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2014年08月23日 イイね!

平成27年大河ドラマ “花燃ゆ” 長州萩紀行 ~志士たちの城下町~

平成27年大河ドラマ “花燃ゆ” 長州萩紀行 ~志士たちの城下町~










お盆期間に休日を取って、山口県萩市の松陰神社を訪れてみました。
駐車場は満車、意外にも20代のひとたちが多く参拝しているのには驚きました。
ここは、長州出身の幕末の志士たちが数多く祀られている神社です。
私は松陰門下で『騎兵隊』を創設、幕府軍を打ち破った『あの志士』に、神頼みをしてきました。



松下村塾
松陰神社境内にあり、吉田松陰が安政4年(1857)から翌年まで子弟を教育した私塾で、明治維新の原動力となった多くの優れた指導者を輩出したことで知られています。



狭い屋敷の中にはいわゆる“OBたち”の写真・肖像画が掲げられています。



長州藩には藩校・明倫館がありましたが、松下村塾は身分の隔てなく士分以外の町民、農民も受け入れた私塾でした。



吉田松陰
文政13年(1830)、長州藩下級武士の杉 百合之助の次男坊として生まれた寅之助は吉田家の養子となりました。
幼少から学問の才があり、11歳のときに藩主・毛利敬親の御前講義でその才能を開花させました。

安政元年(1854)、伊豆下田に停泊中の外国船に弟子の金子重之輔を伴って密航を企てましたが、乗船を拒否されやむなく断念、その後幕府に自首しました。そもそもの目的はペリーの暗殺だったとも伝えられています。
松陰と金子は萩に送還され、松陰は野山獄、金子は岩倉獄へ投獄されました。

安政2年(1855)に出獄が許されましたが、実家の杉家に幽閉の処分となりました。
安政4年(1857)、叔父の玉木文之進が始めていた松下村塾の名を引き継ぎ、実家の敷地内に始めたのが松陰神社境内の松下村塾でした。



吉田松陰幽囚の旧宅
松下村塾のすぐ隣、吉田松陰の実家、杉家です。出獄が許され実家に戻った松陰でしたが、安政5年(1858)、井伊直弼が朝廷の許可(勅許)を得ず、幕府単独で日米修好通商条約を締結したことを知ると、激怒した松陰は老中暗殺計画を企てました。
結果、再び野山獄へ投獄され、翌年江戸伝馬町で処刑されました。享年29歳でした。



松下村塾の塾生たち/久坂玄瑞

天保11年(1840)、萩城下 平安古(ひやこ)の藩医に生まれた久坂玄瑞は、安政4年(1857)に正式に松陰の弟子入りとなりました。
松陰との攘夷論で激しい手紙のやりとりの末の松下村塾入門でした。

また、この時期松陰の妹、文(ふみ)との結婚をしました。玄瑞18歳、文15歳でした。
初めは文との縁談に消極的だった玄瑞、理由は容姿がどうも自分の好みではなかったようです。

安政の大獄で刑死した松陰の意志を継ぎ尊王攘夷の先鋒となった玄瑞は、文久2年(1862)公武合体(幕府側)を説く藩の直目付・長井雅楽を桂小五郎の協力によって失脚させることに成功しました。
藩主・毛利敬親に藩論を公武合体から尊王攘夷に方針転換させた玄瑞は、朝廷の攘夷化にも成功し、江戸に下り将軍徳川家茂に攘夷の実行を迫りました。
また、高杉晋作らと合流し、建設中の品川御殿山の英国公使館焼き討ちを実行しました。

ところが、文久3年(1863)八月十八日の政変で長州勢が朝廷から一掃され、さらに翌年6月5日の池田屋事件で長州勢が襲撃されると、これに激怒した玄瑞は7月、御所に向けて発砲、京都市中を火の海と化した禁門の変を起こしました。
奮戦虚しく敗れた玄瑞は、御所内にあった鷹司邸内で自刃、享年24歳でした。



萩市平安古町にある久坂玄瑞誕生地



吉田稔麿
久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と合わせ、松下村塾の松門四天王といわれる吉田稔麿は、文久3年(1863)6月、高杉晋作が創設した騎兵隊に参加、尊王攘夷の志士として奮戦しましたが、池田屋事件で新選組に襲撃され死亡しました。享年24歳でした。


入江九一
足軽の家に生まれた入江九一は松下村塾の松陰の弟子のひとりです。
幕府が日米修好通商条約を結ぶと、これに激怒した松陰は老中暗殺計画を企てると、久坂玄瑞、高杉晋作は反対しましたが、入江九一と弟の野村靖は計画を実行しようと試みました。
この罪により投獄されましたが、釈放されると武士の身分に取り立てられ、高杉の騎兵隊の参謀となりました。
元治元年(1864)の禁門の変で敗れ自刃、享年28歳でした。


高杉晋作
天保10年(1839)生まれの高杉晋作は、文久2年(1862)藩命で上海に渡航、そこでの列強支配に大きな影響を受けたといわれています。
帰国後、久坂玄瑞、桂小五郎らの尊王攘夷派に属し、品川の英国公使館焼き討ちに参加しました。
文久3年(1863)には、身分に囚われない騎兵隊を創設しました。
元治元年(1864)7月の禁門の変によって朝敵となった長州藩に対し、幕府による第一次長州征伐が迫るなか、12月伊藤俊輔(のちの博文)率いる力士隊らと功山寺で挙兵、敵対する俗論派(幕府恭順派)を排斥して藩の実権を握りました。
これにより藩の方針が攘夷から倒幕へと方向転換されました。

慶応2年(1866)1月、薩長同盟が結ばれると、5月伊藤俊輔とともに薩摩行を命じられ、長崎で軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」を購入、6月の第二次長州征伐ではこの丙寅丸に乗船し、幕府艦隊を破りました。

慶応3年(1867)4月、大政奉還を見ずして肺結核のため亡くなりました。享年27歳。
もし、高杉が生きていたなら、維新の三傑は木戸孝允(桂小五郎)ではなく、高杉がなっていたかもしれないと、私は考えています。真にインパクトのある志士でした。



高杉晋作誕生地
城下町 高杉晋作の生家です。



高杉晋作(中央)と伊藤俊輔、のちの伊藤博文(右)



前原一誠

安政4年(1857)、久坂玄瑞らとともに松下村塾に入門した前原一誠は、文久2年(1862)、脱藩し久坂玄瑞らとともに対立する長井雅楽の暗殺を計画しました。
翌年藩に復帰し、戊辰戦争に参戦、軍のトップ兵部大輔に就任しました。
ところが、前任の大村益次郎が唱えた徴兵令に反対し木戸孝允と対立し、徴兵制を唱える山県有朋に追われるように下野しました。
萩に帰郷後、明治9年(1876)、萩の乱を起こし処刑されました。



伊藤博文
百姓の家に生まれた伊藤は松下村塾に入門後、松陰から俊輔という名前を貰いました。
久坂玄瑞らとともに尊王攘夷派に属し、維新後に博文と改名し、英語に堪能していたことから様々な要職に就き、明治18年(1885)初代内閣総理大臣に就任しました。



伊藤博文旧宅



山県有朋
伊藤博文同様、身分の低い中間の家に生まれた山県狂介は松下村塾出身で、高杉晋作の騎兵隊創設に参加、これが世に出るきっかけとなりました。
維新後、有朋と改名し、明治22年(1889)内閣総理大臣に就任し、日本最初の帝国議会に臨みました。
山県は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けました。


山県有朋誕生地



木戸孝允
天保4年(1833)城下呉服町の藩医の家に生まれた木戸は、桂家に養子となり武士身分になりました。藩校・明倫館時代に松陰の教えを受けました。
尊王攘夷派に属した木戸は、新選組に命を狙われる存在になり、京都で知り合った芸者・幾松宅に潜伏しながら活動を続けました。
禁門の変以後、但馬の出石に身を隠しましたが、あとを追ってきた幾松に翻意され藩に復帰、薩長同盟以降、倒幕に貢献しました。

明治新政府では要職に就き、岩倉使節団では同郷の伊藤博文らと欧米を視察しました。
明治10年(1877)2月、西南戦争が勃発すると、木戸はすぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望し、明治天皇とともに京都へ出張しましたが、かねてから重症化していた病気が悪化。
5月朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去りました。享年43歳でした。

明治3年(1870)の木戸孝允(前列中央)


木戸孝允旧宅
城下町に残る木戸孝允旧宅です。



玉木文之進旧宅/松下村塾発祥の地
松下村塾の創立者であり、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、天保13年(1842)松下村塾を開き多くの子弟を教育しました。松陰が10歳で藩校明倫館の助教授となったときの後見人でもあります。
明治9年(1876)、前原一誠の起こした萩の乱を阻止出来ず、門弟が多く参加したことから「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃してしまいました。



毛利敬親
長州藩13代藩主・毛利敬親は、幕末の混乱期にあって、有能な家臣を登用し活躍させ、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物です。
家臣の意見に対して異議を唱えることが無く、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれていました。



少し長くなりますが、ここからは史跡のまち萩の観光スポットの紹介です。内容については、後日おすすめスポットに掲載します。興味がある方は是非、足を運んでみてください。
■堀内エリア■
萩城跡(指月公園)



旧厚狭毛利家萩屋敷長屋



■平安古エリア■
鍵曲



■城下町エリア■
城下町エリアは、藩政時代の中下級武士の邸宅が残っています。碁盤の目状の南北に三本の筋があり、先の高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅などを見ることができます。



菊屋家住宅




伊勢屋横町



菊屋横町





■浜崎エリア■
吉田松陰と弟子・金子重之輔が投獄された獄跡があります。
野山獄跡



岩倉獄跡



■松本エリア■

先の松陰神社、松下村塾、吉田松陰幽囚の旧宅、伊藤博文旧宅、玉木文之進旧宅があるエリアです。
吉田松陰誕生地



吉田松陰の墓及び墓所
万延元年(1860)2月7日が松陰没後100日にあたり、杉家では百日祭を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬した場所です。松陰の父である杉 百合之助、叔父の玉木文之進、高杉晋作、久坂玄瑞の父と兄の墓もあります。



吉田松陰と金子重之輔



吉田松陰誕生地から見える萩市内



平成27年大河ドラマ 花燃ゆ
来年の大河ドラマの主な出演者の面々です。
主人公で松陰の妹・文を演じる井上真央さん、松陰役伊勢谷友介さん、もうひとり文の兄・杉 梅太郎役の原田泰造さん、文の姉・寿役の優香さん、文の最初の夫・久坂玄瑞は東出昌大さん、姉の元夫で文の再婚相手・小田村伊之助は大沢たかおさんです。

来年の大河ドラマの舞台、萩の城下町でした。






Posted at 2014/08/23 11:00:02 | コメント(6) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2014年06月02日 イイね!

慶長出羽合戦 直江vs最上 山形紀行 <長谷堂城、最上義光歴史館、蔵王お釜>

慶長出羽合戦 直江vs最上 山形紀行 <長谷堂城、最上義光歴史館、蔵王お釜>









北の関ヶ原/長谷堂城の戦い
上杉景勝と最上義光は現在の山形県(村山、最上、庄内、置賜)を二分する領土を有していましたが、慶長5年(1600)9月、上杉景勝に庄内を奪われた東軍・最上義光と、庄内と置賜を最上領により分断された西軍・上杉景勝が交戦しました。
豊臣秀吉によって、庄内、置賜を承認された上杉景勝に対し、徳川家康の上杉討伐の挙兵を契機に旧領回復を狙った最上義光の戦いでした(慶長出羽合戦/長谷堂合戦)。

9月8日、上杉軍総大将・直江兼続は2万5千の大軍で最上領への侵攻を開始、数で圧倒する直江軍は12日最上領最前線の畑谷城を攻略、続いて現在の山形盆地(村山)に侵攻、菅沢山に本陣を置き、最上義光の本拠・山形城手前の山城・長谷堂城を囲みました。



長谷堂城

9月15日、直江軍は義光重臣・志村光安が少数で籠城する長谷堂城攻略を開始しました。
上杉(直江)軍vs最上軍、今の高校野球に例えるなら、甲子園の常連校上杉軍に対し、地方予選しかでたことがない最上軍との戦いでした。



標高229mの山頂です。志村光安は約2週間籠城戦を戦いぬきました。前方に広がるのは山形盆地です。




北方方面に見えるのが山形城(霞城公園)です。慶長出羽合戦当時、最上義光の本拠城でした。



北西方面に見えるのが、直江兼続が本陣を置いた菅沢山です。



激戦地・主水塚
長谷堂城の真正面にある主水塚といい、直江軍の猛将・上泉主水泰綱(かみいずみ もんど やすつな)が討死を遂げたと伝えられる塚です。



掃部の碑
最上(伊達)軍猛将・保春院の警備役として仕えた加藤掃部左衛門清次(かとうかもん さえもんきよつぐ)の碑です。清次は親友であった江口光清が畑谷城で上杉軍に討たれたことに憤激し、長谷堂合戦に参戦しましたが、長谷堂城の北方で戦死しました。
保春院とは、義光の妹で伊達政宗の母です。義光は甥にあたる伊達政宗にも援軍を要請していました。



長谷堂合戦図屏風・左隻(最上義光歴史館所蔵)
9月15日美濃関ヶ原で西軍が敗れた知らせが直江軍に入ったのが29日でした。石田三成がわずか一日で家康に負けたことを知った直江兼続は撤退を決意、米沢城(置賜)へ引き返す場面を描いた屏風絵です。左上が直江兼続、それを知った最上義光が激しく追撃するという内容の屏風絵です。



拡大するとこんな感じです。逃げる直江兼続と、最上義光に向け発砲する取り巻きです。



執拗に追撃する総大将・最上義光です。右手に刀をもった中央の武将です。



直江軍軍旗(最上義光歴史館所蔵)
戦場に捨てられていた直江軍の軍旗です。最上家で代々保管・保存されていたもので、雁の絵は必ず勝って祖国(米沢城)に帰還するという意味があるそうです。



三十八間金覆輪筋兜(最上義光歴史館所蔵)
この追撃の際、狙撃され被弾した義光の兜です。兜のちょうど正面中央あたりに弾が命中しました。
義光は危機一髪、織田信長から拝領したといわれる今に伝わる兜です。



最上義光歴史館
山形城(霞城公園)に隣接する最上義光歴史館です。ちょうど日曜日の開館9時と同時に入館しました。長谷堂合戦や、その後の最上家の家督争いなど、ガイドさん付でいろいろな逸話を聞くことができました。



最上義光と愛娘・駒姫
長谷堂合戦では、伊達政宗と組み徳川家康に味方をした最上義光ですが、その原因のひとつとなったのが三女・駒姫でした。
文禄4年(1595)8月、かねてよりの豊臣秀吉の申し出で、15歳になった駒姫は関白・秀次の側室にと、京都へ上洛をしましたが、駒姫を待ち受けていたのは三条河原での処刑でした。
「秀次事件」で連座の罪を負わされた駒姫は斬首され、その美貌の少女は三条河原に露と消えました。
駒姫の上洛を知った秀吉は、駒姫の処刑中止を命令しましたが、伝令が着く150m前で刑が執行されたと伝わります。
この「秀次事件」は秀吉政権に対する諸大名の求心力を失う大きな原因といわれていますが、最上義光はこの事件以降、急速に徳川家康に接近し、秀吉への遺恨が決定的になりました。



義光が山形市内に建てた専称寺、駒姫の墓です。
義光は専称寺を駒姫の菩提寺と定め供養をしました。




清和天皇の直系として出羽山形を本拠とした最上家11代最上義光は、長谷堂合戦の論功行賞で上杉領である念願の庄内と、秋田由利領を手に入れ、山形藩初代57万石の大大名になりました。
秀吉政権時代、京都在住が多かった義光は連歌も数多くのこしており、細川忠興や黒田如水(官兵衛)ら名だたる文化人とも親交がありました。

ところが慶長19年(1614)義光死後、最上を継いだ次男・家親がわずか3年後に36歳で死去、山形城主は12歳の少年義俊がなりました。
家親の死も側近に鷹狩に誘われた翌日に死亡するという疑惑が残り、重臣たちの間には義光の四男・山野辺義忠を推す動きがでてきました。
家臣が真っ二つに分かれた家督争いがやがて幕府の知るところとなり、幕府も仲介に入りましたが、その争いに決着がつかず、ついに元和8年(1622)最上家は改易を言い渡されました。

義光が築いた57万石は没収され、その後、近江1万石、最終的に5千石の旗本に成り下がりましたが、江戸城の上級役人として勤務し、幕末の版籍奉還を迎えました。
今年4月、最上家47代当主・最上公義さんが亡くなられました。

最上義光公像




蔵王ハイライン
5月31日は全国的に猛暑日でしたが、お天気がよく蔵王連峰(お釜)を目指しました。蔵王エコーラインから、「お釜」近くの有料道路蔵王ハイラインを走りました。
左右にある白い塊は残雪です。



蔵王ハイラインの終点です。ここから「お釜」まで徒歩で歩きます。


お釜名物 釜カツ丼です。普通のかつ丼でした^^
美味かったですよ。



「お釜」の手前、標高1759m蔵王連峰のひとつ刈田岳です。気温は20℃以上ありましたが、風が少しありました。





蔵王「お釜」
ちょうど4年前も来たのですが、そのときはガスで真っ白、何も見られずじまいでしたが、今回は絶好の晴天、「お釜」が綺麗に見えました。

Posted at 2014/06/02 23:00:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2014年03月23日 イイね!

東京 明治の元勲の足跡 ~ 川路利良、西郷従道、有栖川宮熾仁親王、大久保利通 ~ 

東京 明治の元勲の足跡 ~ 川路利良、西郷従道、有栖川宮熾仁親王、大久保利通 ~ 関東は春一番が吹き、徐々に暖かさが増してきました。三連休の中日、東京京橋にある警察博物館に行ってきました。










警察博物館
警視庁創立140年を記念して、特別展「警視庁全職員アンケートで選んだ首都140年の十大事件」が3月19日~5月6日まで開催されています。警視庁全職員のアンケートで選んだ、創立以来の重大事件100件をパネルや写真、映像、実物の展示で紹介するものです。


入口に展示中の先代クラウンとRX-8のパトカー、そしてヤマハFZ750Pの白バイです。



展示コーナーは各階にありますが、写真撮影ができるのは1階フロアのみです。
飛ぶと、ちょっと危なそうなヘリコプターです。


今の皇太子殿下と雅子妃の婚礼の儀のパレードで使用した白バイです。



警視庁のアンケート調査で選ばれた十大事件です。
1. オウム真理教事件(1995年~)
2. 東日本大震災(2011年)
3. あさま山荘事件(1972年)
4. 三億円事件(1968年)
5. 大喪の礼/即位の礼・大嘗祭(1990年)
6. オウム真理教事件特別手配3人の逮捕(2012年~)
7. 世田谷一家殺害事件(2000年)
8. 秋葉原無差別殺傷事件(2008年)
9. 西南の役(1877年)
10. 八王子スーパー強盗殺人事件(1995年)

このランキングを見て、「あれ?西南の役!」と思うと思います。西南の役(西南戦争)は、明治10年に九州南部で起きた日本史上最後の内戦です。
この内戦に果敢に挑んだのが、初代大警視・川路利良(かわじ としよし)でした。


川路利良
初代大警視(警視庁のトップ)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」といわれる川路利良は薩摩藩の下級武士の家に生まれました。西郷隆盛の下、戊辰戦争に参戦し、維新後その功績が認められ渡欧し、フランスの警察制度を導入して明治7年(1874)警視庁創設とともに初代大警視に就任した人物です。

明治6年(1873)、征韓論争に敗れた西郷は故郷鹿児島に下野しましたが、鹿児島では旧武士階級の特権を大久保利通ら明治新政府に剥奪された不平士族の不満が高ぶっていました。
川路は鹿児島に探索のため警視庁から密偵を送り込みましたが、桐野利秋らに捕縛され、挙句の果てには西郷暗殺計画の噂を流されてしまいました。

鹿児島私学校と不平士族らは西郷を担ぎ上げ、同郷の大久保、川路らへの遺恨を晴らすため、明治10年(1877)2月15日一斉に蜂起しました。
大警視・川路は元上司である西郷討伐のため、九州熊本へ向かうことになります。



田原坂の戦い
3月鹿児島から人吉、熊本へと北上した西郷軍と、熊本市の北部、田原坂で衝突した官軍との戦いは17日間にも及ぶ死闘となりましたが、武器弾薬に勝る官軍が徐々に西郷軍を押し戻し、西郷軍敗走の契機となったのが田原坂の戦いでした。



熊本鎮台兵

西郷軍は熊本城に籠城する鎮台兵に総攻撃をかけましたが、城内で死守したのが熊本鎮台の兵隊たちでした。前列中央に写っているのが司令長官・谷干城(たに たてき・かんじょう)です。谷は旧土佐藩士で、坂本龍馬を慕っていた人物です。
慶応3年(1867)11月、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われた際、知らせを聞き真っ先に近江屋に駆けつけたのが谷でした。

坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺の黒幕を新選組の仕業と断定した谷は、翌慶応4年(1868)4月、偽名を使って投降した近藤勇に板橋での斬首刑を決行しました。
また、後列中央は日露戦争203高地の戦いで、乃木希典を補佐し、ロシア軍を下した児玉源太郎です。



西郷従道
西郷隆盛の弟・従道(じゅうどう・つぐみち)は、征韓論争で兄・隆盛が下野した後も東京の明治政府に留まりました。従道は兄の復帰をひたすら待ち続けていましたが、西南戦争が勃発し、その希望は叶いませんでした。



東京目黒区に従道が兄と暮らすため購入した邸宅跡が今でも残っています。「西郷山公園」といい、都民の憩いの場となっています。


当時の敷地面積は6万㎡もの広大なものでした。高台からは目黒の町並みが一望でき、お天気がいい日は富士山もよく見えます。


河津桜が満開でした。




有栖川宮熾仁親王

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)は、京都の皇族出で、後に徳川家茂に降嫁した孝明天皇の妹・和宮の婚約者でした。慶応4年(1868)3月の江戸総攻撃には、東征大督府となり、西郷隆盛らと東海道を江戸へ向け進軍しました。

西南戦争が勃発すると、鹿児島県逆徒征討総督に就任し、東征に際してともに新政府軍を指揮した西郷と、敵将として対峙する皮肉な結果となりました。また、川路利良の九州参戦の辞令書は、熾仁親王より下されました(警察博物館に現存展示中)。

近年、有栖川宮の末裔を名乗る男女の事件がありましたが、有栖川宮は世継ぎがいなく断絶しています。



南麻布にある有栖川宮邸跡、「有栖川宮記念公園」です。この像は西郷従道らによって建立されたものです。



大久保利通
西郷とともに「維新の三傑」といわれる大久保利通は、征韓論争で対立した西郷が新政府を退くと、内務卿に就任し、明治新政府の実権を握りました。西郷とともに下野した佐賀出身の江藤新平と激しく対立し、佐賀の乱の首謀者江藤を捕縛すると、自らの判断で即日斬首刑を処しました。
西南戦争では各地方の鎮台兵に九州派遣命令をくだしましたが、その翌年東京紀尾井町で、石川県の不平士族らに襲われ絶命しました。



紀尾井坂の変
紀尾井町の由来は、江戸時代ここに紀州藩、尾張藩、彦根藩(井伊家)の江戸屋敷があったことに由来しています。現在は、ホテルニューオータニが目印となっている場所です。

明治11年(1878)5月14日、普段通り馬車で出勤する大久保が紀尾井坂にさしかかったとき、石川県から上京してきた不平士族・島田一郎らに惨殺された現場です。大警視・川路利良は、大久保暗殺計画の情報を密かに得ていましたが、ボディガードを付けず、「石川県人になにができるか!」とタカをくくっていました。
大久保は頭部を中心に斬られ、首から地面に刀を突き刺され絶命しました。この知らせを聞いて真っ先に駆けつけたのが、西郷従道でした。




警察博物館の特別展「警視庁全職員アンケートで選んだ首都140年の十大事件」のひとつ、西南戦争を題材にしてみました。
大事件や事故は起こらないに越したことはありませんが、関東近郊の方で興味があるひとにはおススメです。
駐車場がありませんので、車で行かれる場合は駐禁にご注意ください。
Posted at 2014/03/23 15:00:31 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2013年12月31日 イイね!

小江戸川越紀行 ~蔵造りの町並み~

小江戸川越紀行 ~蔵造りの町並み~








蔵造りの町並み
大江戸に対し小江戸と呼ばれた武州川越、その市街地に今でも「蔵造り」の建物が並ぶ一角があります。「蔵造りの町並み」といわれる仲町から札の辻までの通り沿いには、それぞれ個性のある30数棟の蔵造りの商家が軒を連ねています。他の都市では見られない江戸情緒あふれる景観で、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。


日曜の午前中、ひとも車もまだまばらでしたが、午後になるとこれが倍以上になります。うっかりすると、目の前に大型バスが出現!なんて危ない場面に遭遇することもあります。ここは川越駅につながる幹線道路なのだそうです。せめて土日くらい歩行者天国にしたほうがよいのでは・・・?とも感じました。


時の鐘
「蔵造りの町並み」のランドマーク、「時の鐘」です。江戸時代初期、寛永年間からおよそ390年間にわたって「時」を告げてきた川越のシンボルです。現在のものは4代目で、1日に4回(6時・正午・15時・18時)鐘の音を響かせているそうです。
まだ時計のなかった明治初期まで、この鐘の音を聞いてひとびとは暮らしていました。




川越名産「芋菓子」の銘店です。人気のお菓子屋さんです。


大正7年(1918)に第八十五銀行本店として建てられた今の埼玉りそな銀行川越支店です。


大沢家住宅といわれ、国の重要文化財に指定されています。呉服を商っていた豪商・近江半右衛門が、寛政4年(1792)に建てた川越最古の建造物です。








開運亭というお店で昼食をとりました。余談ですが、10月に安値で買った株が高騰(5連続ストップ高)し、売却益を得ました^^v。これからも「運」がつくようにという願掛けで、この開運亭にしました。


すったて御膳です。茶碗蒸しとご飯がつきました。シンプルに1,050円です。


今年は2月に父が逝去するという家族の不幸がありましたが、来年はいい年にしたい、そんな思いで埼玉県川越市にドライブに行ってきました。
私のページを見てくださった皆さん、また、コメントをくださった皆さん、新年もよろしくお願いしたいと思います。
Posted at 2013/12/31 00:00:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2013年12月15日 イイね!

八重の桜 紀行 ~会津若松・京都・大磯~

八重の桜 紀行 ~会津若松・京都・大磯~大河ドラマ『八重の桜』にちなんだトピックスをブログにしてみました。八重と関連した同時代の人たちの記録です。











明治元年(1868)9月22日、1ヵ月の籠城戦を終えた会津藩降伏の夜、鶴ヶ城三の丸建物蔵に和歌を刻む八重さん。まだ22歳の八重さんにとっては、試練の会津戦争でした。
後世、八重さんが同志社の宣教師や、教え子らと対立、しばしば非難、中傷を浴びますが、この会津戦争の経験が彼女をより強くしたものといわれています。
生まれつき体は頑丈で、重い米俵をひとりで担いで二階まで運んだというエピソードもあり、自分は体育会系だからといったとか、この点、兄の覚馬とは同じ兄弟でもまったく違ったタイプだったことがうかがえます。


官軍の四斤山砲、英国式の最新兵器アームストロング砲で攻撃を受けた鶴ヶ城です。それほど大きくない城に数千人が籠城していました。あるとき砲弾が八重さんの近くに着弾、厠で用を足しているときに被弾しむくろを曝すことだけは女としてとても恥ずかしいことだったと回想しています。



現在の鶴ヶ城です。少し切れていますが、左の鉄門(はりがねもん)は、八重さんが松平容保に四斤山砲の砲弾を分解して説明した場所です。四斤山砲の砲弾は、着弾してもすぐに着火せず、しばらくおいて爆発するという爆弾でした。ただ、この火消作業で、家老・山川大蔵の妻・登勢が被弾し亡くなりました。



米沢に一時疎開していた八重さんらに京都の覚馬が生きているという伝達が伝わりました。ところが、覚馬は当時18歳の小田時栄と暮し、一女をもうけていました。これを聞いた覚馬の妻・うらは京都行を断念、覚馬と別れる決意をしました。また、八重さんにも斗南藩に移住した川崎尚之助との別れが待っていました。
ある作家は、八重さんが覚馬とともに小野組移転問題で投獄された京都府知事・槇村正直に見舞いのため上京した際に、存命中の川崎尚之助と再会したと書いているそうですが、真相は定かではないそうです。

明治8年(1875)、川崎尚之助は肺炎を起こし東京の病院で亡くなりましたが、同じ年、八重さんの前に現れたひとりの男性が新島襄でした。安中藩士の長男で、米国帰りの襄は八重さんを「彼女は決して美人ではありません。でも、生き方がハンサムなのです」と評したとか。
この襄との出会いが、会津戦争で打ちひしがれた八重さんを救いました。



明治8年(1875)11月29日、同志社英学校開校、まもなく熊本洋学校から熊本バンドといわれた学生が転入してきました。彼らの中には、後の同志社英学校社長となる小崎弘道、横井(伊勢)時雄、そして八重さんに終生尽くすことになる徳富蘇峰と、その弟徳冨蘆花(徳富健次郎)、海老名喜三郎らでした。バンドとは隊の意味で、彼らは皆、キリスト教の洗礼を受け牧師を目指していましたが、当時耶蘇教といわれたクリスチャンは日本ではまだ差別と迫害の対象でした。
そんな彼らを受け入れたのは、新島襄でした。



小崎弘道は、卒業後牧師となり、東京に霊南坂教会を創立した人物です。やはり同志社と強いパイプをもち、新島襄の大学設立募金活動にも強力な援助をしました。
新島襄が亡くなると、一時山本覚馬副社長が臨時社長となりましたが、二代目社長は小崎弘道が務めました。



山本覚馬は京都府顧問、初代京都府議会議長、商工会議所会長を務め、京都万博の誘致、鉄道敷設、琵琶湖疎水など、遷都後の京都の復興に力を尽くしました。今の同志社大学今出川キャンパスは、覚馬が大金を払い薩摩藩から購入した土地でした。
しかし、そんな山本家にも最大の危機が訪れました。



明治18年(1885)、キリスト教徒でなかった覚馬は後妻の時栄とともに洗礼を受け、八重さんらと同じプロテスタントになりました。ところが、こんな折、時栄と養子と考え同志社に編入させた18歳の学生との間に“不義”が起こったのです。
徳冨蘆花が大正3年(1914)に発刊した『黒い眼と茶色の目』で、時栄の不義(一寸むつかしいこと)が書かれており、その18歳の学生の子を妊娠してしまったという話です。これを知った覚馬は20年にも及ぶ時栄の介抱に報い、時栄の不義を許そうとしましたが、八重さんと、今治で暮らしていた横井(伊勢)時雄の妻で覚馬の娘・みねが京都に駆けつけ、これを許さず、時栄を離縁させてしまったというショッキングな話です。
新刊がなっかたため、中古本をネットで手に入れました。定価450円の文庫本だったのですが、たしか4,000円くらい払って手に入れました。内容は覚馬と時栄のひとり娘・久栄との恋愛物語です。最後は久栄との婚約が破断し、学費も支払えなくなった蘆花がひとり故郷の熊本に帰国するという内容です。
蘆花46歳のときの小説で、あまり売れなかったそうです。一方で大山捨松を題材にした『不如帰(ほととぎす)』は、ベストセラーとなり、蘆花が売れっ子小説家としてメジャーになるきっかけとなった小説でした。後に八重さんは、「いい恥さらしですね」と言ったとか・・・。



残された時栄の娘・久栄は同志社女学校を卒業後、神戸英和女学校に進学しますが、周りからは「尻軽女」とか、「蓮葉(はすっぱ)」と罵られます。父親の覚馬似で学問がよくできた才女であったそうですが、覚馬が亡くなると、まるで後を追うように明治26年(1893)7月20日に亡くなりました。23歳という若さでした。写真が大河ドラマで紹介されましたが、なかなかの美人であまりにも早い一生は可愛そうな気がします。

ところで、気になったのがその後の時栄の行方でした。蘆花研究家の丸本氏によると、昭和61年(1986)に時栄の子孫にあたる小田貞子さんとの取材が実現し、かつては元芸者だったとかいわれていたそうですが、実際は小田家は丹波代々の郷士で、上京区に広大な邸を持ち、現在の住居もそこにあるとのことです。
この丸本氏、除籍謄本を取り調べたところ、それによれば、名前は「時榮」。嘉永6年(1853)5月7日生まれ、生家は上京区に現存する小田家で、明治19(1886)年2月12日に覚馬と離縁したと判明したそうです。その後、堺に移り、久栄が亡くなる1日前に神戸に転居、晩年は東京日本橋に住所を移していたそうです。
(他ホームページより借用)



時代背景が現代に近いことで、山本家の子孫について調べてみると、覚馬は明治20年(1887)1月に、みねが生んだ平馬を養子としました。平馬は横井(伊勢)家を継がず、山本家の嫡養子となったのです。その平馬の息子が山口格太郎という人物で京都市消防署に勤務していたそうです。元の名前は覚太郎でしたが、なぜか改名し、さらには山口という家に養子になったそうです。山本覚馬の子孫は、昭和19年(1944)に平馬が亡くなり途絶えたということです。
この本は絶版で今は手に入らない本です。上が覚馬、中が久栄、下が平馬です。



明治23年(1890)1月20日、大磯にあった旅館百足屋で新島襄は危篤になりました。大学設立のための募金活動の最中の出来事でした。京都から八重さんが駆けつけましたが、1月23日新島襄は永眠しました。「狼狽するなかれ、グッバイ また会わん」、これが最期の言葉でした。
大河ドラマは、元教え子の徳富蘇峰が襄や八重さんに友好的に接していますが、実際は退学以来まだ感情的対立は続いていました。東京の民友社に勤めていたジャーナリストの徳富蘇峰は、襄危篤の電報を受け、急遽大磯に駆けつけたのでした。ここで、鵺(ぬえ)と非難し、自責の杖事件(授業ボイコット)を引き起こした罪をふたりに詫び、和解したとされています。
事実、晩年の八重さんに徳富蘇峰は生活費を送金し続けました。また、百足屋跡と同志社墓地の八重さんの墓碑銘は徳富蘇峰の筆によるものです。



襄の永眠を看取る八重さん、徳富蘇峰、小崎弘道。



襄の死後、同志社から離れ、日清・日露戦争で看護活動に従事した八重さん。その功が政府から認められ勲六等及び勲七等宝冠章を授与しました。皇族以外の女性としてはじめてでした。
晩年は裏千家茶道に入門し、新島邸を一部茶道部屋に改装しましたが、新島邸を同志社に譲渡した結果、度々同志社と揉めていたそうです。
また、新島家には、新島公義という養子やその息子、また、山本家には姪のみねの長男・平馬がいましたが、家族の交流はなっかたそうです。
八重さんは明治33年(1900)、襄と会津旅行に行った際、米沢で出会った米沢藩士・甘糟三郎の娘・初を養子としました。何組かの養子縁組もうまくいかなかった八重さんでしたが、この初(初子)とはうまくいったようです。
初子は、明治34年(1901)5月に同志社校長代理を務めた広津友信と結婚し、4男2女を儲けました。初子の息子でとくに優秀だった男の子に襄次(襄のあとを次ぐという意味)と名付けましたが襄次は大正14年(1925)、23歳で早世しました。
この著者『八重の桜・襄の梅』の本井康博氏は元同志社大学神学部教授で、大河ドラマ『八重の桜』の時代考証を担当しました。



昭和3年(1928)、京都の金戒光明寺で開催された京都会津会秋季例会記念写真です。この年、松平容保の孫、勢津子妃と昭和天皇の令弟・秩父宮のご成婚が決まりました。金戒光明寺の塔頭西雲院、会津墓地前で、八重さんや勢津子妃の父親、恒雄、その弟保男、山川健次郎らが写っています。
会津戦争以来60年ぶりに、旧会津藩士らが朝敵の汚名を返上した記念すべき年でした。



現在の金戒光明寺です。





晩年、同志社のおばあちゃんと親しまれた八重さんは、昭和7年(1932)6月14日、新島邸の襄の書斎で亡くなりました。江戸・明治・大正・昭和と生き抜いた波乱に満ちた86年の生涯でした。葬儀は同志社葬として同年完成した同志社女子大学今出川キャンパスの栄光館でとり行なわれました。参列者は4,000人もの大規模なものでした。



今年の大河ドラマは、ほとんど全国的に無名の新島八重さんの物語でした。会津若松出身のひとでさえ知らなかった人物にスポットが当てられた『八重の桜』、視聴率は?だったようですが、八重さんファミリーを中心に幕末史、明治史がそこにある人間ドラマとともによく表現されていた。脚本、役者、映像、どれをとっても、これほど完成された大河は過去なかったと思います。
3.11で荒廃しかけた福島会津若松、この『八重の桜』をきっかけに復興することをお祈りしてやみません。
Posted at 2013/12/15 19:00:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域

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