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Cyber Xのブログ一覧

2012年08月26日 イイね!

湖北の名城 <小谷城、横山城、石田三成邸跡、賤ヶ岳、大溝城>

湖北の名城 <小谷城、横山城、石田三成邸跡、賤ヶ岳、大溝城>夏休みを利用して滋賀県湖北地方にクルマを走らせました。湖北・北近江は戦国時代後半には下克上で戦国大名にのし上った浅井氏三代の居城・小谷城がありました。三代浅井長政の時代に美濃を本拠とした織田信長と同盟を結びましたが、やがて両家は対立、激しい戦いが繰り広げられました。また、奥琵琶湖随一の景勝地といわれる賤ヶ岳をブログにしてみました。






虎御前山と小谷山
国道365号線を関ヶ原方面から北へ直進すると、やがて左手に虎御前山、そして右手に小谷山が見えてきます。天正元年(1573)8月小谷城総攻撃の際は、この虎御前山の砦から信長、秀吉ら織田軍が目前の小谷城に総攻撃をかけました。
小谷城跡

長浜戦国大河ふるさと博
3月24日から12月2日まで、ここ小谷城跡で“長浜戦国大河ふるさと博”が開催されています。まず目に飛び込んでくるのがこの大きな冑と石垣です。石垣は全国に5人しかいない野面積みの職人によって作られたものだそうです。
また、この期間はマイカーで登城できず、徒歩か送迎バス(大人500円)を利用しなければなりません。


番所跡
バスを降りると、番所跡に到着しました。このガイドの方に付いて、本丸跡まで説明を聞きながら徒歩で登山をします。所要時間は1時間30分ほどでした。
 

小谷城は永正13年(1516)頃、初代・浅井亮政(あざい すけまさ)によって築城されました。亮政は山上に「大獄」という居館をまず築き、その後徐々に山麓に向って「小丸」、「京極丸」、「中丸」、「本丸」と城を拡張していったそうです。
また、左手の清水谷には家臣団の住居や、浅井氏の菩提寺・徳昌寺などがありました。
「日本五大山城」という名のとおり、全部見て歩くにはまる一日はかかる規模の大きさです。


虎御前山展望所
本丸に向け直進すると、「虎御前山展望所」という場所があります。目の前の小山が虎御前山といい、天正元年(1573)8月の織田軍の総攻撃の際、砦が築かれた山です。虎御前山沿いに走っているのが現在の北陸自動車道で、その手前が国道365号線です。国道365号線は、「北国脇往環」という街道でした。
さらにその手前が小谷城清水谷の出入口で、そこから山頂にかけて家臣団の住居が建ち並んでいました。
永禄10年(1567)頃、美濃から輿入れしてきたお市の方の大行列は、ここから入城しました。お城中が歓迎の渦で沸き立ったそうです。


途中、雑木林の間に見える伊吹山です。


伊吹山の右手には田畑の後方に横山城があった山並が見えてきます。横山城は浅井長政が南近江の観音寺城主・六角氏対策として作った山城でしたが、元亀元年(1570)姉川の戦い以降、織田軍に占領されてしまい、小谷城総攻撃までの3年間は、木下秀吉が城番となり、小谷城を監視する砦になってしまっていました。


御馬屋跡

御茶屋跡を過ぎると、「御馬屋跡」です。


当時の日本は現代と違い、表日本が日本海側でした。敦賀港で陸揚げされた米や物資はここ湖北地方を経由して上方に運びこまれていました。長政は馬を使い、米や物資をここまで運び入れていました。また、清水谷から飲料水が湧き、やはり馬を使って本丸側に運び入れていたのだそうです。
ここは運搬のための馬をつなぎ止め、休息させる場所でした。


首据石
黒金御門前にある「首据石」です。天文2年(1533)初代亮政は南近江の六角氏と戦った際、家臣の今井秀信が敵に内通していたため殺害し、秀信の首を石の上に曝したと伝わる場所です。
本丸に行く家臣たちへの見せしめであったそうです。


浅井長政
浅井家三代当主・長政は天文14年(1545)に南近江・観音寺城下で生まれました。父・久政は守護・六角義賢(ろっかく よしかた)に臣従しており、人質として幼年期を過しました。
元服すると、義賢の一字から、「賢政」と改名させられ、さらには六角氏の家臣の娘を娶らされました。
これらの措置に不満をもった赤尾清綱や遠藤直経ら後の重臣は、久政を隠居させ、家督を賢政に相続させるよう働きかけました。
賢政は名を長政と改め、六角氏の家臣の娘を離縁し、永禄3年(1560)15歳の若さで六角氏を破り、戦国大名として独立することに成功しました。

北近江・小谷城主となった長政に着眼したのが、美濃岐阜城主・織田信長でした。敦賀港から上方への物資の流通ルートにあり、また美濃からの上洛途中に位置する長政は是が非でも味方に引き入れたい相手でした。
永禄10年(1567)頃、信長側から同盟を要請し、妹・お市を嫁がせました。
父・久政は信長と古くからの同盟者・朝倉義景が不仲であることを理由に反対しましたが、「朝倉への不戦の誓い」を同盟の条件として承諾しました。

ところが、元亀元年(1570)、信長はこの約束を反故にし、徳川家康とともに越前朝倉領へ侵攻すると、怒った久政は長政に同盟を破棄させ、後方から織田軍を挟み撃ちにさせました。
命からがら美濃に逃げ帰った信長は長政の裏切りに激怒し、支城である横山城を包囲すると、姉川の戦いを契機に両家は交戦状態となりました。


桜馬場跡
小谷城の幾つかある曲輪の中で、最も風光明媚な景色が見られる場所がここ「桜馬場跡」です。
昨年の大河ドラマ、「江~姫たちの戦国~」のロケ地にもなりました。
湖畔に浮かぶ小さな島は竹生島です。


黒金御門跡
大広間・本丸跡入口の門を「黒金御門跡(くろがねごもんあと)」といいます。
小谷城は落城から2年間、長浜城が完成するまで秀吉の居城となりましたが、長浜城に移転が決まると、秀吉は黒金御門の石垣を徹底的に破却しました。
この周辺の大きな石は当時の門を支えていた石垣で、破却された当時のままの状態で置かれているそうです。


大広間跡
茶々、初、江が生まれたのがここ「大広間跡」です。「千畳敷き」とも呼ばれ、小谷城で最大の曲輪です。


本丸跡
小谷城の中心となる建物があった場所です。
元亀3年(1572)9月、将軍・足利義昭の信長追討令に応えた武田信玄は甲斐を進発しました。
信玄軍は遠江から三河に進軍しましたが、翌年4月突然甲斐に撤退、帰国してしまいました。
東からの脅威がなくなった信長は、7月足利義昭を京都から追放すると、元号を天正と改め、8月5万の大軍で虎御前山に着陣しました。
信長は周囲の支城を寝返らせると、清水谷から秀吉軍を侵攻させ、次々と浅井の家臣も寝返りさせることに成功しました。
久政が籠る小丸が秀吉軍に包囲されると、8月27日久政は自刃、さらに長政が籠る本丸と小丸が完全に分断されてしまいました。


本丸下の大堀切跡の説明をしている様子です。


大堀切跡の下が赤尾清綱屋敷跡です。


赤尾清綱屋敷跡/浅井長政自刃の地
長政に付き従う家臣は赤尾清綱ら5~6人になっていました。
長政はお市の方と3人の娘を、姉のいる実宰院(じっさいいん)に逃すと、本丸下にある赤尾清綱屋敷に入り、9月1日29歳の若さで自刃しました。
長政には長男・万福丸と次男・万寿丸がいましたが、万福丸は捕えられ関ヶ原で磔刑に、幼かった万寿丸は寺に入れられたと伝えられています。
一方で、長政には側室・八重がおり、小谷城を脱出したその子七郎とその子孫は、現在の愛知県春日井市で大正時代まで居住していたという新説もあります。


横山城跡/石田山公園
長浜市と米原市との境界線にある横山城跡は、永禄4年(1561)に南近江の六角氏と対立していた浅井長政が、六角氏に対する防衛拠点として築城させた山城でした。
元亀元年(1573)の姉川の戦いで、織田軍に落ちると、木下秀吉が城番として常駐し、小谷城の監視役を務めました。
石田山公園内の横山城跡に登ってみることにしました。


横山城跡
標高312mの山頂です。小谷城跡からおよそ10km離れていますが、伊吹山が近く、綺麗な夏の伊吹山系を間近に見ることができます。


小谷城方面です。


横山城跡の麓は旧石田村、現在は長浜市石田町といい、石田三成の出生地でした。横山城城番時代の秀吉は、この近くの観音寺という寺で小姓をしていた三成と出会い、家臣として取り立てたという有名な逸話が残っています。


石田三成邸跡
偶然通りかかったところが、ここ石田三成邸跡でした。
三成の父、正継は浅井長政の家臣で、石田村の地侍でした。
このあたりに広大な屋敷を持っていたそうです。


屋敷跡石碑のちょうど対面にあった酒屋さんです。 このあたりは全部石田三成ブランドかもしれません。


伊吹山
滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山です。岐阜県側より、滋賀県側から見る伊吹山のほうが綺麗に見えます。伊吹山ドライブウェイは、岐阜県側関ヶ原町から9合目まで通じています。


賤ヶ岳
奥琵琶湖にある賤ヶ岳(しずがたけ)は、琵琶湖と余呉湖を分ける標高421mの山で、琵琶湖国定公園に指定された湖北随一の景勝地です。
北陸自動車道木之本ICから1.5kmの位置にあります。
山頂まで徒歩でも行けますが、リフトで登ってみました。


リフトで6分、そこから300m徒歩で頂上に着きます。


手前が山本山、その向う左手が小谷山、右手が虎御前山です。いちばん後に見えるのが伊吹山です。


奥琵琶湖です。小さな島は竹生島です。この辺りの水深は琵琶湖でも最も深く、およそ100mあるそうです。


余呉湖です。天正11年(1583)4月、織田家の覇権をめぐって柴田勝家軍と羽柴秀吉軍が一戦を交えたところで有名です。
両軍膠着の中、羽柴軍は中川清秀が佐久間盛政によって討たれましたが、秀吉軍本隊が急遽、美濃大垣から駆けつけると、柴田軍は北の庄城へ敗走、勝家はお市の方とともに自刃して、戦いは秀吉の勝利に終りました。
直後、秀吉は大坂城を築城、天下取りの布石となった戦いでした。


帰りのリフトです。大人往復760円です。


大溝城跡
賤ヶ岳から国道161号線・湖西道路をおよそ30km南下した高島市にある大溝城跡です。
豊臣秀吉の側室1号は松の丸殿といい、父は京極高吉、母は浅井長政の姉・マリアでした。
元々、京極家は北近江の守護で浅井家の主筋でしたが、高吉の代に下克上で領地を失い没落していました。
松の丸殿の夫と弟・京極高次は山崎の戦いで明智光秀に味方しましたが、秀吉の側室に決まると、高次はその罪を許され、大溝城主として大名に復帰しました。
京極高次は小谷城京極丸で生まれましたが、しばらくは織田信長の支配下にいました。
そして、天正15年(1587)には秀吉の計らいで、長政の次女・初を娶りました。
2人はいとこ同士の間柄でした。
京極家はこの後、明治まで大名家として存続しました。
 

夏休みで三重県に帰省し、お隣の滋賀県湖北地方をドライブしてきました。琵琶湖周辺は京都に近いことから多くの戦国期の名城がありますが、今回は浅井家にゆかりの小谷城、横山城、大溝城を対象にしました。
どの城も天守や櫓など建造物はありませんが、とくに小谷城は地元密着のガイドさんの説明がとてもよく、楽しい城めぐりでした。
また、初めて訪れた賤ヶ岳も琵琶湖八景といわれるだけの景勝地でした。
滋賀県は地元千葉からは遠く、また冬季は積雪があり、すぐに行ける地域ではありませんが、機会をみてまた今回未訪問の名城を見てみたいと考えています。

Posted at 2012/08/26 09:00:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年07月29日 イイね!

海のまち 銚子 <犬吠埼、マリーナ海水浴場、屏風ヶ浦>

海のまち 銚子 <犬吠埼、マリーナ海水浴場、屏風ヶ浦>7月28日に千葉県太平洋側東端にある銚子市に行ってきました。当日は朝から猛暑日の一日でしたが、犬吠埼灯台を見た後、海水浴を楽しんできました。千葉県銚子での一日をブログにしてみました。







犬吠埼灯台
「犬吠埼」という地名は、源義経の愛犬「若丸」が岬に置き去りにされ、主人を慕うあまり、7日7晩鳴き続けたという伝承に由来しているそうです。また、「崎」ではなく「埼」という字を使う岬は珍しいようです。


犬吠埼
入場料200円を払って灯台に登ってみることにしました。狭い通路の99段のらせん階段を登ります。


犬吠埼の次は、すぐ近くの銚子マリーナ海水浴場に行ってみることにしました。当初から今日は海水浴と決めていましたが、さてどこにするか検討した結果、市内3ヶ所の内、「東洋のドーバー」といわれるマリーナ海水浴場に行くことにしました。 


銚子マリーナ海水浴場


2軒あった海の家の内、20歳くらいの可愛らしい娘さんが応対してくれたほうで、パラソルとゴザを借りました。パラソルを立てるための穴を掘ってもらっているところです。娘さん、「お昼もうちに来てくださいね。ゴザは有料ですが食事をしてもらったならタダにしますから・・・」って。


ライフガードさんによると、正午現在摂氏30℃、水温は27℃とのことです。日ごろの暑さを不思議と全然感じず、むしろちょうどよく快適でした。日差しはあるのですが、刺すような日差しではなく、時々吹く海風も心地よかったです。
 

屏風ヶ浦
銚子マリーナ海水浴場は、「東洋のドーバー」といわれる屏風ヶ浦が全面に広がっています。海水浴場としてはあまり広くないですが、海底は岩や石がなく全面砂地で、いい海水浴場でした。また、夕陽が綺麗なことでも知られています。


数年ぶりに海水浴に行ってきました。今は体中、真赤っかですが、初めて行った銚子の海、いい思い出になりました。
Posted at 2012/07/29 10:00:02 | コメント(2) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2012年07月16日 イイね!

武田の里 甲州紀行 <武田氏館跡、要害山城跡、新府城跡、恵林寺、景徳院、信松院>

武田の里 甲州紀行 <武田氏館跡、要害山城跡、新府城跡、恵林寺、景徳院、信松院>7月14日と15日に山梨県甲府地方に行ってきました。甲府は16世紀には武田氏3代の政治・経済の中心として栄えた城下町でした。武田氏関連の史跡をブログにしてみました。









武田氏館跡/躑躅ヶ崎館跡
甲斐・武田氏18代当主・武田信虎が永正16年(1519)、石和からおよそ5km離れたこの地に居館を築きました。武田氏館、または躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)といわれ、周囲に家臣団屋敷が集められ、政治・経済の中枢として機能しました。
信虎は将軍・足利義晴と通じ、京都・花の御所の影響を強く受けたといわれています。同時に後詰の城として、北方の要害山に要害山城も築きました。
19代当主・晴信(信玄)は要害山城で生まれました。


武田神社
日露戦争後、当時の日本は神社に軍神を祀ることが奨励されていました。大正4年(1915)に武田信玄に従三位が贈られたことで武田神社創建の機運が高まり、大正8年(1919)に躑躅ヶ崎館跡に武田信玄を祭神とする武田神社が創建されました。


穴山信君(梅雪)屋敷跡
武田二十四将のひとり、穴山信君(梅雪)は信玄期に駿河を領国とした重臣でした。母は信虎の娘で、正室は信玄次女・見性院でした。
川中島の戦いにも参戦しましたが、信玄死後は義弟・勝頼との対立が絶えず、天正10年(1582)の武田攻め(甲州征伐)の際には、主君・勝頼を見切り、徳川家康に寝返りました。
同年5月には、家康とともに安土城に招かれ、織田信長の接待を受けましたが、翌月本能寺の変が起ると、家康と堺から伊賀越えを敢行しましたが、土民に襲われ殺害されました。



小山田信茂屋敷跡
信玄以来の重臣・小山田信茂は、天正10年(1582)に武田攻めが開始されると、主君勝頼に自らの居城・岩殿山城(山梨県大月市)に迎い入れるよう約束しましたが、これを反故にし織田方への寝返りを決行しました。勝頼一行は小山田の裏切りにより入城を拒否され、天目山の麓・田野村で自害しました。
武田氏滅亡後、織田信忠の元に息子とともに参陣しましたが、信忠から不忠者と罵られ、甲斐善光寺で息子とともに処刑されました。


要害山城跡
甲斐・武田氏19代当主、武田信玄は大永元年(1521)、ここ要害山城で生まれました。躑躅ヶ崎館から2kmほど北に進むとこの要害山があります。


信長が最も恐れた男 武田信玄
尾張・美濃を制圧した織田信長は甲斐・信濃・駿河・西上野・遠江・三河・飛騨・越中を領国とした武田信玄を最も警戒していました。勇猛果敢な騎馬軍団との衝突を避けたい信長はひたすら唯一、信玄にはご機嫌取りに徹しました。
年に7回も一方的に高級な衣服や、虎や豹の毛皮などの贈り物を届けました。これに気をよくした信玄はやはり信長からの要請で、息子勝頼に信長の養女を娶らせ同盟関係を結びました。また、信玄五女・松姫と信忠との婚約が成立し、蜜月の関係を保っていました。


西上作戦

元亀2年(1571)に信長が比叡山焼き討ちを行うと、信玄は逃亡してきた法親王を保護しました。仏法の庇護者であった信玄は、元亀3年(1572)、将軍足利義昭の信長追討令の呼びかけに応じる形で甲府を進発しました。京都上洛を目指した「西上作戦」の始まりでした。これにより信長との同盟は決裂し、以降武田と織田は敵対関係に変わることになりました。

武田軍は美濃、駿河、遠江の三隊に分れ、信玄本隊は徳川家康の領地遠江から攻め入りました。三方ヶ原で家康軍を蹴散らした信玄本隊は家康の居城・浜松城を横目に三河に侵攻しました。
しかし、三河に達した信玄は吐血、甲斐への撤退を強いられることになりました。
帰国の途上、元亀4年(1573)4月12日、信玄は信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)で死去しました。
遺言で、「自身の死を3年間秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」、勝頼に対しては「信勝(勝頼の息子)継承まで後見として務め、越後の上杉謙信を頼ること」、山県昌景には、「瀬田(滋賀県大津市)に武田の旗を立てよ」と言い遺したといわれています。

恵林寺
乾徳山 恵林寺(けんとくさん えりんじ)は、元徳2年(1330)に夢窓国師(むそうこくし)によって開かれ、武田信玄が菩提寺と定めた寺院です。
天正4年(1576)4月、快川国師(かいせんこくし)によって信玄の葬儀がとり行われました。
境内には信玄の墓や二十四将の墓をはじめ、江戸時代に甲府城主となった徳川綱吉の側用人・柳沢吉保夫妻の墓があります。


武田信玄の墓


四脚門
天正10年(1582)3月11日、武田氏滅亡後、織田信長によって恵林寺は全山焼き討ちに遭いましたが、慶長11年(1606)、徳川家康により再建された当時の現存赤門です。


三門
天正10年(1582)4月3日、武田の残党が恵林寺に逃げ込んだ際、快川国師は織田軍から引き渡しを求められましたが、これを拒否したため、激怒した信長は三門に快川国師ら百人の僧侶らを封じ込め、火を放ち、全員を焼き殺しました。
門に快川国師の遺喝(いげ)が掲げられいます。

安禅(あんぜん)必ずしも山水(さんすい)を須(もち)いず、心頭(しんとう)を滅却すれば火(か)も自(おのずか)ら涼し



石和温泉
三連休の初日、中央自動車道の大渋滞が予想されたため、早朝5時に自宅を出発しました。朝方の降雨で地面はぬかるみ、また猛烈な湿気で少々くたびれたため、午後3時に石和(いさわ)温泉のホテルにチェックインしました。
夕食の配膳です。ビールを飲み、夕食後は露天風呂に浸かり、早めに就寝しました。


新府城跡
天正3年(1575)5月21日、長篠・設楽原で織田・徳川連合軍に敗れ、山県昌景ら多くの重臣を失った勝頼は領国経営に徹し、周辺大名との同盟関係に外交政策を転換させました。織田信長にも和睦の申し出を行いましたが、これは拒否されました。

一方で織田軍の攻撃に備え、穴山信君の進言で西方15kmほどの七里岩の断崖上に新城を築城することに決めました。
天正9年(1581)、真田昌幸に命じ城普請が始まりましたが、それに伴う費用を領民をはじめ家臣団に負担させました。これが原因で多くの家臣団の反発を招くことになりました。

翌天正10年(1582)2月、信玄の娘婿で木曽福島城主・木曽義昌が織田方に寝返ると、怒った勝頼は木曽討伐に出兵しましたが、織田軍の返り討ちに遭い撤退すると、これを絶好の好機とみた織田信長は、徳川家康、北条氏政との連合軍で武田攻め(甲州征伐)を開始しました。


勝頼、天目山へ
勝頼は未完の新府城では敵の攻撃を防げないと判断し、3月一族家臣団700名を引き連れ、新府城からおよそ40km東の小山田信茂の居城・岩殿山城へ向けて出発しました。真田昌幸の岩櫃城か小山田信茂の岩殿山城か迷ったあげくの選択でした。
翌日には一行は大善寺で宿泊し、さらに20km東の岩殿山城に向かいましたが、手前で発砲され、ここでようやく小山田信茂の謀反を察知しました。

各地の武田の支城もことごとく無抵抗のまま開城し、唯一勝頼の弟で高遠城主・仁科盛信が抵抗しましたが、落城し、首を獲られました。
勝頼に付き従う従者も50人ほどまでになっていました。
勝頼は後戻りし、天目山棲雲寺を目指しました。


土屋惣蔵片手切りの碑
天目山の麓・田野村から山頂を目指しましたが、すでに滝川一益の追手が待ちうけていたため、田野村に逆戻りを強いられました。
そのとき殿軍を務めた土屋惣蔵(昌恒)が、崖道の脇に隠れ、左手で蔦につかまり、追手の敵方を右手一本で切り倒し、崖下に追い落したと伝わる場所です。


現在の天目山登山道と100年前の登山道


景徳院
天目山から下山した勝頼一行の最期の地となった現在の景徳院(旧田野寺)です。勝頼、北条夫人(北条氏康の娘)、信勝はここで自害し、首を獲られたと伝わる場所です。胴体のみここに埋められ、織田信長の首実検の後、首は京都へ送られ獄門にかけられたといわれています。
没頭地蔵(首なし地蔵)がそれを表現しています。


信松院
景徳院のある山梨県甲州市から、国道20号線(旧甲州街道)を走って、東京都八王子市の信松院(しんしょういん)に行ってみました。


武田信玄五女・松姫
松姫は永禄10年(1567)、7歳のとき、11歳だった織田信長の嫡男・信忠と婚約しました。ところが、比叡山焼き討ち後の信玄の西上作戦により婚約が破棄されてしまいました。
織田・武田両家の関係が悪化する中、松姫は一度も会っていない信忠への操を貫き通し、誰との縁談も聞き入れず年数が経ちました。
天正10年(1582)3月、信長により甲州征伐を起こされると、武田宗家は滅亡し、さらにその3ヵ月後、本能寺で信忠が亡くなるという悲報が入りました。
松姫は出家し尼僧となり、現在の八王子市に信松院を創建しました。

松姫(信松院)の墓


源氏の嫡流、甲斐・武田氏は20代目で滅びましたが、武田の遺領と遺臣は最終的に徳川家康が引き受けました。
赤で統一した勇猛果敢な騎馬軍団に対して、畏敬の念を抱いていた家康は遺臣たちの領地を安堵しました。
武田氏滅亡から18年、関ヶ原の戦いで東軍の先鋒を務め、西軍を壊滅させたのは「井伊の赤備え」、武田騎馬軍団の遺臣たちでした。

時代は変わり、信玄死後の西暦1672年、恵林寺で信玄の百回忌法要がとり行われました。驚いたことに、電話もメールももちろんない時代に全国から数百人のひとたちが集まったのだそうです。
彼らは武士をやめ、商人や職人になった者も数多くいたそうですが、皆信玄の家臣たちの末裔だったそうです。

人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり

信玄公御歌
Posted at 2012/07/16 15:00:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年06月16日 イイね!

2012 お城図鑑 <松本城、仙台城、高遠城、長篠城、山中城、水戸城、江戸城、鶴ヶ城etc>

2012 お城図鑑 <松本城、仙台城、高遠城、長篠城、山中城、水戸城、江戸城、鶴ヶ城etc>一昨年以来「日本100名城」を主にお城めぐりを始めました。以来、30数ヶ所の100名城と、その他およそ60ヶ所、合計90ヶ所のお城(跡)を写真に収めてきました。その中から今年見た幾つかのお城を(再)アップしてみました。現存天守、復興天守、模擬天守、山城跡など、お城好きの参考になればと思います。データはウィキペディアを参考にしました。





松本城
通称 烏城
築城年 永正元年(1504) ※天守は文禄2年(1593)頃
主な城主 石川数正
遺構 現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 国宝(天守)、国の史跡
再建造物 黒門、太鼓門
所在地 長野県松本市
日本100名城
 
浜松城
通称 出世城
築城年 元亀元年(1570)
主な城主 徳川家康
遺構 石垣、曲輪
再建造物 模擬天守
所在地 静岡県浜松市


曳馬城
築城主 今川貞相
築城年 永正年間(1504-1520)
主な城主 飯尾連竜、お田鶴の方(椿姫)
所在地 静岡県浜松市
浜松城の前身、現在は東照宮


二俣城
通称 蜷原城
築城年 16世紀前半から半ば
主な城主 大久保忠世、堀尾吉晴
遺構 石垣、土塁、堀
所在地 静岡県浜松市
徳川家康嫡男・信康切腹地


仙台城
通称 青葉城
築城主 伊達政宗
築城年 慶長6年(1601)
主な城主 伊達政宗
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 脇櫓
所在地 宮城県仙台市
日本100名城


高遠城
通称 兜山城
築城年 不明
主な改修者 武田信玄
主な城主 武田勝頼、保科正之
所在地 長野県伊那市
日本100名城


本佐倉城
通称 将門山城
築城主 千葉輔胤
築城年 文明年間(1469-1486)
主な城主 千葉輔胤、土井利勝
遺構 堀、土塁
指定文化財 国の史跡
所在地 千葉県佐倉市、酒々井町


佐倉城
通称 鹿島城
築城主 鹿島親幹
築城年 天文年間(1532-1555)
主な改修者 千葉邦胤、土井利勝
遺構 堀、土塁
指定文化財 佐倉市史跡
所在地 千葉県佐倉市
日本100名城


長篠城
通称 末広城、扇城
築城主 菅沼元成
築城年 永正5年(1508)
主な改修者 奥平信昌
遺構 曲輪、土塁、空堀、石垣
指定文化財 国の史跡
所在地 愛知県新城市
日本100名城


山中城
築城主 北条氏康
築城年 永禄年間(1558-1570)
主な改修者 北条氏政
主な城主 松田康長
遺構 曲輪、堀、土塁
指定文化財 国の史跡
所在地 静岡県三島市
日本100名城



水戸城

通称 馬場城、水府城
築城主 馬場資幹
築城年 建久年間(1190-1198)
主な改修者 佐竹義宣、徳川頼房
主な城主 佐竹義宣、徳川頼房
遺構 薬医門、弘道館、土塁、空堀
指定文化財 茨城県史跡、国の特別史跡(弘道館)
所在地 茨城県水戸市
日本100名城



関宿城
築城主 簗田成助
築城年 康正3年(1457)
主な改修者 松平康元(徳川家康の異父弟)
主な城主 簗田成助、松平康元
遺構 移築城門、御殿
再建造物 模擬櫓
所在地 千葉県野田市
 
関宿城跡


米沢城
通称 舞鶴城、松ヶ岬城
築城主 伝・長井時広
築城年 暦仁元年(1238)頃
主な改修者 伊達政宗、蒲生郷安、上杉景勝
主な城主 伊達政宗、上杉景勝、上杉鷹山
遺構 土塁、堀
所在地 山形県米沢市


江戸城
通称 千代田城
築城主 太田道灌
築城年 長禄元年(1457)
主な改修者 徳川家康、秀忠、家光
主な城主 太田道灌、徳川将軍家
遺構 現存櫓・門、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)、特別史跡
再建造物 富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓、大手門
所在地 東京都千代田区
日本100名城



鶴ヶ城
通称 鶴ヶ城、若松城、会津若松城、黒川城
築城主 蘆名直盛
築城年 元中(至徳)元年(1384)
主な改修者 蒲生氏郷、加藤明成
主な城主 蘆名盛氏、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤明成、保科正之、松平容保
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 天守、門、櫓、長屋
所在地 福島県会津若松市
日本100名城


日本列島は本格的な梅雨の季節になりましたが、梅雨があけたら、またお城めぐりを再開したいと考えています。夏以降一度行ってみたいお城は、日本100名城では春日山城、岩村城、岐阜城、それ以外では高天神城、横須賀城あたりになります。あくまで予定ですが・・・。
Posted at 2012/06/16 11:00:02 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年06月02日 イイね!

会津・猪苗代紀行 <鶴ヶ城、会津戊辰戦争終結の地、松平家御廟、土津神社、野口英世生家>

会津・猪苗代紀行 <鶴ヶ城、会津戊辰戦争終結の地、松平家御廟、土津神社、野口英世生家>会津若松市は福島県会津地方にある人口およそ13万人の城下町で、江戸時代には五街道(越後、下野、白河、米沢、二本松)が通る交通の要衝として栄えました。現在でも鶴ヶ城(若松城)をはじめ、市内に歴史上の観光名所が数多くあります。会津若松市と隣接する猪苗代町をブログにしてみました。





日本100名城/鶴ヶ城
鶴ヶ城(若松城)の起源は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で伊勢・松坂から黒川の地に入封した蒲生氏郷に始まります。中世を通して、葦名氏が支配する黒川城がありましたが、伊達政宗によって葦名氏が滅ぼされると、一旦伊達氏の領土となりましたが、秀吉の奥州仕置により黒川領は没収され、蒲生氏郷が新たに入封しました。
氏郷は黒川を「若松」、黒川城を「鶴ヶ城」と改め、七層の天守を築城しました。また、城下町の整備を行い、現在の会津若松市の基盤造りを行いました。


慶長16年(1611)に地震により天守が崩壊しましたが、寛永4年(1627)に伊予・松山から「賤ヶ岳の七本槍」のひとり、加藤嘉明が入封すると、息子・明成の代で五層の天守閣が完成したと伝えられています。
寛永20年(1643)に徳川家光の異母弟・保科正之が新たに藩主となると、保科正之の松平家がその後明治まで治めました。
しかし、9代藩主・松平容保の時代に会津戦争(戊辰戦争)の主戦場となり、会津藩は一ヶ月の籠城戦を戦いましたが降伏し、明治初年に鶴ヶ城は破却されました。

現在の天守は昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造による「復興天守」で、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。
昨年3月には、天守が幕末期の赤瓦に葺き替えられ、日本で唯一の赤瓦の天守として生まれ変わりました。


茶室 麟閣
天正19年(1591)、秀吉の命で千利休が切腹すると、利休の茶道が断絶するのを惜しんだ蒲生氏郷は利休の養子・千少庵を上方から引き取り、鶴ヶ城で匿いました。少庵は麟閣を建て、利休の茶の湯を継続しました。
もし、秀吉の手によって少庵にも塁が及んでいたら、現代まで続く、表千家、裏千家、武者小路千家はなかったということになり、歴史的に非常に大きな意味がありました。
麟閣は平成2年(1990)に復元されました。


蒲生時代の石垣


ここからは石垣の違いで、江戸期に組まれた石垣のようです。


会津戊辰戦争終結の地
鶴ヶ城・北出丸から南北に一直線に通る甲賀町通りです。この辺りには会津藩士の屋敷が建ち並んでいました。
明治元年(1868)9月22日、一ヶ月の籠城戦を戦った会津藩は、降伏し白旗を掲げました。
ここ甲賀町通りで、薩長軍の軍艦・中村半次郎(のちの桐野利秋)と松平容保らとの間で、降伏の調印式が行われました。
天皇家に忠誠を尽くした会津藩が、「逆賊」の汚名を着せられての敗戦でした。

文久2年(1862)、京都守護職を幕府から命じられた容保は、周囲から「火中の栗を拾うようなもの」と反対されましたが、幕命に従わざるをえませんでした。
では何故、従わざるを得なくなったのか、それは遡ること200年前、初代会津藩主・保科正之が定めた「家訓十五か条」でした。


松平家御廟
松平家廟所は市内東山町院内の山中に広がる会津松平家のお墓です。藩祖・保科正之の嫡子正頼が亡くなった明暦3年(1657)にはじまり、2代目正経と歴代藩主の子どもや婦人が山腹に葬られ、3代目正容から9代目容保までの藩主は山頂に葬られています。
 昭和62年(1987)に国の史跡に指定されています。


各藩主の墓前に建てられている石碑には、生前の生い立ちや功績が、漢文体千数百文字で刻まれています。土台は全て亀の彫刻です。亀は徳川家(松平家)の繁栄を願ったものだそうです。



会津若松市内を出て、磐梯山、猪苗代湖に向いました。最近になくお天気がよく、ドライブ日和でした。


土津神社
土津神社(はにつじんじゃ)は、磐梯山の麓にある神社で、会津藩初代藩主・保科正之の没後、延宝3年(1675)に造営されました。生前、正之は家臣に磐梯山の麓、ここ見祢山に自分の墓を造ることを言い渡しました。
会津戦争のとき、土津神社は薩長軍によって焼かれましたが、明治13年(1880)に再建されました。


保科正之
保科正之は徳川秀忠と侍女お静の間の子で、慶長16年(1611)に江戸神田で生まれました。秀忠には正室・お江がおり、側室が認められていなかったため、お江の勘気を恐れた秀忠は正之を自分の子として認知せず、生涯一度も面会をしなかったといわれています。
正之と母お静は、旧武田家家臣で徳川家康に仕えた穴山梅雪の未亡人で、武田信玄次女・見性院に預けられました。正之の存在を知ったお江は、正之の引渡しを見性院に命じましたが、見性院は応じず、2人の面倒をみました。
元和3年(1617)、正之は旧武田家家臣で信州・高遠藩3万石の保科正光の養子となりました。
ここで武田家伝来の武士の教育をされた正之は、2代藩主に就任すると、江戸城で初めて異母兄・徳川家光と面会しました。家光は異母弟を大変気に入り、出羽山形藩20万石、そして寛永20年(1643)に陸奥会津藩23万石へ加増・転封させました。


保科正之は会津に入るやすぐさま検地を取り直し、正確な石高を測らせると、次に減税を行いました。前藩主・加藤明成は「全村焼き払ってでも年貢を取り立てよ」という過激な殿様でしたが、島原の乱の教訓を生かし、年貢の軽減を実施しました。
また、飢饉に備えて備蓄米を蓄えさせ、いざ飢饉が起こった場合、農民に備蓄米を貸し出しました。返済は豊作まで返さなくてもよいという領民主義に政策を大転換しました。
これらの政策により、会津藩は江戸時代を通して人口、石高とも増加し続け、“最も安心な国”といわれる土壌をつくりました。


藩主時代のほとんどは将軍の補佐役として江戸に詰めました。徳川家光が亡くなると、その遺志を継ぎ、幼い家綱の名代として忠勤しました。
関ヶ原の戦いから家光までのおよそ50年間、お取り潰しになった大名家は150家にも及びました。牢人が市中にあふれ、幕府転覆計画、由比正雪らの事件が明るみになると、「末期養子の禁の緩和」政策をとり、世継ぎがなくお取り潰しになる大名家の減少に務めました。幕府の政治を家康・秀忠・家光時代の「武断政治」から「文治政治」に大転換させました。

明暦3年(1657)1月、本郷から火の手があがり、江戸市中が焼失した明暦の大火では、町の復興のため、幕府の御金蔵を惜しげもなく使ったといわれています。10万人の死傷者のほとんどは、防衛のため橋がなかった隅田川に飛び込み溺死したといわれていますが、このとき初めて現在の両国橋が架けられました。

明暦の大火後、保科正之の命で再建が中止された江戸城天守台


徳川家のために終生尽くすことを誓った保科正之は、会津藩主に就任すると、「家訓十五か条」を藩是と定め、歴代藩主にこれを守らせるよう書き残しました。内容は、「会津藩は、他藩がどうあろうと、将軍家に忠義をつくす藩である」と書き記したものでした。
文久2年(1862)、「火中の栗を拾うようなもの」といわれ、周囲に反対されながらも京都守護職を幕府から拝命した松平容保は、この保科正之の藩是に忠実に従いました。
しかし、皮肉なことに会津藩はこれがため、徳川幕府とともに滅びの道を歩んでしまいました。

野口英世生家
猪苗代湖畔にある野口英世生家(野口記念館)を訪れました。現存建築です。この辺りは豪雪地帯で積雪から家を守るため鉄筋製の屋根が設けられています。
ここにある併設の売店で昼食とお土産を仕入れました。
会津の名物・名産は数多くありますが、身近な食べ物としては喜多方ラーメンが有名ですね。


徳川秀忠のご落胤、保科正之は「家訓十五か条」を残しましたが、結果的にその後の会津藩を日本一不幸な藩に陥れてしまいました。しかしながら、21世紀になってこの家訓を見直す機運が会津若松市内の小学校を中心に高まりました。
「あいづっこ宣言」といいます。
1.人をいたわります
2.ありがとう ごめんなさいを言います
3.がまんをします
4.卑怯なふるまいをしません
5.会津を誇り 年上を敬います
6.夢に向かってがんぱります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです

私たち大人から見れば、ついつい見落としがちな教訓ですが、こんなところで保科正之の家訓が見直されていることに、会津のひとたちの歴史に対する熱い思いを感じとることができました。





Posted at 2012/06/02 17:00:01 | コメント(5) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

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何シテル?   11/05 21:54
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