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Cyber Xのブログ一覧

2012年03月26日 イイね!

水戸 梅の名園  <偕楽園 >

水戸 梅の名園  <偕楽園 >今月末まで水戸偕楽園で催されている「水戸梅まつり」に行ってきました。偕楽園は岡山後楽園、金沢兼六園と並び日本三名園といわれる名園です。今年でちょうど開園から170年を迎えた「偕楽園」をブログにしてみました。







偕楽園
偕楽園は水戸藩9代藩主・徳川斉昭(烈公1800-1860)によって天保13年(1842)に開園されました。入園できる者は当初は武士と限られていましたが、次第に領内の領民にも開放されていきました。「偕楽園」の由来は、「領民と偕(とも)に楽しむ場にしたい」という目的で命名されました。
ちょうど3月の最終日曜日と好天が重なって、駐車場までは1時間待ち、想像した以上のひとが梅まつりを見ようと押し寄せていた“超満員”の偕楽園でした。


表門
 

一の木戸


孟宗竹林


吐玉泉
大理石から、玉のような澄んだ水をたゆまなく吐くので、「吐玉泉(とぎょくせん)」と名付けられました。水が湧き出るのは仕掛けがあって、造園当時から一度も水枯れしたことがないもので、徳川斉昭の考案だそうです。偕楽園の名物のひとつで、多くのひとだかりができていました。


好文亭
偕楽園のランドマークといえる「好文亭」に行ってみることにしました。好文亭は徳川斉昭によって、休憩所として建てられた木造三階建ての建物で、いちばん上の「楽寿楼」からの眺望は人気のスポットで、料金所から長蛇の列でした。好文亭は、昭和20年(1945)の水戸空襲で焼失後、復元されたものです。偕楽園はこの種の庭園としては珍しく入園料はかかりませんが、好文亭は唯一有料となっています(大人190円、小・中学生100円)。
また、好文亭の由来は、梅の異名「好文木」からついたものです。


楽寿楼から見える「千波湖」です。
 

田鶴鳴梅林(たづなきばいりん)です。


13haもある広大な敷地には、約百品種、三千本の梅が植えられています。偕楽園をひととおり歩いた感じでは、ドーム球場が軽く5つくらいは入る、そんなイメージの大きさです。


見晴広場
「水戸の梅まつり」メイン広場です。祭り太鼓の催しです。


左近の桜
「左近の桜」は、徳川斉昭夫人・登美の宮が降嫁の際、仁孝天皇(にんこうてんのう)から下賜されたのが最初で、現在の桜は京都御所紫宸殿から昭和38年(1963)根分けされたものです。桜はまだつぼみでした。


第50代「2012 水戸の梅大使」
毎年、「梅大使」のお嬢さんたちが公募され、水戸の梅まつりに花を添えます。初代「梅娘」から数えて今年は50代目にあたります。


偕楽園は3.11東日本大震災で被災し、昨年の水戸の梅まつりは中止になりました。好文亭は壁が崩れ、園内も大きな損傷を受けましたが、ほぼ1年かけてこの2月に完全復旧し、今回の梅まつりに間に合うことができました。
これだけ規模の大きい公園ですが、好文亭を除く園内は無料で開放しています。岡山後楽園や金沢兼六園は有料ですが、日本3名園といわれる偕楽園が無料開放を続けているのは、170年前開園時の徳川斉昭のコンセプトを現在も引き継いでいるからだそうです。
「皆と偕に楽しむ」、170年たった現在でも、その伝統が脈々と生きているのでした。
Posted at 2012/03/26 23:00:07 | コメント(5) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2012年03月04日 イイね!

武蔵の名城 <江戸城(皇居東御苑、皇居外苑) 、井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)>

武蔵の名城 <江戸城(皇居東御苑、皇居外苑) 、井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)>3月3日ひな祭りの日は、東京近辺は最近になく暖かく陽気もよかったので、皇居を散策してきました。
皇居は徳川幕府の江戸城であった敷地に、明治元年(1868)年10月に皇居となり、翌2年(1869)3月、明治天皇が京都御所より住まいを移し、現在に至っています。皇居の内、「皇居東御苑」と「皇居外苑」は、「江戸城」の櫓や石垣など多くの史跡を見ることができます。また、皇居は「江戸城」として、日本100名城に指定された武蔵国を代表する城郭です。この「江戸城」をブログにしてみました。

皇居東御苑
江戸城の本丸、二の丸、三の丸部分を皇居東御苑といい、国の特別史跡に指定されています。


大手門
江戸城の正面入口にあたる「大手門」です。江戸城の各門の特徴は「枡形門(ますがたもん)」と呼ばれ、外側と内側が二重門になっており、進路は必ず直角にしてありました。外側を「高麗門(こうらいもん)」、内側を「渡櫓門(わたりやぐらもん)」といい、防御のための工夫が施してありました。万一敵に攻められたときに、高麗門を突破されても、渡櫓門で足止めさせ、弓や矢で攻撃できるようにしてありました。


大手三ノ門跡と同心番所
江戸城へ登城するには、「大手門」、「大手三ノ門」、「大手中ノ門」と「中雀門(書院門)」の計4つの門を通らなければなりませんでした。また、各門には「番所」が設置され、この大手三ノ門には「同心番所」が置かれていました。
ここでは与力や同心といった者が警備を行い、ここを馬に乗ったまま通過できるのは、尾張、紀伊、水戸の御三家だけで、他の大名は駕籠や馬から降ろされ、検問を受けました。


百人番所
大手三ノ門跡を通過すると、大手中ノ門跡手前に今度は「百人番所」があります。鉄砲百人組といわれた与力や同心たち100人が配置され、昼夜を問わず警護にあたっていた番所です。昭和30年代に復元された建物だそうです。


大手中ノ門跡と大番所
登城の際、通過する最後の大番所です。他の番所よりも位の高い与力や同心が警護にあたっていました。


中雀門跡
大番所を通過し、本丸入口の「中雀門(書院門)跡」へ向いました。緩やかな坂道です。
「中雀門跡」です。

ようやく本丸です。少し先に「本丸天守台」が見えてきました。



松の大廊下跡
本丸天守台の手前に、元禄年間に赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷事件を起こした「松の大廊下跡」があります。


江戸城本丸天守台
江戸城の天守は3度にわたって修築されました。最初の天守は慶長12年(1607)に完成しました。
2度目は元和8年(1622)に完成し、3度目は寛永15年(1638)に完成しました。いずれの天守も「天下普請」で、将軍が諸大名に命じて造らせたものでした。
ところが、明暦3年(1657)の大火事・明暦の大火により、寛永期の天守は焼失してしまいました。江戸市民10万人もの死傷者を出だしたとも伝えらえる大火事は、濠と石垣で防御した天守も焼けつくしてしまいました。
4度目の天守再建に着手しましたが、三代将軍家光の異母弟で初代会津藩主となった保科正之が、町の復興に全力を注ぐべきとの進言があったため、工事は中断され、その後天守が再建されることはありませんでした。
いままで幾つかの天守台を見てきましたが、これほど綺麗で、またこれほど巨大な天守台は見たことがありません。まさに、天下人徳川将軍家に相応しいお城であったというのがよくわかります。



次は天守台の裏にある「北詰橋門(きたはねばしもん)」と「平川門」に向かいました。


北詰橋門
江戸城天守台に最も近い位置にある「北詰橋門」です。この門は重要地点にあることから、濠を深くし、石垣も他の場所よりもより高く堅固にしてあり、橋を跳ね上げる仕掛けになっていました。
現在の橋(復元)は固定された橋となっています。


平川門
徳川家康が江戸へ入る前、太田道灌(1432-1486)の時代からここに門があって、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあったそうです。
この門は江戸城の艮(うしとら)の方角(東北)、つまり鬼門にあたるため、「不浄門(ふじょうもん)」とも呼ばれ城内の死者や罪人を出す特殊な用途の門でもありました。また、「御局御門(おつぼねごもん)」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されました。
お福(春日局)が門限に遅れて、この門前で一夜を過したという逸話も残っています。


二の丸庭園
「皇居東御苑」から今度は、「皇居外苑」に行ってみることにしました。

皇居外苑
大手門の南側、桔梗濠に面したまずは巽櫓(桜田二重櫓)からです。

巽櫓
櫓とは、倉庫や防衛の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、「伏見櫓」、「富士見櫓」とこの「巽櫓」の3つしか残っていません。うしろに小さく写っているのが「富士見櫓」です。
明暦の大火で焼け落ちた天守の代用として、「富士見櫓」が使われたそうです。いずれも貴重な現存建築です。


桔梗門
 

坂下門と宮内庁



二重橋と伏見櫓


楠正成
南北朝時代に後醍醐天皇が京都に向けて進軍途中に、楠正成が天皇一行を出迎えた時の姿をかたどったものがこの銅像だそうです。
上野恩賜公園の西郷隆盛、靖国神社の大村益次郎とをもって、「東京の三大銅像」というそうです。


桜田門


井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)
桜田門から桜田濠沿いに200~300m半蔵門寄りに歩くと、「国会前」信号機があります。この脇は現在は憲政記念館の所有地ですが、江戸時代初期には肥後熊本初代藩主・加藤清正の江戸屋敷がありました。二代忠広の時、加藤家は改易され、その後は彦根藩江戸屋敷となりました。
有名な幕末に起った大事件、桜田門外の変はこの彦根藩邸から井伊直弼が桜田門外にさしかかった時、水戸浪士らに暗殺された事件でした。

彦根藩邸跡から桜田門方面です。登城途中のこの僅かな距離で井伊直弼は暗殺されました。 徳川幕府滅亡のきっかけともいえる大事件でした。


江戸の名水「櫻の井」
彦根藩邸前には江戸時代、名水井戸といわれた有名な井戸がありました。三本の釣瓶を下ろすと、
一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられたそうです。この井戸跡が、その名水「櫻の井」井戸跡です。加藤清正が掘ったと伝えられています。
歌川広重の浮世絵にも描かれるほど有名な井戸であったそうです。


「櫻の井」の真下を通る首都高です。その先に見えるのは半蔵門になります。東京FMはここからオンエアしています。


日本100名城「江戸城」をブログにしました。現存する濠や石垣、天守台や櫓は、何度見ても素晴らしいし、また、それらの旧跡が周りのビル群と何ら不自然さもなく調和しているのは、日本の首都東京ならではの風景かもしれません。
関東地方の日本100名城は全部見ましたが、関東のお城では江戸城は最も好きなお城です。 昨年、金山城(群馬県)でボランティアの方に関東の100名城でいちばんよかったのはどこでしたか、と聞かれたとき、迷わず「江戸城」と答えたことを覚えています。
今回、皇居東御苑と皇居外苑を見ましたが、しばらくしたら、また行ってもいい、そんな印象の名城でした。
Posted at 2012/03/04 02:00:21 | コメント(6) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年02月25日 イイね!

下総の名城 <佐倉城、本佐倉城跡、千葉城 >

下総の名城 <佐倉城、本佐倉城跡、千葉城 >千葉県北部はかつて、下総(しもうさ)国と呼ばれ、中世まで千葉氏が支配しました。千葉氏支配の本拠となった千葉城、本佐倉城(もとさくらじょう)、そして日本100名城佐倉城をブログにしてみました。





日本100名城「佐倉城」
佐倉城は天文年間(1532-1555)に、本佐倉城主・千葉親胤(ちば ちかたね)が一族の鹿島幹胤(かしま みきたね)に命じて築城を開始しましたが、完成前に親胤は家臣に暗殺され、幹胤も一時期ここに館を構えましたが、死去により工事は中断しました。
天正年間に千葉邦胤(ちば くにたね)が中断された工事を再開し、この地に本城を移そうとしましたが、邦胤は天正13年(1585)に家臣に殺され再び工事が中断、天正18年(1590)の小田原の役後、北条方であった千葉氏は滅亡しました。
慶長15年(1610)に徳川家康の命で土井利勝が小見川領から佐倉領に入封し、未完の鹿島城を整備拡張し、現在の佐倉城が築かれました。
佐倉城からは徳川家康の重臣・土井利勝や幕末の老中・堀田正睦(ほった まさよし)ら幕閣の中心となった人物がでています。

佐倉城大手門跡
佐倉城はこの道を直進します。現在は道の両脇に佐倉中学校と佐倉東高校がありますが、かつてはこの場所に大手門がありました。


大手門跡を直進すると、広い空き地があってそこが駐車場です。


堀田正睦(1810-1864)
下総佐倉藩第5代藩主で、老中首座・堀田正睦は安政5年(1858)米国総領事タウンゼント・ハリスが日米修好通商条約を求めてくると、孝明天皇の勅許を得るため上洛を果たしました。
しかし、孝明天皇が攘夷派であったため、勅許は得られず帰国するはめになりました。
同年、13代徳川家定が倒れると、14代将軍継嗣問題が起き、紀伊徳川慶福を推す南紀派と徳川慶喜を推す一橋派が対立することになりました。
攘夷を唱える慶喜の父・水戸藩の徳川斉昭とは意見が合いませんでしたが、勅許を得るためには朝廷に近かった一橋派に着くことが肝要と考え、一橋派に路線を変えました。
ところが、正睦が上洛中に南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、徳川斉昭と対立した井伊は城内から一橋派を一掃し、正睦は老中職を解任されてしまいました。
佐倉城で蟄居し、元治元年(1864)に死去しました。
地元佐倉では最も有名なお殿様で、息子正倫(まさとも)が居住した「旧堀田邸・さくら庭園」が現存、公開されています。



タウンゼント・ハリス(1804-1878)


佐倉城は桜の名所で至る所に桜の樹が植えてあります。


本丸跡


天守閣跡


夫婦モッコク(佐倉市天然記念物)


土塁


馬出し空濠跡
 



佐倉城の礎石
昭和59年(1984)に国立歴史民族博物館の研究棟を建設するために発掘調査をしていたところ、旧陸軍の兵舎跡から出土した佐倉城時代の礎石です。
この場所に旧陸軍の兵舎を建てる際に、佐倉城の建物を取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したものです。


 

水堀



本佐倉城跡
佐倉城から東へ3kmほどの将門山にあった本佐倉城跡です。慶長15年(1610)に土井利勝が佐倉藩の藩庁を置きましたが、鹿島台に佐倉城が完成すると、一国一城令により廃城となりました。
文明年間(1469-1486)に築城された千葉氏後期の本拠地で、千葉県下の城では唯一、国の史跡に指定されています。


東山馬場
「国史跡 本佐倉城跡」の石碑を進むと、ここ「東山馬場」です。ちょうどこの馬場跡が駐車スペースになっていました。


本佐倉城の縄張り
合計7ヶ所の郭(くるわ)で構成されています。 まず、城山に行ってみることにしました。


城山




奥ノ山



倉跡
現在、発掘調査をまだ行っている最中のようです。伐採した樹木を機械で裁断しています。


東山


ビューポイント
空気が乾燥している日には、正面に筑波山が見えるそうです。また、京成本線の線路が通っています。


本佐倉城は千葉氏宗家が滅びた後に千葉輔胤(ちば すけたね)によって築城されました。輔胤は、享徳3年(1454)に始まる関東の動乱のなかで千葉宗家を継いだ人物で、千葉氏代々の居城であった「千葉城」が戦場になり荒廃したため、「本佐倉城」を築いて新たな千葉氏の居城としました。「本佐倉城」は、以後百有余年にわたる戦国時代を通じて下総の中心となり、千葉家の当主9代が城主として下総を治めていました。
大永年間(1521)頃、最初の城の改修と城下の整備が終わり、城を中心に家臣や商人が集められ、武家屋敷や町屋・市の形成が進みました。


千葉城
学術的には「亥鼻城(いのはなじょう)」というのが正しい呼称かもしれませんが、地元のひとたちは大抵「千葉城」といいます。
千葉常胤(ちば つねたね 1118-1201)がこの亥鼻周辺に館を築きました。鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝に従い、常胤は亥鼻館を本拠に下総国、上総国の支配権を確立したと伝えられています。
享徳4年(1455)に千葉氏宗家を継いだ千葉輔胤が本拠地を本佐倉城に移すまで、千葉氏の本拠は亥鼻館でした。


千葉市立郷土博物館
千葉城は小田原城をモデルとして、昭和42年に建てられた鉄筋コンクリート造り4層5階建ての模擬天守です。現在千葉市立郷土博物館として千葉氏に関する資料の展示や調査研究を行っています。

千葉常胤坐像


この表の像も千葉常胤をモデルにしています。


下総国の拠点、千葉城、本佐倉城、佐倉城と見ましたが、この3つの城はそれぞれ個性が異なるお城でした。
「千葉城」は千葉常胤をはじめとする千葉氏が下総国、上総国を支配した12世紀後半から15世紀半ばまでの館跡にできた鉄筋コンクリート造り4層5階建ての模擬天守で、千葉市の花見のスポットとして人気のある公園兼博物館でした。
「本佐倉城」は、内陸部の丘陵地帯(将門山)に築いた山城で、千葉県下で唯一国の史跡に指定された現在も発掘中の中世的な城跡でした。
「佐倉城」は石垣や天守・櫓などない城跡ですが、日本100名城に登録され、桜や梅、また国立歴史民族博物館が立地する佐倉市民憩いの公園でした。

背景にある歴史を紐解くと、また別の見え方がするものですが、三者三様、今回も楽しいお城見物ができました。

Posted at 2012/02/25 16:00:03 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年02月18日 イイね!

鎌倉紀行 <東慶寺、建長寺、鶴岡八幡宮、稲村ヶ崎 >

鎌倉紀行 <東慶寺、建長寺、鶴岡八幡宮、稲村ヶ崎 >昨日は小雪が舞う寒い一日で、一夜明けると未明に積もった雪が多少残っていましたが、幸い今日はよく晴れた快晴のお天気になりました。 鎌倉は関東地方でも比較的温暖な気候で、神社やお寺が数多くある有数の観光地です。 今回は大坂夏の陣で滅びた豊臣秀頼の息女が尼層を務めた「東慶寺」、江戸幕府二代将軍徳川秀忠正室・お江の方の芝・増上寺廟門が移築・現存している「建長寺」、一昨年樹齢千年の大銀杏が倒れた「鶴岡八幡宮」、そして富士山が眺められる名所「稲村ヶ崎」を見てきました。

東慶寺
東慶寺は正式な名称を「松岡山 東慶総持禅寺」といいます。鎌倉幕府9代執権北条時貞が父・時宗死去の翌弘安8年(1285)に創建し、初代住職は時宗の夫人・覚山尼でした。
東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治38年(1905)までは代々尼寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから当寺は地名をとって「松ヶ岡御所」と称せられ、格式の高さを誇りました。
江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺した歴史的にも由緒のある寺です。 また、「縁切り寺」、「駆け込み寺」として、天秀尼が女性からの離縁を幕府公認として認めさせた革新的な寺でもありました。

拝観料は一律100円です。


本堂
東慶寺境内を歩いて感じたことは、お寺というより、「庵」とか「庭園」といった印象をもちました。
大きなお堂が一軒も建てられていない、こじんまりとした寺院です。


大坂夏の陣
慶長20年(1615)5月、戦国最後の合戦、大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀殿ら豊臣家の一族は燃え盛る大坂城とともに自刃しました。秀頼は正室で徳川秀忠の長女・千姫を娶っていましたが、千姫との間に子はなく、別々の側室との間に2人の男女をもうけていました。
8歳の男の子を「国松」といい、ひとつ違い7歳の女の子を「奈阿姫」といいました。
国松は大坂城から脱出しましたが、やがて徳川方に捕らえられ、京都の六条河原で斬首されました。
一方、妹の奈阿姫は千姫の助命嘆願が実り、一命を救われましたが、徳川家康の命でここ鎌倉の東慶寺に僧籍として入れられてしまったのです。

天秀尼(1609-1645)
奈阿姫は出家後、名を「天秀尼(てんしゅうに)」と改めました。東慶寺は格式の高い尼寺で、代々毛並みのよい女性たちが住職を務めた習わしがあったので、孤児となった天秀尼には極めて相応しい住み家だったようです。
後に師のあとを継ぎ、東慶寺20世住職となりました。

境内のいちばん奥に東慶寺歴代の尼層の墓苑があるので行ってみることにしました。


歴代住職の墓苑です。初代尼層の覚山尼をはじめ、5世後醍醐天皇皇女・用堂尼、20世天秀尼の他、明治時代の男僧・釈宗演の墓がここに集められています。
 

天秀尼の墓
天秀尼30歳前後のとき、後世に残る事件が起きました。
会津若松40余万石城主・加藤明成の家老・堀主水の妻子が東慶寺に救いを求めてころがりこんできました。夫の主水が明成と意見が合わず出奔し、高野山へ逃れましたが、妻は女人禁制で入山ができず、明成が追ってくるので助けてほしいという訴えでした。
天秀尼は、昔からここに逃げ込んだものは、決して引き渡さないという掟があるため、堀主水の妻子を匿う道を選びました。そして、明成の非を義母の千姫を通じて三代将軍家光に訴えたところ、捨て身の彼女の訴えに、幕府は彼女の言い分を聞き入れ、明成の40余万石は没収されました。
千姫という後ろ楯があったにせよ、天秀尼は見事にこの賭けに勝ったのでした。こうして同寺は「縁切り寺」「駆け込み寺」として広く認知され、やがて幕府公認となったのでした。
正保2年(1645)、天秀尼死去。豊臣秀吉の直系はここに断絶しました。


東慶寺は封建時代、女性の側から離縁できなかった時代に、女人救済の「駆け込み寺」として引き継がれましたが、明治4年(1871)には縁切り寺法は廃止となり、東慶寺は明治38年(1905)に男僧が入寺し禅寺と変わりました。また、墓苑には代々の住職の他、小林秀雄や西田幾多郎など多数の著名人の墓もあります。


建長寺
建長寺は建長5年(1253)に鎌倉幕府5代執権北条時頼によって創建されました。
「巨福山(こふくさん)建長寺」は禅宗の寺院で、境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されるなど歴史的・文化的価値の高い伽藍が多く見られます。
先に訪問した「東慶寺」から徒歩で10分くらいの場所に立地しています。

三門


境内


唐門
重要文化財で方丈入口の門になっています。芝・増上寺の徳川秀忠正室・お江の方(崇源院)の霊屋から正保4年(1647)に移築されました。昨年5月に修理が終わり、落慶法要が営まれました。


建長寺には、「唐門」と同じく増上寺から移築された「仏殿」をはじめ、「国宝梵鐘」、「総門」、「法堂」、「方丈(龍王殿)」など、他にも多数の重要文化財を見ることができます。


鶴岡八幡宮
5年ぶりの鶴岡八幡宮です。相変わらずの人気スポットで、今日もかなりの数の観光客で溢れかえっています。
鶴岡八幡宮は11世紀に源頼義によって創建され、治承4年(1180)に源頼朝が現在地に遷しました。


大銀杏
平成22年3月10日、樹齢千年といわれた大銀杏は強風のため折れてしまいました。 倒れた大銀杏は分断され、根元から高さ4mまでが隣に移植されました。


稲村ヶ崎
鎌倉に前回行ったときは、鎌倉大仏高徳院を見にいきましたが、今回は寄らず、海辺を走ってみることにしました。
由比ヶ浜を過ぎると、前方に江ノ島と富士山が見える景勝地がありました。稲村ヶ崎といい、富士山を撮ろう(見よう)というひとたちが大勢集まっていました。 ここで休憩をとることにしました。


5年前に鎌倉へ行ったときは、ちょうどGWの最中でした。渋滞でクルマが進まず大変な思いをした記憶があります。相変わらずの人気で、予想した以上に観光客は多かったという印象です。
初めて訪れた「東慶寺」と「建長寺」は京都の寺院と比べても、歴史的にも文化的にも遜色ない古寺でした。
お天気にも恵まれ、最後に休憩した「稲村ヶ崎」の景観も素晴らしいものでした。
Posted at 2012/02/18 23:00:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2012年02月12日 イイね!

箱根紀行 <山中城跡、箱根関所、箱根旧街道、創業400年甘酒茶屋 >

箱根紀行 <山中城跡、箱根関所、箱根旧街道、創業400年甘酒茶屋 >建国記念の日、箱根芦ノ湖をドライブしてきました。箱根は江戸時代には東海道の難所として名を馳せた峠道で、「箱根の山は天下の剣、函谷関も物ならず・・・」と唄われた歌や、「入鉄砲に出女」といわれ、とくに取締りが厳しい関所があったことで知られています。平成19年に復元された「箱根関所」と天下の剣と唄われた「箱根旧街道」、そして日本100名城「山中城」をブログにしてみました。


日本100名城「山中城」
山中城跡は、小田原に本拠を置いた北条氏が永禄年間(1560年代)に小田原防備のため、関八州の入口にあたる伊豆国に築城した山城でした。
天正17年(1589)に、豊臣秀吉の小田原攻めに備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築を開始しましたが、翌年3月には豊臣軍に包囲され、わずか半日で攻め落とされた悲劇の山城といわれています。
築城当時から東海道が城を横断している縄張りで、半ば関所の役目もしていたそうです。現在は東海道に代わって国道1号線が通っています。


岱崎出丸と一の堀


西の丸跡


西の丸畝堀


西櫓跡


元西櫓跡


宗閑寺
山中城三の丸跡に建立されている宗閑寺(そうかんじ)には、天正18年(1590)の山中城攻城戦で戦死した北条軍(山中城主の松田康長、副将の間宮康俊兄弟、上野箕輪城主の多米長定)、豊臣軍(一柳直末)の墓石が敵味方を忘れたかのように現在も佇んでいます。



山中城跡をあとにして、箱根峠を越え芦ノ湖に向うことにしました。


箱根関所
箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府の江戸防衛のために、全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられてました。
この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。
一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたといわれていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取り調べを行っていました。「出女」とは、江戸に人質として滞在させられていた大名の奥方が、江戸を秘かに抜け出し、祖国へ帰国してしまうことを指していました。
江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所は、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。


人見女
定番人の奥方や母親が小田原から雇われ、女性の旅人が箱根関所を通過する際、髪を解いたりして、「出女」の取調べをしている様子です。
「出女」に対する取調べは大名の奥方だけではなく、一般市民の女性にまで及ぶ厳しいものであったそうです。


遠見番所



箱根旧街道

元和4年(1618)に江戸幕府は、箱根湯本から元箱根に至る山道を整備し、街道をつくりました。
この区間を含む旧小田原宿から旧三島宿の間は、「箱根の八里越え」とも呼ばれ、東海道の中でも難所中の難所といわれていました。
現在もこの「箱根旧街道」が残っており、東坂(箱根登山鉄道箱根湯本駅から箱根関所まで)と西坂(箱根町から山中城跡経由三島市まで)があるようです。
時間があれば徒歩で散策したかったのですが、今回は元箱根から県道732号線を箱根湯本駅に向ってクルマを走らせてみました。
10分程走ると、この県道の右側に「箱根旧街道」の目印を発見しました。
元和4年(1618)に整備された箱根旧街道(東海道)は、現在の県道732号線とここからつながっていたのでした。

この先、県道732号線沿いに「甘酒茶屋」という今時珍しいかやぶき屋根の店があるようなので、行ってみることにしました。


甘酒茶屋
江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。東海道はその中でも主要な街道で、箱根地域(湯本から箱根関所間、通称「東坂」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通1日十里を旅するところを、箱根地域では八里しか歩けませんでした。
道中には甘酒をふるまう茶屋が設けられるようになり、文政年間(1818-29)には箱根地域には9ヶ所が設けられていたそうです。
しかし、明治13年(1880)に国道1号線が開通すると、東海道を歩くひとが減少して、現在ではここ「甘酒茶屋」1軒が残るのみとなったそうです。

乗用車10台程で駐車場は満車状態。ちょうど昼過ぎだったのですが、ひと足先に来た5人連れのお客さんが店の中に入っていくのがわかりました。

メニューはたったこれだけです。甘酒は頼まず、私はお茶と、うぐいすという餅を注文しました。
フラッシュを焚いたので結構明るく見えますが、実際はほとんど店内は真っ暗で、しかも先にいた団体さんが、いろりを使って食べていたせいで、店内はもの凄く煙たく、お客さんの中には目が痛いので外で食べたいと申し出るひともいました。
5分ほど待つと40歳前後の女性が私たちに餅をもってきてくれました。
驚いたことに、この「甘酒茶屋」は創業400年で、しかも創業以来代々子孫の方が引き継がれており、女性は13代目の子供だということがわかりました!
店は3年前に改装し、江戸時代とは道の反対側に店を作り直しただけという、まさに江戸時代から続く老舗のお茶屋さんなのでした。
また、元禄年間には、赤穂四十七士のひとり、神崎与五郎(1666-1703)が江戸へ向う途中にこの店に寄ったことがあるそうです。
史跡見たさに箱根くんだりまで来たのですが、驚きと感激の連続でした。

店を出るとまたまた驚きがありました。このバス、停留所に停まっていますが、路線バスでなはく、観光バスなのです。バスガイドさんが着いており、「甘酒茶屋」に来たというのです。
駐車場はほとんど乗用車10台満車状態で、大型バスの駐車場などなく、路線バスの停留所に“路上駐車”です。もちろん、行く先は「甘酒茶屋」です!

山中城、箱根関所、箱根旧街道、そして甘酒茶屋と箱根の「史跡」を訪れました。
寒波の影響でとても肌寒い日でしたが、箱根にドライブに行ってよかったと思えた、そんな一日でした。
帰りは箱根湯本に寄り、日帰り温泉でくつろいできました。
Posted at 2012/02/12 14:36:25 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

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