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2011年10月01日 イイね!

関ヶ原古戦場 <笹尾山、桃配山、徳川家康最後陣跡、東・西首塚、松尾山、南宮山>

関ヶ原古戦場 <笹尾山、桃配山、徳川家康最後陣跡、東・西首塚、松尾山、南宮山>秋分の日、三連休を利用して関ヶ原古戦場へ行ってきました。松尾山と南宮山にも登頂しました。お天気に恵まれ、山頂から見える景色もとても素晴らしい眺めでした。
1.笹尾山・石田三成陣跡 2.桃配山・徳川家康最初陣跡
3.徳川家康最後陣跡   4.東首塚 5.西首塚
6.松尾山・小早川秀秋陣跡 7.南宮山・毛利秀元陣跡


関ヶ原の戦い当時の関ヶ原は中山道、北国街道、そして伊勢街道の三街道が交差する要衝でした。
布陣図の青色が西軍(反乱軍、傍観軍を含む)、赤色が東軍です。開戦前、笹尾山から松尾山、そして南宮山と、西軍は平地の東軍をぐるりと囲んだ陣形を取っていました。これを「鶴翼の陣」といい、赤を囲んだ青が圧倒的に有利になります。
しかし、戦いの序盤に静観していた松尾山の小早川秀秋隊が中盤に寝返ると、それに呼応するように赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4隊が一斉に西軍大谷吉継、戸田重政、平塚為広らの隊に襲いかかり西軍は壊滅、主力部隊であった笹尾山石田三成隊、小西行長隊、島津義弘隊、宇喜多秀家隊も敗走を強いられ、わずか1日で合戦は終り、東軍総大将徳川家康による天下統一の布石となった戦いでした。

1.笹尾山・石田三成陣跡
山の頂上が石田三成の陣地で、その左翼が島 左近、右翼が蒲生郷舎の陣地でした。

正面の柵を越えると階段があり、これを登ると石田三成陣地跡です。

石田三成はこの場所から戦況を見ていました。ここは小高い山上で関ヶ原の戦場が綺麗に見渡せる、正に絶景のポイントであることがわかります。それにしても味方の裏切りは三成にとって計算外の出来事だったのでしょう・・・。

2.桃配山・徳川家康最初陣跡
徳川家康が当日未明に陣を張ったところです。国道21号線の切り立った小山の上に陣跡があります。

左側にある大きな石、徳川家康はこの石に腰掛け,序盤戦の戦況を見守ったといわています。

3.徳川家康最後陣跡
午前11時頃、家康は苦戦に苛立ち、本陣を桃配山から、三成本陣笹尾山から直線距離にして500~600mのこの場所に移動させました。ここからの伝令により松尾山の小早川秀秋に発砲を命じ、見事裏切りへと仕向け、関ヶ原合戦を勝利へと導いたのです。
合戦後この場にて引見が行われ、討ち取ってきた西軍諸将の首実検が行われました。



4.東首塚
東首塚です。
この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主・竹中重門が築いたもので、家康によって首実検された将士の首が、ここに眠っています。
朱色の門が印象的ですが、文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和17年(1942)に徳風会によって名古屋から山王権現社本殿と共にこの唐門が移築されました。
ここが東首塚の正面で、中には「東首塚碑」、実検前の首級を洗った「首洗いの古井戸」があります。


5.西首塚
西首塚は、JR関ヶ原駅前から国道21号線を西へ700mほど行ったところにあります。
東首塚と同様、当時この地の領主であった竹中重門が徳川家康の命により、関ヶ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。現在は高さ2m、周囲30m程の塚ですが、JR東海道本線の敷設の際に埋葬されていた白骨が大量に出たところから、当時は相当な規模であったと思われます。
西首塚は、別名胴塚とも呼ばれています。
塚の正面にある御堂は、地元の奉納により千手観音と馬頭観音が安置されています。


6.松尾山・小早川秀秋陣跡
次は標高300mの松尾山に向いました。名神高速道路の南側に登山口があります。駐車場入口です。

ここに車を停め、ここから先は徒歩です。

“登山”は決して得意ではないのですが、汗をかきかき頂上を目指しました。当日は残暑が厳しく、まだ30℃近く気温がありました。意外だったのは、彼是10人近くのハイカーとすれ違ったことです。すれ違うごとに、「こんにちは」と挨拶しながら登るのが山のエチケットです。

こういった土で固めた階段が数多くあります。これ結構キマス・・・。

駐車場から約40分、ようやく着きました。ここが松尾山の山頂になります。

関ヶ原の戦いで、松尾山に陣を張った小早川秀秋陣地跡です。

小早川秀秋は北政所の甥で、一度は豊臣秀吉の養子となりましたが、秀頼が生まれると、放逐され中国の大名・小早川隆景の養子にされてしまいました。
朝鮮に出兵した後、石田三成の讒言で、あやうく隆景から受け継いだ領地を取上げられかけましたが、のちに取消され、元の所領に戻ることができました。
関ヶ原の戦いでは当初、西軍に属し伏見城攻めに加わりましたが、徳川家康に内通し、遂には東軍勝利の立役者になりました。
戦後、家康より岡山藩55万石に加増・移封されましたが、関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602)に早世しました(享年21)。
秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易されました。
松尾山から見た関ヶ原古戦場です。ボランティア・ガイドさんの話では、合戦当時はこの辺りの樹木は伐採され、石田三成の笹尾山から松尾山の麓まで戦況がはっきりと目で確認できたそうです。


7.南宮山・毛利秀元陣跡
翌日、今度は毛利輝元の養子で、やはり西軍として関ヶ原の戦いに参戦した毛利秀元陣地跡がある南宮山に登りました。南宮山は標高約400mの山で、登山ルートは麓の南宮大社からスタートします。 ここがハイキングコース登山口です。

ハイキングコース登山口は、関ヶ原の戦いに秀元らと参戦した安国寺恵瓊陣跡でもあります。

途中の山道です。昨日の松尾山より距離が長い分、疲労度も違ってきます。
 

ハイキングコース展望台です。ここは、毛利秀元陣地跡でもあります。

三連休と好天のせいか、南宮山も昨日の松尾山と同様、多くのハイカーたちとすれ違いました。
ここは関ヶ原古戦場は見えませんが、松尾山より木々で視界が遮られない分、東側濃尾平野がよく見えました。

界下に名神高速道路や牧田川が見え、遠くに岐阜城や犬山城も見える素晴らしい眺めでした。

西軍・毛利秀元は麓に陣を張った従兄・吉川広家の抵抗により関ヶ原には参戦できませんでした。
吉川広家は毛利宗家の家名を守るため、徳川家康に内応していましたが、戦後西軍総大将となった当主毛利輝元の積極参戦が家康によって明らかにされたため、輝元は改易は免れましたが、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後120万5000石から、周防・長門の2ヶ国37万石に大減封されてしまいました。
一方、秀元はまだ幼かった輝元の息子秀就(初代長州藩主)の後見役として藩政を取り仕切りました。
晩年は江戸で暮らし、三代将軍徳川家光の御伽衆となり、江戸で死去しました。享年72。
Posted at 2011/10/01 01:00:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年09月18日 イイね!

のぼうの城  <忍城、石田堤、石田堤史跡公園>

のぼうの城  <忍城、石田堤、石田堤史跡公園>『のぼうの城』は、和田竜による歴史小説を原作とする2012年公開予定の日本映画です。

あらすじ
周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城。領主・成田氏一門の成田長親は、領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼び親しまれる人物でした。
天下統一目前の豊臣秀吉は、関東最大の勢力北条氏の小田原城を落とそうとしていました。一方、豊臣側に抵抗するべく、北条氏政は関東各地の支城の城主に籠城に参加するよう通達。支城の一つであった忍城主の氏長は、北条氏に従うように見せかけ、裏で豊臣側への降伏を内通し、小田原籠城作戦に参加していました。
「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」秀吉にそう命じられ、石田三成は成田氏が降伏しているとは露知らず、戦を仕掛けました。城はすぐに落ちるはずでしたが、軍使長束正家の傲慢な振る舞いに怒った総大将・長親は「戦」を選択。当主氏長より降伏を知らされていた重臣たちは初め混乱をしましたが、覚悟を決め、かくて忍城戦は幕を開けました。
三成率いる二万超の軍勢に、農民らを含めても3,000の成田勢。総大将たる長親は、将に求められる智も仁も勇も持たない、その名の通りでくのぼうのような男。だがこの男にはただ一つの才能、異常なほどの民からの「人気」があったのでした…(以下、省略)。

忍城
忍城は文明10年(1478)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子が築城したといわれています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めでは石田三成の水攻めで家臣と農民ら3,000の兵が危機にさらされましたが、主城である小田原城が先に攻め落とされ、忍城もやむなく開城したといわれています。
江戸時代には忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町として繁栄しました。また、江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになるりました。
廃藩置県に伴い城は破却されましたが、昭和63年(1988)には行田市郷土博物館が開館し、御三階櫓が復元されました。
御三階櫓

復元東門
 

甲斐姫

忍城主・成田氏長には正室との間に長女がおり、その娘の名を甲斐姫といいました。
忍城は石田三成の水攻めと同時に、三成の援軍真田昌幸・信繁(幸村)らの猛攻により城門が突破されそうになると、氏長の娘・甲斐姫は自ら城外に出陣し、多くの敵将を討ち取り、敵軍の侵入を阻止したと伝えられています。
 

“おもてなし甲冑隊”の皆さんです。左から順に、成田家に仕える家老・正木丹波守利英、甲斐姫、忍城主成田氏長の留守を預かる従兄弟・成田長親、家老・酒巻靱負(さかまき・ゆきえ)、家老・柴崎和泉守です。
 

“おもてなし甲冑隊”演舞です。
 
成田長親と甲斐姫の演舞です。
 


お疲れさまでした。午後の部約20分程の演舞でしたが、皆真剣でとても見応えのある演舞でした。


石田堤
忍城を水攻めで攻め落とそうとした石田三成は総延長28kmにも及ぶ堤を築きました。この堤防を「石田堤」といい、現在も行田市堤根地区から鴻巣市袋地区にかけて残っています。また、三成が本陣とした丸墓山古墳から南に延びる歩道も石田堤の名残です。

石田堤(行田市堤根)
 

石田堤史跡公園(鴻巣市袋)
ここ袋地区の石田堤史跡公園は、ほぼ南北に延びる堤を横切る形で上越新幹線が走っています。この新幹線高架下がシンボルモニュメントゾーン、南側を堤修復ゾーン、北側を堤跡保存ゾーンと広場活用ゾーンといいます。


シンボルモニュメントゾーン
真上を上越新幹線が走っています。新幹線のちょうど高架下にあたります。タイムワープゾーンともいう仕掛けで、矢倉の下を歩くと大和田伸也さんが演じる石田三成の声が聞こえてきます。
 

堤跡保存ゾーン
シンボルモニュメントゾーンの道を隔てた北側が堤跡保存ゾーンと呼ばれる場所です。発掘調査で幅員19m以上、高さは約3.2mもあるそうです。


シンボルモニュメントゾーンの忍城水攻め説明板の絵図です。
天正18年(1590)、北条方成田長親ら3,000の兵が籠る忍城を水攻めにした石田三成は堤が完成した後、利根川・荒川の水を引き入れましたが、城にはあまり水が溜まりませんでした。
その後、増水により堤が決壊して石田方に多数の溺死者がでて、結局水攻めは失敗に終りました。


最後に、「のぼう様」こと成田長親は国替となった当主・氏長と共に下野国烏山へ移り住みましたが、やがて氏長と不和になり出奔しました。出家して自永斎と称したそうです。
慶長17年(1612)没、享年64。
Posted at 2011/09/18 02:08:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年09月12日 イイね!

小田原攻めの原因となった小さな城 <沼田城跡、名胡桃城跡>

小田原攻めの原因となった小さな城 <沼田城跡、名胡桃城跡>現在の群馬県沼田市には戦国時代後期には信州上田の真田氏の沼田城がありました。
利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城で、二つの川側は約70mほどの崖となっており、典型的な崖城でもありました。
沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として越後の上杉謙信、相模の北条氏邦、甲斐の武田信玄ら諸勢力の争奪戦の的となった土地でした。

天正8年(1580)、武田勝頼の家臣・真田昌幸は調略によりかねてより切望していた沼田城を手中に治めました。
天正10年(1582)、武田勝頼一族が滅亡すると沼田城は真田氏が完全に領有することになりました。
ところが、相模の北条氏もかねてより沼田領を欲しており、以降度々北条氏が侵攻をしましたが、真田氏はそれらを退けていきました。

天正17年(1589)、豊臣秀吉が政権を掌握すると、関東の覇者・小田原の北条氏政と氏直父子に上洛を催促しましたが、北条氏は上洛の条件として真田氏が領有する沼田城を領地に組み入れることを要求してきました。
北条氏を上洛させ全国統一を目指す関白・秀吉は北条氏の要求を受け入れ、対して真田氏に沼田城の明け渡しを求めましたが真田氏の回答は「ノー」でした。
最終的に秀吉の裁定が下り、沼田城を北条氏に明け渡し、その替わりとして支城の名胡桃城を真田氏のものとすることで決着しました。
沼田公園(沼田城跡)

北条氏領有となった沼田城には城代として猪俣邦憲が入城し、真田氏の名胡桃城は城代鈴木重則が入りました。
ところが、同年猪俣邦憲が偽の真田氏書状を名胡桃城の鈴木重則に送り付け、鈴木重則がその書状を受取り、真田氏の居城上田城に向うため名胡桃城をあけた隙に城を奪い取ってしまいました。
まんまと騙された鈴木重則は切腹してしまいました(名胡桃事件)。
この報を大坂城で聞いた秀吉は激怒し、大名間の争いを禁じた惣無事令に反するとして全国の諸大名に小田原北条氏討伐の書状を発しました。

名胡桃城跡

沼田公園から北へほんの5kmほど離れた国道17号沿いに面した山城跡です。

翌天正18年(1590)、秀吉は東海道、中山道と海上輸送の海陸両面から15万の大軍で北条氏の小田原城を包囲し、3ヵ月後に開城させ主戦派・北条氏政と弟氏照を切腹させ、氏政の嫡男・氏直を高野山へ追放し全国統一を遂げました。
初代・早雲から5代100年続いた北条氏は、この「名胡桃事件」を原因に滅亡しました。
成り上がりと油断したのか豊臣秀吉に背を向けた関東の覇者は、この小さな城をきっかけに滅亡の道を辿りました。
Posted at 2011/09/12 01:06:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年09月01日 イイね!

わらべ唄 “とおりゃんせ” 発祥の地 <川越城 本丸御殿、三芳野神社>

わらべ唄 “とおりゃんせ” 発祥の地 <川越城 本丸御殿、三芳野神社>川越城 本丸御殿
川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典が造営したものです。現在は玄関・広間部分と移築復元された家老詰所を残すのみですが、日本国内でも御殿建築が現存する例は極めて少ないものです。

入館料は一般100円です。早速、中に入ってみることにしました。

家老詰所と呼ばれる屋敷です。
明治6年(1873)から昭和62年(1987)まで、ふじみ野市に移築されていたものを修理復元して本丸御殿内に再度移築した建物です。

家老詰所から見た中庭です。 建物と比較すると、それほど大きな庭ではありません。
もちろん、往時の川越城は総面積326,000㎡もあったので、この庭はほんの一部分でしかないことは容易に想像できます。 
 
川越城は長禄元年(1457)に太田道真・道灌父子が築城しました。天文6年(1537)には小田原城に本拠を置く北条氏が攻め落とし、北武蔵の支配を固めていきました。
しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略(小田原攻め)で前田利家らに攻められ落城しました。
その後、関東に入封した徳川家康により、江戸の北を守る重要な拠点として、酒井氏、松平氏、柳沢氏ら徳川譜代の大名が次々と配置されていきました。
寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の拡張・整備を行い、総面積326,000㎡の規模をもつ城郭へと発展させました。 

現在は本丸御殿前が道路となっており、この道路を挟んだ向いが無料駐車場となっています。
駐車場を抜けると、かつて「天神曲輪」と呼ばれていた場所にでます。
三芳野神社

三芳野神社は、川越城築城以前からこの地にありましたが、築城に伴い「天神曲輪」に入ってしまったため、一般の参詣ができなくなってしまいました。しかし、かねてより信仰が篤いことから時間を区切って参詣することを認められました。ところが、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、「田曲輪門」を通り、「富士見櫓」を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する道を通ってお参りしなければなりませんでした。

また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことを避けるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく取調べられました。
これらの事情から、わらべ唄「とおりゃんせ」が歌われるようになりました。

♪♪通りゃんせ 通りゃんせ  ここはどこの 細道じゃ
   天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ
   御用のないもの 通しゃせぬ  この子の七つの お祝いに
   お札を納めに 参ります 行きはよいよい 帰りは怖い
   怖いながらも  通りゃんせ 通りゃんせ       ♪♪

三芳野神社の社殿は、寛永元年(1624)川越城主・酒井忠勝が三代将軍徳川家光の命を受けて造営しました。翌寛永2年(1625)には、天海大僧正により遷宮式が行われました。これ以後、喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府の直営社となりました。
Posted at 2011/09/01 23:44:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 史跡 | 趣味
2011年08月17日 イイね!

家康が最も恐れた男 真田幸村 <真田庵、三光神社、志紀長吉神社、安居神社>

家康が最も恐れた男 真田幸村 <真田庵、三光神社、志紀長吉神社、安居神社>大坂冬の陣、夏の陣で豊臣方として大活躍し、寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、徳川家康をあと一歩のところまで追いつめた真田幸村(本名:信繁1567-1615)は、永禄10年(1567)真田昌幸の次男として生まれました。
甲斐国武田信玄に帰属していた信濃国小県郡の国衆昌幸は、天正3年(1575)織田・徳川連合軍との長篠の戦いで兄2人を失ったため、上野国岩櫃城代だった兄を継ぐため、幸村を連れて岩櫃城に入りました 。






真田昌幸

天正10年(1582)3月甲斐国武田氏が織田・徳川連合軍によって滅亡し、さらに6月本能寺の変で織田信長が亡くなると、越後国の上杉氏、相模の北条氏、三河の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが起りました。10月には徳川・北条の間で和睦が成立し、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することが決まりました。
天正13年(1585)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めましたが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由に拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と同盟関係を結びました。浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると8月に真田討伐を起こし、約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣しました(第一次上田合戦)。しかし、上田城に籠る真田方は地の利を利用し、わずか1200人で徳川方の攻撃をかわし、撤退させることに成功しました。
この戦いで昌幸は優れた智謀であると評され、また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として徳川四天王・本多忠勝の娘である小松姫を長男・真田信幸(のち信之に改名)へ嫁がせて懐柔するきっかけともなりました。
一方で、幸村は越後国上杉氏へ人質として送られていましたが、豊臣秀吉が台頭すると昌幸は豊臣政権に帰属し、幸村は人質として大坂城へ移されました。のちに豊臣家臣で敦賀城主・大谷吉継の娘・竹姫を正室に娶りました。


真田幸村


秀吉死後の慶長5年(1600)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと、今度は大坂城で石田三成らが挙兵しました。関ヶ原の戦い前、昌幸と幸村は反家康の西軍に加勢し、居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠の大軍勢を城に立て籠って迎え撃ちました(第二次上田合戦)。少数精鋭である真田隊にてこずった徳川秀忠軍は落城攻略を諦めて去りましたが、結果として主戦場となった美濃関ヶ原での決戦に間に合いませんでした。
しかし、西軍は敗れる結果となり、昌幸と幸村は処分されることになりました。本来なら、死罪に相当しましたが、長男・信之の助命嘆願が実り、高野山へ配流となりました。


真田庵・善名称院
 

真田庵、または善名称院といい、寛保元年(1741)に紀州国九度山出身の大安上人が、真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した一堂を創建しました。昌幸と幸村一行はここ九度山真田庵で蟄居生活を送りました。
妻を伴っていたため、女人禁制の高野山へは入山できず、結局麓の九度山に配流となりました。
幸村はここで正室竹姫が考案した真田紐を織り、家来に全国各地に売り歩かせ、情報収集と生活の支えとしていました。
蟄居中の慶長16年(1611)に父・昌幸は死去しました。

慶長19年(1614)、「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化すると、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の幸村の元にも使者を派遣し、黄金200枚、銀30貫を贈りました。幸村は国元にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、徳川方の警備網をすり抜け九度山を脱出して子の大助らとともに大坂城に入城しました。
大坂冬の陣が起ると、幸村は近江国・瀬田の唐橋まで積極的に討ってでて、徳川方の大軍を迎え撃つことを強行に主張しましたが、秀頼側近大野治長らに反対され籠城戦を決意しました。
難攻不落といわれた大坂城でしたが、唯一の弱点は城の南側でした。そこに真田丸という出城を造り、鉄砲隊を駆使し徳川方に大打撃を与えました。


史跡 真田の抜け穴跡

三光神社(大阪市天王寺区)です。当時の真田丸近くには幸村が掘らせたと伝わる抜け穴跡があります。今は塞がれており穴の中へ入ることはできなくなっています。


志紀長吉神社

慶長20年(1615)、夏の陣が始まると、冬の陣の講和によって濠を埋められた大坂方は城外に討ってでるしか道は残されていませんでした。激戦となった道明寺・誉田の戦いにおいて、幸村は伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的に大打撃を与えて後退させました。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれています。
道明寺・誉田の戦いの後、戦勝祈願のため幸村が立ち寄った志紀長吉神社(大阪市平野区)です。ここには幸村がこの時奉納した六文銭軍旗が現在も保存されています。
また、この参道には幸村がしばし休憩した場所があります。



真田幸村休憩所跡
の石碑です。


豊臣方は後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していきました。幸村は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接出陣有るのみと直訴するため大助を城内に送りましたが、母の淀殿らに阻まれ秀頼の出陣はなりませんでした。
幸村隊は毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らしました。この凄まじさにさすがの家康も自害を覚悟したといわれています。
しかし、最終的には軍勢で勝る徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾宗次にその首を授けました。享年49でした。


安居神社


翌5月8日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で毛利勝永の介錯により自害し、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上しました。勝永自身も自害し、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わりました。
Posted at 2011/08/17 00:40:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 趣味

プロフィール

「安福久美子69歳、99年の名古屋西区主婦殺人事件の主犯者。悟さんにフラれた腹いせに、自宅を突き止め、悟さんの愛妻を刺殺した。この安福の自宅、今日グーグルマップで見つけた!裁判やって判決確定まであと何年要するか? 悟さん、息子さん、被害者があまりにも気の毒。。。」
何シテル?   11/05 21:54
オートビレッジ時代の2001年11月に登録しました。みんカラもメジャーになり、国産車から外国車まで、いろんなオーナーカーを見て楽しませてもらっています。2025...
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