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Cyber Xのブログ一覧

2012年05月26日 イイね!

上杉の城下町 米沢紀行 <米沢城跡、神指城跡、上杉家御廟所、春日山 林泉寺>

上杉の城下町 米沢紀行 <米沢城跡、神指城跡、上杉家御廟所、春日山 林泉寺>米沢市は山形県最南端にある人口およそ9万人の町です。江戸時代を通して、上杉謙信を始祖とする上杉家が代々治めた米沢藩がありました。2代上杉景勝と重臣・直江兼続の時代に豊臣秀吉に臣従し、一時は会津を拠点に120万石もの大大名になりましたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に領地の大部分を没収され、米沢30万石に封じられました。その後、幾度となく存亡の危機に直面しましたが、10代上杉鷹山の時代に奇跡的な復興をなし遂げました。「上杉の城下町 米沢」をブログにしてみました。






米沢城跡
16世紀半ば、米沢城は伊達氏の居城でした。17代当主・伊達政宗は永禄10年(1567)、ここで生まれました。天正17年(1589)に会津に侵攻し領地としましたが、翌年豊臣秀吉にその会津領を没収され、岩出山城(宮城県大崎市)に国替えをされました。
米沢城は新たに会津領主となった蒲生氏郷の支城となりましたが、慶長3年(1598)には秀吉の信任が厚かった越後・春日山城主、上杉景勝が会津に入りました。景勝は120万石(会津・米沢・庄内・佐渡)の大封を得て鶴ヶ城を拠点にし、米沢は景勝の重臣・直江兼続の領地となりました。



上杉謙信
上杉謙信は越後守護を務め、はじめ長尾景虎といいました。関東管領・上杉憲政から上杉姓を譲られ、上杉政虎と改名しました。上洛し室町幕府・足利義輝から一字をもらい、上杉輝虎とも名乗りました。謙信は晩年に名乗った法号です。
内乱が続いた越後を兄に代わって統一すると、他国からの救援要請に何度となく出兵し、武田信玄や北条氏康らと戦いました。


上杉謙信・祠堂跡
天正6年(1578)に春日山城で亡くなった謙信の遺骸は、2代景勝の国替えに伴い会津、そして米沢城に移されました。ここには遺骸を納めた祠堂がありましたが、明治9年(1876)に「上杉家御廟所」へ移されました。


上杉景勝と直江兼続
謙信の死後、家督争い・御館の乱に勝利した謙信の甥・景勝と、幼馴染みで景勝を補佐した直江兼続 は、織田軍の侵攻に悩まされましたが、中央に豊臣政権が誕生すると、いち早く秀吉に臣従しました。
兼続は聡明で、秀吉から直臣の誘いを受けましたが、上杉に対する「義」を重んじ、終生景勝を補佐しました。


上杉鷹山
江戸の日向高鍋藩邸で生まれた鷹山は養子となり、上杉家10代(米沢藩9代)を継ぎました。藩主時代は治憲と名乗り、晩年自らの雅号「鷹山」を名乗りました。
鷹山時代の米沢藩は15万石まで石高を削られていましたが、藩士の数は120万石時代と変わらず、およそ6,000名を雇っていました。さらに米沢藩の借金は16万両(幕府の御金蔵が16万両だったとか)にも膨れ上がり、破産寸前でした。
海に面しておらず、盆地にあった米沢藩は飢饉や積雪で農作物が思うように収穫できず、さらに「大倹約令」に対して重臣7名が反抗する流血事件(七家騒動)が起りましたが、財政改革の意志を貫き通し、遂には切り札ともいえる米沢産の大ヒット商品を産み、借金の返済に成功しました。
米沢を代表する偉人です。


上杉神社
上杉神社は明治9年(1876)、上杉謙信と上杉鷹山を祭神として、米沢城本丸跡に建立されました。明治35年(1902)には鷹山は分祀され、城内の松岬神社に移されました。



売店に置いてある「天地人」の絵葉書です。直江兼続は米沢ではとても有名だったそうですが、この番組で全国区にのし上がりました。ここ10年の大河ドラマでは、年間を通して最も面白い番組でした。
上杉を中心に描いたドラマや小説はほとんど見たことがなかったので、とても新鮮でストーリーも斬新でした。


徳川家康・会津(上杉)征伐の標的とされた神指城跡
福島県会津若松市郊外に残る神指城(こうざしじょう)跡です。
慶長5年(1600)3月、手狭になった会津・鶴ヶ城に替わり、兼続が築城を開始した城でした。4月に徳川家康から築城の理由を上洛し弁明せよとの知らせが届きました。秀吉亡き後、家康の横行は目を見張るものがあり、上洛命令に対し、兼続は家康を弾劾する「直江状」を送り付けました。
これを受け取った家康は激怒し、6月に挙兵し会津に向けて進軍を開始しました。工事は中断され、現在に至っています。完成すれば、東北随一の巨大城が会津の地にできていたことになります。

兼続は東北で家康についた伊達政宗、最上義光と戦いましたが、盟友・石田三成が関ヶ原で敗戦した報が入ると停戦し、翌年景勝とともに上洛し家康に謝罪しましたが、会津・庄内・佐渡を没収され、米沢一国30万石と大幅な領地削減を強いられました。
家康に次ぐ120万石という大封を秀吉から拝領された上杉の全盛期はわずか3年で終焉し、凋落は決定的となりました。


二の丸跡には当地で有名な樹齢千年といわれる巨木ヒノキがあります。兼続はこのヒノキがあるここに土塁を造るつもりでいました。


上杉城史苑
米沢城跡の上杉城史苑に入ってみることにしました。レストランや米沢産の伝統工芸品の売店です。


米沢鯉
米沢で有名な養殖鯉「鯉甘煮」です。鯉の養殖は上杉鷹山の時代に始まりました。内陸にあった米沢はビタミン不足を補うため、鷹山が沿岸地方から仕入れた鯉を領内で養殖したのが始まりだったそうです。


笹野一刀彫り
笹野地区の特産品で、サルキリという独特な刃物一本で彫り上げる伝統工芸品です。やはりこれも鷹山が農家に副業として奨励したものだそうです。


米沢織
上杉鷹山は窮乏した藩の財政改革の切り札として養蚕業を奨励しました。領内に150万本もの桑の木を植え、蚕を飼いました。蚕から生糸を作り、京都から機(はた)職人を呼び寄せると同時に機織機(はたおりき)を導入、藩内の農民から武士の奥方に機を織らせました。完成した着物は夏は涼しく、着心地もよく、吸水性に富み、これが大ヒット商品となりました。藩主就任時に16万両もあった借金は後の世代で完済したといわれています。
現代でもこの機織は盛んに行われており、「米沢織」として売られています。


上杉家御廟所
元和9年(1623)、初代藩主(上杉家2代)上杉景勝が亡くなると、当地が埋葬地とされ、以後12代斉定まで歴代藩主の廟所とされました。
上杉家初代・謙信は祠堂が春日山城、鶴ヶ城、米沢城と国替えごとに移されましたが、米沢城が破却された後、明治9年(1876)にこの廟所に改葬されました。


上杉謙信祠堂


御廟所の配列は、中央正面に初代謙信、向って左に2代景勝、4代綱勝、6代吉憲、8代宗房、10代鷹山(治憲)、斜め後方に息子・顕孝、12代斉定、中央より右が3代定勝、5代綱憲、7代宗憲、9代重定、11代治広と並びます。
ガイドさんの話を聞いてわかったことですが面白いことに、廟所の屋根の形で火葬と土葬の見分けができるようになっています。
 2代景勝から8代宗房までは火葬、9代重定から12代斉定までは土葬で埋葬されています。


2代から8代までは火葬が習慣となっていましたが、9代重定のとき10代鷹山の進言により土葬に切り替えられました。理由は火葬の場合、高野山(和歌山)と米沢に分骨するのですが、高野山に納骨するにはお金がかかり、当時15万石に削られていた米沢藩では余分なお金がなかったためだそうです。
土葬にすれば、米沢で葬式を済ませ、幕府に届け出を出せば事は足り、出費も火葬に比べれば格段に安かったのだそうです。
また、後になればなるほど廟所の作りは簡素で、窓格子ひとつとってもコストのかけ方に大きな差があるそうです。

上杉景勝廟所


上杉鷹山と長男・顕孝
鷹山と側室お豊の方の長男・顕孝(あきたか)の墓です。顕孝は早世し藩主にはなれなかったのですが、生前の鷹山の願いで父の隣に埋葬されました。




春日山 林泉寺
米沢城からおよそ1kmの場所にある春日山 林泉寺です。ここには、直江兼続とお船(せん)をはじめ、上杉景勝の母であり謙信の姉、仙洞院、武田信玄の四女で景勝正室・菊姫、信玄六男で菊姫の弟・武田信清、上杉鷹山側室・お豊の墓があります。


直江兼続とお船の方
直江兼続は直江家の婿養子でした。お船は直江家の娘で再婚でした。3人の子がおり、長女は上杉家が米沢に移った後に、徳川家康の重臣・本多正信の次男に嫁ぎましたが翌年亡くなり、あとの子も早世しました。
兼続は元和5年(1619)に江戸で亡くなると、お船は景勝から3,000石の化粧料を与えられました。お船も寛永13年(1636)に江戸で亡くなり、直江家は断絶しました。夫婦の墓所としては珍しく、共に同じ大きさの墓となっています。


上杉家廟所



仙洞院


菊姫



武田信清
武田信玄の六男で菊姫の弟・武田信清は、天正10年(1582)に天目山の戦いで兄・勝頼が滅亡すると、姉・菊姫を頼って春日山に身を寄せました。景勝はかつての敵将の息子・信清を匿い、処遇しました。


お豊の方
上杉鷹山の側室で、長男・顕孝を産みました。正室・幸姫(よしひめ)は前藩主・重定の娘でしたが、背丈が10歳の子供くらいしかなく、障害がありました。鷹山は愛想をつかすことなく、羽子板などをし、幸姫と接しましたが早世しました。


上杉の城下町米沢は初めて訪れました。米沢城、神指城、上杉家御廟所、春日山林泉寺とまわった感想は、やはり圧倒的に大河ドラマ「天地人」の影響の大きさを感じました。3年前のTVドラマですが、未だに売店や、観光ガイドさんの話にでてきていました。

また、米沢藩の危機を救った上杉鷹山は米沢の小学校の体育館には必ず肖像画が掲げられているそうです。
鷹山は藩の財政改革だけではなく、領民にも広く慕われたお殿様であったと伝えられています。
あるアンケート調査で、歴史上の人物で日本の首相になってもらいたい第3位が上杉鷹山だったそうです。 
最後に上杉鷹山、そのひとが残した言葉です。
Posted at 2012/05/26 02:00:38 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年04月29日 イイね!

伝統の一戦 GT <東京ドーム >

伝統の一戦 GT <東京ドーム >GW2日目、東京ドームで伝統の一戦、巨人vs阪神を見てきました。4年ぶりのプロ野球公式戦をブログにしてみました。









東京ドーム
4月29日午後2時試合開始のデーゲームでしたが、ひと足先午前11時に入場し、ジャイアンツの練習風景を見ました。午前中から気温はグングン上がりましたが、エアドーム内はとても涼しく快適でした。


試合前の特別見学は40分限定で、一般開場は正午なので一旦外に出ました。


阪神タイガースOB 赤星憲広氏トークショー
GWスペシャル企画、球場外での赤星さんのトークショーです。途中から聴いたのですが、結構面白いトークショーでした。赤星さんの話では、プロ野球選手で最も快足なのは北海道日本ハムの糸井選手、最も外野守備が巧いのは千葉ロッテの岡田選手だそうです。
最も面白かったのは、ジャイアンツ24番のユニフォームTシャツを着た小さい女の子からの質問でした。
「ジャイアンツの選手でいちばん好きな選手は誰ですか?」と聞かれた赤星さん、観客は大爆笑、迷わず「高橋由伸選手です」と答えたのは、赤星さん一流のジョーク?だったかもしれません。


先発はジャイアンツ内海、阪神岩田、両サウスポーエースでした。

ヒーローインタビュー
内海、岩田の投手戦でしたが、ジャイアンツ加治前選手のタイムリーヒットと、村田選手の犠牲フライであげた2点を守り抜き、2-0でジャイアンツの勝利、ヒーローは加治前選手と7回無失点の内海投手でした。
内海選手は今日が30歳のバースデー登板、記念の勝利でした。


今日のGT戦は一本もホームランがでない試合でしたが、一緒に観戦した酔狂な阪神ファンの知人は納得の敗戦だったようです。
「なんで城島なんか出すんや(チャンスで二併殺)。ブラゼル出さなあかんやないか・・・。零点ではあかんわ~」と敗戦の弁。
巨人ファンの私は空中戦を期待したのですが、もちろん結果に満足。GW初日は通常出勤だったのですが、いいGW前半を楽しむことができました。
Posted at 2012/04/29 22:00:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | 野球 | 日記
2012年04月22日 イイね!

信州 桜の名所 <高遠城址公園、国宝 松本城 >

信州 桜の名所 <高遠城址公園、国宝 松本城 >16日(月)にようやく開花宣言した信州の「高遠城址公園」と、「国宝・松本城」に行ってきました。高遠城址公園、松本城とも満開の桜見たさに、とても多くの花見客で賑わっていました。







高遠城址公園
戦国時代の高遠城は、武田信玄の重臣・山本勘助が縄張りを行った城で、諏訪と高遠を結ぶ交通の要衝の地にありました。信玄の五男・仁科盛信の時代に武田攻めにより落城しましたが、江戸時代には高遠藩の藩庁となり、明治の廃藩置県まで存続しました。天守や石垣などない中世的な城でしたが、明治8年(1875)、これを惜しんだ元高遠藩士が城跡に1,500本の桜を植樹しました。


三の丸


二の丸


桜雲橋
高遠城址公園のランドマークといえる桜雲橋(おううんきょう)です。


タカトオコヒンガンザクラ
高遠城の桜は「タカトオコヒンガンザクラ」といい、ソメイヨシノより少し小ぶりで赤みのある花を咲かせます。ピンク色で染まったタカトオコヒンガンザクラ見たさに毎年花見シーズンには、関東、中部地方を中心に20万人前後の観光客がここ高遠城にやって来ます。
高遠城址公園は「日本さくら名所100選」に指定されており、弘前公園(青森)、吉野山(奈良)と並び、「桜の三大名所」といわれています。


信州そば
公園内に唯一あったこの店で昼食をとることにしました。ご当地名物・信州そばです。 一皿に盛られていますが、これで二人前です。



国宝 松本城
国宝指定されている松本城は、「現存天守」をもつ日本に12基しか残っていない城郭です。「現存天守」とは、江戸時代、またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守で、松本城をはじめ、姫路城、彦根城、丸岡城、犬山城、高知城、松江城、宇和島城、備中松山城、松山城、弘前城、丸亀城、の各天守を指します。こうやって間近に見ると、黒い天守には荘厳さとその迫力に圧倒されます。
天守閣は文禄2年(1593)頃の築といわれています。

松本城も満開と好天の土曜日が重なって、かなりの数のひとたちが来ていました。お城の周辺の桜がとても綺麗でした。


黒門
本丸に入る正門で、櫓門形式の枡形門です。復元建築です。


本丸


長野県の桜はここ数日から見ごろとなっています。西から低気圧が接近しており、お天気が少々心配でしたが、山梨県を過ぎるあたりから晴天となりました。
高遠城、松本城とも日本100名城に登録されている名城で、桜とのコラボレーションが見れる名所です。
今年もお城と桜を見たさに信州まで足を延ばしましたが、行ってよかったと思えた日帰りドライブでした。
Posted at 2012/04/22 12:00:02 | コメント(7) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2012年04月07日 イイね!

東京 桜の名所 <千鳥ヶ淵、靖国神社、目黒川 >

東京 桜の名所 <千鳥ヶ淵、靖国神社、目黒川 >4月になり、東京の桜もようやく見ごろの時期になりました。お天気がよかったので、花見の名所といわれる「千鳥ヶ淵」、「靖国神社」、そして「目黒川」を散策してきました。どのスポットも桜見たさにに、多くのひとたちで賑わっていました。






千鳥ヶ淵
旧江戸城「北の丸公園」の北西、濠の一帯を「千鳥ヶ淵」といいます。上野恩賜公園と人気を二分する都内でも有数の花見のスポットです。昨年に引き続き、今年も真っ先に訪れてみました。


千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵の沿道「千鳥ヶ淵緑道」です。この緑道(りょくどう)沿いを歩いてみました。


靖国神社
千鳥ヶ淵から道路を挟んだ反対側に靖国神社があります。「千代田桜まつり」で、ここも大勢のひとたちが参拝に、花見に来ていました。

「靖国の桜」は、明治新政府の木戸孝允(桂小五郎)によって植樹されたのが始まりでした。「靖国の桜」は東京の桜開花を告げる標本木に指定されています。


大村益次郎
長州藩出身で幕末、高杉晋作らとともに倒幕の先鋒に立ち、上野戦争では彰義隊を鎮圧、日本陸軍の祖といわれた大村益次郎の像です。あの西郷隆盛も一目置くほどの人物でした。上野に向けて建てられているそうです。


目黒川
都内目黒川沿い約3.8kmに約800本のソメイヨシノ、ヤエザクラ、シダレザクラなどが咲く、ここも花見の名所です。狭い宅地の間を流れる目黒川の桜は綺麗のひとことでした。



今日はまだ肌寒さが残る一日でしたが、東京の桜を見れて本当によかったと思っています。「目黒川」は初めて行ったスポットで公園ではなく、川沿いを歩いて見るだけでしたが、ここもひとひとひと噂に違わず、素晴らしいスポットでした。千鳥ヶ淵は外国人観光客も多く、中国系の団体客は大騒ぎをして沿道を歩いていました。この時期、桜を見るにつけ、日本っていいな、日本に生まれてよかったな、と思うのはちょっと大袈裟でしょうか。
Posted at 2012/04/07 20:00:01 | コメント(5) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2012年04月03日 イイね!

独眼竜の名城 <仙台城、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿 >

独眼竜の名城 <仙台城、瑞鳳殿、感仙殿、善応殿 >戦国武将は数多くいますが、男性のみならず、女性にも人気がある武将といえば伊達政宗があげられると思います。東北の米どころ仙台の礎を築いた伊達政宗が築城した「仙台城」と、政宗・忠宗・綱宗三代が眠る「経ヶ峰歴史公園」をブログにしてみました。




日本100名城「仙台城」
仙台城(青葉城)は慶長6年(1601)、徳川家康の許しを得て、岩出山城を本拠としていた伊達政宗が青葉山に築城を開始した平山城でした。平野は奥州街道が通り、海に面した地形は海陸交通の要衝となることや、広瀬川が堀の役目を果たし天然の要害となることがこの地を選んだ理由でした。「千代」を「仙臺」と改め、人口増が見込まれる城下には成長の早い杉の木を植林し、水田開発にも力を注ぎました。
翌年にはほぼ完成し、本丸には「本丸大広間」、「本丸奥」、「懸造り」、「能舞台」をはじめ、櫓や門がありましたが、天守は建てられませんでした。政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)が、徳川家康の六男・忠輝と婚約していたため、家康の目を憚ったのかもしれません。


大手門跡と隅櫓
江戸時代には仙台藩62万石の政庁となりましたが、二代忠宗の時代に平地に二の丸、三の丸が造営され、以降伊達家当主はこちらで政務を執りました。
明治・大正時代にはほとんどの建物が取り壊され、戦前まで「大手門」、「隅櫓」、「巽櫓」が現存していましたが、昭和20年(1945)の仙台空襲で焼失してしまいました。その後、「隅櫓」が復元されましたが、3.11東日本大震災で被災し、今はまだ復旧工事が完了せず、こんな感じで管理されています。


中門跡の石垣
本丸には大手門から坂道を登っていくコースを通ります。その途中にある中門跡の石垣です。
 

本丸北壁石垣
発掘調査により、この石垣は政宗が築城した時代の石垣を覆うように、四代藩主・綱村の時代に積まれた石垣であることが判明しました。寛文8年(1668)の地震により被災した石垣を修復したものでした。


本丸跡
詰門跡の大鳥居をくぐると、本丸跡です。有名な伊達政宗の騎馬像があります。


伊達政宗
幼名を梵天丸といい、永禄10年(1567)に伊達家16代当主・輝宗と、のちに山形城主となった最上義光の妹・義姫の長男として生まれました。5歳のとき天然痘を患い、右目を失明しました。
天正12年(1584)に17代当主となると、急速に勢力範囲を拡張し、天正17年(1589)には南奥州を制圧しました。
しかし、この領土拡張に待ったをかけたのが、豊臣秀吉でした。秀吉は「惣無事令(大名間の私闘を禁じた法度)」違反を理由に会津領を没収すると、天正19年(1591)には一揆を扇動したことを理由に、米沢城から岩出山城に減封、国替えを命じました。

文禄2年(1593)の文禄の役には秀吉軍に従軍しましたが、従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となりました。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して、「伊達者」と呼ぶようになったといわれています。
政宗自身は鎧や兜を黒で統一し、漆を塗って、より光輝くよう工夫をしました。赤や金の軍装が多くなり始めた時代に、黒光する軍装は対照的によく目立つものでした。

慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、禁止されていた大名間の婚姻を徳川家康との間に結びました。
関ヶ原の戦いが起ると、上杉景勝の重臣・直江兼続と戦い、上杉領を奪い獲りましたが、最終的に秀吉に奪われた旧領は奪回できず、62万石で初代仙台藩主となりました。


宮城県護国神社
仙台城本丸跡に昭和25年(1950)に創建された神社です。国有地払い下げの際、買い取ったものですが、仙台市がこれに反発、一部を買い取りましたが、本丸跡は現在も神社の私有地となっています。
また、二の丸跡は東北大学が、三の丸跡は仙台市博物館が所有し、ボランティア・ガイドさんの話によると、これらの関係が処理されないかぎり、復元建築の可能性は薄いとのことです。


神社の境内には有料駐車場と、青葉城本丸会館があって、テナントに青葉城資料展示館と売店や食堂があります。

この店で昼食をとることにしました。仙台名物「牛タン」です。タレを使用せず、塩をまぶして焼いて食べるというものです。仙台産牛タンは2回目ですが、ここの牛タンは少し厚みがあり、噛み応えがありました。

青葉城展示資料館では、15分間のCG映画を上映しており、政宗築城時代の仙台城をより知ることができました。
伊達政宗騎馬像は名残惜しかったのですが、次の目的地に向かいました。


経ヶ峰歴史公園
仙台城から車で15分くらいの場所、経ヶ峰に伊達家を祀る霊廟があります。伊達政宗は生前、遺骸をここ経ヶ峰に葬ることを遺言に残しました。寛永13年(1636)、江戸へ参勤交代の最中、政宗は江戸仙台藩邸で亡くなりました。その翌年に完成した政宗の霊廟が「瑞鳳殿(ずいほうでん)」でした。 昭和6年(1931)に国宝に指定されましたが、仙台空襲で焼失、昭和54年(1979)に再建されたものです。

瑞鳳殿



感仙殿・善応殿・妙雲界廟
二代忠宗(1599-1658)の霊廟を「感仙殿(かんせんでん)」、三代綱宗(1640-1711)を「善応殿(ぜんのうでん)」といいます。また、感仙殿の隣を「妙雲界廟(みょううんかいびょう)」といい、九代周宗(ちかむね)、十一代斉義(なりよし)とその夫人の墓です。


伊達政宗は、慶長16年(1611)に起った慶長三陸地震津波では、津波で荒れた土地を耕し、水田にすることで石高を増やし、江戸で消費する米の3分の1を仙台産が占めるようになりました。
慶長18年(1613)には、スペインと貿易をするため、江戸で宣教師と交渉し、支倉常長を渡航させました。残念ながら、幕府のキリシタン禁教令により実現しませんでした。
ともすれば武功しか目立たない戦国大名ですが、毎日の料理の献立まで作ったというグルメぶりが伊達家の記録に残っているそうです。
独眼竜政宗の人気は、意外とこんな面にあるのかもしれません。
Posted at 2012/04/03 01:00:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

プロフィール

「安福久美子69歳、99年の名古屋西区主婦殺人事件の主犯者。悟さんにフラれた腹いせに、自宅を突き止め、悟さんの愛妻を刺殺した。この安福の自宅、今日グーグルマップで見つけた!裁判やって判決確定まであと何年要するか? 悟さん、息子さん、被害者があまりにも気の毒。。。」
何シテル?   11/05 21:54
オートビレッジ時代の2001年11月に登録しました。みんカラもメジャーになり、国産車から外国車まで、いろんなオーナーカーを見て楽しませてもらっています。2025...
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