早春の候、寒さもようやく衰えはじめました。
花どきの習いで気候も不順のなりがちなこの頃です。
くれぐれもご自愛下さい。
ミ★(*^-゜)v Thanks!!★彡
桃の節句も終わりますて
お内裏様(*`・▽・´*) 州*・▽・*州お雛様
お次に待ち遠しいのは、やはりお花見でしょうか・・・。笑
*゜✽。+*✽ (´ω`*)桜*。゜.:キレイ:.゜。*ダナッ☆
今日は、3月5日で珊瑚の日です。
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あと数時間で4日でつが・・・(爆
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(C)乙女23
「さん(3)ご(5)」の語呂合わせと
珊瑚が3月の誕生石であることから。←ちと安易!?(´`)=3
世界自然保護基金(WWF)が1996(平成8)年に制定しました。
同基金は、この年から石垣島・白保に珊瑚礁保護研究センターを
建設する運動を開始し、
2000(平成12)年4月に「しらほサンゴ村」をオープン。
海の大切さを広く知らせる活動に取り組んでいます。
ミスコンの日
1908(明治41)年、時事新報社が
全国から「良家の淑女」を対象に写真を募集し、
その審査結果を公表しこれが日本初のミスコンテストとなった。
因みに1等に選出されたのは
小倉市長・末弘直方の四女・「ヒロ子」で、
学習院女子部3年に在学中で彼女の兄が
本人の承諾なしに応募したものだったが
コンテスト参加は学習院で大問題となり
彼女は退学処分になってしまった。
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時代を感じさせますね。。。
でも退学処分だなんて理不尽だなぁ~。。。
さて余談ですが・・・
このヒロ子さんですが、どんな女性だったのか気になりました。。。笑
調べてみたところ
幼い頃から活発で、舞踊、茶道、華道に励み、音楽も琴とピアノをたしなみ、聡明な子供だった。
しかも良家の子女で、小倉小町として地元では有名であったそうです。
そして退学処分後のご家族の方の反応は・・・
ヒロ子さんは一躍時の人となり、父・直方のもとには
数百もの縁談の申込みが届き、家族を喜ばせた、との事。
当時、ヒロ子さんが在籍してた学習院院長は「乃木希典」であったが
この退学処分に関しては女学部長が主張し乃木は同意も反対もしなかったらしい。
しかし、退学処分後に、この件はヒロ子の義兄が勝手に写真を応募した事実を知って、
乃木はヒロ子を退学処分としたことが間違いであったことを初めて知った。
乃木は中退者となったヒロ子のために、よい縁談を探すのが一番いい方法だと思い、
陸軍士官の中から適当な人材を捜したが、小倉市長の娘であるヒロ子と釣り合いがとれる
出自の者はなかなか見つからなかった。
そんな折、事情を知った陸軍大将・野津道貫が乃木のもとを訪れ
「ひとつうちの長男ではどうか」と助け船を出した。
野津道貫の長男・鎮之助は陸軍少佐で、前年侯爵となったばかりで、
父の跡を継いで貴族院議員になることが決まっている。
この縁談はヒロ子の両親を大変喜ばせ、ヒロ子も侯爵とのお見合い話に驚いた。
野津鎮之助は軍人だが、社交的で誠実な人柄であった。
鎮之助の方ももちろん末弘ヒロ子を大いに気に入った。
乃木を媒酌人として、二人は結婚した。
この縁談に至ったくだりは「乃木将軍の大岡裁き」として、乃木逸話の一つとなった。
結婚後、義父・野津道貫が胃がんで伏せったときも、
亡日まで献身的に看病するなど、良妻ぶりも非の打ち所がなかったという。。。
☆スチュワーデスの日
1931(昭和6)年、東京航空輸送が実施した
日本初のスチュワーデス採用試験の結果が発表された。
「エアガール」という呼び名で募集され、
2月5日に試験が行われ
140人の応募に対し、合格者は3人だった。
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女性の花形職業でしたものね。
時代もそして呼び名もキャビンアテンダントでしたっけ???に変わり
今はどうなんでしょ?
殆どが派遣だと聞きましたけど・・・
では、本題に入りましょう!
毎月恒例のネイルネタで御座います。
昨年の今頃は、
2年前は、
3年前は、
そして今回のネイルは、こんな感じです♪
春の訪れを意識した色合いに蝶々を止まらせてみました♪
数日後、飛び立って行きますて今は、もう居まへん!
( ´・ω・)y━。 o ○(´・ω・`) 。 O (´・ω・`) ショック…
Posted at 2012/03/05 22:01:42 | |
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女の特権 | 日記