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Cyber Xのブログ一覧

2014年04月06日 イイね!

東京の桜 2014 <上野恩賜公園、アークヒルズ、六本木ヒルズ毛利庭園、東京ミッドタウン ミッドタウン・ガーデン>

東京の桜 2014 <上野恩賜公園、アークヒルズ、六本木ヒルズ毛利庭園、東京ミッドタウン ミッドタウン・ガーデン>4月1日満開した東京の桜、今回は東京花見のスポットをブログにしてみました。







上野恩賜公園
上野の桜は江戸時代、徳川家康のブレーン僧のひとり天海による奈良吉野のソメイヨシノを植樹したところが始まりといわれています。桜の本数はおよそ800本あり、その大半をソメイヨシノが占めるそうです。



江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の寺領でしたが、慶応4年(1868)の上野戦争でそのほとんどが焼失し、その跡地に明治初年、日本初の公園として開園したのが始まりでした。パンダがいる上野動物園は公園内にあります。



東京は前日の強風と雨の影響もありましたが、まだこんな感じで綺麗な花びらを見ることができました。












中国系や東南アジア系の観光客が多いのも上野の特徴です。あと、上野といえば、明治維新の英雄、西郷隆盛です。近くで見るとめちゃくちゃデカい像です。
余談ですが、この西郷像が落成したとき、未亡人がこの姿を見て鹿児島弁で「うちの夫は浴衣を着て犬を連れて散歩に出かけたりはしなかった」とクレームをつけたとか。ところが、周囲のひとたちは何を言っているのか全く理解できなかった、という逸話が残っています。



アークヒルズ
赤坂の高級住宅街にあるアークヒルズ(複合商業施設)周辺の桜並木です。この辺りは都心でありながら、ソメイヨシノが咲く、やはり花見の名所でもあります。






赤坂、六本木あたりは、ポルシェ、ベンツ・クーペ、アストンマーティン、フェラーリなど、地元千葉ではなかなか見られない高級外車を多く見ることができます。岐阜ナンバーのポルシェ4ドアです。この辺りは外国大使館が多い土地柄ですが、どんな職業のひとたちが乗っているんでしょうか。羨ましいかぎりです。



東京都心のファミレスは専用駐車場がないお店がほとんどです。でもつい最近、たまたま見つけたのが、デニーズ南青山店でした。ここでランチタイムをとることにしました。


朝方は少しひんやりしていましたが、昼には気温が上がり、快適な一日でした。




六本木ヒルズ毛利庭園
平日夜の報道ステーションの天気予報でお馴染みの毛利庭園です。今回は夜桜見物と相成りました。









東京ミッドタウン ミッドタウン・ガーデン
六本木ヒルズの近く、東京ミッドタウン(商業施設)前のミッドタウン・ガーデンです。ピンク色にライトアップされた桜です。






2年ぶりに東京の桜のスポットを見てきました。昼間の桜もいいですが、夜桜もまた違った風情を感じることができました。お天気にも恵まれた東京ドライブの一日でした。
Posted at 2014/04/06 02:00:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自然 | 趣味
2014年03月29日 イイね!

読売巨人軍創設80周年 2014開幕戦セレモニー 巨人vs阪神 <東京ドーム>

読売巨人軍創設80周年 2014開幕戦セレモニー 巨人vs阪神 <東京ドーム>プロ野球が開幕しました。東京ドームでの巨人vs阪神開幕戦をブログにしてみました。









読売巨人軍創設80周年 2014開幕戦セレモニー 
プレイボール前に行われた昭和9年(1934)創立以来の80周年の記念セレモニーです。


巨人軍OBが続々と入場です。長嶋茂雄、柴田勲、金田正一、張本勲、堀内恒夫、杉下茂、そして比較的新しい世代では、松井秀樹、二岡智宏、仁志敏久の各氏でした。



巨人軍終身名誉監督、長嶋さんです。遠くからですが長嶋さんが見えました。



バックスクリーンのVTRで紹介されたON現役時代の勇姿です。
今の若い世代のひとは王さんというと、福岡ソフトバンクの会長とか監督という姿しかイメージがわかないと思いますが、私は王さんの現役時代の勇姿をTVで毎日見ていました。今でもCS放送でかつてのVTRはしばしば放送されていますが、これが師匠荒川コーチと見出した一本足打法です。
今のホームランバッターと何が違うのか、ひとことで言えば、スイングが速くて、大きい、これが世界のホームラン王の特徴です。後楽園球場での756号、はっきり記憶に残っています。



現役時代の全盛期には王さんと、打撃タイトルを独占した長嶋さんの勇姿です。首位打者、打点王、MVPをほとんど二人で獲り合っていました。私は最晩年の長嶋さんしか見たことはありませんが、場内アナウンスで「4番サード長嶋」とアナウンスされたときの後楽園球場の大観衆の拍手が今でも記憶に残っています。長嶋さん以来、あれだけの大歓声で迎えられた選手は今だ聞いたことがありません。ここぞというチャンスにはめっぽう強かった長嶋茂雄氏でした。

戦後の荒廃した日本国民に長嶋さんが夢と希望を与えた、この功績は日本プロ野球史上、永久に語り継がれていくこと相違ありません。昭和40年から48年にかけての9年連続日本一V9、もう破られることはないでしょう。



次期、読売巨人軍監督と噂される松井秀樹氏もいました。松井さんは、王さんとはまた違ったタイプのホームランバッターでした。設立当時広いといわれた東京ドームにホームランが量産されるようになったのはこの松井さんの登場からだと思います。

2002年ライトの天井に当てて打ったホームランはここ東京ドームで目の当たりにしました。
先のONともども、野球が上手いだけではなく、この3人の共通点は人格者であるということです。松井さんは巨人ファンだけでなく、ニューヨーカーの間でも人気があるのがその証です。








セレモニーが終了すると、SMAPによる君が代斉唱です。



今日は開幕戦、野球の本場アメリカからの招待客で、駐日米国大使キャロライン・ケネディさんです。JFケネディ元大統領の娘さんです。親日家としても知られているケネディさんによる始球式です。





午後6時巨人vs阪神1回戦プレイボールです。先発は菅野と能見の両エースでした。


阪神に4点を先制された巨人でしたが、ロペスの走者一掃二塁打、坂本の通算100号ソロ、伏兵橋本の逆転二塁打などで12-4で圧勝、開幕戦は巨人の勝利でした。




Posted at 2014/03/29 15:59:59 | コメント(2) | トラックバック(0) | 野球 | スポーツ
2014年03月23日 イイね!

東京 明治の元勲の足跡 ~ 川路利良、西郷従道、有栖川宮熾仁親王、大久保利通 ~ 

東京 明治の元勲の足跡 ~ 川路利良、西郷従道、有栖川宮熾仁親王、大久保利通 ~ 関東は春一番が吹き、徐々に暖かさが増してきました。三連休の中日、東京京橋にある警察博物館に行ってきました。










警察博物館
警視庁創立140年を記念して、特別展「警視庁全職員アンケートで選んだ首都140年の十大事件」が3月19日~5月6日まで開催されています。警視庁全職員のアンケートで選んだ、創立以来の重大事件100件をパネルや写真、映像、実物の展示で紹介するものです。


入口に展示中の先代クラウンとRX-8のパトカー、そしてヤマハFZ750Pの白バイです。



展示コーナーは各階にありますが、写真撮影ができるのは1階フロアのみです。
飛ぶと、ちょっと危なそうなヘリコプターです。


今の皇太子殿下と雅子妃の婚礼の儀のパレードで使用した白バイです。



警視庁のアンケート調査で選ばれた十大事件です。
1. オウム真理教事件(1995年~)
2. 東日本大震災(2011年)
3. あさま山荘事件(1972年)
4. 三億円事件(1968年)
5. 大喪の礼/即位の礼・大嘗祭(1990年)
6. オウム真理教事件特別手配3人の逮捕(2012年~)
7. 世田谷一家殺害事件(2000年)
8. 秋葉原無差別殺傷事件(2008年)
9. 西南の役(1877年)
10. 八王子スーパー強盗殺人事件(1995年)

このランキングを見て、「あれ?西南の役!」と思うと思います。西南の役(西南戦争)は、明治10年に九州南部で起きた日本史上最後の内戦です。
この内戦に果敢に挑んだのが、初代大警視・川路利良(かわじ としよし)でした。


川路利良
初代大警視(警視庁のトップ)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」といわれる川路利良は薩摩藩の下級武士の家に生まれました。西郷隆盛の下、戊辰戦争に参戦し、維新後その功績が認められ渡欧し、フランスの警察制度を導入して明治7年(1874)警視庁創設とともに初代大警視に就任した人物です。

明治6年(1873)、征韓論争に敗れた西郷は故郷鹿児島に下野しましたが、鹿児島では旧武士階級の特権を大久保利通ら明治新政府に剥奪された不平士族の不満が高ぶっていました。
川路は鹿児島に探索のため警視庁から密偵を送り込みましたが、桐野利秋らに捕縛され、挙句の果てには西郷暗殺計画の噂を流されてしまいました。

鹿児島私学校と不平士族らは西郷を担ぎ上げ、同郷の大久保、川路らへの遺恨を晴らすため、明治10年(1877)2月15日一斉に蜂起しました。
大警視・川路は元上司である西郷討伐のため、九州熊本へ向かうことになります。



田原坂の戦い
3月鹿児島から人吉、熊本へと北上した西郷軍と、熊本市の北部、田原坂で衝突した官軍との戦いは17日間にも及ぶ死闘となりましたが、武器弾薬に勝る官軍が徐々に西郷軍を押し戻し、西郷軍敗走の契機となったのが田原坂の戦いでした。



熊本鎮台兵

西郷軍は熊本城に籠城する鎮台兵に総攻撃をかけましたが、城内で死守したのが熊本鎮台の兵隊たちでした。前列中央に写っているのが司令長官・谷干城(たに たてき・かんじょう)です。谷は旧土佐藩士で、坂本龍馬を慕っていた人物です。
慶応3年(1867)11月、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われた際、知らせを聞き真っ先に近江屋に駆けつけたのが谷でした。

坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺の黒幕を新選組の仕業と断定した谷は、翌慶応4年(1868)4月、偽名を使って投降した近藤勇に板橋での斬首刑を決行しました。
また、後列中央は日露戦争203高地の戦いで、乃木希典を補佐し、ロシア軍を下した児玉源太郎です。



西郷従道
西郷隆盛の弟・従道(じゅうどう・つぐみち)は、征韓論争で兄・隆盛が下野した後も東京の明治政府に留まりました。従道は兄の復帰をひたすら待ち続けていましたが、西南戦争が勃発し、その希望は叶いませんでした。



東京目黒区に従道が兄と暮らすため購入した邸宅跡が今でも残っています。「西郷山公園」といい、都民の憩いの場となっています。


当時の敷地面積は6万㎡もの広大なものでした。高台からは目黒の町並みが一望でき、お天気がいい日は富士山もよく見えます。


河津桜が満開でした。




有栖川宮熾仁親王

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)は、京都の皇族出で、後に徳川家茂に降嫁した孝明天皇の妹・和宮の婚約者でした。慶応4年(1868)3月の江戸総攻撃には、東征大督府となり、西郷隆盛らと東海道を江戸へ向け進軍しました。

西南戦争が勃発すると、鹿児島県逆徒征討総督に就任し、東征に際してともに新政府軍を指揮した西郷と、敵将として対峙する皮肉な結果となりました。また、川路利良の九州参戦の辞令書は、熾仁親王より下されました(警察博物館に現存展示中)。

近年、有栖川宮の末裔を名乗る男女の事件がありましたが、有栖川宮は世継ぎがいなく断絶しています。



南麻布にある有栖川宮邸跡、「有栖川宮記念公園」です。この像は西郷従道らによって建立されたものです。



大久保利通
西郷とともに「維新の三傑」といわれる大久保利通は、征韓論争で対立した西郷が新政府を退くと、内務卿に就任し、明治新政府の実権を握りました。西郷とともに下野した佐賀出身の江藤新平と激しく対立し、佐賀の乱の首謀者江藤を捕縛すると、自らの判断で即日斬首刑を処しました。
西南戦争では各地方の鎮台兵に九州派遣命令をくだしましたが、その翌年東京紀尾井町で、石川県の不平士族らに襲われ絶命しました。



紀尾井坂の変
紀尾井町の由来は、江戸時代ここに紀州藩、尾張藩、彦根藩(井伊家)の江戸屋敷があったことに由来しています。現在は、ホテルニューオータニが目印となっている場所です。

明治11年(1878)5月14日、普段通り馬車で出勤する大久保が紀尾井坂にさしかかったとき、石川県から上京してきた不平士族・島田一郎らに惨殺された現場です。大警視・川路利良は、大久保暗殺計画の情報を密かに得ていましたが、ボディガードを付けず、「石川県人になにができるか!」とタカをくくっていました。
大久保は頭部を中心に斬られ、首から地面に刀を突き刺され絶命しました。この知らせを聞いて真っ先に駆けつけたのが、西郷従道でした。




警察博物館の特別展「警視庁全職員アンケートで選んだ首都140年の十大事件」のひとつ、西南戦争を題材にしてみました。
大事件や事故は起こらないに越したことはありませんが、関東近郊の方で興味があるひとにはおススメです。
駐車場がありませんので、車で行かれる場合は駐禁にご注意ください。
Posted at 2014/03/23 15:00:31 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2013年12月31日 イイね!

小江戸川越紀行 ~蔵造りの町並み~

小江戸川越紀行 ~蔵造りの町並み~








蔵造りの町並み
大江戸に対し小江戸と呼ばれた武州川越、その市街地に今でも「蔵造り」の建物が並ぶ一角があります。「蔵造りの町並み」といわれる仲町から札の辻までの通り沿いには、それぞれ個性のある30数棟の蔵造りの商家が軒を連ねています。他の都市では見られない江戸情緒あふれる景観で、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。


日曜の午前中、ひとも車もまだまばらでしたが、午後になるとこれが倍以上になります。うっかりすると、目の前に大型バスが出現!なんて危ない場面に遭遇することもあります。ここは川越駅につながる幹線道路なのだそうです。せめて土日くらい歩行者天国にしたほうがよいのでは・・・?とも感じました。


時の鐘
「蔵造りの町並み」のランドマーク、「時の鐘」です。江戸時代初期、寛永年間からおよそ390年間にわたって「時」を告げてきた川越のシンボルです。現在のものは4代目で、1日に4回(6時・正午・15時・18時)鐘の音を響かせているそうです。
まだ時計のなかった明治初期まで、この鐘の音を聞いてひとびとは暮らしていました。




川越名産「芋菓子」の銘店です。人気のお菓子屋さんです。


大正7年(1918)に第八十五銀行本店として建てられた今の埼玉りそな銀行川越支店です。


大沢家住宅といわれ、国の重要文化財に指定されています。呉服を商っていた豪商・近江半右衛門が、寛政4年(1792)に建てた川越最古の建造物です。








開運亭というお店で昼食をとりました。余談ですが、10月に安値で買った株が高騰(5連続ストップ高)し、売却益を得ました^^v。これからも「運」がつくようにという願掛けで、この開運亭にしました。


すったて御膳です。茶碗蒸しとご飯がつきました。シンプルに1,050円です。


今年は2月に父が逝去するという家族の不幸がありましたが、来年はいい年にしたい、そんな思いで埼玉県川越市にドライブに行ってきました。
私のページを見てくださった皆さん、また、コメントをくださった皆さん、新年もよろしくお願いしたいと思います。
Posted at 2013/12/31 00:00:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2013年12月15日 イイね!

八重の桜 紀行 ~会津若松・京都・大磯~

八重の桜 紀行 ~会津若松・京都・大磯~大河ドラマ『八重の桜』にちなんだトピックスをブログにしてみました。八重と関連した同時代の人たちの記録です。











明治元年(1868)9月22日、1ヵ月の籠城戦を終えた会津藩降伏の夜、鶴ヶ城三の丸建物蔵に和歌を刻む八重さん。まだ22歳の八重さんにとっては、試練の会津戦争でした。
後世、八重さんが同志社の宣教師や、教え子らと対立、しばしば非難、中傷を浴びますが、この会津戦争の経験が彼女をより強くしたものといわれています。
生まれつき体は頑丈で、重い米俵をひとりで担いで二階まで運んだというエピソードもあり、自分は体育会系だからといったとか、この点、兄の覚馬とは同じ兄弟でもまったく違ったタイプだったことがうかがえます。


官軍の四斤山砲、英国式の最新兵器アームストロング砲で攻撃を受けた鶴ヶ城です。それほど大きくない城に数千人が籠城していました。あるとき砲弾が八重さんの近くに着弾、厠で用を足しているときに被弾しむくろを曝すことだけは女としてとても恥ずかしいことだったと回想しています。



現在の鶴ヶ城です。少し切れていますが、左の鉄門(はりがねもん)は、八重さんが松平容保に四斤山砲の砲弾を分解して説明した場所です。四斤山砲の砲弾は、着弾してもすぐに着火せず、しばらくおいて爆発するという爆弾でした。ただ、この火消作業で、家老・山川大蔵の妻・登勢が被弾し亡くなりました。



米沢に一時疎開していた八重さんらに京都の覚馬が生きているという伝達が伝わりました。ところが、覚馬は当時18歳の小田時栄と暮し、一女をもうけていました。これを聞いた覚馬の妻・うらは京都行を断念、覚馬と別れる決意をしました。また、八重さんにも斗南藩に移住した川崎尚之助との別れが待っていました。
ある作家は、八重さんが覚馬とともに小野組移転問題で投獄された京都府知事・槇村正直に見舞いのため上京した際に、存命中の川崎尚之助と再会したと書いているそうですが、真相は定かではないそうです。

明治8年(1875)、川崎尚之助は肺炎を起こし東京の病院で亡くなりましたが、同じ年、八重さんの前に現れたひとりの男性が新島襄でした。安中藩士の長男で、米国帰りの襄は八重さんを「彼女は決して美人ではありません。でも、生き方がハンサムなのです」と評したとか。
この襄との出会いが、会津戦争で打ちひしがれた八重さんを救いました。



明治8年(1875)11月29日、同志社英学校開校、まもなく熊本洋学校から熊本バンドといわれた学生が転入してきました。彼らの中には、後の同志社英学校社長となる小崎弘道、横井(伊勢)時雄、そして八重さんに終生尽くすことになる徳富蘇峰と、その弟徳冨蘆花(徳富健次郎)、海老名喜三郎らでした。バンドとは隊の意味で、彼らは皆、キリスト教の洗礼を受け牧師を目指していましたが、当時耶蘇教といわれたクリスチャンは日本ではまだ差別と迫害の対象でした。
そんな彼らを受け入れたのは、新島襄でした。



小崎弘道は、卒業後牧師となり、東京に霊南坂教会を創立した人物です。やはり同志社と強いパイプをもち、新島襄の大学設立募金活動にも強力な援助をしました。
新島襄が亡くなると、一時山本覚馬副社長が臨時社長となりましたが、二代目社長は小崎弘道が務めました。



山本覚馬は京都府顧問、初代京都府議会議長、商工会議所会長を務め、京都万博の誘致、鉄道敷設、琵琶湖疎水など、遷都後の京都の復興に力を尽くしました。今の同志社大学今出川キャンパスは、覚馬が大金を払い薩摩藩から購入した土地でした。
しかし、そんな山本家にも最大の危機が訪れました。



明治18年(1885)、キリスト教徒でなかった覚馬は後妻の時栄とともに洗礼を受け、八重さんらと同じプロテスタントになりました。ところが、こんな折、時栄と養子と考え同志社に編入させた18歳の学生との間に“不義”が起こったのです。
徳冨蘆花が大正3年(1914)に発刊した『黒い眼と茶色の目』で、時栄の不義(一寸むつかしいこと)が書かれており、その18歳の学生の子を妊娠してしまったという話です。これを知った覚馬は20年にも及ぶ時栄の介抱に報い、時栄の不義を許そうとしましたが、八重さんと、今治で暮らしていた横井(伊勢)時雄の妻で覚馬の娘・みねが京都に駆けつけ、これを許さず、時栄を離縁させてしまったというショッキングな話です。
新刊がなっかたため、中古本をネットで手に入れました。定価450円の文庫本だったのですが、たしか4,000円くらい払って手に入れました。内容は覚馬と時栄のひとり娘・久栄との恋愛物語です。最後は久栄との婚約が破断し、学費も支払えなくなった蘆花がひとり故郷の熊本に帰国するという内容です。
蘆花46歳のときの小説で、あまり売れなかったそうです。一方で大山捨松を題材にした『不如帰(ほととぎす)』は、ベストセラーとなり、蘆花が売れっ子小説家としてメジャーになるきっかけとなった小説でした。後に八重さんは、「いい恥さらしですね」と言ったとか・・・。



残された時栄の娘・久栄は同志社女学校を卒業後、神戸英和女学校に進学しますが、周りからは「尻軽女」とか、「蓮葉(はすっぱ)」と罵られます。父親の覚馬似で学問がよくできた才女であったそうですが、覚馬が亡くなると、まるで後を追うように明治26年(1893)7月20日に亡くなりました。23歳という若さでした。写真が大河ドラマで紹介されましたが、なかなかの美人であまりにも早い一生は可愛そうな気がします。

ところで、気になったのがその後の時栄の行方でした。蘆花研究家の丸本氏によると、昭和61年(1986)に時栄の子孫にあたる小田貞子さんとの取材が実現し、かつては元芸者だったとかいわれていたそうですが、実際は小田家は丹波代々の郷士で、上京区に広大な邸を持ち、現在の住居もそこにあるとのことです。
この丸本氏、除籍謄本を取り調べたところ、それによれば、名前は「時榮」。嘉永6年(1853)5月7日生まれ、生家は上京区に現存する小田家で、明治19(1886)年2月12日に覚馬と離縁したと判明したそうです。その後、堺に移り、久栄が亡くなる1日前に神戸に転居、晩年は東京日本橋に住所を移していたそうです。
(他ホームページより借用)



時代背景が現代に近いことで、山本家の子孫について調べてみると、覚馬は明治20年(1887)1月に、みねが生んだ平馬を養子としました。平馬は横井(伊勢)家を継がず、山本家の嫡養子となったのです。その平馬の息子が山口格太郎という人物で京都市消防署に勤務していたそうです。元の名前は覚太郎でしたが、なぜか改名し、さらには山口という家に養子になったそうです。山本覚馬の子孫は、昭和19年(1944)に平馬が亡くなり途絶えたということです。
この本は絶版で今は手に入らない本です。上が覚馬、中が久栄、下が平馬です。



明治23年(1890)1月20日、大磯にあった旅館百足屋で新島襄は危篤になりました。大学設立のための募金活動の最中の出来事でした。京都から八重さんが駆けつけましたが、1月23日新島襄は永眠しました。「狼狽するなかれ、グッバイ また会わん」、これが最期の言葉でした。
大河ドラマは、元教え子の徳富蘇峰が襄や八重さんに友好的に接していますが、実際は退学以来まだ感情的対立は続いていました。東京の民友社に勤めていたジャーナリストの徳富蘇峰は、襄危篤の電報を受け、急遽大磯に駆けつけたのでした。ここで、鵺(ぬえ)と非難し、自責の杖事件(授業ボイコット)を引き起こした罪をふたりに詫び、和解したとされています。
事実、晩年の八重さんに徳富蘇峰は生活費を送金し続けました。また、百足屋跡と同志社墓地の八重さんの墓碑銘は徳富蘇峰の筆によるものです。



襄の永眠を看取る八重さん、徳富蘇峰、小崎弘道。



襄の死後、同志社から離れ、日清・日露戦争で看護活動に従事した八重さん。その功が政府から認められ勲六等及び勲七等宝冠章を授与しました。皇族以外の女性としてはじめてでした。
晩年は裏千家茶道に入門し、新島邸を一部茶道部屋に改装しましたが、新島邸を同志社に譲渡した結果、度々同志社と揉めていたそうです。
また、新島家には、新島公義という養子やその息子、また、山本家には姪のみねの長男・平馬がいましたが、家族の交流はなっかたそうです。
八重さんは明治33年(1900)、襄と会津旅行に行った際、米沢で出会った米沢藩士・甘糟三郎の娘・初を養子としました。何組かの養子縁組もうまくいかなかった八重さんでしたが、この初(初子)とはうまくいったようです。
初子は、明治34年(1901)5月に同志社校長代理を務めた広津友信と結婚し、4男2女を儲けました。初子の息子でとくに優秀だった男の子に襄次(襄のあとを次ぐという意味)と名付けましたが襄次は大正14年(1925)、23歳で早世しました。
この著者『八重の桜・襄の梅』の本井康博氏は元同志社大学神学部教授で、大河ドラマ『八重の桜』の時代考証を担当しました。



昭和3年(1928)、京都の金戒光明寺で開催された京都会津会秋季例会記念写真です。この年、松平容保の孫、勢津子妃と昭和天皇の令弟・秩父宮のご成婚が決まりました。金戒光明寺の塔頭西雲院、会津墓地前で、八重さんや勢津子妃の父親、恒雄、その弟保男、山川健次郎らが写っています。
会津戦争以来60年ぶりに、旧会津藩士らが朝敵の汚名を返上した記念すべき年でした。



現在の金戒光明寺です。





晩年、同志社のおばあちゃんと親しまれた八重さんは、昭和7年(1932)6月14日、新島邸の襄の書斎で亡くなりました。江戸・明治・大正・昭和と生き抜いた波乱に満ちた86年の生涯でした。葬儀は同志社葬として同年完成した同志社女子大学今出川キャンパスの栄光館でとり行なわれました。参列者は4,000人もの大規模なものでした。



今年の大河ドラマは、ほとんど全国的に無名の新島八重さんの物語でした。会津若松出身のひとでさえ知らなかった人物にスポットが当てられた『八重の桜』、視聴率は?だったようですが、八重さんファミリーを中心に幕末史、明治史がそこにある人間ドラマとともによく表現されていた。脚本、役者、映像、どれをとっても、これほど完成された大河は過去なかったと思います。
3.11で荒廃しかけた福島会津若松、この『八重の桜』をきっかけに復興することをお祈りしてやみません。
Posted at 2013/12/15 19:00:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域

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「いつ見ても予約が取れない、レクサス洗車サービス:-(」
何シテル?   06/22 15:38
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