
皆様、お久しぶりです。
2月20日に母が倒れました。
診断の結果、くも膜下出血であることが分かり、
7時間にも亘る手術を受けましたが、
経過が思わしくなく1ヶ月前の2月27日に
脳ヘルニアにより亡くなりました。58歳でした。
私は20日に一報を受けて地元の救急病院に駆けつけ、
手術が終わるのを待ちました。
執刀してくださった医師の説明では
①すでに脳に動脈瘤が発生②脳梗塞を発症③元々高血圧だったが、
更に血圧が急上昇して、脳の動脈瘤破裂、とのメカニズムでした。
脳の出血を止めるために動脈瘤にクリップを取り付け、
出血を吸い取る手術を行ったとの事です。
そういえば大学時代、医工学連携に関連する研究室に居たので
ステントとかクリップとか習っていたのを思い出しました。
母は昔から肥満体系で飲酒の習慣がありましたし、
5年前までは喫煙の習慣もありました。
更に最近は夜眠れないと言い不規則な生活を繰り返していました。
母は昔から病院嫌いで、体調が悪いときでも寝込んで治すタイプでした。
私も父も兄弟たちも昔から体調悪いときは病院に行こう、と説得したのですが
「寝てたら治る」「もしものときもぽっくり死にたい」と
頑として受け付けませんでした。
数年前に高血圧の薬が処方されていましたが、
勝手に飲むのをやめてしまったようでした。
(実家から3日坊主の血圧手帳と錠剤が見つかりました)
いつも飲んでる薬はアレルギーの薬でした・・・・・。
夜ちゃんと寝るように言っても
「寝られへんねんから仕方ないやろ」と言って聞きませんでした。
昨年11月には睡眠時無呼吸症候群の懸念があり
母に病院にいくことを薦めましたが
「わかったわかった、自分でも分かってる」と言っただけで
お正月に問いかけても結局行っていませんでした・・・・。
あのまま名古屋駅で降ろさずに無理やり病院に連れて行けていれば。
父は単身赴任、私も就職で愛知、妹も千葉で嫁いでいるため、
末っ子の弟だけが一緒に住んでいて今回の異変に気づきました。
もし弟が居なければ、変わり果てた姿で誰かに発見されていたことでしょう。
正月にはあんなに元気だったのに。
妹夫婦と姪も(親にとっては初孫)やってきて楽しい正月でした。
珍しく雪が積もったので自分の車で神社へ初詣に行って
長い石段を登る母の背中を押しました。
帰省最終日、私の好物だからと
早めに七草粥を食べさせてくれました。
いざ帰ろうという時にで車が鳥の糞だらけだったので
軽く洗車しようとしたときに母が使い捨ての
ビニールの手袋(袖まで覆ってくれる)を持ってきてくれました。
「これ便利やなー」というと「100均で売ってるで」と言っていました。
この会話が母と交わした最後の会話でした。
手術が終わり、医師の説明を聞いてぐったりしながら実家に戻ると、
救急車で運ばれたままの状態でした。
リビングには初孫のために洋服を作ろうとして
型紙が用意してありました。
二回の自室に戻ると正月の洗車用の
ビニールの手袋が机に置いてありました。
私のために買っておいてくれたんだと思います。
一生使えない。
寝るためにベッドメイキングをしました。
普段なら母がやっておいてくれること。
自分でやると中々紐が結べずに急に涙が出ました。
2月23日は会社を休み、私は正月に家族でお参りした地元の神社へ行きました。
お守りを買い、その足で母方の先祖が眠る墓地へお参りに行きました。
この墓地は子供の頃から良く通いましたし、私も一人でお参りに来たものです。
そこからは地元の街が一望でき、母が入院している病院も見えるのです。
医師ではない自分に出来ることなんてこれくらいです。
集中治療室にお守りをくくりつけて愛知に帰りました。
2月24日、出社しましたが夕方に会社の電話が鳴りました。
父からで「母の血圧が下がった。命が危ないので帰るように」と。
上司にそのまま伝え、会社から直接地元へ帰りました。
集中治療室に居た母は個室に移されておりました。
父の説明では24日昼にCTを撮影したところ、
左側頭葉以外の脳が血管収れんによって
梗塞を起こして真っ黒だったとの事。
自分でも写真を確認して絶望的な気持ちになりました。
医師から「今後、梗塞を起こした脳が腫れてしまい、
自律神経を司る脳幹を圧迫する。
血圧が急に下がると危ない」との説明を受けたそうです。
父はその数時間後、血圧が急降下したとの連絡を
病院から受けたということでした。
そこからは24時間体制で付き添いました。
妹は子供が居るし、弟は心労からか寝込んでしまい、
父と私が2時間交代で母の付き添いをしました。
少しでも元気が出るように母が好きだった嵐の曲を流しつづけ、
まだ聞こえるかも知れない右耳に向かって呼びかけ続けました。
あんなに表情豊かだった母の面影は無く、
自発呼吸も出来ず、体温調節機能も損なったようで
40度の高熱は下がりません。
こんな絶望的な事が世の中にあるんだなと思いました。
2月24日夜。私は母が親しかった友人に声を掛けました。
自分も幼い頃から知っている人たちばかりです。
皆一様に驚いていました。
遠路はるばる母の入院する病院まで
お見舞いに来てくださる事になりました。
24日の夜から25日朝にかけて
母の血圧はどんどん下がっていました。
僕はずっと声を掛け続けていました。
4月以降、計画していた色んな事を母に教えました。
「・・・だから元気になってくれ。」
それでも血圧が下がったり上がったりでしたが、
昼ごろに母の友達が訪ねてきてくれました。
「きみちゃーーん」と呼ばれた瞬間に
血圧がポーンと上がったんです。
CT写真では真っ黒の脳だけど、残った部分は
ちゃんと親友たちの声に反応したのでしょう。
友人たちはたくさん昔話をしてくれました。
「きみちゃんもこの話題、入りたいんでしょ、
起きなさい!車椅子押してあげるから!」
友人たちはそういって母を励ましてくれました。
26日、父が医者に病状を聞いたところ
「脳の腫れが脳幹を圧迫し始めている。
瞳孔も開きっぱなしの状態だ。
心拍波形が乱れたら、もう本当に危ない。
波形が乱れたら呼ぶべき人は読んだ方がいい」
との説明を受け、父はボロボロでした。
そりゃ、90を超えた自分の母が元気なのに
58歳の妻の命が危ないなどというのは
相当なショックでしょう。
私は次第にあらゆる情報を調べ始めました。
点滴される薬の種類も調べました。
私はベッドサイドモニターの数値の意味を
スマホで調べまくりました。
今は何でも調べられます。
脈拍は普通だが、血圧は低すぎる。
血中酸素濃度も喘息の発作レベル、
調べれば調べるほど辛くなりました。
とにかく声を掛け続けました。
医師でもない私にできるのはその程度。
「親が長生きしたら子供は成長せえへん。
さっさと死ぬのがええのよ」
・・・と母は事ある毎に言っていましたが、
自分は全然そんな風に思えない。
親孝行したくて成長するパターンもあると思うのに。
母が7歳の頃、実の母を34歳で亡くし、
母が25歳で結婚する時期に実の父を52歳で亡くしました。
たぶん、甘えられる人が居なくなった母の
そういう経験から親が長生きするのはアカンと言ったのでしょう。
2月27日。晴れていました。病室から生駒山が綺麗に見えました。
機械がアラーム音を発するたびにビクッと目覚めてしまいます。
昼間、伯母夫婦がやって来ました。母の姉なのですが、
「辛くて顔が見られない」と言ってずっと俯いていました。
昼過ぎもう一回伯母が来てくれました。
伯父は別室に私たちを呼び、
「辛いけど、万が一のことを考えたほうがいい。
自分たちに任せてくれ。下調べだけはしておく」
と後のことを調べてくれる事になりました。
考えたくないけど、考えないといけない。
考えたくないので私はとにかく母に声を掛け続けました。
姉から呼ばれていた「キーコ」、
中学のときの友達から呼ばれていた「高木君」、
大学の友達から呼ばれていた「きみちゃん」、
そして家族が呼んでいた「お母さん」。
どの名前で呼んでも当たり前の様に反応がありません。
まるで実家に生えているユーカリの木に話しかけているような反応。
一昨年に亡くなった祖父の最後の入院では
祖父は辛そうでしたが意識もあり、私はがっちり握手をしました。
私の中でも覚悟が出来たし、お別れも出来たと思っています。
しかし、今回は違うのです。一報を受けてから一貫して母は意識が無い。
その状況が一層苦しいものに感じました。
せめて一言だけでも話がしたかった。
諦めず話しかけよ、と友達からも言われていたので、
ひたすらにしゃべり続けました。
沈黙する時間が無いくらいに。
昼前のある瞬間、父が席を外している時に
話しかけていると、母の目から涙が零れ落ちました。
私は嬉しかった。
運ばれて以来意識が無く、
瞳孔が開きっぱなしの母が初めて見せた反応だったからです。
昔、ウミガメの産卵を見てもらい泣きしていた母、
料理番組で調理されるフグを見て泣いていた母、
自分が10代の頃に激しい言い合いになって
涙を流した母を思い出しました。
後から調べましたが、意識の無い患者が涙を流すのは
生理的作用である為、感情とは一切関係が無いそうです。
しかし、そうであっても母が見せた涙を
私は一生忘れることは無いと思います。
日没後、ベッドサイドモニターのアラームは鳴りっぱなしでした。
「ちゃんとナースステーションで見ていますから」と言って
看護師さんはアラームを止めました。
家族全員で母をさすりました。呼びかけました。
でも明らかに心臓の動きは弱まっています。
従兄弟姉妹が見舞いに来てくれていました。
伯母はもう一度来てくれるとのことでした。
従兄弟は「一日に3回も行ったら迷惑でしょ」と言ったそうですが、
伯母は「後悔したくない」と言ってこちらに車で向かっているようです。
そんな話をしていた中、母の心臓の鼓動が止まりました。
もう頭の中は真っ白です。テレビで見たあの光景です。
規則正しい鼓動ではなく、微細動と言えるような動き。
看護師さんが飛んできてくれて、軽く心臓をマッサージしてくれました。
少し動いたかに見えましたが、もはや気休め。
母の顔の血の気がスーッと引いていきました。
その時、伯母が到着しました。
そのときは医師が居り、「心臓が止まっても脳の機能は
すぐには止まりません。まだ脳は生きています。」と言いました。
ギリギリ伯母さんは間に合ったようです。
私は「お疲れ様。今までありがとう。」しか言えませんでした。
2月27日20時10分に母の13万997日の生涯が終わりました。
まだまだこれからだったのに。
ろくに親孝行もさせてもらえず、
世界でたった一人の母親を失いました。
スパゲティのような配管を外してもらい、
普段着に着替えさせてもらい、お化粧をしてもらった母。
生前の姿に近づき、少し気持ちが安らぎました。
不思議なものですね。
その後、母と帰宅して安置。
葬儀社と打ち合わせ。
準備、通夜式、告別式と慌しかったです。
特に信仰する宗教も無いので自由葬として
親戚とごく親しい母の友人だけに来ていただきました。
自由葬なのでBGMは母が好きだった嵐。
会場は母が描いた絵で飾り、母の幼少期からの写真で
作成したスライドショーを流しました。
恥ずかしがり屋で人前に出たがらない母は、
大昔の絵を展示されてブチギレだったかも知れませんが、
少しでも母の足跡を見てもらいたかった。
通夜式が終わって深夜まで棺の横で父と3人で過ごしました。
父が相当にやられてしまっていて非常に心配です。
告別式の朝、母の棺の前で写真を撮りました。
5人揃った最後の写真です。
さて、今日で母を亡くして1ヶ月。
何とか会社ではそれなりに業務をこなしていますが、
夜に家でボーっとしていると不意に涙がこぼれる事があります。
身体の一部をガリッと持っていかれたような喪失感です。
ろくに親孝行できなくて申し訳ない気持ちで一杯です。
そりゃ32年間もお世話になった人を亡くして急に
元気になれるわけが無いよな、と自分でも思います。
数年以内に実家も無くなるだろうから帰る家がなくなります。
落ち込もうと思えば、どっぷり落ち込める状況ですが、
ただ、毎日塞ぎこんでしまうのも違うと思ってます。
母は両親を亡くしても私や兄弟を育てながら前向きに生きていた。
私も前に進めるように色々考えてます。
前向きなスタンスは失いたくありません。
だから、これからも私は攻めの人生を送ります。
母が倒れたときから私は、友人や職場のたくさんの人から
暖かい言葉、電話や手紙などをいただきました。
出向していた時の上司もわざわざ声を掛けてくださいました。
それがとても支えになりました。ありがたい。
取り留めの無い私の話を涙を流しながら聞いてくれた人たちのことを
私は一生忘れないと思います。
そして皆様から受けた優しさを他の傷ついた誰かに
対しても御裾分けできる人になろうと思います。
長々と書いてしまいましたが、1ヶ月の節目を向かえた事もあり、
この場を借りて報告いたしました。
タイトル画像は母が描いた絵。
タイトルはエレカシの曲のタイトルから。