郵便局の風景印は伊勢市内の24局のうち14局です
伊勢郵便局本局
外宮と内宮を結ぶ御幸道路沿線
本局🏣の風景印は宇治橋と伊勢海老
外宮前🏣は外宮ご正殿
神宮司庁の非売品のポストカードに切手を貼って消印
平日のみ取り扱いでゆうゆう窓口では押してもらえません
記念帳等に切手を貼っても風景印の消印は押してもらえません
図案作成者 柴田圭介
外宮🏣は赤福から徒歩ゼロ分、駐車場一応ありますが段差あり
伊勢志摩スカイライン
天空のポストのみ投函すれば宇治橋の風景印が押されます
天空のポストの記念切手とポストカードは展望台売店で販売しています
現行と廃止印
大湊🏣
風景印の図柄は豊臣秀吉朝鮮侵攻時の軍船日本丸と九鬼水軍の紋
ポケモン電気バスのポストカード
外宮〜内宮を走る電気路線バスに乗車してget
天正20年文禄元年1592年に豊臣秀吉の命で九鬼嘉隆が大湊の造船所で建造し、鬼宿(きしゅく)丸と命名された後、名護屋城へ回航した際に最も優れた船として秀吉の指示で日本丸へ改名されました
全長99尺(約30メートル)
1500石積み(積載重量220トン)
櫓100丁立て
当時最大級の 安宅船 (あたけぶね…室町時代から江戸時代の軍船の名称)
日本丸は文禄の役で九鬼水軍の旗艦とし安骨浦海戦に参加
鳥羽浦村の海の博物館に模型が展示されています
各地に根拠の乏しい日本丸の俗説あります
造船の町らしく支所に錨と船窓のモニュメント
町内のマリーナ
伊勢から南極へ
歴代の南極観測船
右端の小さな船が開南丸(船名は東郷平八郎が命名)
探検から観測となり南極観測船の第一号は宗谷
「しらせ」の船名は白瀬中尉からではなく昭和基地の近くの白瀬氷河から命名されています(艦船に人名を用いることができない苦肉の命名策?)
明治時代に白瀬中尉が南極探検に用いた開南丸も伊勢の大湊で建造されています
長さ3.89m
幅7.85m
深さ3.89m
総トン数204
1910年南極点を目指してイギリスのスコット隊テラ・ノヴァ号764㌧、ノルウェーのアムンゼン隊プラム号402㌧と白瀬隊が挑戦
南極点到達競争はスコットもアムンゼンも南極点に到着しましたが白瀬隊は南緯80度5分まで到着し大和雪原と命名
全員が無事に帰国しています犬を除いて
*開南丸は当初千島列島で漁をするため3本マストの鱈(たら)漁船として第2報效(ほうこう)丸として3回の漁を終えて東京湾に帰って来たとき南極探検隊が購入し東京の石川島造船所で全体の補強、蒸気エンジンを搭載し開南丸として南極探検に向かいました
第2報效丸は建造した郡司大尉が北極探検に使うことを想定しエンジン搭載スペースを空けていました
その後は報效義會が買い戻し千島列島で漁を行い3年後の1913年に台湾から東京への帰路で菅島沖で座礁し沈没(犠牲者なし)
戦艦大和の設計に携わり(主ではありません)書籍も多い松本喜太郎も大湊の生まれで東大から海軍に進み帝国海軍の技術大佐
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2024/06/15 07:36:28