どうも(・ω・`=)ゞこんばんは
本日はマツダ100周年の創立記念日ですね。
というわけで、今日は2017年のマツダファン東北ミーティングで頂いた、冊子
「マツダのブランドストーリー」の内容を元にブログを書いていきます。
※ブログ内容中、年代的に不快に感じる可能性がある内容も含みますので、読まれる方は覚悟してくださいm(__)m
また今回は長くなりそうなので、前編後編に分けた2部構成ブログとなります。
ではマツダのブランドストーリー前編上映開始です
マツダのブランドストーリー 目次
目次は1938年から2010年代の魂動デザイン登場あたりまでのマツダの年表を兼ねた内容です。
第1章 1938 Zoom-Zoomの原点
「グリーンパネル」
時は1938年、当時の日本は第二次世界大戦の真っ只中でありました。自由なものづくりが制約される中、東洋工業(現在のマツダ)は
マツダGA型「グリーンパネル」という名前の新型三輪トラックを発表しました。ガソリンが希少になる中、排気量を従来の500㏄から670㏄に拡大しつつ、ガソリンは2割以上節約を謳い文句に様々な新技術と従来の3段変速から当時の国内では先端を行く4段変速のトランスミッションを搭載しました。
当時からマツダは先端の技術を市販車に投入して普及することを頑張っていたんですね~( ゜o゜)
また、グリーンパネルの名前の由来ですが、計器パネル全体が緑色だったことが名前の由来だそうですが、もうひとつこのような意味も込められていたそうです。
「グリーンは青春幸福平和の代名詞」と
確か現在グリーンパネルを社内レストアプロジェクトでレストア中でしたよね。違いましたっけ( ・◇・)?
第2章 1945 廃墟の中からの出発
~a pride of Hiroshima!~
1945年の8月6日、その日は東洋工業の社長松田重次郎社長の70歳の誕生日でした。
東洋工業本社は爆心地から5キロほど離れていた為、建物への被害は少なかったものの、従業員やその家族に多くの死傷者を出し、被爆の混乱の中で会社の操業は完全に停止しました。世界初の原子力爆弾の投下を受けた広島は、今後70年間は植物は育たないと言われるほど、まさに壊滅的な打撃を受けました。被爆中心地から東に向かって逃げてくると、最初にある大きな医療施設は東洋工業の付属病院でした。
当社は救護のために食堂、寄宿舎、その他施設を解放し、また医療品や油類、布類などの備蓄品すべて
提供して被災者の救護、炊き出しを行いました。広島市周辺で相当な規模を持ち、使用に耐えうる建物や設備が残っていたのは市の中心部から5キロほど離れた向洋地区の東洋工業のみでした。建物を完全に破壊された広島県庁の全機構をはじめ、裁判所、NHK広島放送局、中国新聞社などが一時間借りして業務を再開しました。まさに広島の復興は向洋からはじまりました。東洋工業は地元の復興を想い、復興に必要な物資を運ぶための三輪トラックの生産をいち早く再開しようと決意し、原材料の入手が難航する中、原爆投下からわずか4ヶ月後に
「GA型三輪トラック」の生産を再開しました。
地元の復興のために、原材料が手に入りにくい中で奔走する(。´Д⊂) 不覚にも自分で本の内容をブログとして書いていて感動してました。現代人が忘れてしまった何かがあるそんな気が…。そして、東洋工業の附属病院って現在のマツダ病院のことですよね?
マツダのブランドストーリー正直ドラマ化して欲しいです。
第3章 1960年代 総合自動車メーカーへ
~業界再編の波とロータリーエンジンへの挑戦~
1950年代後半から1960年代にかけて、日本経済は本格的な高度成長期に入り、小型車を中心にマイカーブームが到来しつつありました。当時、三輪トラックメーカーであった東洋工業も総合自動車メーカーへと大きく飛躍するため、1960年に初の四輪乗用車
「R360クーペ」を発表しました。
軽四輪自動車としては日本初の本格的トルクコンバーター式
ATが採用され、価格も競合車と比較して安価であり、日本のモータリゼーションのさきがけの1台となりました。当時社長の松田恒次は、この
「R360クーペ」の開発にあたって、乗用車需要の底辺を開拓しよう、と唱え、この方針は
「ピラミッドビジョン」と呼ばれました。当時国民の所得階層分布はピラミッド型になっており、安価で手の届く大衆車を開発することで、より多くの人に自動車を届けようとしました。
総合自動車メーカーを目指し、
「ピラミッドビジョン」を掲げた頃、日本経済は大きな転換期を迎えていました。グローバルで経済が成長し、資本、貿易の自由化の流れが起き、日本の基幹産業の国際競争力を高める狙いで、国の指導の下に国内の自動車メーカーを再編する動きがありました。この再編論の中で、東洋工業は先行する大手自動車メーカーに吸収合併されるのでは、という噂が囁かれていました。
そこで、自主独立を図るべく、まだ誰も成功していない夢のエンジン
「ロータリーエンジン」の実用化への挑戦を決意しました。これは同時に、後発メーカーが技術革新の先駆者としてブランドイメージを向上させる千載一遇のチャンスでした。
R360クーペから始まった4輪自動車の生産、1962年に今も続く伝統ネームの軽自動車
キャロル、1964年の
ファミリア800、1966年の
ルーチェ1500、そして次頁にはついに
ロータリーエンジン登場です。
ロータリーエンジンへの挑戦したおいても、大いなる夢とロマンを感じた技術者たちが、不屈のチャレンジ精神を発揮していきました。
チャターマーク(波状摩擦)の発生や
オイルシール不良など開発の初期段階に致命的とも思える技術課題が次々に見つかり、何度も奈落の底に突き落とされましたが、全力で困難に立ち向かい、粘り強く問題を解決していきました。
コルク製造で培った化学の知見や材料研究、他社には真似のできない工作機部門による専用工作機械の自社開発、他社には当時日本の最先端を走っていた製造部門の鋳造技術、そして各サプライヤが重責を担った関連部品開発など、幅広い領域のメンバー全員が大きな夢を共有し、志をひとつに高い技術力を集結させたこと、これこそが東洋工業がロータリーエンジンの実用化に成功した最大の要因でした。
ドイツNSU社からの技術提携から6年後、ついに世界初の2ローター・ロータリーエンジン搭載車
「コスモスポーツ」が誕生。自動車史上に新たな1頁を刻むと同時に、マツダに高い理想を掲げて挑戦し続けることの大切さ、すなわち
「マツダスピリット」を刻む1台となりました。
後に世界で唯一マツダのみが量産をし続けることに成功したロータリーエンジン搭載車第1号であるコスモスポーツが誕生しましたね( ´∀`)
しかし、喜びもつかの間…次の頁では時代の環境の変化がロータリーエンジンに思わぬ逆風をもたらします((゚□゚;)) では次の頁へ
第4章 1970年代 飽くなき挑戦の歴史
~Never stop challenging~
1970年代初頭、米国の厳しい排ガス規制であるマスキー法にいち早く合格するなど、低公害エンジンとしての期待も加わり、ロータリーエンジンは一躍注目の的となりました。しかし第一次オイルショック契機に社会的要求が省資源へシフトすると、燃費の問題が過剰なまでにクローズアップされて状況は暗転しました。性急なまでに拡大展開を図ったロータリーエンジン搭載車の販売は急落し、経営的な苦境に陥ったのです。
戦犯扱いされたロータリーエンジンは、社内でも撤退論まで含む激しい批判に晒されました。しかし長年にわたり数多の自動車メーカーが研究開発を続けてきたレシプロエンジンに対し、ロータリーエンジンの開発はまだ端緒に付いたばかりで、未知の可能性を多く秘めていました。
開発者たちは、今ここでロータリーエンジンを撤退することは、ユーザーやファンへの信義に背き、メーカーとしての社会的責任を放棄することに等しいと考え、撤退論に屈しませんでした。「
技術で失ったものは技術で取り戻せ」と、40%の燃費改善を掲げた
「フェニックス計画」をスタートさせ、技術開発に心血を注ぐとともに、コンパクトで高出力なロータリーエンジンの特長を最大限に生かした専用車種の企画に注力しました。
技術者は、走りが良く、小型で軽量なロータリーエンジンの性能をフルに発揮できる特徴的なモデルを造るべくプロジェクトに神経を注ぎ込みました。その結果、1978年にフロントミッドシップレイアウトのスポーツカー
「サバンナRX-7」が誕生し、北米市場で大ヒットを記録しました。こうしてロータリーエンジンはまさに不死鳥の如く蘇ったのです。
そして1991年、第59回ルマン24時間レースでロータリーエンジンを搭載した
「マツダ787B」が日本車として史上初の総合優勝。遡ること1974年から足かけ18年、13回目の挑戦での栄冠でした。
ロータリーエンジンの開発にあたっては先生もいなければ、教科書も、答えもなく、常識すらありませんでした。ロータリーエンジンの行方は、いつもすべてマツダ自身の手に委ねられていました。ロータリーエンジンがマツダにもたらしたものは、単に独自の商品だけでなく、未知のもの、可能性の見えにくいものに対してひたむきにチャレンジし続けることで道が開けるという考え方や
「飽くなき挑戦」の歴史であり、そこから脈々と受け継がれた
「マツダスピリット」だったのです。
オイルショックにより、一時は絶望の淵に追い込まれそうだったロータリーエンジンでしたが、技術者の方たちの諦めない気持ち、つまり
「飽くなき挑戦」によって後に3世代にわたって続くロータリーエンジン専用スポーツカーRX-7が誕生しました。
次の頁では、社名をそれまでの東洋工業からいよいよマツダへと変わる年となる1980年代へと突入します。
第5章 1980年代 「マツダ」として新たな出発
~独自路線による商品ラインナップの拡充~
大ヒットを収めて復活した
「サバンナRX-7」発表の他、他社とは異なる個性を持ったクルマづくりを進めていきました。1980年に第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した
「ファミリア」をはじめ、ワンボックス型商用車の代名詞ともいわれた
「ボンゴ」などのレシプロエンジン車やさらにロータリーターボエンジン車の開発など、独自路線による商品ラインナップの拡充を進めました。
1984年には社名から商品をイメージしやすいように「
東洋工業」から
「マツダ」へ社名変更しました。
そして1989年には、後に世界でもっとも多く生産されることになる2人乗り小型オープンスポーツカー
「ユーノスロードスター」を発表しました。
1980年代後半、急激な円高が進行し内需の拡大とともに、日本国内への注目が高まっていました。マツダも、国内における販売網強化の狙いとして、5チャンネル販売体制を構築しました。この強固な販売体制により、ラインナップの大幅な拡充と共に、急激に国内販売台数を伸ばしていきました。
不死鳥の如く蘇ったロータリー車
RX-7の大ヒット、そして今のMAZDA3のご先祖様であり、これまた大ヒットした5代目
ファミリア、今も販売中の
ボンゴに、後にギネス記録にも載った
ロードスターの登場、バブル期の華やかな雰囲気から誕生し、今でもファンが多い
5チャンネル体制化での様々な車種の誕生と明るい話題が続いた
東洋工業改め、
マツダでありましたが、この後の1990年代、更なる苦境がマツダを襲います(>_<)
盛り上がってきたところですが、ここで第1部完となります。
次回に続きますm(__)m