• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

Cyber Xのブログ一覧

2013年08月17日 イイね!

備中岡山紀行Ⅱ < 岡山後楽園、岡山城、備中松山城 > 

備中岡山紀行Ⅱ &lt; 岡山後楽園、岡山城、備中松山城 &gt; 岡山紀行は二日目、岡山後楽園と岡山城、現存天守の備中松山城です。









岡山後楽園
岡山後楽園は、岡山藩主・池田綱政が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)に完成しました。日本三名園として、水戸偕楽園、金沢兼六園とともに地方では数少ない大名庭園です。


入園してまず驚いたのは、その大きさと園内の端から端までが全部見渡せることでした。とても手入れが行き届いた綺麗な庭園でした。あと、偕楽園や兼六園との大きな違いは、岡山城の天守閣が正面に見えることです。これぞ、大名庭園といったところでしょうか。


右からぐるりと廻ると、左手の建物が「延養亭(えんようてい)」といい、藩主が後楽園を訪れたときの居間として使われた建物で、右手が「鶴鳴館(かくめいかん)」という建物です。





この日も岡山市は最高気温が37℃だったでしょうか。気持ちよさそうです。



「井田(せいでん)」といい、かつて園内の大半は田畑でした。今のように芝生に変わったのは、明治以降でした。


後楽園の真ん中にある「沢の池」です。その向う側の小高い山を「唯心山(ゆいしんざん)」といい、藩主はこの眺望を眺めてくつろいだようです。池が真ん中にある庭園を回遊式庭園といいます。





岡山城
岡山城は天正18年(1590)、宇喜多秀家によって築城が開始されました。子供のころから秀吉に可愛がられた宇喜多直家の子、八郎は秀の一字を譲り受け秀家と改名すると、57万4000石という大封を与えられ、この地に岡山城を築城することが許されました。

岡山城は数少ない現存天守をもつ城として残されてきましたが、惜しくも昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまい、現在の天守は昭和41年(1966)に市民の要望で再建された鉄筋コンクリート製の復元天守です。黒壁は豊臣期に築城された城の特徴で、別名「烏城」とも呼ばれています。


天守から見える後楽園です。旭川が間を流れています。天守内はエアコンがよく利いていて快適でした。


月見櫓
本丸で、唯一戦火を免れた建造物がこの月見櫓です。17世紀初めの建造物です。櫓とは倉庫や物見に使われた建物でした。


築城時(宇喜多時代)の石垣
宇喜多秀家は、義父・前田利家とともに秀吉の重臣(大老)として君臨しましたが、秀吉、利家が相次ぎ亡くなると、徳川家康と対立、関ヶ原の戦いでは石田三成に味方をしましたが敗れ、一時薩摩国・島津義弘のもとに身を隠しましたが、やがて捕縛され、息子らとともに八丈島へ流され、そこで生涯を全うしました。経緯はわかりませんが、本丸内地中にあった宇喜多秀家当時の石垣です。


午前8時台にホテルを出て、一目散に後楽園、岡山城に来ましたが、だんだん気温が上昇してきました。全身汗びっしょりでした。



暑いときはやっぱりこれに限ります。しばし、岡山城を眺めながら休憩しました。



後楽園と岡山城、素晴らしい観光名所でした。


備中松山城
岡山観光二日目最終は、備中松山城です。岡山県の山間部、高梁市にある海抜430メートルの山城です。山城といっても、備中松山城の天守は現存天守です。1680年代の築といわれています。


日本100名城、現存天守と揃えば、無料なわけはありません。入場料を払って天守に向かいます。


現存天守
天守は寛永19年(1642)に5万石で備中松山藩主となった水谷家二代・勝宗によって、1681年から1683年にかけて修復されたものです。その水谷家は四代で跡継ぎがいなく断絶改易、城代として赤穂藩家老・大石内蔵助が城に入りました。城の受け取りは赤穂藩藩主・浅野内匠頭でした。


天守内部です。


備中松山藩と新島襄
今年の大河ドラマは、新島襄の妻・八重の物語ですが、襄自身は当時の藩主・板倉家と接点があったようです。新島襄は安中藩士の息子で神田で生まれましたが、安中藩主・板倉氏は、備中松山藩・板倉氏の分家でした。要するに親戚同士でした。

襄は二度目の挑戦で凾館から米国へ渡りますが、一度は安中藩主の反対により凾館行を断念しますが、二度目にその手助けをしたのが備中松山藩の板倉勝静藩主でした。当時5万石の小藩としては稀な快風丸という西洋式帆船をもっていた備中松山藩は、襄の乗船を許可。襄は米国へ渡ることができました。

襄は帰国後、京都に同志社英学校を設立しますが、板倉勝静の行為を恩と思い、備中松山藩があった岡山県高梁市にキリスト教の伝道にやってきました。その襄の教えに感動したひとたちによって、日本で京都に次いで2番目のプロテスタントの教会が高梁にできました。


夏休みを利用して岡山県の城郭を訪れてみました。とくに現存天守のある備中松山城は、行ってよかったという感が強く残っています。時期は知りませんが、兵庫県の竹田城と同じくして、「雲海」がみられる城だそうです。一日目の備中高松城、鬼ノ城、二日目の、後楽園、岡山城、そして最後に訪問した備中松山城は、またいずれ機会があれば行って見たい、そんな私のお城めぐりでした。

備中松山城 三の平櫓東土塀(重要文化財)

日本三大山城 備中松山城 石垣群
Posted at 2013/08/17 03:00:04 | コメント(5) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年08月14日 イイね!

備中岡山紀行Ⅰ < 備中高松城、鬼ノ城 >

備中岡山紀行Ⅰ &lt; 備中高松城、鬼ノ城 &gt;お盆休みを利用して岡山県の城郭を訪れてみました。その一日をブログにしてみました。









備中高松城水攻め
天正10年(1582)3月15日、織田軍中国方面司令官・羽柴秀吉は、織田軍と毛利軍の国境・備中へ向け進軍を開始しました。亀山城(岡山市東区)の宇喜多勢を加え、4月15日総勢3万の羽柴軍は毛利方の備中高松城を包囲しました。
しかし、4万の毛利勢が備中高松城救援のために援軍を出したという知らせを聞いた秀吉は、一日も早く備中高松城を攻略するため、軍師・黒田官兵衛の奇策を取り入れ、低湿地帯にある備中高松城に対して、水攻めを敢行しました。

『備中高松城水攻めの図』より


5月8日に着工した堤防工事は、現在のJR足守駅から蛙ヶ鼻(かわずがはな)まで東南約3キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤で、足守川の水をせきとめようとするものでした。秀吉は蜂須賀正勝、浅野長政、堀尾吉晴らに堤の各箇所を担当させると、農民や士卒らも動員させ、わずか12日で完成させました。
折しも、梅雨の時期にあたり降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現。備中高松城を孤島と化すことに成功しました。


蛙ヶ鼻築堤跡
石井山の麓にある蛙ヶ鼻築堤跡です。この辺りに当時の堤の跡を見ることができます。中央のわずかな膨らみが堤跡です。ちょうどここが堤の東端にあたります。



備中高松城跡
天正3年(1575)以来、毛利輝元は備中高松城に清水宗治を配置し、毛利領最東端のこの地まで支配を及ぼしていました。毛利輝元は後に秀吉の五大老に就任しますが、この時期はまだ対立関係にあり、備中高松城攻防に対しては、叔父にあたる吉川元春、小早川隆景に全軍の指揮を任せていました。毛利輝元は毛利本家・毛利元就の孫で、吉川元春は元就の次男、小早川隆景は元就の三男でした。
備中高松城の本丸です。今は綺麗に整備された公園で、周囲に蓮が多く見られます。



宗治蓮
昭和57年(1982)、岡山市が歴史公園復元計画で沼の復元をしたところ、400年前地中に埋められていたはずの蓮が自然発生しました。水上に散った城主・清水宗治の霊がそうさせたものかもしれません。


清水宗治首塚
毛利方は外交僧・安国寺恵瓊を黒田官兵衛のもとに派遣し、和睦の条件を提示しましたが、一旦拒否されると、清水宗治は安国寺恵瓊を城内に迎え入れ、自らと兄と家臣の4人の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託しました。
天正10年(1582)6月3日のちょうどこの日、信長が明智光秀の謀反により本能寺で討死したという密書を手にした秀吉は、毛利方との和睦を急ぎ、翌4日この和睦条件を受け入れると、城から小舟で出た清水宗治らの切腹を石井山本陣から見届けました。


清水宗治 辞世の句です。

浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して



羽柴秀吉
本能寺の変を伝える知らせが毛利方に届いたのは、宗治の切腹直後である6月4日の夕刻でした。吉川元春は秀吉軍の追撃を主張しましたが、小早川隆景は和睦を遵守すべきと反対したため、交戦にはいたりませんでした。秀吉は、毛利軍の出方を一日見極めた上で、6日の昼過ぎに京に向けて軍勢の移動を開始しました。備中高松城に杉原家次を置き、光秀との決戦に向け、山陽道を東へ驀進しました。
これが世にいう「中国大返し」で、秀吉軍は現在の岡山市から京都府大山崎町まで、わずか数日で行軍し、13日には光秀軍をわずか半日で下しました。秀吉の「備中高松城水攻め」、「中国大返し」は天下統一へ邁進する羽柴秀吉のウルトラCだったといえます。


この日は岡山市で37℃、高知県四万十市では観測史上最高の41℃を記録した日でした。また、お盆で渋滞も激しく、名神高速西宮ICから阪神高速を経由して神戸を抜けるまで2時間以上もかかりました。
まさに、あっちちの一日でした。


岡山市高松町を後にして、次は総社市の鬼ノ城に車を走らせました。最上稲荷参道にある大鳥居です。


鬼ノ城

備中高松城から車で半時間ほど走ると、標高397メートルの切立った山頂に見えてくる城が見えてきます。ここが日本100名城に登録されている鬼ノ城(きのじょう)です。


西門に行ってみました。


鬼ノ城西門(復元)です。平野からも見えますが、近くから見ても神秘的にも見える古代遺跡です。



山頂から見える備中高松城方面です。ちょうどまん真ん中あたりが備中高松城、その少し右に大鳥居があります。山の向う側に少し見えるのは、岡山市中心街です。


今回は行きませんでしたが、福山城方面です。


この日は岡山市のこのホテルで一泊、5月に予約を入れていました。


夕食の懐石料理です。この後、一品料理が次々とでてきます。







お盆休みを取って、備中・岡山まで行ってきました。みんカラ登録以来初の中国遠征でした。翌日、岡山を代表する名所・名城を見てきましたが、続きはまた後日にします。

Posted at 2013/08/14 17:00:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年08月10日 イイね!

八重の桜 京都紀行 ~新島家、山本家の人びと~

八重の桜 京都紀行 ~新島家、山本家の人びと~大河ドラマ八重の桜は舞台が京都に移りました。今回は新島家と山本家に関する史跡を訪ねてきました。












山本覚馬邸
山本覚馬は『山本覚馬建白(管見)』が京都府に認められ、現在の河原町御池下ル付近の大邸宅に住むことが許されました。この邸宅に隣接していたのが、京都府大参事・槇村正直の邸宅でした。当時の面影はありませんが、この辺りが覚馬の邸宅だったようです。
明治4年(1871)10月、上洛した八重ら山本家はここで覚馬と再会、しばらくこの覚馬邸で暮らすことになりました。


御池通りのすぐ北にあったのが、長州藩邸でした。現在はホテルオークラが建っています。また、河原町通り側には本能寺があり、三条河原町、四条河原町までは徒歩30分以内で行ける好立地でした。


女紅場
鴨川にかかる丸田町橋西詰にあった女紅場(にょこうば)跡です。無職であった八重に女紅場勤務を勧めたのは覚馬でした。女紅場というのは女学校で、八重は明治5年(1872)4月、女紅場の教師となりました。校舎は旧九条家邸で、御殿と呼ばれる大きな建物でした。
ところが明治8年(1875)11月18日、八重は女紅場を突然解雇されてしまいました。その年の9月、新島襄と覚馬が連名で京都府に提出していた「私学開業願い」と「外国人教師雇入れ許可願い」の認可が下りた矢先の出来事でした。


同志社英学校
同年10月、襄は公家の高松保実から御所の東、寺町丸太町上ルにある屋敷(後の新島邸)を仮校舎として借り受ける契約を取り交わすと、同月15日かねてより知り合いであった八重と婚約しました。
しかし、襄が雇い入れた外国人宣教師が神戸から京都にやってくると、京都の僧侶らは一斉に反発、外国人宣教師の追放を訴え、京都府大参事・槇村の元に抗議のため押し寄せました。

すでに2年前、キリスト教は解禁されていましたが、仏教色の強い京都では僧侶らの同意を得られないと判断した槇村は、八重が女紅場でしばしばキリスト教を教えていたこと、また八重が槇村のもとに何度も助成金の増額をせがみに来ていたことを理由に、襄と八重が婚約したことを知ると、その報復手段として八重を女紅場から追い出し、覚馬の京都府顧問を解きました。
さらに襄に対しては、高松保実に働きかけ、襄との仮校舎の契約を破棄するよう命じました。しかし、11月襄と槇村は、学校で聖書の授業は行わないという約束を交わすと、同月29日に無事、高松邸に同志社英学校仮校舎を開校することができました。

当時の日本は、日本人が外国人を雇用することは許されていましたが、その逆を禁じていました。
また、槇村の黒幕は、外務卿(外務大臣)の寺島宗則という人物で、寺島は同志社英学校を外国人が設立した学校とみなし、槇村に直接圧力をかけていたものでした。
同志社英学校は、実質アメリカン・ボードという外国人宣教師団体の資金による学校で、襄は設立当初から苦難に立たされることになりました。


新島八重
明治8年(1875)4月、襄は槇村と覚馬のところに参上し、覚馬から京都で学校をつくるよう勧められ、一時、河原町の覚馬邸に住んでいました。襄の結婚観は、「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」と槇村に話したところ、槇村は「それならちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬の妹で、どうだ、この娘と結婚しないか、仲人は私がしてあげよう」といわれたと、後に八重は回想しています。

明治9年(1876)正月2日、八重はキリスト教の洗礼を受け、翌3日めでたく夫婦となりました。御所近くのディヴィス邸で行われた結婚式には、覚馬、母・佐久、姪・みねが列席し、八重の結婚を祝いました。その年の10月、八重は女子塾(同志社女学校)の教師になりました。


新島旧邸
この敷地は、幕末まで幕府の御用大工棟梁中井家の屋敷があり、明治初年公家・高松保実が所有していました。明治8年(1875)11月29日、新島襄はこの高松邸の半分を賃借して、生徒8名で同志社英学校を開校しました。翌年、学校は旧薩摩藩邸に移りますが、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。
これが今の新島旧邸です。



台所です。キッチンの高さは八重の背丈に合わせたものです。また、画期的なのは井戸が併設されていることです。襄の設計の気配りがうかがえます。


食堂です。八重は学生をしばしば呼んで、食事を提供していたそうです。当時食材の調達が難しかったロールキャベツやステーキを作って、ふるまっていたそうです。ただ、薩摩出身の学生にはやはり、冷遇をしていました。これを襄に咎められ、改心したという話が伝わっています。


応接間です。八重は正月になると、会津で流行っていた板カルタを学生たちとやるのですが、相当強かったそうです。百人一首を下から読み上げる独特のカルタ取りで、今では北海道の一部でしか残っていないカルタなのだそうです。


オルガンです。今でもちゃんと音がでるそうです。年二回の御所一般公開で使用されたことがあるそうです。


襄がしばしば寝そべっていたというソファです。今も残っているということ自体、新島襄と八重の存在の大きさが垣間見てとれます。


襄が使用していた書斎です。


襄の死後、八重が板間を改装してつくった茶室「寂中庵」です。女紅場時代の八重は同僚教師に、後に裏千家13代圓能斎宗室(えんのうさいそうしつ)の母がいました。明治27年(1894)、裏千家の門をたたいた八重は、圓能斎宗室から大正12年(1923)、79歳のとき「奥秘(おうひ)」を授かりました。


新島旧邸の見学は来年3月までインターネットによる予約が必要です。


徳富蘇峰
同志社英学校に在学中の若き徳富猪一郎は、八重と襄が互いに、「八重さん」「ジョー」と呼び合うことや、八重が和服に西洋式のブーツを履くその格好にただらなぬ反感をもっていました。ある日の演壇上、ふたりを目の前に学生たちが聴衆するなか、八重を鵺(ぬえ)と罵りました。
また、自責の杖事件では、中途入学者と正規入学者のクラス合併問題に腹をすえ、授業を集団欠席させる首謀者となりました。襄はすべての責任は自分にあるといって、学生たちの面前で、左手を木の杖が折れるまで叩き続けました。徳富猪一郎はこれを機会に自ら退学しました。
明治23年(1890)1月、神奈川県大磯の旅館百足屋(むかでや)で襄が危篤になった知らせを聞くと、襄の元に駆けつけ、襄に謝罪し、臨終を見とどけました。


山本みね
覚馬と前妻うらの娘・みねは、同志社女学校を卒業後、徳富蘇峰の従兄にあたる熊本藩士・横井小楠の息子・横井時雄と結婚しました。時雄は同志社英学校卒業の一期生でした。ふたりはキリスト教の洗礼を受け、各地に伝道活動を行っていました。
明治20年(1887)1月、二人めの子供を産みましたが、産後の肥立ちが悪く、早世してしまいました。墓は横井家の菩提寺、南禅寺にあるそうです。向かって右側の女性です。


山本時栄
山本覚馬の後妻・時栄は慶応年間に覚馬の知り合いであった兄の勧めで、目が不自由になった覚馬の身の回りの世話を行い、明治4年(1871)に長女を出産、河原町で生活を共にすることになりました。ところが、明治18年(1885)、山本家で「一寸むつかしいこと」が起こりました。

『徳冨蘆花 黒い眼と茶色の目』から

明治18年(1885)山本家は養子として、会津から18歳の男子を迎えた。時栄さんは35歳で、その青年

は同志社の寄宿学生で、時々山本家でも寝泊りしていた。時栄さんは私が17のときに生れた子とい

い可愛がった。

そのうち、時栄さんは病気になった。ドクトル・ペリーの診断を受けたら、思いがけなく妊娠であった。

ドクトル・ペリーはおめでとう、もう五か月です、といった。

声が山本さん(覚馬)の耳に入って、俺は覚えがない、と言い出した。

山本家は大騒ぎになった。

新島家と横井家はその処分に苦心した。

相手はすぐ養子の青年と知れた。

時栄さんは最初、養子を庇ってなかなか白状しなかった。

鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知れぬ男に犯されたといった。

その口、実が立たなくなると、今度は非を養子に投げかけた。

最後に自身養子を誘惑した一切の始末を白状して、涙とともに許しを乞うた。

永年の介抱をしみじみ嬉しく思った山本さん(覚馬)は、許す心であったが、八重とみねが否応なし

に時栄を追い出してしまった。

山本久栄
明治19年(1886)2月19日に離婚が成立し時栄には、覚馬との間に久栄を残していました。久栄に送られてくる手紙は、新島家が厳重に管理していました。
明治19年(1886)9月、自責の杖事件で兄・徳富蘇峰とともに同志社英学校を退学した弟の健次郎(後の徳冨蘆花)が再入学してきました。従兄の横井時雄(みねの夫)邸に寄宿していた健次郎は、みねの異母妹・久栄に恋をします。久栄は健次郎より3歳年下の17歳、同志社女学校の学生でした。ところが、久栄には女学校で盗みをしたなど、よからぬ噂がつきまといます。

ある日健次郎は、手紙を差し出し、久栄を御所近くの寺に誘いだしました。ところが、健次郎が久栄に差し出す手紙はすべて、従兄の横井時雄らの知れるところとなっていたのです。横井家は久栄との交際を反対しますが、すでに健次郎は久栄と婚約をしていました。

しかし、横井家だけではなく、新島家からも反対され、久栄と会うことを禁止されてしまいます。やがて、学校中知れ渡ってしまった健次郎は同志社の退学を決意します。久栄に一旦別れの手紙を差し出した健次郎でしたが、一目顔を見ようと同志社女学校の門をたたきます。そこに現れたのが八重でしたが、八重は襄と久栄と4人なら新島邸で会わせてもよいと承諾します。結局、失恋をした健次郎は久栄と言葉を交わすことなく京都を去りました。

この後、健次郎は東京の雑誌社に就職し、別の女性と結婚しますが、久栄は父・覚馬が亡くなった翌年明治26年(1893)、病気を患い23歳という若さで亡くなりました。



熊野若王子神社

熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)26代宮司・伊藤快彦は山本覚馬が京都顧問をしていた関係で新島襄のことも知っていました。ある時、覚馬から同志社英学校の宣教師が亡くなり、埋葬場所に困っているという話を聞いた伊藤快彦は、当神社の社領地を墓地として新島襄に提供をしました。
さらに、明治23年(1890)、新島襄が亡くなると、葬儀前日に埋葬予定をしていた南禅寺から断られたことから、先の縁で新島家、山本家に墓地を提供しました。


同志社墓地
左京区鹿ヶ谷にある同志社墓地は、新島夫妻をはじめ、山本覚馬、久栄、戊辰戦争で亡くなった山本三郎、権八をはじめ、佐久ら同志社関係者の人たちが集められています。


新島襄と八重夫妻


山本覚馬と徳富蘇峰


山本権八、佐久、三郎


山本久栄


このブログを書くにあたって、同志社大学、女子大学の新島旧邸内の配布資料や、徳冨蘆花の『黒い眼と茶色の目』岩波文庫、熊野若王子神社29代伊藤快忠さんの直筆資料を参考にしました。

Posted at 2013/08/10 23:59:54 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年07月21日 イイね!

八重の桜 会津紀行Ⅱ ~会津戦士たちの足跡~ 

八重の桜 会津紀行Ⅱ ~会津戦士たちの足跡~ 大河ドラマ八重の桜にあやかって、戊辰戦争で戦った会津戦士たちの足跡と、関連する史跡を訪ねてきました。その一日をブログにしてみました。












新島八重と日向ユキ
明治20年(1887)7月14日、会津戦争以来19年ぶりに再会した幼なじみの八重とユキです。ふたりの父は元会津藩士で、家は斜め向かい、互いに「おユキちゃん」、「お八重ちゃん」と呼び合う仲でした。ふたりはもう一人の幼なじみ高木時尾(元新選組斎藤一夫人となる)の家で、小さいころ時尾の祖母から裁縫を習っていました。
八重は会津戦争終了後、京都へ上洛し、兄・覚馬と再会後、新島襄と再婚。襄と覚馬の3人で同志社英学校を運営する傍ら教壇に立っていました。一方、ユキは会津戦争中、小山に逃れ、戦後、斗南藩野辺地村、函館へと移住しました。明治5年(1872)、ユキは北海道開拓使で旧薩摩藩士の男性と結婚、会津・薩摩の敵味方同士のブライダル第一号となりました。

この度の再会は、八重が体調の良くない襄のために、医師の勧めで避暑をかねて襄と北海道旅行に出た際に札幌のユキと再会したといういきさつがありました。八重43歳、ユキ37歳でした。
八重は襄とともに故郷会津にも寄ったことがありましたが、ユキは会津戦争の出来事を一切口にすることはなく、また再び会津の地を踏むことなく、北海道でその生涯を全うすることになりました。


山本覚馬
文久2年(1862)12月、上洛した覚馬はその後目を患い失明しますが、薩摩藩邸で捕虜となった際、日本の将来像を書き綴った『管見』が西郷隆盛の眼にとまり、戊辰戦争後に釈放、身の回りの世話をしてもらった小田時栄と再婚し、一女をもうけました。
国際感覚豊かであった覚馬は京都府の要職に就き、新島襄から私立学校の相談をもちかけられると、維新後自らが購入していた旧薩摩藩邸(二本松薩摩藩邸)の土地を襄に譲渡、同志社英学校の設立に協力しました。


山本覚馬・新島八重生誕の地
鶴ヶ城の西側、現在の米代2丁目にある山本覚馬・新島八重生誕の地です。現在は会津史家・宮崎氏の邸宅に看板があるのみです。ただ、会津戦争当時と道幅は変わっていないそうです。




当時の米代2丁目付近の住宅地図です。


拡大してみるとこんな感じです。山本覚馬・八重(山本権八)宅があり、すぐ隣は八重が鉄砲を教えた白虎隊士中二番隊・伊東悌次郎(伊東俊吾)宅、斜め前は日向ユキ(日向左衛門)宅、その隣が高木時尾(高木盛之輔)宅があったことがわかります。


西郷頼母
会津藩家老であった西郷頼母は、会津戦争時が始まると、長男・吉十郎を残し母や妻子を一度に亡くすという不幸に遭い、その後箱館戦争にも参戦しましたが敗れ、吉十郎を連れ学習塾を経営するなど諸国を渡り歩いていました。しかし、吉十郎にも早世されてしまいました。
最娩年の明治32年(1899)、再び会津に戻り、長屋暮しを始めましたが、明治36年(1903)に死去、享年74歳でした。
墓は頼母の意思で、自刃した千恵(子)とともに会津若松の善龍寺に入りました。
会津藩の家老が次々と自刃していくなか、最後まで自らの命を絶つことなく、故郷会津でその生涯を全うしたことになりました。
また、養子とした甥の志田四郎に柔道を教えたことにより、四郎は講道館で活躍。姿三四郎のモデルになりました。


甲賀町通りにあった西郷頼母邸、現在の会津武家屋敷です。





当時の西郷頼母邸は、甲賀町通り鶴ヶ城の真正面にありました。



なよ竹の碑


  なよ竹の 風にまかする 身ながらも
  たわまぬ節の ありとこそきけ

                  
慶応4年(1868)8月23日、西郷邸で自刃した頼母の妻・千恵(子)が最期に残した辞世の句です。
句の意味は、か弱い婦女子の心をたわまぬ竹の節になぞらえながら、会津婦女子の精神の強さを歌いあげたものです。千重子は34歳でした。




二十一人之墓
『西郷隆盛一代記』に、薩摩藩士(かつては土佐藩士といわれていた)の川島信行が、西郷邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り、奥の部屋に進むと、男女が環座で自殺していたという。

長女で16歳の細布子(たいこ)はわずかに息があり、「その所に参らるるは、敵か味方か」と尋ねたところ、川島がとっさに「味方だ、味方だ」と叫んだ。
細布子は、その場に倒れ、懐剣を出し、咽喉を刺そうとするが出来ず、川島が不びんに思い介錯をしたという。

そして、千恵子らの辞世の短冊を持ち帰ったという。

会津戦争後、焼け落ちた西郷邸に頼母の姪がやって来て、千恵子らの遺骨を掻き集め、ここに埋葬したのが二十一人之墓です。
私もこの場で手を合わせたことはいうまでもありません。


西郷頼母・千恵子の墓
西郷家は藩祖・保科正之以来代々の家老職の家柄で、保科正之の分家でした。先祖よりも小さい墓石に、晩年に用いた号「八握髯翁」の文字が刻まれています。
また、飯沼千恵子とは、千恵子の旧姓でした。


善龍寺
保科正之が寛永20年(1643)に会津に入封すると同時に創建されたのが善龍寺でした。この山門は他が会津戦争で全焼するなか唯一残った山門です。小田山の麓にあります。


中野竹子
会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女・竹子は薙刀の名手で、娘子軍(じょうしぐん)の隊長格として新政府軍に果敢に薙刀で挑みましたが、新政府軍の銃弾に倒れました。
むしろ会津では八重の桜が始まるまで、八重より竹子のほうが有名であったかもしれません。


慶応4年(1868)年8月23日、鶴ヶ城に籠城できなかった竹子は、同じく入城できなかった依田まき子・菊子、岡村ます子、母・孝子、妹・優子とともに義勇軍を結成しました(娘子軍は後に命名されたもの)。
容保の義姉・照姫が城下の坂下(ばんげ)にいるという情報を得た竹子らは、護衛のため坂下に向かったところ、誤情報であるということが判明。鶴ヶ城へ戻ろうとしたところ、高瀬村に駐留していた家老・萱野権兵衛の軍と鉢合わせました。
竹子らは従軍を願い出ましたが、女を戦場に出すことにはいかぬ、と権兵衛が一旦拒否するも、竹子らの意志は固く、結局権兵衛が折れ、従軍の許可を取りました。


柳橋(涙橋)の戦い
8月25日、ここ柳橋で長州兵と大垣兵と出くわした竹子らは戦闘に加わりました。ところが、一発の銃弾が竹子に命中、竹子は絶命しました。
薙刀の剣先に自らの歌を付けて戦いに挑んだ竹子でしたが、その歌が辞世の句となってしまいました。


柳橋(涙橋)から続く旧越後街道沿いに中野竹子殉節の碑があります。





中野竹子の墓
会津坂下町にある竹子の菩提寺法界寺には、竹子の遺品のひとつ、柳橋の戦いで使用した薙刀が公開されています。撮影の許可が取れなかったのは残念でしたが、故郷会津のため命を賭して戦った中野竹子は会津戦士の誇りといえる武士です。竹子の首は介錯され、ここ法界寺に埋葬されました。
母・孝子は娘子軍に加わらなかった八重に不信感を抱いていたのですが、城に戻るや妹・優子に鉄砲を教えて欲しいと、八重に嘆願したそうです。

  武士の猛きこころにくらぶれば
  数には入らぬ我が身ながらも



小田山
鶴ヶ城の東南標高372mの小田山は、古くは会津の戦国大名・蘆名氏の山城・小田山城がありました。会津藩校日新館を創立した名家老・田中 玄宰(たなか はるなか)や、北方警備軍事奉行・丹羽能教の墓があり、会津戦争時には会津藩の火薬庫も小田山にありました。




西軍小田山砲台跡
新政府軍の城下侵入後、城の東にあった極楽寺の僧侶は、小田山の地形が軍事的に優れていることを密告します。城までは直線距離でおよそ1.5km、十分な射程距離でした。城下侵入から3日後、新政府軍は小田山を占拠。この時、籠城していた新島八重は、最初の夫である川崎尚之助と共に、城南にあった砲台から小田山の砲台へ反撃しています。

明治元年(1868)9月14日、苛烈なアームストロング砲の攻撃が開始され、家老・山川大蔵の妻ら大勢の籠城兵が命を落としました。会津藩はこの小田山を占拠されたことが致命傷となりました。ちなみに西軍とは今でも会津のひとたちがいう言葉で、新政府軍のことを指します。






今晩の八重の桜では、遂に会津藩は降伏してしまいました。この後、藩は解体され、ある者は斗南藩(青森県・岩手県境)、また頼母のように箱館戦争へと続く者もおり、結局会津藩は消滅します。
歴史的には、その後も朝敵の汚名を60年近く負わされるようですが、会津戦争を生き永らえた藩士たちの人生は必ずしも暗転したものではないということが最近この本などでわかりました。
細部に大河ドラマとは違う描写がありますが、八重の桜は、ほぼ史実に乗っ取った展開のようです。

従来幕末ものはあまり面白味がない、というのが正直な感想でしたが、会津戦争を映像で見て、会津のひとたちがいかに必死だったか、共感するものがありました。
私は八重さんとは少なからず縁があるわけで、これからも八重の桜を応援していきたいと考えています。
Posted at 2013/07/21 22:00:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年07月01日 イイね!

今、注目のハイブリッドカー <スバルXV、レクサスIS>

今、注目のハイブリッドカー &lt;スバルXV、レクサスIS&gt;梅雨の合間の日曜日、2台のハイブリッド車を試乗してきました。









スバル XV ハイブリッド
過去、スバル車は所有したことがないのですが、インプレッサやレガシィは何度か試乗しており、走りについてはむしろ最近のトヨタ車よりもいい印象をもっていました。
また、マイカーは通勤で使用せず、完璧なサンデードライバー、遠乗りするにはやはりガソリン代が節約できる車で、排気量が小さくなく、大人4名が乗車できる車というのが、買い替えた場合の条件です。
短距離でしたが、市街地を試乗してきました。
エクステリアは、憧れのレクサスRXタイプのSUVっていうんでしょうか。
セダンとはまた違い、車高が高くお気に入りです。


フロントまわりです。いい顔に見えます。


リアまわりです。こちらもいいデザインだと思います。


グレードはハイブリッド車中間モデルで、2.0i-Lです。
全幅は、1780mm、これなら大抵の立体駐車場はギリギリ入りそうです。
チェイサーは、1755mmで入るので、多分大丈夫でしょう。
これ以上の車幅になると、今借りているマンションの駐車場は問題ないのですが、実家に帰ったときに入らず、狭い道にも行きずらいのでこのあたりが限界かなという気がします。


これで車両重量が1510㎏というから、驚きです。チェイサーとほとんど変わりません。
電気モーターが、フィットなみという小型軽量化されているのが奏功しているのかもしれません。


インテリアです。シンプルかもしれませんが、必要最低限の装備があれば問題なしでしょうか。


ブルーの2眼メーターとスタート・ストップボタンです。



ナビはディーラーオプションよりも、例えば今、サイバーナビを使用していますが、性能と価格を考えたら、市販品のほうがお値打ちかもしれませんね。


減速時のマルチファンクションディスプレイです。実際の走行時に撮ったものです。
燃費が悪いのは、このあたりの道路環境です。私の住む習志野地区は道が狭く、しかもやたら車の数が多いんです。
毎日渋滞は当たり前。ハイブリッドでこの値です。


レクサスIS ハイブリッド
レクサスIS300h F-SPORTです。こちらは、2.5Lの直4とトヨタのお家芸のハイブリッドシステムを組み合わせたセダンです。
2.5Lなのに300hというネーミングは、ガソリンエンジンと電気モーターで3.0Lに相当する出力・トルクのエンジンからこの名前が付いたそうです。
最近のトヨタ系大型セダンの共通はこのグリルですね。以前の日本車ではなかった処理です。


インテリアです。高級スポーツセダンという特色がよくでています。


ブラックは、IS250という既存のV6ガソリンエンジン車です。6発のフィーリングを感じたいなら、多少燃費は落ちますが、こちらのほうです。
ちなみに、IS300hの燃費ですが、市街地で17㎞/Lくらいだそうです。レギュラーガソリン仕様なので、IS250とは比べるべくもありません。


F-SPORTのリアまわりです。それ以外のグレードはマフラーが隠されており全然見えなくしてありますが、こちらはスポーツセダンらしく、左右2本出しです。スポーツセダン好きをくすぐる演出ですね。


2台の異なったタイプの新型ハイブリッド車を試乗しました。将来購入するかどうかは別として、なんせハイブリッド車のことは何もわかりません。
例えば、あるカー雑誌では、XVのガソリン車とハイブリッド車の同グレードの購入価格を差し引いたら、ハイブリッド車は11万㎞走ってようやくガソリン車の購入価格と同じになるとか、蓄電池は10万㎞を目処に、買換え費用に約20万円がかかるとか、いろいろ一長一短を耳にします。
完璧な車なんてないものですが、いろいろ時間をかけて最適なマイカーをチョイスしたいと考えています。
Posted at 2013/07/01 01:00:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記

プロフィール

「いつ見ても予約が取れない、レクサス洗車サービス:-(」
何シテル?   06/22 15:38
オートビレッジ時代の2001年11月に登録しました。みんカラもメジャーになり、国産車から外国車まで、いろんなオーナーカーを見て楽しませてもらっています。2025...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/6 >>

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

リンク・クリップ

2024 京都 紅葉狩り散歩🍁 嵐山・嵯峨野・北野 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2024/12/01 14:15:43
2023 紅葉狩り 🍁 錦秋の白川郷・五箇山合掌造り集落&白山白川郷ホワイトロード 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2023/11/12 19:32:23
完成されたFR スポーツセダン マークX GRMN 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/12/07 23:42:45

愛車一覧

レクサス NX かっつぁんのNX (レクサス NX)
令和7年(2025年)4月9日登録の20系レクサスNX350“F SPORT”です。20 ...
トヨタ マークX トヨタ マークX
2015年式マークX GRMNです。令和元年(2019年)10月に購入しました。限定10 ...
トヨタ マークX G's トヨタ マークX G's
2015年4月7日登録のマークX 350S”G's”です。G'sのエクステリアと、3. ...
トヨタ チェイサー トヨタ チェイサー
2001年式最終型JZX100チェイサーツアラーV TRD Sportsで、2015年4 ...

過去のブログ

2025年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2024年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2020年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2010年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2009年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2008年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2007年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2006年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2004年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2003年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2002年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2001年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation