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Cyber Xのブログ一覧

2015年08月10日 イイね!

日本100名城紀行 近畿(丹波・但馬)編 <篠山城、竹田城 >

日本100名城紀行 近畿(丹波・但馬)編 <篠山城、竹田城 >










篠山城
デカンショ祭り、丹波の黒豆で有名な兵庫県篠山市の遺構・篠山城は、慶長14年(1609)完成した城で、大坂と山陰街道を結ぶ土地にできた軍事上の拠点でした。
大坂城には秀吉の遺児・秀頼が健在であり、その豊臣家の家臣団が多い西国の睨みとして、15か国20の大名の助役による天下普請(徳川家康の命令)で築城されました。
普請総奉行は播磨姫路の池田輝政、縄張りは伊賀上野の藤堂高虎が担当しました。
早速、城内に入ってみました。





昭和19年(1944)失火により焼失したものを再建した大書院(おおしょいん)です。この日は、たまたま月曜日で休館日でした。






小規模ながら天守台が残っていました。ここからは丹波富士といわれる高城山(たかしろやま)が見えます。





猛暑のせいで霞んでいますが、篠山城が完成するまでは高城山の八上城(やかみじょう)が機能していました。
天正7年(1579)八上城城主・波多野秀治は丹波攻めの明智光秀と対峙、織田に激しい抵抗をしめしました。力攻めで八上城を落とせないと判断した光秀は信長に無許可で和睦を提示、城兵と土地を安堵する条件として、波多野秀治と信長の謁見を要求しました。
光秀は人質として母を八上城に差し出しましたが、これを聞いた信長は激怒。波多野秀治を殺害してしまいました。
結果、光秀の母は無残にも磔刑にされてしまったという悲劇の伝説があります。










竹田城
ツアー旅行でも大人気の竹田城に行ってみました。『天空の城』とか、『日本のマチュピチュ』といわれる標高353mの城跡です。
なかなかチャンスがなかったのですが、この夏休みを利用して行ってみました。





15世紀に始まった竹田城は、ここ但馬を制する山名氏と、播磨を制する赤松氏の最前線に築城された城でした。
以後、羽柴秀吉が登場するまで、山名氏の家臣・太田垣氏が城主を務めました。今の石垣群は16世紀後半、秀吉の支配になってから作られたものだそうです。









あらためて竹田城の人気に驚きました。ご婦人や中学生以下の子供がとても多かったことです。






そして、城見学に来ていつも感嘆させられること。それは、クレーン車もトラックも建設機械がなにもなかった時代に、よくぞまあ防御のためとはいえ、こんな高所にこんな大きな石垣を運び、そして積んだことです。
今のゼネコンに発注しても、どこも受けてくれないと思います。





城下に見える集落群です。JR竹田駅があります。当時は殿さまクラスは天守には居住せず、この辺りに居館を構えていたそうです。
上は見張り台であったようですが、このくらいの高さにななると、敵も味方も軍勢の動きがよく見えるのがこの竹田城の特徴です。





無料化時代の竹田城とは違い、今は高校生以上は1名500円の入城料が必要です。あとマイカー規制がされており、麓の山城の郷から上はマイカーでは登れません。山城の郷に駐車し徒歩で歩いて山頂まで登るか、山城の郷からバスがでているので、片道大人150円払って途中までバス、そこから徒歩で山頂まで登るかのいずれかになります。
ただ注意したいのは、平日は行きも帰りも毎時バスがでていません。タクシーも使えますが、一方通行のため料金は下山片道のみ山城の郷まで2,000円ほどかかります。
これから竹田城に登城される方は知っておくといいと思います。













近畿地方の日本100名城訪問結果 (○:済み、ー:未)
○ 49.小谷城    日本五大山城
○ 50.彦根城    国宝 現存天守
○ 51.安土城
ー 52.観音寺城   日本五大山城
○ 53.二条城    世界遺産 国宝
○ 54.大坂城    三名城
ー 55.千早城
○ 56.竹田城
○ 57.篠山城
ー 58.明石城
○ 59.姫路城    世界遺産 国宝 現存天守
ー 60.赤穂城
ー 61.高取城    三大山城
ー 62.和歌山城    
Posted at 2015/08/11 00:00:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2015年08月06日 イイね!

日本100名城紀行 中国編 <鳥取城、月山富田城、松江城>

日本100名城紀行 中国編 <鳥取城、月山富田城、松江城>








午前8時、朝食を済ませ兵庫県北部の城崎温泉を出発。国道9号線の山陰海岸国立公園を走り、鳥取市を目指しました。







8月前半の平日、国道9号線の早いこと早いこと、ほとんど信号がない!道もスキスキ。
山陰地方と関東地方を比べても、せんないことですが、この違いに感激しました。
因幡の白兎で有名な白兎海岸でひと休みしました。






鳥取城
戦国時代後半、毛利軍と織田軍の最前線となった鳥取城です。播磨・三木城を攻め落とした羽柴秀吉、黒田官兵衛が、三木城と同じく兵糧攻めを敢行しました。
城内には20日分の兵糧しかなく、数か月も経つと、餓死者がでた城内は人肉まで食らう者が出たといわれています。
江戸時代も政庁として存続し、今は樹木で生い茂る山上には天守がそびえていました。天守は二度の落雷で焼失し再建されず、その後は正面の石垣上にあった御三階櫓が天守の代わりとなりました。




たまたま、品川ナンバーの大型バイクで来ていた男性と、鳥取城に詳しい地元のひとと一緒に登ってみました。
これは仁風閣(じんぷうかく)といい、旧藩主池田侯が大正天皇の宿泊先として提供した建物です。




この山を久松山(きゅうしょうざん)といいますが、鳥取市街を眺めても、ここより高いビルがありません。城下町をひと目で見渡せる城だったことがわかります。





天球丸(てんきゅうまる)という丸型の復元巻石垣です。この石垣のうえに初代藩主・池田長吉の妹で、天球丸という婦人の居所があったことからこう呼ばれています。丸型の石垣は全国的に見ても、ここしか存在しないそうです。どうやら補強のために造られた石垣であったようです。
昨年、この石垣を1個抜き取ってしまった高校生の事件がありました。




鳥取城跡は現在も鳥取市による発掘調査が行われています。






月山富田城
島根県安来市広瀬町富田の月山富田城(がっさんとだじょう)は、戦国時代山陰地方の覇者であった尼子(あまご)6代の山城でした。
尼子氏は出雲を拠点に一時最大勢力をもちましたが、永禄9年(1566)毛利軍によって攻め滅びました。
その後は、毛利領となりましたが、関ヶ原の戦いで毛利が敗れると、東軍に付いた堀尾吉晴の城となりました。



うだるような暑さのなか、標高197mの本丸を目指しました。



山中御殿平(さんちゅうごてんなり)という途中の曲輪(くるわ)です。




山中御殿平から15分くらいで、山頂の本丸跡です。建造物がなく灰皿のカンカンひとつ、山城らしいい光景です。




ここ広瀬で生まれた山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)は、尼子の家臣でした。尼子再興をかけ、生き残った当主・尼子義久とともに毛利攻めの羽柴軍に加わりましたが、天正6年(1578)上月城(こうずきじょう)の戦いで、羽柴軍に見放され孤立、義久は自害、鹿介も小早川隆景に捕えられ処刑されました。




1997年の大河ドラマ『毛利元就』の頃は、大型観光バスがひっきりなしに出入りしたようです。今はひとけもまばらですが、城跡は国の史跡にも指定されています。






松江城
7月8日、国宝指定を受けた現存天守・松江城です。日本の国宝天守は、姫路城、犬山城、松本城、そして彦根城の5か所目です。
元々江戸時代以前に築かれ、現存している天守は全国に12城しか残っていないので、とても貴重な文化遺産です。







ぐるっと松江 堀川めぐり
ちょうどひと月前、タモリさんも乗った堀川めぐりに乗ってきました(NHKブラタモリ8/1オンエア)。




この船頭さん、話がとても面白い。皆、大笑いの連続でした。もちろん、タモリさんの話も聞けました。
ちなみに後方のご夫婦は、北九州市から、手前の男性は千葉市から、国宝・松江城の注目度がわかります。




月山富田城に入城した堀尾吉晴は、当時湿地帯だった日本海の松江に着目し、城前の大掘削を敢行、湿地帯を土砂で埋め立て、出来上がったのが今の城下町と堀川です。





堀前の邸宅です。旧松江藩家老、現在の島根県知事の邸宅があるのがこのあたりです。
船頭さんによると、このあたりは自宅でも駐車場をもつことが禁止され、皆月極駐車場を借りているそうです。




小泉八雲が一時居住していた邸宅もありました。外国人では珍しく、旧武家の嫁を娶ったそうです。
小泉八雲は、『雪女』、『耳なし芳一』の作者で有名です。




船頭さん、この前方の橋上でたまたまロケ中の仲間由紀恵さんを見て、すっかり夢中になってしまったそうです。
気温は32度もありましたが、船中はとても涼しく快適でした。
松江に行った際は、堀川めぐりおススメです。







中国地方の日本100名城訪問結果 (○:済み、ー:未)
○ 63.鳥取城
○ 64.松江城     現存天守 国宝 三大湖城
○ 65.月山富田城  日本五大山岳城
ー 66.津和野城
○ 67.津山城     三大平山城
○ 68.備中松山城  現存天守 三大山城
○ 69.鬼ノ城
○ 70.岡山城
ー 71.福山城
○ 72.吉田郡山城
○ 73.広島城
ー 74.岩国城
○ 75.萩城

Posted at 2015/08/06 19:00:04 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2015年05月24日 イイね!

G’s紀行 上州編 < ユネスコ世界文化遺産 富岡製糸場と絹産業遺産群 >  

G’s紀行 上州編 < ユネスコ世界文化遺産 富岡製糸場と絹産業遺産群 >  









群馬県では古くから養蚕、製糸、織物といった絹に関する産業が盛んで、絹産業に関する文化遺産が数多く残っています。平成26年(2014)にユネスコ世界遺産一覧表に登録された『富岡製糸場と絹産業遺産群』について紹介してみようと思います。

富岡製糸場
券売所から入るとすぐ正面にある木骨レンガ造の建物が東繭倉庫です。明治5年(1872)に建設された長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8mの建物で、1階は事務所・作業場などとして使用し、2階に乾燥させた繭を貯蔵していました。




西繭倉庫
東繭倉庫と同様、2階を繭の貯蔵庫として使用していました。建物の構造・大きさは、ほぼ東繭倉庫と同じです。





敷地面積53,738㎡(16255坪)の場内です。幕末開港した横浜港から生糸が主要な輸出品となっていましたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていました。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになりました。
富岡製糸場は明治5年(1872)にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場で、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていました。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献しました。

明治26年(1893)三井家に払い下げられ、明治35年(1902)原合名会社、そして昭和14年(1939)に現在の片倉工業株式会社(東証1部、本社東京)の所有となりました。
片倉工業は昭和62年(1987)まで操業を続け、閉業した後も解体・売却は行わず、年間1億ともいわれる経費を使い土地・建物を維持・管理し続けました。
平成17年(2005)に富岡市に譲渡(土地のみ有償、建物は無償)しました。






繰糸場
長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1mのこの繰糸場で、女工たちが繭から生糸を取る作業を手作業で行っていました。
開業当時は、工女の求人を出しても「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの根拠のない噂話が広まっていたことなどから思うように集まらず、苦心した初代工場長は、その噂を打ち消すため自らの長女を工女として働かせました。





内部の様子です。昭和62年(1987)当時の機械がそのまま現存してあります。







女工館
日本人工女に、器械による糸取の技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建設されました。
初代工場長・尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)の長女・勇(ゆう)や、ここでの技術を郷里に伝えた和田 英(横田 英)らの工女が生まれました。





ブリュナ館
開業当時、指導者として雇われたフランス人、ポール・ブリュナが家族と暮らした住居です。開業当時は、赤字経営が続きました。その原因は、フランス人技師らへの高額な給料でした。ブリュナが日本を去った明治8年(1875)以降は黒字に転換し、日本産の生糸はやがて米仏で高い評価を受けることになりました。





寄宿舎
工女たちの労働環境は充実していました。当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与されました。
写真は明治15年1882)建設の工女たちの寄宿舎です。過酷な労働を強いられがちなイメージがありましたが、富岡での労働環境は意外にも良好なものであったようです。






午前9時の開場まで多くの人だかり、長蛇の列でした。お土産を買って次の目的地へ向かいました。






荒船風穴
荒船風穴(あらふねふうけつ)は、富岡同様世界遺産に登録された文化遺産で、富岡市から西へおよそ30㎞の山間にあります。ここでは、自然の冷風で繭(卵)を冷凍保存し、年に1回しか生まれなかった蚕を年に数回ふ化させることを目的とした貯蔵庫がありました。
冷凍室が普及する前の技術の結集でした。






石垣造りの上にあった建屋内で、繭(卵)を保管していました。ここに来て驚いたことに、日なたの気温は25度近くありましたが、岩の隙間から驚くほどの冷風がでていたことです。






1号から3号まで、上から順に3つの建屋があった跡です。石垣の間は大きな窪地(風穴)になっています。







2号風穴の気温です。ここに立っただけで涼しい冷風が吹いています。





その上、10mしか離れていない1号風穴の気温です。





1号風穴の近くにあるこの岩穴から、風穴に冷気が吹き出ています。自然の冷気で、冬に降った雪が岩の中で凍結し、その氷から冷気を年中吹き出しています。





冷凍室がなっかた時代、人々はいろんな知恵をつかって最終的に生糸を生産するノウハウを発明したことがよく理解できました。
富岡製糸場と同様、入場料が大人1名500円はかかりますが、たいへん勉強になりました。






田島弥平旧宅
富岡同様、世界遺産登録を受けた田島弥平旧宅は、幕末から明治にかけて、優良な蚕の卵を生産する養蚕技法『清涼育(せいりょういく)』を体系的に完成させ、近代養蚕飼育法の確立を図った田島弥平の旧宅です。
弥平の考案した養蚕建物は、空気環境を良くするための2階建て、瓦葺、気抜き用の窓付きの建物で、全国の模範になりました。
明治後期に、高山社の『清温育(せいおんいく)』が普及するまで、養蚕技術に大きな影響を与えました。






高山社跡
高山社跡(たかやましゃあと)は、高山社の創設者・高山長五郎が養蚕法の改良を行った高山社発祥の地です。高山家は武家でしたが、長五郎は先祖伝来の屋敷を壊して蚕室を建て研究を行い、試行錯誤の中から、『清涼育』に変わる、『清温育』という優れた養蚕飼育法を確立した人物です。
長五郎の功績は、清温育をこの場所で指導し、多くの人物を育てたことです。
やがて、高山社はより広い他の場所に移転しますが、ここ長五郎の生家が『富岡製糸場と絹産業遺産群』として、ユネスコ世界文化遺産に登録されるにいたりました。









朝6時に出発、関越道を北上し、群馬県往復420㎞の行程でした。2014年ユネスコ世界文化遺産『富岡製糸場と絹産業遺産群』でした。
Posted at 2015/05/24 16:00:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2015年05月04日 イイね!

G’s紀行 播磨編 < ユネスコ世界文化遺産・国宝 姫路城 >  

G’s紀行 播磨編 < ユネスコ世界文化遺産・国宝 姫路城 >  









マークX G’sで播州へ
GWの早朝5時、播州姫路へ向け出発。トヨタ最高級ミニバン・ヴェルファイアではなく、燃費日本一のアクアでもなく、先月納車したてのマークX G’sで西国姫路に向かいました。





帰省先の三重県四日市から東名阪→新名神→名神→中国道→山陽道というルートを選択。GW後半中日とはいえ車の交通量はかなりのもの。中国豊中から予想通りの大渋滞。
さらに困ったことには、後席のゲストが渋滞中の高速道で激しい尿意をもよおし(前日の深酒が原因)、急遽宝塚ICで下りるというハプニング!
215kmの行程を約5時間かけ、ようやく目的地姫路に“入城”しました。

マークXのパドル・シフト、クルーズ・コントロールのテストをやってみました。燃費を考えると、キックダウンよりパドル・シフトを使ったほうがいいかもという結果。あっという間にタコメーターはレッドゾーン近辺、スピードメーターは180km/hに到達。
また、すいた高速道でのクルーズ・コントロールの右足の疲労軽減、いろいろ発見したこの日の高速クルージングでした。





姫路城
駐車場はどこも満車。3月27日にリニューアルしたての姫路城では、ちょうどお城まつりの真っ最中。





ユネスコ世界文化遺産、国宝、重要文化財、国特別史跡、日本100名城と多くの指定を受ける姫路城。昭和20年(1945)の姫路空襲でも奇跡的に残った近世城郭、江戸時代初期のまさしく名城です。





池田輝政
関ヶ原の戦いで徳川家康に味方をした池田輝政は、戦後の論功行賞で三河吉田城から52万石で播磨姫路城に入城しました。輝政の父(恒興)と兄は信長没後、秀吉に仕え徳川家康との小牧・長久手の戦いで討死しましたが、輝政は秀吉没後にはすぐさま家康に接近、関ヶ原では毛利勢の抑えにまわりました。
慶長14年(1609)に姫路城を完成させた輝政は、姫路宰相とも呼ばれています。





平成の大修理が完了した姫路城は別名、白鷺城とも呼ばれています。
昭和44年(1969)公開の『007は二度死ぬ』では、ショーン・コネリーがここでロケを行っています。






千姫
徳川家康の孫、千姫が池田家の後を継いだ本多忠政の息子・忠刻(ただとき)に嫁したときの化粧櫓が現在も西の丸に残っています。
秀忠と江の長女・千姫は慶長8年(1603)、わずか7歳で正室として豊臣家に入りましたが、不幸にも祖父と実父に婚家が取り潰されてしまいました。
その後、再婚したのが姫路城主となった本多家でした。本多忠刻が千姫のために建築したのが西の丸に現存する化粧櫓です。






化粧櫓と姫路城天守






姫路城マスコット“しろまるひめ”
Posted at 2015/05/04 17:00:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2014年08月30日 イイね!

日本100名城紀行 中国編 <吉田郡山城、広島城、萩城、原爆ドーム、錦帯橋>

日本100名城紀行 中国編 &lt;吉田郡山城、広島城、萩城、原爆ドーム、錦帯橋&gt;









昨年2013年夏は、中国地方の日本100名城から

備中松山城




鬼ノ城




岡山城


を見てきました。
今年2014年夏は、戦国時代後期、一介の国人領主から中国地方を制覇、戦国大名120万石毛利元就の本拠、広島県安芸高田市の吉田郡山城からです。



吉田郡山城
吉田郡山城は標高およそ400m中世の山城です。山麓に車を停めて、そこから徒歩で歩くと、まもなく見えてくるのが毛利元就の墓です。



毛利元就
明応6年(1497)、吉田郡山城で生まれた元就は26歳で家督を継ぎましたが、この頃の毛利家は山口の守護大名・大内義隆の一家臣団にすぎませんでした。
天文9年(1540)には、出雲の最大勢力で、敵対する尼子晴久3万に吉田郡山城を攻められましたが、大内軍の援軍による寡兵で勝利し、尼子軍を撤退させることに成功しました。

元就は調略による戦術を多用し、親戚筋にあたる吉川家に次男・元春を、また瀬戸内に強力な水軍をもつ竹原小早川家に三男・隆景を養子として送り込み、実質両家を吸収、次第に勢力を拡大していきました。

弘治元年(1555)、主筋であった大内家重臣の陶 晴賢を厳島の戦いで破ると、次に石見銀山の支配権をもつ尼子の月山富田城に攻め入りました。
永禄9年(1566)、尼子義久は降伏、元就は69歳にして中国地方120万石の覇者となりました。

全国的にはあまり知られていない戦国武将ですが、1997年の大河ドラマ『毛利元就』での中村橋之助さんの「出陣じゃ~」が印象的でした。



毛利元就の墓
元亀2年(1571)、元就は74歳という高齢でここ吉田郡山城で天寿を全うしました。生涯220戦にも及んだ名将の墓です。




元就の遺訓
元就は正室との間に生まれた三人の息子たちに幾つかの遺訓を残しました。
そのうちの幾つかを紹介します。

『天下を競望せず』
尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就は、自身は「天下を競望せず」と語り、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を明らかにしていました。

『家臣・周辺国人への気遣い』
元就は家臣団が自分を訪ねてきた際、餅か酒を必ず用意して振る舞いました。
家臣団が持ち込んだ土産を料理させ、餅が好きな者には餅を食べさせ、酒が好きな者には酒肴を振る舞い、地下人などの身分が低い者達までを大切に扱ったといわれています。

『三本の矢』
晩年の元就が、長男・隆元、次男・元春、三男・隆景を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話です。
元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じました。
息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることを説き、3兄弟の結束を強く訴えかけました。

Jリーグ・サンフレッチェ広島の〝サンフレッチェ〟とはこの三本の矢をもじったものです。


『百万一心の碑』
百万一心とは、「百」の字の一画を省いて「一日」・「万」の字を書き崩して「一力」とすることで、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書かれており、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味しています。



中腹から見える安芸高田市です。お天気がこんな感じで、あいにくの雨空でした。
この吉田町周辺には、猿掛城跡、鈴尾城跡など元就時代の城跡が数多く残されています。



標高400mの山頂、本丸跡です。元就の居所があった場所といわれています。




日本100名城の山城は、春日山城、小谷城、八王子城などを訪れましたが、吉田郡山城は比較的小さい部類かもしれません。



広島城
広島城は、吉田郡山城の利便性の悪さを感じた元就の孫・毛利輝元が慶長4年(1599)に完成させました。
輝元は豊臣秀吉に仕え、叔父の小早川隆景とともに大老職に就任、関ヶ原の戦いまで広島城を本拠としました。
輝元時代の広島城は昭和20年(1945)の広島原爆で破壊されましたが、戦前の古写真をもとに忠実に再建された復元天守です。



表御門



左から、表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓




広島城は〝鯉城(りじょう)〟ともいわれます。広島東洋カープはここから付いた名前です。



広島城の近く、〝原爆ドーム〟にも寄ってきました。
見る者の足を止める、インパクトのあるユネスコ世界文化遺産です。





萩城

関ヶ原の戦いで敗北を喫した毛利輝元が広島城を追われ、萩の指月山麓に慶長9年(1604)に築城を開始したのが萩城でした。
その後、江戸時代を通して長州萩藩・毛利家の藩庁兼居城として機能しましたが、明治7年(1874)に天守をはじめ建造物はすべて破却されました。



五層の天守があった場所です。明治初めの古写真が残っていますが、復元建築はされないようです。



天守台からの眺め





萩のホテルで食べた懐石料理、虎フグの刺身です。萩港で陸揚げされる名産です。




2014年夏、日本100名城紀行 中国編でした。
最後は山口県岩国市の名所・錦帯橋です。



日本100名城(中国地方) ○は訪問完了
No. 63 鳥取城      
No. 64 松江城      
No. 65 月山富田城   
No. 66 津和野城
No. 67 津山城     ○
No. 68 備中松山城  ○
No. 69 鬼ノ城      ○
No. 70 岡山城     ○
No. 71 福山城
No. 72 吉田郡山城  ○
No. 73 広島城     ○
No. 74 岩国城
No. 75 萩城       ○
Posted at 2014/08/30 18:00:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域

プロフィール

「安福久美子69歳、99年の名古屋西区主婦殺人事件の主犯者。悟さんにフラれた腹いせに、自宅を突き止め、悟さんの愛妻を刺殺した。この安福の自宅、今日グーグルマップで見つけた!裁判やって判決確定まであと何年要するか? 悟さん、息子さん、被害者があまりにも気の毒。。。」
何シテル?   11/05 21:54
オートビレッジ時代の2001年11月に登録しました。みんカラもメジャーになり、国産車から外国車まで、いろんなオーナーカーを見て楽しませてもらっています。2025...
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