2013年05月10日
「天然ぼけ」 (6) Copyright (C) 2013 AuO2
「ありがとうございましたー」
又倉さんは客が離れるのを見計らって声を出した。
「今日も天然ぼけやん。そやけど、あんた見てるとほんま、あきへんわあ」
面白そうに話す店長。横では又倉さんが笑っている。
昭子はまたしても顔が赤面していくのを感じていた。顔がみるみる熱くなっていくのだ。思わず両手を頬に当て、照れを隠した。
確かに照れ臭いのではあるが、嫌な感じはなかった。みんな、嫌味で言っているのではないと、わかっていたからだ。
「ほんと、天然ぼけですよねえ」
昭子は自分でもそう言って、笑った。こういう平和な雰囲気が気に入っているのだ。
それはともかく、昭子は今日も調子がいいとは言えない状況だった。機嫌がいいのと、仕事の調子がいいのとは違う。今日がその典型的な事例だ。
昨日同様、つまらないことを間違えてしまう。途中で気が付くのでいいのだが、気付かないままになってしまうと、厄介である。さっき間違えたのはたまたまだとしても、それ以外のはやっぱり、天然ぼけかもしれない。
「まあ、いつものことですね」
又倉さんが突っ込む。実際、そんな状態なので言い返せないのが、情けない。
そうこうするうちに、4時になった。
「それじゃあ、お先に失礼します」
又倉さんはそう言って、帰りかけた。昭子はまだ次の人が来ていないのに、と思ったが絶妙のタイミングで田中さんが出てきた。
「こんにちは」
田中さんはそう言って、いつもと変わらない挨拶をする。
「こんにちは」
昭子もいつものように挨拶をした。
そんな時に店長が近付いてきて、
「今日も松田さんは天然ぼけみたいやから、しっかり頼むで」
と、田中さんに言ったのだ。
「大丈夫ですよぉ」
昭子はにこやかにそう言い返した。
そんな平和な雰囲気を保ちながら、その日は終わった。ただ昨日と違ったのは、天然ぼけを何度もやってしまったことだった。
*
昭子は帰る途中、歩きながら今日のことを考えてみた。確かに天然ぼけデーであった。特に何か特別なことがあったわけでもないのに、なぜこんなに簡単なことを間違えたりするのだろうか。
せいぜい、思い当たることといえば、混ぜ合わせクリームと夫が早く帰ってきたことの二つしかない。どちらもそんなに大袈裟なことではないし、特別なことでもない。しかも、自分にとっては良いことなのであって、気分を損ねるようなことではない。
あえて変わったことといえば、混ぜ合わせクリームのことしかないのだが、それにしたところで、自分が普段使っているものを混ぜるだけのことだ。特別なことというわけではない。
Posted at 2013/05/10 20:23:11 | |
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2013年05月08日
「天然ぼけ」 (5) Copyright (C) 2013 AuO2
1ヵ所だけでは気のせいかもしれないので、別のところにも塗ってみた。やっぱり、めだたなくなるように思える。どうやら、気のせいではなさそうだ。
顔の角度を変えて、部屋の光の当たり具合を変えてみても、効果があるのがわかる。昭子は内心で、妙に嬉しくなるのを感じた。
(いいもの見たなー)
自然と顔がにこやかになる。これは完全に昭子の性格である。嬉しいことは正直に顔に出てしまうのだ。嬉しさを隠せないたちなのだ。
「ただいま」
玄関の方から声がした。夫が帰ってきたのだ。
いつもならもっと遅いのに、今日は珍しく早い時間に帰ってきた。
昭子は嬉しさ2倍で、元気に声を出し、夫を出迎えに行く。
「おかえりー」
軽やかな足取りで、玄関に向かった。
「今日は早かったのねー」
「うん、まあね。たまにはね」
「いつもでもいいよ」
昭子は機嫌のいいのが丸出しになっていた。
*
「いらっしゃいませー」
いつもと同じつもりでも、昨日からの嬉しさが出ているのだろう。声の張りが違う。
「おっ、今日は天然ぼけはないのかな」
そんなことを言いながら、店長が話しかけてきた。
「今日は大丈夫ですよぉ」
「ほんまかなあ」
横で又倉さんが笑っている。
「ほら、お客さん」
店長がレジの前を指さした。お客がきたのだ。
「いらっしゃいませー」
昭子と又倉さんの声が見事に重なった。調子がいいというより、機嫌がいいというのが手に取るようにわかる。
又倉さんが本のバーコードを素早く入力していく。
「1010円でございますぅ」
昭子がそう言うと、客はのそのそと1000円札に100円玉をのせて昭子に差し出した。
「1010円ちょうど、じゃ、なかった、あっ、すみません。1100円お預かりいたします」
よりによって、店長が横にいる時に天然ぼけをやってしまった。
「90円のお返しです。ありがとうございますぅ」
お釣りを受け取った客は、レジの前をそそくさと離れていった。
Posted at 2013/05/08 20:42:21 | |
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2013年05月06日
「天然ぼけ」 (4) Copyright (C) 2013 AuO2
忘れ物のコピー原稿を持って、レジに戻り、新刊チェックを再開してはみるものの、内容が気になって仕方がない。いけないなあと思いつつも、新刊リストの横に置いて、時々それを見た。
よく読んでいくといくつかのクリームを混ぜて使うと書いてある。驚いたことに混ぜる比率まで指定されていた。
(へえ)
昭子は感心していた。こんな使い方があったのかと。幸いなことに記載されているクリーム類は全部持っている。この時、一度自分で試してみよう、そう思ったのだ。
さらに読み進むと、注意書きまであるのに気付いた。
“混ぜる比率を間違えると、染みやあざだけでなく、全体がぼける可能性があります。注意して下さい”
全体がぼけるとはどういう意味だろうか。めだたなくするより、染みやあざなんかはぼかす、もっといえばなくなった方がいいに決まっている。昭子はそう思った。
「それ何ですか?」
横から田中さんが声をかけてきた。昭子が一心に忘れ物のコピー原稿を見ていたせいだろう。新刊チェックの手は完全に止まってしまっている。
「えっ、これですか。さっきコピーしていたお客さんが忘れていったコピーの原稿です」 田中さんが覗き込んできた。多少は興味を持ったようだ。
「ふーん」
ちらちらっと、内容を見て、田中さんはそう言っただけだった。それ以上の興味はないらしい。
そんな田中さんとは対照的に、昭子の方はかなり興味を持って見ていただけに、内容を覚えてしまっていた。
自分で試してみようとまで思っているのだから、当然かもしれない。
「いらっしゃいませー」
田中さんが声を出した。お客がきたのだ。
「いらっしゃいませー」
昭子も声を出す。
そんな調子で、その後は天然ぼけで調子が狂うこともなく、無事に終わった。
*
翌日。
店が終わり、昭子は家に帰ってから、さっそく試してみることにした。原稿を見つけた昨日のうちに試してもよかったのだが、家に帰ってから何かをしようという気が全然起きなかった。天然ぼけと言われたことも影響していたかもしれない。
さっそく、原稿にあった内容を思い出し、準備を始める。はっきりと原稿の内容を思い出せる。
指定のクリーム等(乳液まであった)数種類のものを、指示通りに掌の上で混ぜる。
見た感じ、ちょくちょく使っているハンドクリームとたいして変わらないような気もするが、使ってみないことにはわからない。
昭子は試しに頬にある小さい染みに塗ってみた。鏡で見てみるとなんとなくめだたなくなったような気がする。普通ならこんなにすぐ効果が出るはずはないのに、これはすごい。
思い込みのせいもあるのかもしれない。そういった時は何でもいいように見えてしまうものである。
Posted at 2013/05/06 10:28:05 | |
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2013年05月04日
「天然ぼけ」 (3) Copyright (C) 2013 AuO2
「どのようにコピーいたしましょう」
この本屋にはセルフサービスのコピー機が2台置いてあり、お金を入れれば客は自由にコピー機が使えるのだが、操作の仕方がわからない人は店員に尋ねてくる。たいてい、そんな時は店員がコピー作業をしてあげなければならなくなることが多い。
「すいませんねぇ」
年配の女性は遠慮がちにそう言った。右隣りのコピー機は、すでに別の客がコピー作業していて使えない。必然的に左のコピー機を使う。
女性が原稿を出してきた。1枚だけである。何かの会の会合を記したもののようだ。これくらいなら、自分でして欲しいなと、思うところだが、客に対してそんなことは言えない。
そうこうするうちに右隣りのコピー機の客がコピー作業を終えたのか、その場から去っていった。
昭子は慣れた手付きでコピーを始めた。
「これでよろしいですか」
やさしくそう問いかけると、
「はい、はい。これでいいです。それで、すみませんが、これをあと6枚お願いします」「はい」
枚数を6にセットして、スタートを押す。簡単なものだ。すぐに6枚分のコピーが出てきた。
「ありがとうございます」
年配の女性はそう言って、何度も頭を下げた。そこまで、丁寧な客も珍しい。
「ありがとうございますぅ」
昭子はいつもの言葉を反射的に口にしていた。ゆっくりと歩いてその女性は店を出ていった。深い意味はなかったのだが、店から出て行くのを最後まで見届けた。
見届けてから右隣りのコピー機に目をやった。なんとなく気になったので、確認してみると、予感的中といわんばかりに、原稿を置き忘れている。まず間違いなく、さっきの客だろう。コピー原稿の忘れ物はかなり多いのだ。
すぐに手に取って見てみると、どこかのエステかなにかで使っている原稿か、資料だろうか。クリームか何かのことが書いてある。
つい興味をそそられて、読んでみる。
読んでみて、昭子はますます興味を持った。内容的にはそんな大袈裟なものでなく、染みやあざをめだたなくする、技法のようなものが書いてあるだけなのだが、自分が使っている商品の名前があったのだ。
こういうところで自分の使っているものの名前が出てきたりすると、なんとなくうれしいのである。まさに昭子はそういう性格だった。
Posted at 2013/05/04 20:27:53 | |
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2013年05月02日
「天然ぼけ」 (2) Copyright (C) 2013 AuO2
そんなことを考えながら、チェック作業を始めようとした時に、又倉さんの声が耳に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
客がきたのだった。こういう時はたいていタイミングが悪い。来て欲しい時に来てくれなくて、来なくてもいい時にやってくる。客足とはそんなものだ。
「いらっしゃいませー」
昭子も同じように声を出す。そう言ってる間にも本のバーコードがレジに入力されていく。
「960円でございます」
そういう言うと客はすかさず、1万円札を差し出した。
「1万円、お預かりいたします」
レジのディスプレイには釣銭が9040円と表示されている。
「お先、大きい方、9000円のお返しです、お確かめ下さいませ。おあと、細かい方、40円のお返しです。ありがとうございますぅ」
今度は間違わなかった。いつもの調子に戻ったような気がした。
「ありがとうございましたー」
遅れて又倉さんが声を出す。昭子の方を見てにっこりする。どうやら、考えることは同じようだ。今度は間違わずに済んだな。そういうことだろう。
昭子はこの本屋で働きはじめてまだ数ヵ月しかたっていない。しかし、過去にレジでの仕事をしていたことがあるので、特に抵抗もなく、すんなりと慣れた。本屋特有の雑務も長い間ここで働いている又倉さんや他のパートタイマーの人に教えてもらい、特に問題もなく、こなしていた。昭子自身、嫌な人もいないので働きやすくていいな、と、そう思っていた。
昭子はここ以外に、コンビニでもパートとして働いているのだが、それは結婚したての家計の事情からだった。
「こんにちは」
横から声がかかった。又倉さんとは反対の方向。この声は田中さんだ。
「こんにちは」
昭子はあいさつを返して思った。又倉さんが帰る時間になったのかと。田中さんと又倉さんがちょうど入れ替わる時間になっていたのだ。
昭子は壁にある時計を見た。4時5分前といったところだろうか。確かに交替の時間である。
又倉さんと田中さんがすっと入れ替わった。又倉さんはもう帰る用意をしている。こういうことだけは素早い。
昭子は夜の7時までなので、まだ帰る時間ではない。もう帰る体勢に入っている又倉さんを横目に見ながら、さっきからなかなか進まない新刊チェックを再開した。
今度は客がこない感じだ。とりあえず、このままの状態なら新刊チェックはかなり進みそうだ。昭子はそう思った。しかし、現実はそう甘くはない。そんなことを思った矢先、客に声をかけられた。
「あのぉ、ちょっとすみません」
年配の温和な感じの女性が、申し訳なさそうな雰囲気を漂わせて、昭子を見ている。
「はい」
昭子が返事をすると、すぐに、
「ちょっとこれ、コピーしてほしいんですけど…」
と言ってきた。それを聞いて昭子はすぐにコピー機に向かった。
Posted at 2013/05/02 20:31:22 | |
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