1972 ブーメラン

1974 ブラボー
強烈。鮮烈。前衛。先進。未来。画期的。攻撃的。
凄すぎ。恐るべき70年代。これらはイタリアンデザイン?否モダンデザインの最終解。今見ても古い感じはあまりしない。
そのヒミツはブーメランやブラボーは建築的に見えること。カタチから魅力表現を削除。
骨格自体をまるごと見せる。骨格自体をまるごと見せるので骨格自体の異様さがダイレクトに伝わるという。今のマツダの面をうねらせる官能表現はとてもスキルが高くおいそれとは出来ないので大雑把に言うと(結果として)フツーのメーカーのフツーのクルマはカタチから魅力表現を失った骨格表現となる。でもこれら異様なショーカーとは違いフツーのメーカーのフツーのクルマは骨格はフツーなので見ていて印象に残らない。
見ればみるほど
この二台は色々と考えさせられるデザインだ。
ショーカーというドンガラであればどこのメーカーの誰でも出来るデザイン。
先進とか前衛とか未来という方向性でカタチから無駄を削ぎ落としてゆけばクルマのデザインの魅力、本質は骨格しか残らない。
つまり新しいデザインを突き詰めて得られる最終解答はこれ。他にはない。
仮にそれが正しければデザインでこれ以上踏み込めない。デザインの新しさはテクノロジーに裏打ちされた骨格しかないことになる。
現代のデザインは完成度は高くまとまって見えていても見方、考え方を変える度肝を抜く存在感がないのはそのため。
アートを標榜するマツダの魂動デザインが今後、躓くことがあるとすればこのモダンデザインの壁にぶち当たったときだろう。クルマとしての官能表現をアートとして捉えているうちはそれこそ自由に追究することが出来る。でもそれはありとあらゆるメーカーが今までさんざんやってきた規程路線だ。新しいクルマで新しいクルマらしい官能表現を追究するだけではデザインの深淵に挑むことにならないと思う。
Posted at 2017/02/18 21:00:16 | |
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