前代未聞とも思われる海の上に大規模な社殿を1168年(仁安3年)に造営することになります。


     (厳島を大変篤く信仰した平清盛 像)


 海の上に社殿を造営した理由については科学的にはいろいろ言われていますが、それはあくまで現代人の見方で、ひと昔前までは厳島は山自体が神のおわすところ、つまりご神体山だから恐れ多いということで、その手前の海の上から山を遥拝する形にしたのだと思います。

 それがあの有名な海に浮かぶ大鳥居が建てられた理由でもあるのでしょう。



                  (熊野本宮大社 旧社殿の絵図)

 蟻(あり)の熊野詣というけれど清盛もよく参拝した熊野本宮大社は、明治22年の大水害までは上の絵図のように大斎原(おおゆのはら)という川の中洲に大きな社殿がありましたが、こちらはごく普通の神社の形態です。


 それだけ信仰に篤かった平家と平清盛でしたが、やはりといいますか権力を手にした者には当然の成りゆきなのか、もしくは人間の性が出てきたのか、霊夢のごとく厳島神社を再建し篤く信仰したおかげで一時は大出世したのだけれども、

 冒頭の平家物語の最初の一文の 「…盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず…」 との文言のとおり、平清盛の晩年と死後、急速に平家は没落していくことになります。

                  (平家物語絵巻 壇ノ浦の合戦の巻)

 そしてその結果はもう良く知られているところですが、
 ひとつ言えることは中国大陸では元が出てきて強大な国となり、いずれ日本が元寇で二度も攻められることになるのですが、この貴族化していった平家の政権なら、この外敵の攻撃を退けることはできなかったであろう、ということですね。



 この絵詞はモンゴル・元が、
  日本(倭国)に攻めてきたときの模様を描いた物の一つのようですが、

             (蒙古襲来絵詞 1293年頃 : 竹崎季長による)

 質実剛健な北条氏の執権政治による鎌倉幕府と北条時宗というすぐれた執権により、当時このまれに見る外敵の攻撃を無事退けることができました。ただしその後、北条高時という情けない執権が出現することにより鎌倉幕府は滅んでいくことになります。


 そう考えれば「厳島」というところ、持ち上げるだけ持ち上げておいて、そこで奢れてしまうと平家がたどった運命のように容赦なく人を裁く、といった「厳島=厳しい島」という文字の要素を持った神社なのかと思います。
 現代の世でも同じですが、いつの世でも変わらない 「驕れる者久しからず」 を、私たち後世の人間にも平家の興亡の歴史を通してここの神様が教えているのでしょう。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 長い前置きはこれで終わりにしまして、
 ここからはその独特な厳島神社の様子をご紹介していきたいと思います。


   宮島へ行くフェリーを降り桟橋から堤防を覗くと潮の跡が。
   温暖な瀬戸内地区ですが、それでもこれだけの潮の満ち引きがあります。

   JR西日本 宮島航路の宮島桟橋側から撮影。 2012.10.27 13:05撮影


    宮島へ上陸するといたるところに鹿が。


       


     宮島の鹿は奈良公園の鹿に比べておとなしくて、のんびりしています。
 
 奈良公園では鹿せんべいを観光客が購入して与えるせいか、鹿が物乞いするけれど、   
    宮島では 「鹿にエサを与えないように」 と注意書きが書かれているせいか、
    鹿もほとんど物乞いはしないですね。



   そしてここの目玉の厳島神社のほうへ向かって歩いてゆきます。 
   日本三景の碑がありました。



 安芸の宮島、丹後の天橋立、陸奥の松島(陸前松島)、これが日本三景として名高いですが、
      海上に建立された独特な神社の厳島神社、
      不思議な地形をした天橋立、
      たくさんの島が林立している松島、  
 開発が進む前の日本では、とても風光明媚だったんでしょうね。

          (丹後にある天橋立 : 2011.1.8撮影 ウィキペディア)


                 (陸奥の松島 : ウィキペディアより)





                      (宮島の案内図)


                     (厳島神社の説明文)



  ここからがどうやら厳島神社の参道となるようです。
  昔はこの島には人が住まなかったので、人工的なものは一切なかったのでしょう。






       



   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


    厳島神社へ向かって歩いていくと、
    この神社の象徴とも言うべき朱色の大鳥居が見えてきました。



    今日のこの時間は引潮、ちょっとだけ足元がぬかるんでいますが、
    着替えもあることなので気にせず大鳥居に接近していきます。



    海の上に浮かぶ鳥居は趣があっていいけれど、
    せっかくの引潮時に来たので大鳥居のふもとまで行きました。


       


    今度は北側(海側)に回り込んで撮影。


       

    真下から撮影。高さは16mだそうです。





    厳島神社では、鳥居の扁額(へんがく)が両方に付いています。



ここ厳島神社が出している書籍コードのない専用本によりますと、
大鳥居の扁額は、有栖川熾仁(たるひと)親王の御染筆だと記載されていました。
ちなみに扁額の大きさは、たて273cm、横183cmと大きなものです。

神社の入口にあたる海側の鳥居の扁額には 「嚴嶋神社」 と書かれていました。

       
     ご神体山側にあたる社殿側の鳥居の扁額には 「伊都岐島神社」 と書かれていました。
     マイカメラのDP1xは望遠が効かない単焦点カメラなので、トリミングで大幅拡大しました。



 鳥居の表裏の両方とも扁額があり、しかも表記が違っているというのは珍しいですね。
 清盛の時代に「嚴嶋神社」と表記するようになったとのことですが、
 神道では字が違えばお働きが違うと聞きますので、なにか深い意味があるのでしょうか。

  大鳥居の根元部分も撮影しました。
  満潮になればここに2mぐらいの海水が押し寄せるのでしょうね。



         (海の水をたたえた厳島神社の大鳥居 : ウィキペディアより)


 ちなみにこの大鳥居は八代目にあたり、明治維新から間もない頃の1875年(明治8年)に再建されたそうです。ということはもうかれこれ130年以上、こうして海水の満ち引きのなかにたたずんでいるのですね。

 鳥居の高さは16mで、棟の長さは24m、主柱の根元の直径は3.64mもあるようです。ちなみに重さは前途の本には書かれていませんでした。


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 大鳥居をしばし見た後は、平安時代の様式?で建てられていると思えるような、回廊がたくさんある寝殿造りの厳島神社の社殿へと向かいます。


    まず遠方から見た社殿です。
    大鳥居の真下まで行けてそれはそれで良かったものの、
 やはり海の水をたたえていない厳島神社はちと趣きが少し不足気味な感じです。



 社殿入口の手前です。この時期は大変な数の人出のようです。
 そして今日は早朝の8時ごろが満潮で、訪れた14時ごろが最も潮が引いていたみたいでした。




       




 神社の中の回廊へと進みます。
 昔の参拝者は船で大鳥居を越えて、直接厳島神社へと来たのでしょうか?



回廊は幅3.3m、柱間は2.4mで、柱間は板が八枚張ってあるとの事(厳島の本より)。


       


 こちらの写真は、厳島神社の摂社第一の客神社?を撮影したみたいです。
 暗くてノイジーな写真になっちぁいましたが、天忍穂耳命ほかが祀られているようです。



    そしてまた回廊へと出ます。



    左手には鏡の池が見えました 。
    最初の写真が回廊側からみた写真。次のは神社の裏手から撮影した写真です。





    回廊から外を見るも砂地ばかりで、少しさみしいですね。


       



    そして厳島神社の本殿へと出ました。
    最初にご由緒を撮影、その次に本殿内部を撮影しました。

   厳島神社の創建は推古元年といいますから、女帝推古天皇の時代、
   つまり日本の礎(いしづえ)を築いた聖徳太子の頃ですね。



 この撮影のすぐ後に新郎新婦がお入りになり、神前結婚式がおこなわれていました。
 そのせいで左右には白布をかぶせたテーブルが。

 そしてここでお祈りをし、おみくじを引いてから社務所で本2冊(後述の写真)を買いました。



    そしてここを出るとまた回廊が。まるで迷路のようです。


           回廊の途中には長橋が。
       



    ようやく出口に来ました。




 今回10年ぶりぐらいに訪れた厳島神社でしたので、非常にゆっくりと回ってきました。
 そして厳島神社で買い求めた2冊の本の表紙部分です。自宅のスキャナーで読み取りました。


 厳島神社、全盛期の平家一族がたくさんのお経を納めたようです。俗に言う“平家納経”です。
 平家納経は数ある納経の中でも特に有名みたいですね。


 聖徳太子から始まった神仏習合の時代がずっと江戸末期まで続くのですが、よってお寺でなく神社にも願文や御礼としてお経を納めたわけですが、平家納経の場合は単に写経して納めたというより、芸術品としての品格を備えたものだったようです。
 また清盛自身は、代筆でなく自らの直筆で経文を書いてここへ納めていたみたいですよ。

 そして右側の本は書籍コードがないので市販されていないと思われ、発行が厳島神社となっていますので、ここ神社でのみ販売されている本のようでした。


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  これで「平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣」は終了です。
  ここへの道中記は宮島連絡線も含めてフォトギャラリーにアップしました。

  次回のブログは、ここからごく近い山口県岩国市にある錦帯橋を、
  次々回ブログは、JR貨物フェスティバル 広島車両所公開イベントをアップする予定です。


 ↓関連情報URLには、厳島神社のサイトをご案内しています。
Posted at 2012/11/03 01:33:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | 旅行/地域
2012年10月23日 イイね!

また再びの戸隠神社奥社参拝と、戸隠そば、鏡池への訪問(2013.10.4 追記)

また再びの戸隠神社奥社参拝と、戸隠そば、鏡池への訪問(2013.10.4 追記)神秘の里、戸隠には過去2回訪問しました。
 
 一度目は、初秋の赤富士を見るためと、
 コンテオフ会に立ち寄るのを兼ねた、2011.9.17の日。
      (その時のブログは → こちら )

 二度目は、真冬の紅富士を見るためと、
 信州皆神山を見るための、2012.1.28の日です。
      (その時のブログは → こちら )


        《プロローグ》
 2012年の紅葉も見ごろとなった10月16日~18日、この日に本来予定していた所用は取り止めとなったので、代わりに我が愛馬であるコンテRS号にて過去2度も訪れるも、一度も全容を見ることが叶わなかった戸隠連峰を見ようと急に思い立ち、お天気も良いとのことなので急遽わが愛車を信州まで走らせました。

 出発の前日に自作パソコンの電源が故障し電源交換をしてから出発したので出発も遅れ、しかも平日なので深夜以外は高速料金も安くなくてケチケチ作戦で自宅を出発。そのせいで信州に到着したのは午後をとうに過ぎていました。

 
 そしていつも長野市街から戸隠に入るのに困るのが道中選択で、今までは初回のブログでも触れた鬼無里街道経由の長野県道76号線でしたが、この道 「長野戸隠線」 はとにかく道幅が狭いところが多くて通行に難儀していました。

 よって翌日の空き時間に一度調査するつもりで、とにかく今回は今までとは違うルート 「浅川ループライン」 をまず選択。結果的にはこれが一番行きやすかったですね (後日、長野市街の道中写真をフォトギャラにアップする予定です → こちらにアップ しました)。



 なお戸隠神社の由来等は、ここのいちばん冒頭の文章に貼ってあるリンクをクリックしていただきますと、2011年 9月の当ブログへと飛びますのでそちらのほうをご覧ください。

 そして今回もまた、たくさんの64枚もの写真を長い文章とともにブログに貼り付けました。

 直接現地で体験するのと比べればはるかに劣りますが、モニター画面(携帯画面)からとなりますけれど、紅葉に満ち溢れた戸隠の自然をごゆるりとお楽しみください。


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    戸隠高原に入るとまず戸隠神社の中社に参拝しました。










    ここへ来るとお水がおいしいのと、
    神社側が許可しているのでバワースポットの水を飲んじゃいました。
    さすがに汲んでもらって帰るのは遠慮しておきましたが。





  到着が遅れたのと、天気予報では明日はお天気が悪くなるとのことだったので、
  今回は中社参拝は手短にし、おみくじだけ引いて鏡池に向かいます。

  ちなみに今回のおみくじは第四番、「葺牙兆」(あし かび の うらかた)だったです。


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  そして戸隠連峰が良く見えるという鏡池へと急ぎます。
  長野県道36号線を戸隠神社奥社方面へと走らせると入口の看板がありました。

              (こちらの写真は戸隠中社側から撮影)


               (こちらの写真は信濃町側から撮影)


  そして鏡池へ直接車で行ける道は非常に狭く、通行には要注意です。


  鏡池には慎重にゆっくりと徐行運転しても5分もかからずに到着です。



  上の案内看板の戸隠連峰のところを、後日DP3メリルで撮影しトリミング(差し替え)。
  下の撮影写真と見比べると、これでどの山か分かるようになりました。


  鏡池から見た戸隠連峰2枚。
  この時は夕方4時直前の撮影で、夕日がもろに山肌に当たって白っぽくなっています。



  午前かお昼頃ならさぞかし美しく撮影できたのではないかと思われました。


 ということで、翌日の17日のお昼にもう一度ここへ行きましたが、下写真
 残念ながら天候が急変し湖面は荒れて、あいにくの曇り空で戸隠山は映えていませんでした。

 それどころかちょっと異様な感じで、岩肌が怖いぐらいな感じで写っていますね。
 このときはちょうどお昼の12:00すぎでしたが、その後15:00ぐらいになると長野は大雨に。



 とりあえず初日の9/16は、夕刻近くになってから鏡池と戸隠連峰を撮影したあと、車を戸隠奥社入口駐車場まで走らせて奥社まで参拝しましたが、この頃にはもう薄暗くなり当然といいますか写真は全く映えて撮れませんでした。

 まあ、今回は戸隠山をはっきりとこの目で拝見できたし、夕日が山肌に当たっていたけれどバッチリ写真にも収めることができたので、もう目的は達したようなものですが、時間もあるので翌日の早朝にもう一度奥社へと参拝することにしました。

 
 その後、山を降りて夕食を食べてからナビで銭湯を探すと、妙高高原付近に温泉が。
    ここは都会ではないので閉まる前に急いで風呂屋に直行。
 汗を流し温泉で体の芯まで温まってから、元来た道をそのまま戻り、
    戸隠神社奥社入口前の駐車場にて車中泊しました。

 ここは標高1200m前後、この時期でも夜明け前には気温5℃前後となったため、
 毛布をかぶっていたものの寒くて目が覚め、何度か車のエンジンを入れて車内を暖めました。


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 そして翌朝になりましたが、前日の疲労のせいでなかなか起きられなかったが、
    身支度をして買っておいたパンを食べてから参拝の支度をして、
    朝9:00にもなってからようやく奥社へと向けて出発しました。
    ここから戸隠神社の奥社へは2kmもの長い参道を歩いて進んでいきます。


  こちら2枚の写真は昨年2011.9.17に撮影したものです。
  まだ夏の終わりごろなので、草木が深い緑色のたたずまいとなっています。



   (戸隠神社奥社入口に掲げられている石碑と入口看板 : 2011.9.17に撮影)


 こちら2枚の写真は今回2012.10.17に撮影したものです。
 昨年と今年との違いがありますが、同じカメラでしかもほぼ同じ場所で撮影。
 たった1ヶ月違いで夏の終盤の深緑の自然が、秋模様の紅葉いっぱいの風景に変化。



  (戸隠神社奥社入口に掲げられている石碑と入口直下 : 2012.10.17に撮影)


 そしてこちらの写真は、参道入口にある鳥居のところにある奥社参拝の案内板




   こちらの鳥居の写真は昨年2011.9.17に撮影したもの。


   こちらの鳥居の写真は今年2012.10.17に撮影したもの。
   わずか1ヶ月違いでこんなに違っています。


   ちなみに下写真は今年2012.1.28に撮影したもので、まさに大雪状態です。
   ここの春の写真はまだありませんが、
     ここ戸隠は季節よってこんなにも様相が違うのですね。




   そして今回訪ねた2012.10.17の朝9:00の時点では、
      ここ信州戸隠高原あたりではすこぶる快晴だったので、
   気分良く秋の紅葉の真っ最中だった参道写真をいっぱい撮影しながら、
      ゆっくりとご神域の中を進んでいきます。


 さて、ここから奥社まで超長い2kmにも渡る参道です。
 これより長い参道といえば、丹後にある籠神社(このじんじゃ)の参道ともいえる、
    3.6kmにも渡って松林が続く天橋立ぐらいしか筆者は思い浮かびません。




       


    ゆっくりと参道を歩いていきますと、奥社まで1400mの看板が。




    随身門手前の二匹の狛犬たち。



 参道入口から約1km歩くと、戸隠神社独特の随身門(ずいしんもん)がお出迎えしてくれます。
 随身門、ここより前の榛名神社のところのブログで一度取り上げましたが再度こちらでも。





随身門または随神門(ずいしんもん/ずいじんもん)、これどういう意味なのか調べてみました。
まず「ずいしん」とは、「平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことである(ウィキペディア)」…だそうです。
 
それが転じて、どうやら神社の入口に立ち神様とご神域をお守りする像を安置した門のことを差すようになったようです。よく神社の入口で見かける狛犬と同じような役目でしょうか。

                  (向かって左側の随神さま)


                  (向かって右側の随神さま)


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   戸隠奥社の随身門をくぐると、いよいよ奥社の壮大な杉並木とのご対面になります。
   こちらの写真も紅葉の真っ最中の2012.10.17の撮影です。



     (戸隠奥社参道の杉並木を由来を説明した看板 : 2012.10.17の撮影)


   戸隠奥社参道のハイライト、樹齢400年を誇るクマスギの杉並木です。




 残念ながら上の縦長の杉並木の写真、ここのページに掲載できる容量の2MB以内の制限のため、画質が大幅に落ちていまして、美しい並木がいまいち表現できないのが残念です。
 下の写真のほうは横向きで細かい葉っぱとかが少なく写っているので、画質の劣化は少なめですね。


    まだまだ杉並木が続いていきます。


       




    奥社まで480mの地点まで来ました。


       


    いよいよ坂が見えてきました。


           そして階段の出現と相成ります。
       


    富士登山ほどではないですが、上から見下ろせばかなり急な階段です。



    階段も坂も急でけっこう息苦しくなりますが、
    これぐらいの苦しみがないと、ここへ参拝した甲斐もありませんね。


    こうして180段ほどの階段を登るとようやく奥社のお手水舎へと到着。
    そしてあの独特なギザギザ山の戸隠山も合わせて拝見できました。


       



    最後の階段、30段を登ればいよいよ戸隠神社の奥社です。





       


    こちらは戸隠神社奥社の手前にある戸隠の九頭龍神社の本殿です。


       
 そして晴れ晴れとした素晴らしい絶景のためここにしばらくいましたが、
 昨年の9月に訪れた時と同様に、10月の半ばだというのにまたもや台風が接近中とのことで、
 急に雲がどこからともなく湧き出てきて雨も降りそうになったので、ここを引き上げることにしました。

 
  また戸隠神社奥社の横からは戸隠連峰への登山ルートがあるようで、
    これらの説明看板がありました。



 先日登拝した富士山とは違って、戸隠山の登山には技量がいるようなので登拝は断念し、
 遥拝という形にさせていただきました。


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 そして駐車場まで戻りましたが、前々回の参拝時にはコンテオフのため急いでここを発ったし、
 前回訪問時の2012.1.28の日は、大雪の中で遅れて戻ったのと日が短いこともあって、
    次の訪問先である信州松代の皆神山へと急いだため、
 結局戸隠そばは食べられなかったので、今回初めて戸隠そばをいただくことにしました。

    今回おそばをいただいたのは、奥社参道入口にある「奥社の茶屋」さん


    私が食べた戸隠そば、かけそばで800円でした。
    戸隠のそばは麺が非常に細かったですね。


    そして車中泊した我がコンテRS号と戸隠神社奥社入口駐車場


 
  
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       【2013.10.4 追記】
 名誉挽回とばかり三連休が取れた翌年の2013.9.16~18の日、
 残念ながら前日の9月15日の夜は、あの全国至るところに大被害をもたらした台風18号による水害のため、高速道路をはじめとして各地の道路が通行止、自宅を出発することも出来ず待機。
 
 翌日の9月16日の午後になるとようやく台風はいなくなって天候が急回復、夜になってからやっと自宅を出発して長野・山梨方面へと向かいました。


 台風の大雨による盛土崩壊のために、名神高速道路の八日市→彦根間がずっと通行止めとなっているので、高速を降りて仕方なく裏道を走ったもののやはり渋滞に巻き込まれ、深夜にもかかわらずここの区間を抜けるのに2時間。

 その時の疲労も手伝って途中で熟睡し、戸隠には9月17日のお昼近くにやっと到着しました。
 今回、天候は晴天でほぼ雲もなく絶景となり、新しいDPメリルにていっぱい写真を撮りました。



       





 学研が出している月刊カメラ雑誌 「CAPA(キャパ)」 の、
    2013年 10月号を何気なしに読んでいますと 64~65ページにかけて、
 紅葉がとても美しい戸隠の鏡池から撮影された戸隠連峰のパノラマ写真が掲載されていました。

 撮影場所は全く記載されていなかったけれど、私は一目見るなり撮影場所が分かりました。
   

  とても素敵な紅葉写真だったので、スキャンしてここにも掲載したいのですが、
     著作権の関係で掲載を見送らざろう得ないです。

  雑誌には4枚の写真を合成してパノラマにした大きな写真が掲載されていますので、
    ご興味のある方は雑誌を買って見てみて下さい。




↓の関連情報URLには戸隠神社のホームページをご案内しています。
Posted at 2012/10/23 23:16:19 | コメント(2) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | 旅行/地域
2012年02月05日 イイね!

➊信州長野の大雪走行と真冬早朝の紅富士 その①(冬の戸隠神社参拝・皆神山編)

➊信州長野の大雪走行と真冬早朝の紅富士 その①(冬の戸隠神社参拝・皆神山編)
 先日、所用で箱根へ行くついでに3連休を取り、昨年2011年の夏場にも訪れた長野・山梨両県へも訪問いたしました。

 夏場は緑が広がる美しい自然も(戸隠高原や富士山・富士五湖とか)、極寒の冬場にはまた違った姿になっているだろうと思いながら、2012年1月27日の夜から車を走らせていました。
 
 
 で、最初にかなりの積雪に出会ったのは、滋賀県の東端にあたる彦根・米原付近から関ヶ原にかけての名神高速道路の走行中でしたが、翌28日に実際に長野県へ入ると、とにかく信濃地方は大雪一辺倒でして、長野市内のビルが立ち並ぶ街中でも路面がいたるとこで白く、地元の方はさぞかし大変だろうと思われました。郵便配達のバイクが後輪にタイヤチェーンを巻いて配達しているのも見えました。

     結局、長野県の北部は大変な大雪だったことから、
     我がコンテ号の雪道走行テスト状態となった次第です。


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 ところで、新車購入時のみ注文できるダイハツのメーカーオプションの中に、寒冷地仕様というのがあり、2WDのコンテカスタムの場合は10500円高(2012年現在) となりますが、この2WDの寒冷地仕様車を筆者はあえて購入しました。ちなみにコンテのフルタイム4WD車は、寒冷地仕様は標準装備となっています。

 そして果たして、この大雪の中で2WD車で本当に無事に走れるのか、極寒の中で車内暖房は問題ないのか、そしておまけで長時間アイドリングし続けると、いったいどれぐらいガソリンを使うのか、この際なのでいろいろと調べてみました。


    (秋口の紅葉の時期の長野県道76号線の様子 : 2012.10.16筆者撮影)


      (大雪に覆われた長野県道76号線の様子 : 2012.1.28筆者撮影)

 この2枚の写真はほぼ同じ場所で撮影した(秋口の写真は後日撮影) 長野県道76号線を写した写真ですが、ここはもう標高1000m前後でかなりの山奥ともいえまして、写真を見れば分かりますように積雪量も気温も半端ではなかったです。



 当方の車、2WDということで雪道には多少の不安があったので、昨シーズンの冬タイヤ購入時に高性能だといわれている、ブリザック レボGZをチョイス。

 この銘柄のタイヤ購入費が高くつく分には、純正15インチホイールの設定(165/55R15)を、実用性も兼ねて1インチダウンし155/65R14のレボGZを購入することにより安く済ませ、ムーヴの旧旧中古ホイール購入と相まって冬タイヤ代を浮かしました。

 見栄えは正直悪いが、掃除だけはしやすいこの中古純正アルミホイール、馴らしの終えた新品スタッドレスタイヤは雪道でもよくグリップが効いていたものの、もう累積15000km以上も冬タイヤで走行し、今シーズンはタイヤのローテーションもしたものの、もう冬タイヤの性能維持ライン限度に近づいてきたためなのか、きつい登り坂の登坂時には多少滑っていました。


   (スノーフィックス スタンダードのタイヤチェーン装着 : 2012.1.28筆者撮影)


 そこで普通はしませんが、せっかく非常用として買ったジャッキアップ不要のスノーフィックス スタンダードの亀甲タイヤチェーン、装着の練習も兼ねてスタッドレスタイヤの上から、購入後初めて装着してみました。そのチェーン装着済み写真が上の写真です。

 コンテはFF車のため駆動輪とハンドルとが共に前なので、確かにこれで登り下りともタイヤが滑ることはなくなりましたが、氷点下の気温でしかも雪が降っている中での、正直馴れないタイヤチェーン装着は日中でも大変でした。手のかじかみは半端ではなかったですよ。



 ちなみに私は、車が来なくてしかも広くなっている安全な場所で装着作業をしたものの、幹線道路や高速道路・自動車専用道路などの路肩でのチェーン装着作業はかなり危険です。先日2日の日にも、どうやら山口県内の国道435号線でチェーン装着中に追突され、装着中だった男性がお亡くなりになられたようです。



 ただし聞くところによりますと、同じ長野県内でも信州中野インターから標高の高い志賀高原方面へ行くには、四駆+四輪スタッドレスタイヤ装着車以外はチェーン規制がかかり、スタッドレスタイヤ装着だけではここへは入れないようです。

 この時は残念ながら志賀高原まで足を伸ばさなかったのですけど、私のこの車のように二輪駆動+全輪スタッドレスタイヤの車では、ここは標高も高く坂もカーブもきついのでスタッドレスタイヤ装着だけでは正直危ないらしいです。

     (国道292号線 長野県志賀高原の蓮池付近 : 2012.6.9 筆者撮影)


 この写真の場所は志賀高原の蓮池付近なのですが、かなりの急坂ですね。
 そしてこのあたりでも標高が高いこともあって昼間でも、もしここでツルツルのアイスバーンなら、スタッドレスタイヤ+亀甲チェーンも要りそうな感じが確かにしますね。もちろん車の冷却水のクーラント濃度も寒冷地仕様の-30℃までは十分にいける、濃度50%にするのは言うまでもないですが。


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         (2012.1.28 大雪の中の戸隠神社中社 正面大鳥居)


           (2012.1.28 大雪の中の戸隠神社中社 本殿)



 こちらの写真は2011.9.17の早朝の戸隠神社奥社への参道入口写真です。
 標高1200m前後の初秋のすがすがしさを感じる、緑豊かな参道写真となっています。


 こちらの写真が今回2012.1.28の日に訪れた時のもの



          そして奥社参道の始まりにあたる鳥居から遥拝するべく大雪のなか、
                                  下へ降りていきます。
       



 こちらの写真は2011.9.17の早朝の戸隠神社奥社の参道入口にある鳥居です。
 夏の終わり頃の撮影なので美しい緑が深々としています。


こちらの写真が今回2012.1.28の日に訪れた時の様子で上の写真とほぼ同じ場所です。

     鳥居の上にうず高く積もった雪のすごいこと。

 そしてここは信濃の聖地なのか、この大雪の中しかも奥社まで片道2kmもあるのに、
 ご年配の女性の方も含め奥社への参拝者が幾人もいらっしゃって、筆者もビックリです。


  最初は戸隠神社の奥社参道の入口にあたる木の鳥居から遥拝して,
  私はここを引き上げるつもりでした。

 が、私より年上らしいご年配の女性の方2人とか、幾人もの方がこの1mくらいは積もっているであろう雪の中を猛然と戸隠神社 奥社へ向かって突き進んでいくのには私もビックリ。
 まあ参道もあって道に迷う心配もなく、しかも吹雪いていなかったのもあり、つい負けるものかと我輩も片道2kmもある雪の中を武装して奥社まで行きました。




ほぼ同じ場所でたまたま偶然に撮影していたようですが、
一方は深い緑におおわれているのに対し、もう一方は深い雪におおわれた銀世界となっています。




       



    (この上の写真4枚は2012.1.28の戸隠神社参道と随神門:筆者撮影)




 随身門(随神門)の地べたの床に、どなたかが作ったかわいい雪ダルマがありました。

    ここでやっと参道の半分にあたる1kmほど来ました。



    ここからは戸隠奥社独特の杉並木が続きます。



    ああっ、木の上から雪が落ちてきました。




 残念ながら、ここの杉並木から奥社手前にある階段が180段ほどあるところまでの参道は、
 雪が全く圧雪されておらず、ひざまで雪にめり込むところもあって、
               参道写真は1枚も撮っていなかったです。


 次の写真はいきなり戸隠神社の奥社を写したものと相成ります。

 鳥居もあまりの雪の深さに埋もれています。
 しかもお天気もあいにく雪混じりの曇り空で、今回も戸隠山を見ることはかなわなかったです。


       


     (この上の写真3枚は2012.1.28の戸隠神社の奥社付近:筆者撮影)


    (こちらの写真は2012.10.17の早朝の戸隠神社奥社本殿:筆者撮影)


    ちなみに奥社の社務所もあまりにも雪が深いため、冬季は閉鎖です。



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      【2013.5.12 追記】
 翌年の2013年 3月の初頭に富山県へ行く用事があるついでに、富士山を見てからここへ再度立ち寄りました。今回もやはり午前中だけが晴天で、なぜかお昼頃になるとまた雲といいますか、高地なのでガスといいますか、もやが発生して視界が悪くなりましたが、なんとか新しいDP1メリルで戸隠山を撮影しました。


    1枚目が戸隠神社奥社から見た戸隠山で、
    2枚目が戸隠スキー場の駐車場から見た戸隠山です。

        (2013.3.7 9:48 戸隠神社奥社から撮影した戸隠連峰)


        (2013.3.7 11:21 戸隠スキー場から撮影した戸隠連峰)


 今回は富山への用事のついでに思い立ってここへ立ち寄ったので、スキー用具などは全く持参しておらず、戸隠山を撮影したいためスキー場のリフトへの乗車を交渉したものの残念ながら認めてもらえず、仕方なく麓の駐車場からの戸隠撮影でした。

   向かい側に当たる怪無山山頂付近から戸隠連峰を撮影したなら、
     さぞかし素晴らしい景色だったことでしょう。
   次回真冬にここに来るときにはカメラとともに、
     十年以上使わずほこりをかぶっているスキー用具も絶対積載して
     ここへ来ることにいたしましょう。


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 その後、大雪雪一辺倒だった戸隠高原から長野県道38号を下ってタイヤチェーンを取り外し信濃町へと出ました。そして、下の写真(写真は借用)の皆神山へ行ってみることにしました。


            (長野市松代にある皆神山 : ウィキペディアより)


  長野道を走っていると、長野インター付近の松代に面白い形のボタ山が見えますが、
  これが標高659mある皆神山(みなかみやま)です。

  この小山の周りは平地なのでこのいびつな山はけっこう目立つのですが、
    なんか台形状のピラミッドといった感じで、
    今度長野へ来たときはぜひ寄ってみたいとかねがね思っていました。

  その望みを今回果たしたわけですが、
    当然ながら山頂へと行く道は当然除雪はされておらず、
    またまた冬タイヤの走行テストのような感じになっちゃいました。



 しかしここもかなりの積雪でしたが、もちろん車もまず通りそうにない雰囲気でしたので、我がコンテ号は2WD車ということもありゆっくりと登っていたものの、実際は山頂に神社があるためなのか、参拝者らしい軽トラが1台後ろから来ました。

 この皆神山の頂上まで雪道ですけどツルツルのアイスバーンでなかったため、もちろん我が2WD車でも問題なく行けましたが、実際に山道を登って行き頂上の駐車場に車を停めて降りるとビックリ。ちょっとピンボケ気味の撮影となってしまいましたが、タイヤハウスが写真のように雪が氷結して固まっていましたよ。



 残念ながら後輪は撮り損ねてしまいましたが、左右の動きのない後輪のタイヤハウスは、すきまというすきまは、すべて雪が固まって氷塊となっており本当に驚きました。

 2WDのコンテの寒冷地仕様車は後輪のタイヤハウスのカバーが無く、まさに雪が付き放題でした。もし4WD用のカバーが補修部品で取り付けられるなら、ぜひ検討してみるつもりです (後日2013年 1月末に取り付けました)。


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  こうして狭い道と急坂を無事に登り切り、山頂に無事到着です。
  さっそく皆神神社へ参拝です。




       (雪景色の皆神山山頂の皆神神社の門 : 2012.1.28筆者撮影)


       (新緑の頃の皆神山山頂の皆神神社の門 : 2012.6.8筆者撮影)


  入口にちょうちんがあるのといい、この門構えを見ると、
  神社というよりお寺のようなイメージにとらわれてしまいます。



   そして皆神山と皆神神社のご由緒です。


       


   短いけれど小さな参道が



       


            (皆神神社の本殿2枚 : 2012.1.28筆者撮影)


   恐れ多いことですが、撮影禁止でなかったため内部も撮影。
   ここの写真は、後日訪問の2012.6.8に筆者撮影。



           神社の裏手には歌碑が
       

 日も暮れかけてきてちょうちんに白熱電球が灯り、より神秘的になった皆神神社の門




 皆神山山頂でそうこうしているうちに夕方5:00もとっくに過ぎて、
 山頂から川中島などを眺めていると日没となり暗くなったので山を下ることにしました。



        (皆神山山頂からの大雪の下り道 : 2012.1.28筆者撮影)


 この上2枚の写真は、皆神山を下るときに我がコンテカスタム号の車内から愛機DP1xで撮影した写真です。暗部撮影に弱いこのカメラのため、ライトはすべて点灯しカメラの感度も上げて撮影しました。まあ、すごい急坂と雪ですね。



         (皆神山山頂の外気温 : 2012.1.28 17:30筆者撮影)

 そして無事に登り降りした皆神山を後にしましたが、あまりにも寒かったので(この写真の通り夕方の山頂で-5℃弱)、近くのコンビニでカップラーメンを食べた後、長野インターから長野道へ流入。


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 ETCのみの休日の上限1000円高速はすでに終了していたものの、まだこの時は休日割引でETC車は終日高速料金が半額となるので、長野道から中央道へと入ってそのまま諏訪湖SAまで行き、ここSA内にある温泉に入ってからしばらく休息しました。


     (諏訪湖上りSA内にあるハイウェイ温泉 : 2010.5.2撮影 ウィキより)


 ちなみにここでの外気温は21:44分現在で、すでに-7℃にもなっていてかなり冷え切っていましたが、こんなに寒かったせいか温泉に入って温まり気持ちよかったです。



 その後真冬の富士山を見るべく中央道を山梨方面へ上っていきますと、道路表示温度計が-10℃と表示されていて、いったいどこまで冷えるのか興味深々でしたが、とにかくあまりにも寒くて走行中に複層ガラスでないため車の窓ガラスがあまりにも曇るには閉口しました。

 それでエアコンをずっと最強にし、
 温度設定はオートセンサーが入らない常に最強の熱が吹き出す「Hi」設定にしたままでした。


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 初日の旅行はここで終了です。 次のブログその②へと続きます。
 【関連情報URL】には、このとき撮影した写真の中から8枚を当フォトギャラリーへ掲載しました。
Posted at 2012/02/05 21:55:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | クルマ
2012年01月01日 イイね!

足利義政の作った銀閣寺(東山慈照寺) & 雪景色の銀閣・金閣(2018.10.10 加筆)

足利義政の作った銀閣寺(東山慈照寺) & 雪景色の銀閣・金閣(2018.10.10 加筆) カクシカおじさんのページへいつもご訪問いただいています皆様、新年あけましておめでとうございます。

 新年第一号のブログとなりますこのページ、新年の幕開けにふさわしく京都・東山慈照寺(とうざん じしょうじ)、通称銀閣寺を取り上げたいと思います。

 ちなみにここのタイトル写真は銀沙灘から見た銀閣寺・観音堂を撮影したものです。



 古都京都には観光地がたくさんありますが、見どころの一つに銀閣寺があげられると思います。

 実際ここを訪れますと、平日にもかかわらずたくさんの観光客が絶えず入場してきます。本当に人が写っていない写真を撮るのが非常に難しかったです。人が途切れるのをだいぶん粘ってから撮影しました。なおここへの訪問日&写真撮影日は2011(平成23)年 12月 6日です。


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 時は1482(文明14)年、学校の歴史の時間でも必ず登場してくる、11年もの長いあいだ戦乱が続いた応仁の乱(1467年・応仁元年~1477年・文明9年)がやっと終結してから5年後、1482年(文明14年)から後世に残る銀閣寺が作られ始めました。そして1489年(延徳元年)上棟されたので、このあとまもなく完成したようです。
 
 で、この当時、うち続いた戦乱のため京都は丸焼けに近く?疲弊していたところなので、豪華な東山殿の建設は当然庶民の反感を買うことになります。

 現在まで残っているのはわずかに観音堂(銀閣)と東求堂(とうぐどう)のみで、訪れますと案外とこじんまりとしていて、現在残されている規模ならとても大規模な造営とはいえませんが、建設当時はどうやらもっと広い面積とたくさんの大きな建物が建っていたとか。


                      (銀閣寺案内板)

       
                            (慈照寺 ご由緒板)



                     (東山慈照寺 総門)




                    (観音堂 : 北側より撮影)



 この上の写真が慈照寺の中心的建物となる観音堂です。もちろん現在は中に入ることが出来なくなりましたが、銀閣寺の売店でも売られている、淡交社刊 「古寺巡礼 京都11 銀閣寺」 という本には、観音堂の中の写真が掲載されていまして、それを見ますと二階には観音様が祀られ、一階には小さいながらたくさんのお地蔵様が祀られています。

 もちろん慈照寺という名のとおり、お寺ですから何がしかのご本尊が祭られているのですが、室町幕府の威勢、地に落ちつつあったとはいえ、いやだからこそ足利義政の人生のすべてをここにかけたのでしょう。



       
                           (観音堂および向月台)


 でも「古寺巡礼 銀閣寺」の本の写真を見ますと、将軍の住まいにしては驚くほど質素で、室町幕府の絶頂期に足利義満が建立した、金箔貼りまくりのいかにも権力を誇示するかのような金閣寺とは違い、観音堂はもちろん初めから銀箔などは貼られていなかったし、中もビックリするほど素朴な造りです。

   元来、ここはもともとは東山殿と呼ばれていて政治も兼ねていたようですが、
        「銀閣」の名はどうやら江戸時代から使われ始めたようです。

   また義政の遺言により彼の死後、
   宗教的要素だけでなく文化的要素も大いにあった禅宗の宗派の一つである、
   臨済宗の寺院へと改められて 「東山慈照寺(読み:とうざん じしょうじ)」 へとなるのです。





     そして向月台と銀沙灘の横にある国宝 東求堂を過ぎると
     展望台へいく道がありましてそこを登っていきます。


            途中には分岐があり左手のほうへ入っていきますと お茶の井が。 
       



     お茶の井から元に戻り、
     展望台の頂点へいきますと観音堂とともに京の街並みが見えます。

            (展望所から見た銀閣=観音堂, トリミングにより拡大)

    ここから見渡せる現代の街並みはとても殺風景な感じですが、
            開発が進む前はとても趣きがあったのでしょうね。



  そして展望所を降りると慈照寺のいちばんの見所である、
  観音堂の手前にある錦鏡池の前から撮影した露出オーバーな写真が下写真です。

                    (観音堂 : 錦鏡池より撮影)

手前の池、名を錦鏡池(きんきょうち)といいますが、
この何の飾り気のない中での美しい緑色をした池と、観音堂と調和のとれた木々が美しいこと。


 ただ一つ悔やまれるのは、この当時まだカメラ初心者だった私。

 最初の看板を露出+1.3で撮影後、露出補正を戻すのを忘れまして、すべての写真がオーバー露出のまま撮影されてしまいました。ここに掲載するにあたり極力修正したものの、もう直せなかった写真ばかりでお恥ずかしい限りで、特にこの写真は全く直らず仕方なくそのまま掲載しております。


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 元々この足利義政という将軍、将軍家の血を引いていたため家督を継いで室町幕府の八代将軍となるのですが、最初は政治にも真剣に取り組んだようです。

 ただ六代将軍であった父の足利義教(よしのり)が強烈な強権政治をおこなったことで、播磨国の赤松満祐・教康親子に殺害された(1441年・嘉吉の乱)こともあり、その反動があったのか強い指導力を発揮することもなく、どうやら実務的・政治的能力はかなり乏しかったようで、どちらかといえば幼い時から得意だった文化的要素へと、次第にのめり込んでいくようになります。


      (足利義政像,土佐光信画 東京国立博物館蔵 : ウィキペディアより)


 しかももらった奥さん(正妻)というのが日野富子で、この正妻は義政とは全く正反対ともいえる性格だったようで、しかも実務能力にもかなり長けていたというから歴史は皮肉なものですが、政治的・家庭的にも孤立した中で東山文化を残すことだけに自分の人生を賭けたのでしょう。またはそういう天命だった将軍なのでしょう。

 そのせいなのか、東山殿を造るときに妻側からの援助は一切なかったようです。




 そしてこの足利義政がやり始めた、
 京都の東山文化の中心的存在である東山殿 (義政の死後、遺言により寺へとなる) から、
 禅宗との和合を図りながら東山御物が誕生して東山文化が育っていきました。

こちらの写真は現在も残る国宝 東求堂(とうぐどう)ですが、義政の居住地だったようで、
お隣の観音堂とともに戦乱による火災炎上からかろうじて免れ、今日まで残りました。

                        (国宝 東求堂)


         その東求堂の中にある、和風建築の書斎の原型ともなった同仁斎(どうじんさい)
       
                      (同仁斎の中 : 筆者所持の絵葉書より)
    

雪舟の墨絵とかではありませんが、この同仁斎にしても一見非常に質素のように見える中にも味わい深いものがありますよね。金閣寺に象徴されるようなド派手さはここには全くないけれど、質素だからこそよりいっそう深く染み入るものがありますね。

              (雪舟の天橋立図  所蔵:京都国立博物館)


 そしてここから発祥していった、いぶし銀みたいなこの質素な中にある美意識という感覚が、これまでの日本人にはなかった新たな文化として育っていき、書院造りやら床の間といったような建物にも、日本人の魂の中にもちゃんと残っています。

 日本文化の源流や建築様式は、大方この室町期にだいたいの骨格が出来上がり、江戸時代とかに再建された建物でも、この時期に確立したものが基礎となっているようです。




 その質素の中の美、銀閣と最もお似合いといえるのがこの雪を頂いた銀閣寺です。

 足利義満が建立した金閣寺が「陽」、または季節で言えば「初夏」か「夏」とすれば、
 この真冬の雪景色が最も似合う、足利義政が建立した慈照寺は「陰」にあたりますね。

         (雪景色の観音堂 : 2005.2.4撮影 ウィキペディアより)

       
                  (雪景色の銀沙灘と観音堂 : 筆者所持の絵葉書より)


 残念ながらこの雪をいただいた銀閣の写真は拝借なのですが、
 色のない美しい穢れのない純白な雪をいただいても、素朴な銀閣とはよりいっそう調和がとれ、素朴だからこそより美しく感じます (これはあくまで私の主観です)。



 現代でもよく使われています「奥ゆかしい」とか「幽玄の美」とか「渋い」といった、外国人にはなかなか理解できにくい日本文化独特ともいえる要素の発祥元がここだと思えば、政治的には最悪の評価に近い足利義政も、後世に残した文化的業績は大いに評価されてもいいのではないでしょうか。

 もちろん足利義政自身は、そんなことを意識して東山文化を残したわけではないと思いますが、この使命を果たすためにきっと生まれてきて、暗殺された父の後を継いだ兄の足利の七代目の将軍はわずか10歳の若さで若死にし、文化的素質が大いにあった弟の義政が八代将軍となって室町幕府の跡継ぎとなったのでしょう。




  【関連情報URL】には、当フォトギャラリーに銀閣寺関連の写真を2連投で掲載しています。


      【2013.8.9 追記】
 なお、ここに掲載した写真ですが、まだ本格的なカメラ(シグマ DP1x)を購入してまだ日が浅かったせいか、最初の案内板の写真を撮影後、カメラの露出補正を戻すのを忘れまして、このとき撮影した写真はすべて+1.3に露出補正したまま撮影してしまいました。しかも手振れが盛大なものもありますね。
 
 今回RAW現像自体から再度やり直しまして、極力露出オーバーも可能な限り修正しましたが、修正しきれなかった写真は今のところそのまま掲載しています。また後日ここを訪ねたときには写真を撮り直して差し替えたいと思います。



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         【2018.10.10 追記】
 もう一昨年前になりますが、2017(H29).1.16の月曜日、前日の15日に天気予報を見ているとどうやら翌日16日の京都市内は雪が降りそうだということで、しかもうまい具合に仕事休みだったので、15日の夜半から知人を連れて京都まで繰り出すことに。

そして朝9時の開門と同時に、雪景色の銀沙灘や向月台から見える観音堂を速攻で撮影しました。もちろん同じことを考えている人も当然いますので、寒~い早朝から幾人ものカメラマンが殺到しておりました。


撮影時のお空は曇り空で青空ではありませんでしたが、
何年か越しにやっと雪景色の銀閣寺境内を、手持ちの3台のカメラを駆使して撮影いたしました。



       


          (2017.1.16 雪化粧した銀閣寺境内と観音堂)     




   こちらの屋根に積もった雪の厚みからすると10cm近くの積雪だったようです。




   それから観音堂の裏山に登って展望所から撮影。

毎度のことながら、シグマのカメラのホワイトバランスが不安定で、しかも暗部に弱いフォビオンの撮像素子、撮影日は天気が悪くて被写体自体が暗いといったこともあり、1枚の写真の中でさえ雪の色がかなり変色しておりバラバラな色彩ですが、これはご愛嬌で。


       





   展望所から降りますと、錦鏡池(きんきょうち)という池の前に出ますが、
   ここで雪景色の観音堂を1枚。

                    (観音堂 : 錦鏡池より撮影)


何故かうれしくもこの時だけ少しばかりお空が晴れまして、被写体が暗いなかでも背景に青空が入った雪景色の観音堂を無事撮影することができました。

本当は雪景色の銀閣寺編のブログを新たに作ろうとしたのですが、いたずらにブログ数を増やすよりも、過去のブログに追記したほうが良いと思い、2012年のお正月にアップしたこのブログに追加掲載いたしました。






          【 番 外 編 】
銀閣寺の撮影を終えた後、余興で金閣寺(北山鹿苑寺)にも行ってみようということになり、金閣寺に直行。こちらは地味な銀閣寺とは違って珍しい雪景色の金閣寺ということで、人が殺到して大変な混雑になっておりました。


ここに到着直後の10:45にまず撮影したのがこちらの写真。
     また雪が降ってきて寒くてたまらなかったです。
こちらは広角28mmレンズのシグマ DP1メリルで撮影したもの。多少トリミングしていますが。



          こちらの写真は異色のコンデジ、中望遠75mmレンズを採用している
          シグマ DP3メリルで撮影した金閣寺。こちらはノートリミング写真です。
       




そして2016の初頭に廃版になるからと急遽導入した、超使いにくいシグマ SD1メリルの一眼レフカメラに、中古1万円で入手した古い SIGMA 70-300mm F4-5.6 DG OS レンズを装着して撮影した写真2枚です。


       
             扁額(へんがく)? と屋根上の鳳凰(ほうおう)? を撮影してみました。
             ここでの掲載写真は多少トリミングしておりますが。




          それからまだ雪がやまないので、金閣寺をぐるっと1周してみました。
          こちら掲載写真は、裏手から撮影した金閣寺。DP3メリルで撮影。
       




   ぐるっと回っているうちに雪がやんだので、急いで元の撮影場所に。
   DP3メリルで露出を変更しながら4~5枚撮影したなかの1枚。

  それでも瓦や屋根上の雪がオーバ露出に近く、雪景色の撮影には神経を使います。
   
 
  


 その後、平日ということもあり日中の割引の無い高速を使うのはやめて下道から帰ることにして、桂あたりの国道9号線沿いにある天下一品のお店で暖かいラーメンを食べてから、R372経由で京都府亀岡市 → 兵庫県の(丹波)篠山市に出てから帰宅しようということになったもののこれは失敗で、なんとR372の亀岡市内のわずかに残る、未改良区間のワキ谷付近の山越え区間が除雪されておらず、何日間も通行止めのままでした。


 仕方ないので園部市街にまで出てから大回りし、トンネルが掘られて改良された県境の天引峠を通って兵庫県の篠山市内に入りました。

 ところが、なんとここ篠山市内のR372区間も何日間も除雪されてなかったようで、走行により踏み固められた雪の路面はデコボコのうえ、左右のタイヤの中間部分の雪が全く除雪されず大きく盛り上がったままで、車高の低い(120mm)レヴォーグでは床下の遮蔽板に雪がすりまくって、車体が大きく揺れまくりでした。


 この時は私が運転していたのですが、運転が大変でかえすがえすもその時の写真を撮っていなかったのが悔やまれましたが、VRXを履いていた4WDのレヴォーグでも悪戦苦闘するありさまで、前を走っていたトラックは車高が高いので雪にこすれずスイスイと走っていましたが、やはり雪道を走る車はある程度の車高があるほうが良いと、この時につくづく思いました。
  
Posted at 2012/01/01 22:23:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | 旅行/地域
2011年09月30日 イイね!

長野市 初の戸隠神社中社・奥社参拝(初秋バージョン・再加筆)

長野市 初の戸隠神社中社・奥社参拝(初秋バージョン・再加筆) 
2011.9.17の早朝、長野市の奥の聖地ともいえる旧戸隠村の戸隠へと行ってきました。

旧戸隠(とがくし)村は、おとなりの鬼無里(きなさ)村とともに2004.12.31までは存在していましたが、2005年の元旦より両村とも長野市へと編入されて戸隠村と鬼無里村は消滅しました。

よって現在は「長野市戸隠……」となっています。



 


 戸隠と聞けば 「戸隠そば」 を連想される方も多そうですが、“戸を隠す”という地名から私はなにか横溝正史の推理小説にでも出てきそうなイメージが浮かんできます。なんか山奥深い摩訶不可思議なところのような感じです。


 そして戸隠といえば、あの独特なギザギザの山が連なる戸隠連峰がまたなんともいえないたたずまいを作り出しておりますね。
 

     (独特なギザギザ山が特徴の戸隠山周辺 : 2012.10.17筆者撮影)
   


 もちろん“戸隠”の地名の由来は、古事記(日本書紀も)に出てくる天照大御神が、スサノオの乱暴狼藉に耐えかねて岩戸の中にお隠れになった「天の岩戸」の場面で、ここ奥社のご祭神である天手力雄命(あめの たぢからお の みこと)が、天照大御神がお隠れになった大きな岩を怪力で動かし投げ飛ばしたことに由来します。

 そしてその投げ飛ばされた岩が、あの独特なギザギザな格好をした戸隠山だというのです。


                      (戸隠の案内看板)


 ちなみに戸隠中社には、古事記の天の岩戸の場面でお隠れになった天照大御神を、どのようにして岩からお出しするか知恵を練った天八意思兼命(あめの やごころ おもいかね の みこと)が祭られており、火之御子社には、岩戸の前で裸で踊ったとされる天鈿女命=天宇受売命(あまの うずめの みこと)が祭られています。


   ------------------------------------


        《プロローグ》
 私が初めて戸隠の土地の名を知ったのは2009年の初夏のころで、当時乗っていた燃費最悪のアトレーワゴンで、たまたま北陸の富山側から長野市へ所用で行くのに近道をと、北陸自動車道を糸魚川インターで降りて国道148号線 千国街道を南へ向かって白馬村まで来たときのことでした。 

 長野県の北部の白馬村入ったときには夜7時も過ぎてとっくに日は暮れており、しかも土地勘もなくてここから長野市へと出るのに当時はもちろんナビもなく、道路地図帳を見ると国道406号線がいちばん長野市への近道のように見えたので、なにも考えずにここを通ることにしました。


   (国道406号線 鬼無里街道 白馬村にて : 2011.8 撮影 ウィキペディア)


 ところがこれが失敗の元で、だいたい400番台の国道は未改良の県道が国道に昇格したところが多く劣悪な道が多いのですが、鬼無里街道(きなさかいどう)と呼ばれているこの道、
 山間部というのか峠越えの部分に入るとなんと車1台がやっと通れるほどの道幅の狭さ、そして急坂と急カーブも抱き合わせで、しかも20km近くもえんえんとそのような道が続く!とんでもない道=醜道でした。
 それでも夜なのに対向車が2台も来たのでビックリでしたよ。


 (国道406号線 鬼無里街道 白馬村の白沢洞門 : 2011.8 撮影 ウィキペディア)


 さらに私は糸魚川市内でガソリンを入れなかったミスも犯していて、白馬村内では夜にはすでにガソリンスタンドは一軒も開いておらず、ガス欠に不安に覚えながら長野市街に向け山越えをしていました。

 峠の最高点は標高1000mほどもあり、後で調べると昼間なら立山連峰が見えて絶景らしいのですが、とにかくここでガス欠を起こせばもちろん携帯も通じず民家も一切なく、路頭に迷うことは必定なので必死の形相で運転していました。

 そしてなんとか峠を無事越えて、まだガス欠することなく真っ黒ななか長野市街へ向かっていると、「戸隠」という地名が道路看板に表示されていました。そしてこのとき初めて私は“戸隠”という地名を知りました。周囲は真っ暗で静寂なこともあったのでしょうか、なんとも言えない神秘的な感じをそのとき受けました。

 そしてガソリンもなんとか長野市街地まで持ちこたえ、夜10:00が近かったけどまだ開いていたガソリンスタンドを見つけると速攻で給油しました。


 後で調べれば、白馬方面から長野市街へ出るにはどうやら長野県道の33号+31号線 大町街道を使うのが普通だと知りました。

 そして、そのときは所用のため戸隠への寄り道はしませんでしたが、2011年9月17日に長野県塩尻にてオフ会があるのも兼ねて、15日から休暇を取り3日間で初めて甲信越地方に旅行することにしました。


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 その当時(2011.9)のフォトギャラリーにもアップしていますが、初日の9/15日は自宅から山梨への移動と裏富士の撮影スポットの散策、次の日の早朝に山中湖で赤富士を撮影後に富士五湖を散策してから中央道に入り、山梨県内の須玉ICで降りてから国道141号をひたすら北上し清里へ行きました。

 たまたま寄ったJR清里駅で静態保存されている蒸気機関車のC56を見学・撮影してから (前ブログのDP1xのページとフォトギャラリーに関連写真あり)、また元に戻って北上しますとJR最高標高地点の看板が目に入ってここも見学 (これもフォトギャラリーに写真掲載)。
 そしてさらに国道141号線を佐久・小諸へと走って野辺山あたりまで来ると、遠方に八ヶ岳が見えました。しかし残念ながらもう日没寸前でしたのでここでの写真は撮れなかったです。

 その後長野市内まで出てから、夜のうちに昔走った記憶を頼りに国道406号線の鬼無里(きなさ)街道から、長野県道76号線 長野戸隠線に入って戸隠へと移動しました。周囲は真っ暗なうえすれ違う車も全くなく、しかも道中もすごく狭い道が多くて本当にこの道でいけるのか不安になりました。



 ところで後日知りましたが、ここ戸隠神社奥社参道の杉並木の続くところで、
          女優の吉永小百合さんがJR東日本のCMを撮影されたとか。
                        詳しくはこちらのサイトで
   なお下の紹介動画には吉永小百合さんは出てきませんのであしからず。
 

   JR東日本 大人の休日倶楽部 「戸隠編」 拡大版
     (戸隠の参道の様子が紹介されています 長い3分58秒)



   信州観光 長野県パワースポット戸隠神社奥社杉並木の古道




 それでは長いプロローグはここで終わりにして、
    ここからは戸隠の美しい風景などを順にご紹介していきたいと思います。
 なお一部の写真につきましては、
    後日再訪問の2012.10.16と17日に撮影した写真を追加掲載しています。


   ------------------------------------


   2011.9.16の夜、戸隠に到着し車中泊をして夜明けを待ち、
   夜が明け早朝になるとさっそく戸隠神社の中社へとまず参拝です。

           (戸隠神社正面大鳥居 : 2013.9.17筆者撮影)


   我がコンテ号を神社駐車場に回し駐車場入口から撮影です。


   お手水舎を撮影。以下3枚の写真は2012.10.16の再訪問の際に撮影。





    ここのお手水は飲める、ということでしたのでゴクゴクと飲み干しました。
      確かに戸隠の湧き水はおいしかったですね。



    次にこちらの写真は戸隠中社の本殿ですが、
       2011.9.17の朝6:30頃の撮影です。



 中社のご由緒板。こちらの写真は後日の2012.10.16の撮影。
 初めて訪ねた2011.9の訪問時には色あせてボロボロでしたが、
              その後どうやら新品に作り直されたようです。



(戸隠中社境内にあるご神木 : 2011.9.17早朝撮影)


   ------------------------------------


 ところでここ戸隠を初めて訪問した2011年 9月17日を含む、9/17・18・19日の三連休は
    この近辺、大勢の観光客が押し寄せるためなのか、
 どうやら朝8:30から夕方ぐらいまで交通規制が行われる、との看板が掲示されていました。


  よって交通規制のかかる前の早朝に、まず戸隠神社の奥社へと行くことにしました。



 戸隠神社奥社へと続く参道の入り口の駐車場に6:40頃に来ると、
    すでにポチポチと人がいてどうやら登山客ばかりのようでしたが、
 なんと奥社までは杉並木が続く参道が片道2kmも続くようで、
    早速参拝の準備にかかり6:50頃出発です。



  参道の入口を入ってすぐに奥社の鳥居があります。

  この時間はまだ早朝なので、写真を見れば分かりますように参道はガラガラで、
        参道の先にはわずかに二人ほど人がいるのが見えるだけですね。


  鳥居の手前には奥社の道中案内板がありました。



  戸隠神社の奥社にたどり着くには、たっぷり2kmは歩かなければならないようです


 そしてこの日は台風が接近している影響か晴天ではなくてどんよりと曇っていて、
     しかも高地でもあるせいか気温も20℃を下回っていたのでとても涼しく、
 整備された参道を気持ちよく登っていきます。






 このときにも参道の随神門とか杉並木などの写真も撮影したものの、私にとって初めての本格的なデジカメを買ってまだ1週間ぐらいしか経っていなかったせいで、カメラの使い方を十分マスターしておらず、
 特に暗い場面の写真はうまく撮れていなくて、ここへの掲載ははばかれたので残念ながら道中写真は今回はなしです (後日 2012.1.28と2012.10.17に再訪問してブログにもしています)。

 後日2012.10.17にここを再々訪問したので、
 参道写真はそちらのブログに詳しく掲載しました→こちらです


    そして40分ほど歩いたでしょうか、ようやく奥社手前まで登ってきました。
    お手水舎のところまで180段ぐらいはあったようです。

  ようやく奥社へとたどり着きましたがきれいに整地され滑らかだった参道はどこへやら、
     最後の200~300mぐらいになるとガタガタの階段道ばかりで、
     涼しかったとはいえさすがに息切れする有様です


   ------------------------------------


  残念ながら2011.9.17の訪問時には早朝すぎたせいか、
     はたまた台風が近づきつつあったせいか、
  奥社の背後にそびえる戸隠山が残念ながら完全にもやに覆われていて、
     あの独特なギサギサ山の戸隠山を見ることはかないませんでした。

  ちなみに前日に訪れた富士山も、早朝の赤富士だけは何とか見れたものの、
     あとは一日中雲隠れしていて富士のお姿は見れなかったですね。



  それからなんとか奥社へたどり着き最後の30段ほどの階段を登りきると、
     下の写真ような質素な本殿の建物がお出迎えしてくださいます。



  そして、あのなんともいえない不思議な岩の中に本殿がある
     群馬県の榛名神社ほどではないですが、どうやら岩の中に拝殿があるようで、
     私が訪れた7:30頃は神職の方が朝のお勤めをされていました。


                  (戸隠神社奥社のご由緒板)


ここに30分ほどいたでのでしょうか、
   神主さんの朝のお勤めも終わり私も帰路につきました。
帰路の途中で8:00をとうに過ぎ8:20頃になると、
   先ほどとはうってかわって何百人もの方がこの長い参道を登ってくるではありませんか。
   これには本当にビックリです。

 なにせここは長野市の西の果ての果て、長野の街中から20km以上も離れている高地の山の中、早朝からこんなに人が来るとは全く想像すらしていませんでしたが、行き交う人から 「お早いですね」 とお声をかけられたりもしました。


   そして8:30頃に参道入り口の鳥居まで戻ってきました(下の写真)。

   この写真を見てくだされば分かりますように、
   参道は切れ目なく多くの方々が登っていくのがぼんやりとですが分かりますね。


 この後、私は愛馬ムーヴコンテカスタムRSでもう一度戸隠神社中社へと戻り、せっかく来たのでおみくじを引かさせていただきましたが、
 ここのおみくじはご自分の年齢を告げてから、それにあったものを神職さんが祝詞(のりと)を奏上したうえでお引きになって頂くものです。しかも本文は漢文となっています。でもちゃんと現代文による日本語の解説がついていますので、ご安心を。

 仏閣のおみくじは、浅草の浅草寺とか奈良の東大寺とかのように全文が漢文となっているのは幾度か見かけましたが、神社のおみくじはたいがい和歌が多いのでちょうと意外で驚きでした。ちなみに私は52番でしたよ。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それから涼しく神秘的だった戸隠を後にして長野市の街中まで出て、須坂長野東ICから上信越道に入って長野道経由でコンテオフ会のある塩尻市 小坂田公園へと向かいましたが、長野道内の坂きつい山岳地帯で依身コンテ号さんのコンテカスタムをぶっちぎりで追い越してしまい、しかもそれをしっかりと見られていたようです。
 
Posted at 2011/09/30 02:45:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | 旅行/地域

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当然、新品のストレーナ・マグネット・ガスケットへと交換。」
何シテル?   10/26 21:55
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