メーカーによってデザインの血統、伝統、あり方、遣り口は様々。
ビックメーカーの場合、デザインの結果を統一的に管理しつつカタチの文化趣味性を維持することは不可能。
クルマ好きのイイというデザインとメーカーが望まざるを得ない売れるデザインは永遠にイコールにならないからだ。
ここに取り上げた2台には直接的な繋がりは皆無。
でもどこか同じように見えるクルマでデザインがデザインとしてクルマの中で生きているモノを意識的に並べてみた。
血は争えない。デザインで表現したいものや、やりたいこと、やっていることが同じ。時を越えて繋がる力がデザインにあることがわかるだろう。
パブリカスポーツと同時代にS600があったことをまず押さえて欲しい。
ショーカーと量産前提車をデザインで比べる意味はただ一つ。その提案の目的の差だ。ショーカーということもあってトヨタはぶっ飛んでいる。空想的な胡散臭さともいえるが本来、デザインは前衛であり既成概念を吹き飛ばすものという教科書通りに解釈すればトヨタが考えていたデザインとホンダが考えていたデザインとは全く意味が異なりトヨタデザインが遥かに視野が広く次元が異なる仕事をしていたことがわかるだろう。空想的なデザイン開発を出来るゆとりはトヨタデザインの強みの一つであり今までにない常に新しいモノを。今までにない考えで新しい世界を。こうした文脈でトヨタデザインを読み解くとまた違った面が見えてくる。
開放的な(機能的には開放的ではない)セラのキャビンとテキトーに選んで並べたパブリカスポーツのキャビンがどういうわけだか同じように見えてくるのはメーカー的なデザインという創作作業にパブリカスポーツとセラに共通点、クセ、文化があるから。意識的に行っているか無意識的に行っているかそれはわからない(十中八九、その両方)がメーカーに勤務するデザイナーはそこの一員である以上、自身の気持ちとは別にそれに則り仕事をしているのはまず間違いがない。
自身を縛る枠組みから自由にならない以上、そうした枠組みを明確化して意味や意義や良心を導き出し意識的にそれを高めて発信し続けないとクルマのデザイナーとしてもそこで産まれるだろうクルマ達としても不幸だろう。好き嫌いは別にしてパブリカスポーツにもセラにも主張がある。デザインで何をやるのか、何を訴えていくか、そこを曖昧にしてしまうと必ずツケが回る。
リクツを忘れてクルマバカとして2台並べてみると時代が30年以上過ぎているのにホイールカバーの意匠が同じようなディッシュタイプなのが面白い。機能的に意味がなくともガラス面積を大きくしたりドアの開閉方法を変えたり…人が違ってもトライしていることはほぼほぼ同じ。新しく見えるデザインとは時代に依らず同じような感覚なのかも。
Posted at 2017/01/03 07:59:14 | |
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