
雑誌「カーグラフィック」を創刊、編集長を長く務め、最近まで同誌の名誉編集長だった、小林彰太郎さんがお亡くなりになりました。
自動車専門誌『CAR GRAPHIC』名誉編集長の小林彰太郎氏が2013年10月28日、肺性心で死去した。享年83歳。
小林彰太郎氏は、ライオン歯磨・石鹸(現ライオン株式会社)の創業家一族の一員として、1929年に東京で生まれた。幼い頃から自動車を熱愛し、東京大学(旧制)経済学部在学中に自動車ジャーナリストを生涯の職業と決め、自動車誌への執筆を開始した。
1962年には、月刊自動車誌『CARグラフィック』を二玄社から出版した。新型車に試乗し、その印象を記した「ロードインプレッション」は、読者にまるで自らステアリングを握っているかのような感覚を与え、多くのファンを獲得。同誌を、日本を代表する自動車専門誌に育て上げた。
『CAR GRAPHIC』編集長(初代)を務めるかたわら、日本自動車ジャーナリスト協会副会長や、日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員会委員長などを歴任。
また、その活躍は国内にとどまらず、20世紀で最も影響力のあった車に与えられた自動車賞「CAR OF THE CENTURY」の名誉専門委員会副会長や、イタリアで開催されている世界でも有数のクラシックカーコンテスト「ヴィラ・デステ・コンクール・デレガンス」の審査員としても活躍した。クラシックカーを愛し、日本クラシックカークラブ(CCCJ)の会長も務めた。
通夜ならびに葬儀・告別式は近親者で行う。後日「お別れの会(仮称)」を開く。喪主は長男の小林大樹氏。
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まだ、私が2歳ちょっとの時、祖父母が買ってくれた本で「カーグラフィック別冊・1975年の国産車」という、「自動車ガイドブック」のカーグラフィック版な本がありました。
それは今もボロボロなページが半分ぐらいない状態、幼年期~中学ぐらいまでの落書き(幼年期はクレヨンで、中学ぐらいは40系スプリンタークーペや230セド・グロなどにパトライトやガラスに弾痕(「太陽にほえろ!」や「西部警察」の影響で・・・)を書き込んでました。)が残ってます。
巻末のほうは軽自動車から当時の大衆車(カローラやシビック)、中型車(クラウンやセド・グロ)、スポーツカー(フェアレディZとセリカなど)のインプレッションのレビューがあり、そこから「小林彰太郎」という名前を知ったのです。
ちなみに、小林さんのほか、NYMでおなじみの熊倉さん、みん友の吉田匠さん、カーグラTVの田辺さんも書かれてました。
やがて、私は小学生になり、3年生のとき、親に初めて買ってもらったのが「カーグラフィック」1981年10月号でした。
その頃、私の父が初代のシティが気になったようで、珍しく会社帰りに買ってきたのがこの1982年2月号でした。
ちなみに父がカーグラフィックを買ったのはこれが最初で最後でした。
母方の叔父がそれ以前にカーグラフィックの読者で、1972年から81年までのバックナンバーを処分する際は高校生になった私が貰ってきました(が、後年処分しました・・・)。
高校生の頃から毎月小遣いからカーグラフィックを買い、その頃、小林さんは編集長を退き、編集総局長となってました。
「スーパーCG」もその頃創刊されました。
カーグラフィックは2005年ぐらいまで毎月買ってましたが、だんだん誌面内容が面白くなくなってきたのと、我が家のバックナンバーも場所を取るようになってきたので、処分と、興味のある号だけ買うようになってきて、最近ではブックオフで数か月前の号で興味ある内容があれば買うようになりました。
前も書きましたが、カーグラフィックの経営も思わしくなくなり、二玄社から現在のカーグラフィック社に版元が変更され、小林さんもいつの間にやら「名誉編集長」(なんだか長嶋茂雄氏の「巨人軍終身名誉監督」みたいな肩書きですね)になってました。
1982年2月号の横の本は小林さんの半生記?です。
10年ぐらい前に古本屋で買いました。
昨年9月の御殿場の「カーグラフィック創刊50周年」イベントです。
実はこのトークショーの後、会場内歩いていたら私の数メートル先に小林さんが居たのです。
あのとき、サイン貰っとけばよかった・・・。
今発売中の「ベストカー」に小林さんが載ってますが、まさか・・・でした。
私がこんなにマニアックな車バカになった下地を作った人として、小林彰太郎さんもその一人です。
40年近く「カーグラフィック」という本に嵌り、誌面から楽しませてもらいました。
謹んで、小林彰太郎さんのご冥福をお祈りします。
Posted at 2013/10/29 17:25:08 | |
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