• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

Cyber Xのブログ一覧

2011年11月06日 イイね!

日本100名城 <二条城、大阪城、小谷城、彦根城、安土城>

日本100名城 <二条城、大阪城、小谷城、彦根城、安土城>財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」に指定された京都・大阪・滋賀のお城です。今回はそのうち今年訪れてみた幾つかのお城をブログにしてみました。 Noは財団法人日本城郭協会によって定められたお城の登録番号です。

No.53 二条城  No.54 大阪城  No.49 小谷城  No.50 彦根城  No.51 安土城

No.53 二条城
二条城の今の正式な名称は「元離宮二条城」といいます。古都京都の文化財として、平成6年(1994)ユネスコの世界遺産に登録されました。
二条城は慶長6年(1601)「天下普請」により、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が上洛時の宿所として、豊臣系西国大名に造営費用と労務の割り当てを命じ築城しました。
京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、はじめは小規模なものでした。家康の征夷大将軍の拝賀と二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われました。

東大手門と外濠
二条城の表玄関です。世界文化遺産に登録されているためか、ここはいつ来ても多くの観光客で賑わっています。


唐門
順路に沿って進むと、次に唐門をくぐります。唐門の向う側に二の丸御殿があります。


二の丸御殿
二条城二の丸御殿です。
武家風書院造の代表的な御殿建築で、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけて並んでいます。
慶長16年(1611)、徳川家康と豊臣秀頼の会見が「遠侍一の間と二の間(虎の間)」で行われました。このとき家康は秀頼の成長ぶりに驚き、徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したといわれています。
また、豊臣系大名の肥後熊本城主、加藤清正がこの会見に同席したことも知られていますが、清正は万一のとき、家康と刺し違える覚悟で短刀を袖に隠し持っていたともいわれています。清正はこの会見後、発病し帰国直後亡くなりました。
幕末、慶応3年(1867)、十五代将軍徳川慶喜が「大広間一の間と二の間」で諸大名を集め、大政奉還を発表しました。まさに、徳川幕府の最初と最後の儀式が行われた御殿といえます。
中は明かりが少なめで、やや暗めの部屋です。写真撮影は禁止されています。


天守台跡
二条城本丸天守閣跡です。
本丸は寛永3年(1626)三代将軍徳川家光の命で増築され、五層の天守閣がそびえていましたが、寛延3年(1750)落雷により焼失、また、天明8年(1788)には、大火で本丸舎殿も焼失しました。


本丸御殿と西橋
 

No.54 大阪城
最初の大坂城は、石山本願寺の跡地に天正11年(1583)豊臣秀吉が築城を開始し、1年半をかけて完成させました。
江戸時代の大坂城は元和5年(1619)から二代将軍徳川秀忠によって再建が始められ、寛永6年(1629)に完成しました。ところが、寛文5年(1665)落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たないまま明治を迎えました。
現在の大阪城は秀吉在城時よりも遥かに小規模となっているそうですが、それでも城の専用駐車場から徒歩で大手門をくぐり、二ノ丸、本丸を見て駐車場に戻るとかなりの距離があるように感じました。

大手門と千貫櫓
濠を渡り大阪城内への入口の門です。すぐ左にある櫓を千貫櫓といい、大手門と千貫櫓は国の重要文化財に指定されています。どちらも徳川幕府により造られた遺構です。
頭の先が少し見えるのが、現在の本丸天守閣です。


大阪城天守閣
昭和3年(1928)、当時の大阪市長關一(せき はじめ)が天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって、昭和6年(1931)天守閣が完成しました。
現在の復興天守閣は、大阪大空襲の被災を奇跡的に免れ、豊臣時代と徳川時代を通して歴代最も長命な天守となりました。


秀頼・淀殿ら自刃の地
天守閣の下、山里丸にある碑です。家康が天下統一を不動のものとするため、大坂夏の陣で亡くなった秀頼と淀殿らの碑です。数多くのTV番組(ドラマ)がこの悲劇をとりあげています。
当時の大坂城は、徳川幕府により5mから10m下の地中に埋められています。烈火で真っ黒に焼け焦げた石垣が地中で見えるそうです。夏の陣で焼失した天守の炎でついたものです(非公開)。


No.49 小谷城
琵琶湖の北、現在の長浜市にある小谷城跡です。浅井氏は三代(亮政・久政・長政)で滅びました。
小谷城は落城後、羽柴秀吉に与えられましたが、当時の「今浜」の地に新城を築城し廃城となりました。「長浜」という地名は秀吉によって付けられた地名です。
長政には茶々・初・江の他、2人の男子がいました。嫡男を万福丸といい、お市の方の子ではなく、前妻の子であったそうです。当時10歳の万福丸は、信長の命により秀吉によって捕らえられ、関ヶ原で磔刑に処せられたといわれています(信長公記)。

大広間跡と本丸跡
大広間跡は別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ85m、幅35mの広さがあります。また、本丸跡は「鐘の丸」とも呼ばれ、大広間から12mの高さに長さ30m、幅25mの広さがありました。浅井長政はこの本丸跡で居住していました。


小谷城跡の南端から見る奥琵琶湖です。大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の撮影が実際にこの場所で行われました。


小谷山の麓です。この辺りはどこへ行っても「江」一色でした。


No.50 彦根城
徳川四天王と呼ばれた井伊直政は、関ヶ原の戦いの論功行賞で、石田三成の旧領佐和山城18万石を家康から与えられ、佐和山の麓である金亀山に彦根城を新たに築城する計画をたてましたが、関ヶ原で薩摩島津隊より受けた鉄砲傷が元で2年後に亡くなりました。
その後、彦根城は元和8年(1622)に完成し、幕末まで井伊家彦根藩の居城となりました。

彦根城天守閣
天守閣は現存天守といい、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことを指します(現存12天守)。天守は国宝に指定され、当時の建築を今に伝える貴重な遺構となっています。


玄宮園
玄宮園は彦根城内にあり、延宝6年(1678)に彦根藩4代藩主井伊直興が整備したといわれています。
数少ない現存する大名庭園のひとつです。


内濠とソメイヨシノ
彦根城は花見のスポットとしても有名で、シーズンにはかなりの観光客が大阪や名古屋方面から来城します。


No.51 安土城
安土城は天正4年(1576)に築城され、織田信長が天正10年(1582)に本能寺で亡くなるまで本拠とした城でした。
のちの「天守(天主)」を持った城は、信長の安土城が日本初であったといわれています。また、高さ33mの木造高層建築は、当時わが国で初めてのものでした。
1989年から発掘調査が行われ、現在は摠見寺の寺領となっているようです。

大手道


大手道から見た現在の城下です。信長在城時は「楽市楽座」で、大いに賑わったとされる城下も、今は近江八幡市街地となっています。


黒金門跡
大手道から標高200mの安土山山頂の天主跡を目指すルートです。途中、本丸跡間近にある黒金門跡です。 「穴太衆」によるこの石垣工法は、この後、安土城を基に全国の城普請に広がっていきました。


安土城天主跡
イエズス会宣教師ルイス・フロイスはその著書「日本史」の中で、「気品があり壮大で、この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営されたものである。内部は全面に画が描かれており、外部は改装ごとに色が塗られている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。」と記しています。
天主は天正10年(1582)本能寺の変の後、焼失してしまい、天正13年(1585)八幡山城築城で廃城になったと伝えられています。


安土山は先の彦根城同様花見のスポットで、麓では綺麗な花を咲かせていました。

関西地区の「日本100名城」は他に、No.52 観音寺城 No.55 千早城 など多数あります。
Posted at 2011/11/06 03:01:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年10月24日 イイね!

日本ロマンチック街道・奥日光の秋 <明智平、中禅寺湖、竜頭の滝、戦場ヶ原、金精峠、第一いろは坂>

日本ロマンチック街道・奥日光の秋 <明智平、中禅寺湖、竜頭の滝、戦場ヶ原、金精峠、第一いろは坂>10月23日(日)、日光国立公園に日帰りドライブに行ってきました。関東地方では海抜が高い日光国立公園は、ちょうど紅葉が見ごろで、途中渋滞もありましたがいい日帰りドライブができました。
今回は世界遺産日光東照宮など社寺は訪問せず、主に奥日光の別名「日本ロマンチック街道」沿いに車を走らせてきました。
コースは「日本ロマンチック街道」国道120号線沿いに、第二いろは坂→明智平→中禅寺湖→竜頭の滝→戦場ヶ原→金精峠(金精道路)→(帰路)・・・→第一いろは坂というルートをとりました。

明智平
第二いろは坂を登ると、途中に明智平ドライブインがあります。山の木々が色づいています。
天候がいいと目前に標高2,486mの男体山が見えるのですが、当日はガスがたち込め見えませんでした。天気が良ければロープウエイから、男体山、華厳の滝や中禅寺湖が一望できたのですが、コース変更をし、奥日光へと車を進めました。


中禅寺湖
日光国立公園を縦断する国道120号線は、別名「日本ロマンチック街道」とも呼ばれ、栃木県側は宇都宮市から群馬県境である金精峠までの山岳ルートをさします。
明智平のトンネルを抜けると、T字路があり、左折すると中禅寺湖畔になります。
湖畔には途中、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、中禅寺金谷ホテルというリゾートホテルがあり、この辺りの紅葉が綺麗に色づいていました。


竜頭の滝
日本ロマンチック街道をさらに進むと、「竜頭の滝(りゅうずのたき)」があります。、「華厳の滝」、「湯滝」と共に奥日光の三名瀑のひとつです。上流の湯ノ湖から流れてくる湯川の末流にかかる滝です。この辺りから群馬県境にかけてを、「奥日光」といいます。
 

戦場ヶ原
竜頭の滝をあとにして、「戦場ヶ原」に向かいました。この辺りは、標高約1,390から1,400mの平坦地に広がる400ヘクタールの湿原で、すぐ東側に標高2,486mの男体山がそびえています。日曜と紅葉シーズンが重なったせいか、レストラン・土産物店の駐車場は満車状態でした。戦場ヶ原という地名は、山の神がこの湿原を舞台に争いを繰り広げたという伝説に由来しているそうです。


金精峠
湯元といい、左へ直進すると「湯元温泉」があります。右へ進むと県境「金精峠」方面になります。日本ロマンチック街道、「金精道路(こんせいどうろ)」の起点です。この辺りから先は紅葉はなく、典型的な高山植物が見られるようになります。


金精道路の途中、駐車場から見える標高2,486m「男体山」と「湯ノ湖」です。あいにくのお天気でしたが、綺麗に見えました。


標高2,000mの「金精山」です。金精山を全長755mの金精トンネルが貫通しており、トンネルの向う側が群馬県になります。「菅沼」辺りまで直進し、引き返しました。菅沼は透明色のよく澄んだ池でした。また、豪雪地帯でもあるため、スキー場がいくつかありました。


第一いろは坂
帰路は「第一いろは坂」を通り、麓の市街地へ下山するルートになります。一方通行路で、駐停車できる場所が限られています。途中、山々の紅葉が綺麗でした。


方等の滝

般若の滝

今回、日光国立公園の奥日光を主体にドライブをしてきました。秋の行楽シーズンと日曜日が重なり、どの名所もたくさんの観光客で賑わっていました。お天気がもうひとつでしたが、いい日帰りドライブを満喫できました。
Posted at 2011/10/24 11:00:03 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2011年10月15日 イイね!

関東の日本100名城 <江戸城、武田氏館、甲府城、小田原城、八王子城、足利氏館、箕輪城、金山城、鉢形城>

関東の日本100名城 <江戸城、武田氏館、甲府城、小田原城、八王子城、足利氏館、箕輪城、金山城、鉢形城>財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」に指定された関東地方のお城です。 ほぼ1年かけて全部見てきました。今回はそのうちの幾つかをブログにしてみました。 Noは財団法人日本城郭協会によって定められたお城の登録番号です。




<関東(甲府)の100名城>
No.14水戸城 No.15足利氏館 No.16箕輪城 No.17金山城 No.18鉢形城 No.19川越城
No.20佐倉城 No.21江戸城 No.22八王子城 No.23小田原城 No.24武田氏館 No.25甲府城

No.21江戸城
江戸城は江戸時代は江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったそうです。
現在は千代田城とも呼ばれています。
国の特別史跡に指定されており、皇居として利用され、本丸・二ノ丸・三ノ丸部分は、皇居東御苑として無料開放されています。

本丸天守台
 
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの後、徳川家康は秀吉に北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府城から同年8月1日に公式に入城し、居城としました。
最初の天守閣は慶長12年(1607)、関ヶ原の戦いの後、初代江戸幕府征夷大将軍となった徳川家康が天下普請により諸大名に命じて修築させたものでした(慶長の天守)。
その後大修築され、寛永15年(1638)に三代将軍家光の代に国内で最大の天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58mもありました。
しかし、明暦3年(1657) の大火により天守を含めた城構の多くを焼失しました。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されず、現在はこの巨大な天守台が残っています。


江戸城本丸跡
天守台から見た本丸跡です。ここに大奥もありました。お江の方や春日局はここで暮していました。
忠臣蔵で有名な「松の大廊下」もこの敷地内にありました。



巽櫓と桔梗濠
かつての江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、富士見櫓とこの巽櫓(桜田二重櫓)の3つしか残っていません。貴重な現存櫓です。


西の丸大手橋と富士見櫓
「西の丸大手橋」は元々、木橋でしたが、明治20年(1887)12月、明治宮殿の造営に際して石橋の橋に架けかえられ、現在は正門石橋と称されています。
この正門石橋と正門鉄橋2つを総称して二重橋と呼ぶ場合もありますが、正確には二重橋とは正門鉄橋を指します。


桜田門
有名な桜田門です。江戸城の門はどれも二重門となっており、外側を高麗門、内側を渡櫓門といいます。万一、敵に攻められたとき高麗門を破られても、内側の渡櫓門で足止めさせ、また進路を直角にすることにより、一気に攻められないように工夫してあります。上の写真の正面が高麗門、右側が渡櫓門です。







No.24武田氏館
武田神社は往時の武田氏三代の館跡に、大正8年(1919)に社殿が竣工されました。
躑躅ヶ崎館ともいわれ、武田信虎、信玄、勝頼三代の館がありました。天正10年(1582)3月、天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡し、江戸時代には甲府城が政治・経済の中心地となりました。


No.25甲府城
甲府城は別名「舞鶴城」とも呼ばれ、徳川家康が豊臣秀吉の命により関東に移封された後、秀吉の命により築城されました。目的は関東の出入口・甲州街道の要衝であったこの地を押えることで、関東の家康に対する睨みを利かせるためでした。
現在は城跡をJR中央本線が分断しており、城の南側を「舞鶴城公園」、北側を「甲府市歴史公園」といいます。


天守台と天守台から見える稲荷櫓です。
 

No.23小田原城
小田原城は戦国時代後半には、関東の覇者・北条氏の居城でした。北条氏は初代・北条早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直と続きましたが、天正18年(1590)春から始まった豊臣秀吉による小田原攻めで、関東各地の支城を次々と落とされ、遂には本城であった小田原城も開城し、氏直の代で滅びました。
江戸時代には譜代の大久保氏が主に城主を務めました。
昭和35年(1960)、天守が復興され、小田原城址公園として生れ変りました。
晴れた日には天守閣からは相模湾が一望できます。


常盤木門
 

二の丸隅櫓


No.22八王子城
八王子城は標高445mの深沢山(現在の城山)に築城された典型的な中世山城でした。
北条氏三代・氏康の三男・氏照は、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた八王子城を城山に築城しました。
しかし、天正18年(1590)に、天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ、まだ未完成であった八王子城はわずか1日で落城しました。
現在は八王子城跡として、氏照の居館地区と城山登山ルートが無料で開放されています。


曳橋
城山中腹にある氏照の居館に通じていた「曳橋」を、八王子市がイメージして架けたものです。
当時の構造は敵の侵入時に板を外したり、橋桁ごとスライドする大がかりなものであったと伝えられています。



冠木門と御主殿跡
曳橋を渡ると、野面積の復元石垣で囲った通路があり、階段を上って冠木門(かぶきもん)をくぐると、氏照の居館があったといわれる御主殿跡があります。学校のグラウンドくらいの広さの平地です。
往時はこれ以上の規模であったそうなのですが、発掘を中途で止めてしまったのだそうです。
また、石垣造りは当時の関東になかった工法で、同盟関係を結んでいた織田信長の安土城を参考にしました。
発掘された陶器の中にはベルギー製の瓶が見つかり、使者が安土城の帰りに、贈り物として信長から氏照に譲られた品であることがわかりました。

 

御主殿の滝
御主殿の滝は、八王子城落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたといわれています。また戦によって城山川の水が3日3晩血に染まり、麓の村ではこの城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられています。
八王子城は小田原攻めで落城した北条氏の支城のうち、最も凄惨な殺戮があったことで知られています。他の鉢形城や忍城などの支城は、城内の者たちの助命嘆願が叶いましたが、こと八王子城に関しては、討ち取った婦女子らの生首を見せしめのために船で小田原城へ運んだといわれています。
そのためか、この御主殿の滝は心霊スポットとしても知られているそうです。


「居館地区」に対して、城山山頂標高445mの本丸付近は「要害地区」といわれ八王子城の中心で最も重要な曲輪でした。居館地区のある管理事務所から約40分をかけて登ることにしました。新道ルートと呼ばれる山道の入口です。

八合目と書かれた石碑を過ぎると、間もなく頂上と書かれた石碑が見えてきます。「松木曲輪」と呼ばれる平地ですが、実はここは山頂でなく、この先数10m登った先が城山の山頂になります。
初めて登ったひとは、ここが山頂と勘違いしてしまい、ここで一服するのですが、いやいや、まだ先があるんです。


八王子城本丸跡
この城山は「八王子神社」の私有地もあるそうです。松木曲輪を登ると、すぐ上がその八王子神社です。神社といっても無人の社殿があるだけで、まったく手入れがされていない少々朽ちた社殿です。
さらにあと少し登ると、ありました。本丸跡の石碑と八王子神社の祠のようなものです。
ここが正真正銘の城山山頂、八王子城要害地区の中心、本丸跡です。
10m四方の平地ですが、説明板には大きな建物がなかったと書かれていました。



No.15足利氏館
栃木県足利市の鑁阿寺(ばんなじ)です。鑁阿寺はもともとは足利氏の館であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されています。
大正11年(1922)「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されました。
本堂、鐘楼、経堂は国の重要文化財に指定されています。

山門と太鼓橋


本堂


鐘楼 


経堂


多宝塔


東門


No.16箕輪城
群馬県高崎市の箕輪城です。長野氏四代の居城でした。
越後の上杉氏の後ろ盾を得て、業尚、信業、業正と続き、三代業正の時代に全盛時代を迎えましたが、永禄4年(1561)業正が亡くなると子の業盛が跡を継ぎましたが、これを知った武田信玄に侵攻を受けることになりました。
永禄8年(1565)には近隣の城を調略により武田方に寝返らされ箕輪城は孤立していき、翌永禄9年(1566)武田軍の総攻撃で箕輪城は落城し、四代業盛で長野氏は滅びました。
その後、武田氏、織田氏と支配権は移り、天正10年(1582)には北条氏が治めましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城しました。
徳川家康が関東に入国すると、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられましたが、慶長3年(1598)高崎城に移封され箕輪城は廃城となりました。




No.17金山城
群馬県太田市の金山自然公園にある金山城跡です。金山城は文明元年(1469)、新田一族であった岩松家純によって築城されたといわれています。
天正12年(1584)には北条氏に主は替わりましたが、天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原攻めにより落城し、この後廃城となりました。
昭和9年(1934)、金山城跡として国の史跡に指定されました。
金山城へは、車で西城までいきます。ここから本丸までは、徒歩で大体20分くらいです。途中に、復元した物見台や矢倉台、馬場道などが多数あります。

南曲輪
本丸手前の南曲輪に建てられた日本百名城の石碑です。ここは復元された公園らしく全体的に綺麗な歴史公園です。


 
大手虎口 


日ノ池



二ノ丸



馬場と月ノ池




本丸跡(天主曲輪)の新田神社

駐車場から約600m山頂を登ると、金山城本丸跡にこの新田神社があります。
新田義貞は源氏の一族で鎌倉幕府を滅ぼしましたが、同じ源氏の足利尊氏と対立し、延元3年/建武5年(1338)に現在の福井市燈明寺畷で戦死したと伝えられています。
築城主岩松家純の先祖にあたる新田義貞を祀る神社です。



No.18鉢形城
鉢形城は文明8年(1476)、長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北条氏の北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻の備えとして重要な役割を担いました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、北条氏の重要な支城として、前田利家、上杉景勝、浅野長政、本多忠勝、鳥居元忠ら35,000の連合軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は6月14日に城兵の助命を条件に開城しました。
鉢形城跡は昭和7年(1932)、国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。

本丸跡



三ノ曲輪跡

Posted at 2011/10/15 05:00:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年10月05日 イイね!

関ヶ原の戦い 島津義弘最後の賭け・敵中突破 < 関ヶ原古戦場 >

関ヶ原の戦い 島津義弘最後の賭け・敵中突破 < 関ヶ原古戦場 >

関ヶ原の戦い
慶長5年(1600)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、薩摩当主・島津義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じました。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍への味方を決意したのでした。
こうして、義弘とその手勢は西軍に参戦しました。しかし、石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日の作戦会議で義弘が主張した夜襲策が採用されないなど、義弘が戦意を失うようなことが続きました。

9月15日の関ヶ原の戦いには参加しながらも戦場で兵を動かそうとはしませんでした。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請してきましたが、八十島が下馬せず救援を依頼したため義弘や豊久は激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともいわれています。

島津義弘陣跡
当時の小池村に布陣した西軍島津隊陣跡です。笹尾山・石田三成陣跡から国道365号線を挟んで200~300mほど離れた神明神社の境内にあります。



敵中突破
午後になり、西軍小早川秀秋に続き脇坂安治ら4隊も寝返ると、西軍は壊滅状態になりました。
島津義弘は正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方東軍の大軍の中を突破することを決意しました。島津隊は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始しました。
<10分間の敵中突破VTR>

島津隊は「捨てがまり」という戦法を使い、殿軍に豊久を残したまま南部の伊勢街道を目指し撤退をしました。
「捨てがまり」とは何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法をいいます。
その結果、甥・島津豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になりましたが、最終的に義弘ら約80名が薩摩へ何とか帰国することができました(島津の退き口)。

旧伊勢街道です。この先で四日市方面に通じる国道365号線と合流します。高架は東海道新幹線です。


烏頭坂・激戦地
旧伊勢街道のこの辺が豊久・殿軍と追手の井伊直政、松平忠吉、本多忠勝隊の激戦地であったといわれています。


烏頭坂・島津豊久の墓


烏頭坂・島津豊久の碑
豊久の墓の上に碑があります。当主義弘と関ヶ原に参戦した豊久は自ら「捨てがまり」となって命を落としました。30歳という年齢でした。
江戸時代宝暦年間(1754-1755)、「宝暦治水木曽三川工事」にやってきた薩摩の藩士たちは、この塚に立ち寄り供養をしたといわれています。


薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川からの討伐に対する軍備を図る姿勢を取って国境を固め、一方で全身全霊を傾けて家康との和平交渉にあたりました。
義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼しました。
9月30日、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせましたが、家康は攻撃を命令できず睨み合いが続きました。
関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、11月12日討伐軍の撤退を命じました。
島津を討伐出来なかった家康はこのことが心残りで、死に臨んで遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したといわれています。
家康の憂いは250年後、倒幕運動という形で現実のものとなりました。

Posted at 2011/10/05 13:05:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2011年10月01日 イイね!

戦国武将大谷吉継と石田三成の友情伝説 <関ヶ原古戦場、佐和山城跡>

戦国武将大谷吉継と石田三成の友情伝説 <関ヶ原古戦場、佐和山城跡>


越前敦賀5万7,000石城主・大谷吉継は、豊臣秀吉からその才能を認められ、「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と語ったと伝えられています。
ある時佐和山城にて、盟友石田三成から家康の打倒・挙兵を持ちかけられました。
これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しましたが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与しました。
関ヶ原・大谷吉継陣跡


大谷吉継は徳川家康とも親しかったと伝えられています。それでは何故、吉継は三成の熱意に翻意したのか、有名な話ですがこんな逸話が残っています。

天正15年(1587)大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきました。この時、ハンセン病を患っていた吉継が口をつけた茶碗には顔から膿が落ち、誰もが病気の感染を恐れて飲むふりをするだけでしたが、三成だけ普段と変わりなくその茶を膿ごと飲みほしてしまい、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせました。その事に感激した吉継は、以来三成に対する信望が厚く、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされています。

しかし、関ヶ原においては奮戦虚しく、味方の裏切りにより自軍は壊滅し、吉継は自害を決め、側近湯淺五助に介錯を命じました。辞世の句です。

「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」

これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた盟友・平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっています。

関ヶ原・平塚為広の碑
 



関ヶ原・大谷吉継・湯淺五助の墓

吉継の首は、五助の手によりこの地に埋め隠されました。五助はその後討ち入りますが、藤堂仁右衛門に捕らわれました。その時、五助は主人の首の在処を藤堂に正直に伝えて供養を頼んだ上で討たれました。
敵ながらに感心した藤堂は、家康からの詰問にも決して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り「大谷吉継の墓」をこの地に建てたとされています。

佐和山城跡
滋賀県彦根市の佐和山城本丸跡です。関ヶ原の戦いの直後に東軍の攻撃で落城し、石田三成に替わって井伊直政が入城しましたが、彦根城移転が決まり廃城となりました。現在は本丸跡は標高200mに達する佐和山ハイキングコース終点となっています。人気のコースで多数のハイカーで賑わっています。


本丸跡から見た風景です。標高200mとはいえ、彦根城(上の写真)が相当小さく見えます。当日は天気がよく、琵琶湖が本当綺麗に見えました。
 

Posted at 2011/10/01 23:22:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

プロフィール

「安福久美子69歳、99年の名古屋西区主婦殺人事件の主犯者。悟さんにフラれた腹いせに、自宅を突き止め、悟さんの愛妻を刺殺した。この安福の自宅、今日グーグルマップで見つけた!裁判やって判決確定まであと何年要するか? 悟さん、息子さん、被害者があまりにも気の毒。。。」
何シテル?   11/05 21:54
オートビレッジ時代の2001年11月に登録しました。みんカラもメジャーになり、国産車から外国車まで、いろんなオーナーカーを見て楽しませてもらっています。2025...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/11 >>

      1
2 345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

リンク・クリップ

2024 京都 紅葉狩り散歩🍁 嵐山・嵯峨野・北野 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2024/12/01 14:15:43
2023 紅葉狩り 🍁 錦秋の白川郷・五箇山合掌造り集落&白山白川郷ホワイトロード 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2023/11/12 19:32:23
完成されたFR スポーツセダン マークX GRMN 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2019/12/07 23:42:45

愛車一覧

レクサス NX かっつぁんのNX (レクサス NX)
令和7年(2025年)4月9日登録の20系レクサスNX350“F SPORT”です。20 ...
トヨタ マークX トヨタ マークX
2015年式マークX GRMNです。令和元年(2019年)10月に購入しました。限定10 ...
トヨタ マークX G's トヨタ マークX G's
2015年4月7日登録のマークX 350S”G's”です。G'sのエクステリアと、3. ...
トヨタ チェイサー トヨタ チェイサー
2001年式最終型JZX100チェイサーツアラーV TRD Sportsで、2015年4 ...

過去のブログ

2025年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2024年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2020年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2010年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2009年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2008年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2007年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2006年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2004年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2003年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2002年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2001年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation