●1955年から1999年までのクラウン
1955年に発売された「日本人の為の純国産乗用車」、それがクラウンである。
初代モデルは文金高島田の花嫁さんが乗り降りし易い観音開きドアだけが注目されがちだが、真面目に日本の国情に合った乗用車を作り出すための技術的裏づけが見られた。
当時の劣悪な道路事情に対応することは必須であった。SUV並みの最低地上高を確保しつつ、乗用車らしいなスタイルを実現するため、フロアを低床化する必要があり、デフギアに工作が難しいハイポイドギアを敢えて採用することでプロペラシャフトをH方向で下げ、スポット溶接機で製作可能な閉じ断面フレームを開発し、断面高さを抑えながら断面係数を確保した。
また米国車のニーアクションを日本向けに強化した独立懸架をフロントに採用、リアには当時一般的だったリーフ式リジッドながら板バネを5枚から3枚に減らしてバネ間の摩擦抵抗を低減しただけでなく、少ない枚数で耐久性を確保する為、ショットピーニングを採用するなど、その努力が認められて日本を代表するブランドへと成長していった。
欧州製高級車と国産車の価格差が離れていた時代は、クラウンにはクラウンの世界があり、クラウンで十分にオーナーに誇らしい気持ちと快適性を提供できていた。
1967年にクラウンより高価なセンチュリーが発売された際、クラウンはオーナードライバーを主眼に置いた高級乗用車として再定義された。以後、モノコック構造のマークIIとの差別化が可能な独自のフレーム構造を守りつつハードトップの追加やツインカムエンジンの採用などパーソナルカーとしてのアップデートを経て1989年を迎えた。
同年にトヨタが北米市場向けに発売した歴史的名車レクサスLS400は世界中に驚きをもって迎えられ、それが日本でもセルシオとして販売された。
当時、クラウンは好景気にも支えられて販売は好調であり、クラウンは社内にセルシオという存在がありながら、日本人のために作られた高級セダンとして再定義された。セルシオに食われてしまうのでは?という周囲の心配をよそにクラウンには独自の世界観が構築され、セルシオと同じV8を積みながらもしっかり棲み分けて見せた。
1990年代からクラウンにとっての大転換期を迎えることとなる。1992年のFMCでは先代に続きV8を搭載したマジェスタが登場、シリーズ初のモノコックボデーが与えられた。ハードトップは丸みを帯びたRrビューやクオーターピラーの王冠マークの廃止がユーザーたちを戸惑わせ、後期型では急遽クラウンらしい意匠に修正された。好景気の勢いでV8を積むマジェスタをクラウンの本流に据えて、下位車種からの乗換えをハードトップ(ロイヤルシリーズ)で吸引する目論みだったのだと最近になって知ったが、実際の市場ではあくまでもロイヤルシリーズがクラウンの本流であり続けた。
それを受けて1995年には、クラウンの中心的位置づけのロイヤルシリーズも初めてVVT-iが採用され、ボデーがモノコック化されることとなり、ついにマークIIとP/Fが共通化された。すべてがクラウンのために設えられる伝統の終焉はこのモデルから静かに始まったのだが、スタイリングはあくまでもクラウンらしく端正で個人的には今でもクラウンのベストデザインとして挙げたくなる。
●1999年、和風セダンの集大成
ノストラダムスの大予言(死語)で人類が滅亡するとされた世紀末の1999年、クラウンは定期的なFMCを受けた。21世紀を迎えるに当たり開発陣はここまでのクラウンの歴史を学び、「クラウンらしい」とは何なのかを十分研究し、その上でパッケージ改革に着手したのだ。具体的には日本人の為に多気筒エンジンを積んだFR高級セダンであり続けながら、E/Gと燃タン搭載位置を車両中央に寄せ、着座位置を上げキャビンを大きく採る新しいパッケージングを採用した。
さらに新しいユーザー層への対応と言うことでエステートやアスリートを用意した。国内外メークの競合もFRのステーションワゴンやスポーツグレードを持っており、これに対抗意識を持ったものと想像できる。
他にもエコロジーにも対応せざるを得ない時代にも配慮して当時流行していた直噴リーンバーンエンジンや今後の42V化への適合も計ったマイルドハイブリッドの追加を行うなど歴代を通じてもエポックメイキングなモデルとなった。
今回取り上げたクラウンマジェスタも欧州からの影響を受け始めたものの、それでもクラウンらしいクラウンを作ろうとした最後の世代であると実感した。
●まとめ
1990年代以降、クラウンは悩みながら進化を続けてきた。1999年のFMCでクラウンらしさの集大成を表現したエクステリア・仕様設定、これからを見据えたパッケージング改革とバリエーション拡大によって新しい時代のクラウンを目指そうとした。
当時、17歳だった私の目から見てこのクラウンシリーズは、少々懐古趣味が過ぎるように感じたものの、その裏テーマだったパッケージング改革には気づかなかった。20年以上経って私はようやくこのクラウンがやりたかった事が理解できた。
この後、ゼロクラ、イチクラ、ピンクラを経て、ドイツコンプレックス、質感不足、6ライトのクーペルックの悩める「ニュルクラ」へバトンが繋がれたが、グローバル企業となったトヨタの中で国内市場のための商品の優先度が落とされるにつれて、クラウンの伝統が軽視され、商品として変質した。伝統と信頼は簡単に手に入らないものであり、失うのは一瞬のことである。相手を自分の土俵に誘い込み横綱相撲をとるのがトヨタの勝ち方のはずが、相手の土俵(6ライトクーペセダン、ニュル詣、スポーティありき)へ行って叩きのめされた。
まさか日本で生まれたトヨタが日本の心の高級車を簡単に手放そうとしてしまうのか、(既に片手は離しているが)大変心配になってしまう。
クラウンが持つ高級車の世界は今の日本でも十分通じるものなのではないか、というのが私が2003年式クラウンマジェスタに試乗した結論だ。
オーナー様に感謝。