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カクシカおじさん(プレミオおじさん)のブログ一覧

2012年09月29日 イイね!

2012年 夏の旅行/その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く(兼:甲府でのプチオフ)

2012年 夏の旅行/その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く(兼:甲府でのプチオフ)
2012.8.23(木)の日、富士登山に出てから4日目。
  今日も早朝から雲少ない晴天のなか、
  秩父の山奥にある三峯神社へと参拝。

秩父の山奥なので
  早朝ならまだ人も少なくて落ち着いて参拝し、
  おかげでたくさんの写真も撮影することができました。
 
 

 富士山登山から始まって八ヶ岳沿線や北関東をぐるっと回ってきましたが、今日はもう帰宅日。
 もちろん東名・名神高速道路を使って帰宅しますが、その道中記よりもこの旅行のいちばん最後に立ち寄った、静岡県島田市にある「蓬莱橋(ほうらいばし)」からご紹介していきたいと思います。

 実はこの蓬莱橋、以前の琵琶湖にある竹生島の歴史ブログで一度取り上げたことがありました。
 「琵琶湖の竹生島参詣と近世日本の歴史(南北朝から太平洋戦争まで)」はこちらです。
      → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/24917302/


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 歴史にご興味のない方は、以下の文面は読み飛ばしていただければと思いますが、

 竹生島のブログ自体は、始めは竹生島を初めて訪問した時にこの目で見た景色と建物をご紹介していただけでした。が、竹生島に縁の深い信長や秀吉といった人たちの歴史を加筆していくうちに、中身がだんだんと変わってしまい歴史ブログとなっちいました。

 その内容ですが簡潔に要約しますと、信長・秀吉の安土桃山時代は世の中が大いに発展していったのに対し、異論はあろうかとは存じますが、徳川家康が開いた江戸幕府というのは徳川家の維持と繁栄ばかりを考えた社会制度で、身分差別を作ったり人民か虐げられたりしたろくでもない時代だ、と言う内容でした。しかも江戸時代の後半は飢饉と自然災害の連続でしたね。


 この保守的な江戸時代の間にイギリスのワットから始まる蒸気機関が発達した諸外国は、大いに科学技術が進歩して国力(軍事力)をつけ、鎖国していた日本の国は世界から取り残されてしまい欧米列強の植民地になる寸前までいきましたね。


         (軍服姿と晩年の徳川慶喜の写真2枚 : ウィキペディアより)


 で、世の中の転換といいますか、
 1868年に徳川15代将軍の中で(あくまで私が)最も聡明だと思っている、最後の将軍であった徳川慶喜が、大政奉還を決断したおかげで内乱が起こることもなく、外国からつけ入る隙を与えることもなく無事に明治維新が起こって日本が開国しました。
 
 そして聡明な明治天皇を中心として明治維新からわずか36年後の1904年には、当時世界最強の軍事国家であったロシアと日露戦争できるぐらいまでに国力をつけることができました。


  (第122代の明治天皇 明治21年 : ウィキペディアより)


    「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に 
                   など波風の 立ちさわぐらん」
 この短歌(御製)は明治天皇が日露戦争の開戦を前にお詠みになったのですが、

 聡明だった明治天皇、もちろん好んで帝政ロシアとの戦争を望んだわけではないのはすでに歴史が証明しているところですが、不凍港の獲得と領土欲丸出しの帝政ロシアに対抗すべく、やもうえず戦争をせざろう得ませんでした。
 これは上杉謙信公と全く同じ心ですが、でもそうしないと荒々しいロシア民族に日本民族がやられて滅んでいたことでしょう。

 そして日露戦争と第一次世界大戦に勝利して日本人が慢心してしまい、太平洋戦争では今度は軍閥が幅を利かせて適材適所の人材を活用せず日本が敗戦してしまうところまでを、その竹生島のブログにしたためました。

 こうして明治天皇とは裏腹に、困窮する人民のことを考えず徳川家の維持安泰ばかりを考えた江戸時代の265年間!を象徴するものの代表として、この「蓬莱橋」をその竹生島のブログで取り上げました。


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 で、その「蓬莱橋」とはいったいどんな橋でどんな歴史なのか、以下にご紹介していきます。


         (静岡県島田市にある蓬莱橋 : 2012.8.23 筆者撮影)


 江戸時代によく言われた言葉に
    「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 というのがありました。

 先ほども触れましたように江戸時代の265年もの間、アホの一つ覚えではありませんが戦国時代が終わり泰平の世になっても、保守的な江戸幕府は富士川や大井川や天竜川などの大きな川には一切架橋を認めませんでした。
 家光の弟にあたる徳川忠長(国松)は、1626(寛永3)年の家光上洛の折、許可を得ず勝手に船を並べて?大井川に浮き橋で架橋し、これで家光の怒りを買っていますね。


 よって旅人は江戸の初期には自ら渡るか川越人足に頼っていましたが、そのうち自らでは自由に渡れなくなり、「勝手渡り」という抜け道はあったようですが基本的には自力での渡河は禁止となり、川越制度により川越えにもお金が取られるようになりました。

 しかも川越人足は幕府の下級役人であったようで、今で言う利権と一緒ですね。


  (ダムなどによって水量が減らされている富士川 : 2005.12.24撮影・ウィキペディア)


 現代(特に戦後)では、主に電力会社が大井川の水利権を持っていて、たくさんの発電用ダムが作られ、あまりにも水をせき止めてしまって川の流量が減り、河原は砂地ばかりが目立つ状態となってかえって社会問題化し(長い無水区間とか)、このあたりの「水返せ運動」にもなったようです。

 でもダムなどない江戸時代では、これらの川は流れも急でかなりの水量もあったようですよ。今では大雨の時しか見る影もないですが、往時では普通に平均水深70~80cmもあるほど豊かな水量を誇っていたそうです。

 しかも大井川は水量のあるときとないときの差もかなり激しかったようで、特に渇水状態の時などは何の苦労もなく渡れるぐらいだったようです。


         (歌川広重作 「東海道五十三次・金谷」より : ウィキペディア)


 ちなみに大井川は蓬莱橋のところでは川幅は900m前後もあり、水深も1m前後もあるのなら本当に橋がないと川を渡るのは大変ですが、単に橋を架けたり水害で流されたりして修復するのに膨大な費用をかけるのが惜しいのなら渡し舟にすればいいのだけれども、これも結局川越人足の利権がからみ江戸時代はずっと禁止していました。

 1700年の元禄のころには川越人足は300人ほどでしたが、1870年あたりの幕末~明治初期ごろになると両岸で合わせて1300人前後にもなっていたそうですよ。まさに大井川の川渡しは一大産業化していたようです。

 でも明治維新直前、官軍(薩長軍)が江戸へ攻め込んでいくときに、なんと即席でこの大井川にも橋を架けさせたんだとか。よってどうやら架橋を認めなかった真の理由は、両岸に家族も含めると3000人にもなる川越人足の家庭を守るためだったのでしょう。



 ちなみにこの浮世絵は著作権が切れているため
   国立図書館で公開されていたデジタル画像3枚を筆者が合成しました。
 3枚の絵の継ぎ目部分が欠けているため、合成画像に段差が出来ているのはご愛嬌で

 (歌川国久作 東海道川尽 大井川の図 : 国立図書館デジタル化資料より筆者合成)


 架橋費用やその修復費用が惜しかった、また駿府城を守るためとか架橋の技術的問題からだと一般的によく言われてもいますが、築城技術にしても徐々に発達してきたことから特に科学技術や土木技術は、何事もやってみなければ物事は発展していかないのは歴史が証明しているところです。


 といっても江戸幕府、
 たとえ飢饉の中でも大奥には膨大な維持費をつぎ込んでいまして、私は以前本でも読みネットでも紹介されていますが、多い日には1日でなんと砂糖 600kg!ですよ、たった1日で砂糖を何百kgも大奥内だけで消費していました。

 しかも当初、白砂糖は舶来品だったようで年間数十万両?の幕府予算のうち、後年になると贅沢になりこの砂糖購入の支払いだけのために5万両/年も支払っていたようです。

 とあるサイトでは、幕府の莫大な固定費を除けば、使えるお金は13万8千両/年だったとの試算もあります。そのサイト 「大江戸財政危機~萩原重秀、徳川吉宗、田沼意次の苦悩~」はこちらです。
     → http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/Ohedo/CafeOhedo.html
    (こちらのサイト、開くと音楽が流れてきますので、その点にはご注意ください)

 
 将軍の吉宗を始め幾人かの老中も、この厄介で金食い虫の怪物大奥を改革しようとしたけれど、女ばかりのこの独特な世界、改革はことごとく失敗してこの摩訶不可思議なハーレムは結局幕末まで続き、こんな政権はもう滅びるほうが世の人々ためにも良かったですよね…これあくまで私の主観です。


         (水量がない現代の大井川 : 2006.4撮影・ウィキペディア)


 で、これらの 「橋を架けることはまかりならぬ」 という政策によって、どれほど旅人が移動に不自由していたかは計り知れません。もっとも川岸の宿場町は繁盛したかもしれませんが。まあ江戸時代は元々農民の移動は認められていませんでしたけれども、ちょっとひどすぎですよね。

 しかもこのことにより日本の土木技術、特に架橋技術とトンネル掘削技術は江戸時代の間には全く発展せず! 交通体系の整備もなく、蒸気機関の発達により諸外国では大幅に交通体系が変革していても、日本では江戸期の265年間にも渡りずっと馬かほとんどは徒歩で、産業革命を経た欧米に比べてどれほど遅れたか計りしりません。


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 ところで山口県の東端に位置する岩国市に 「錦帯橋(きんたいきょう)」 という名の橋がございまして、けっこう有名な橋なのでご存知の方も多いと思います(下写真)。


       (岩国にある現代の錦帯橋 : 2005.5.5撮影 ウィキペディアより)

 岩国市といえばただ今は米軍基地のオスプレイで有名かもしれませんが、毛利元就の毛利家家臣の位置づけらしい? 吉川広家が岩国城を1608年に築城して以来、城と城下町とを結ぶ橋が川幅200m前後の錦川に架けられたものの、やはり江戸初期ごろの架橋技術、水害のたびに橋が流失していたようです。


 私が購入して読んだ本、その名もズバリ「大井川に橋がなかった理由 (松村博著・創元社刊)」を読みますと、当時の橋の橋脚は木を使い、川底に押し込むほうの先端を尖らせて金属板を張ったりしてから、水面に垂直に立てて押し込む木の上に米俵(中身は土とか?)の重しを徐々に追加して乗せていき、ゆすりながら川の中へ橋脚となる木を押し込めていったとか。

 この工法を当時「震込」…ゆりこみ、と呼んでいたそうです。


(大井川に橋がなかった理由 : 松村博著・創元社2001年刊)


 たしかにお城と違って、橋脚を川の中に立てるのに重しを載せてゆすりながら川の中へ押し込めていくような工法では、基礎が脆くて水が出れば流されてしまうのは仕方なかったかも知れません。
 

 そこで三代目の岩国藩主の吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手します。
 橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。

 広嘉は、明の帰化僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。これをもとに連続したアーチ橋という基本構想に至った。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで洪水に耐えられるというのである。

 児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。しかし翌年の1674年(延宝2年)に洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われてその姿を保った … ウィキペディアより引用。


            (葛飾北斎が描いた錦帯橋 : ウィキペディアより)


 ウィキペディアの記事にさらに付け加えるなら、石の橋脚の周囲(前後100mに渡ってらしい)には、洪水のときに橋脚の根元が削り取られないよう=洗掘(せんくつ)されないように、橋脚の周りをさらに石で補強されているのが下写真からでも判別できると思います。


(石の橋脚の根元にさらに石を敷き詰めている錦帯橋 : 2010.7.24撮影 ウィキペディアより)


  (錦帯橋の木製によるアーチの部分 裏側 : 2009.3.21撮影 ウィキペディアより)


 当時の稀に見る優れた児玉九郎右衛門の設計と藩主の決断により、1674年に改良した錦帯橋が完成後、架け替えの保守はあったものの、江戸時代には珍しく276年間も洪水に流されることなく耐えてきました(前出の本より)。
 錦帯橋は戦後の1950年に台風により一度流されてしまったが、これは前年に米軍が岩国基地拡張のために、この橋の近辺から大量に砂利を取ったのが主な原因だとか。
 
 ということで、たとえ江戸時代でも費用と手間をかければ大井川とかでもこのような橋もできそうですが、錦帯橋は川幅が200mに対し大井川の蓬莱橋のところではほぼ900mなので、重機のない=鎖国していたこともあり当時なら蒸気機関のなかった江戸時代では相当な大工事となったことでしょう。
 でも裏をかえせば、多いときで年間5万両!ともいわれた、大奥で使った砂糖の代金をそのまま回して10年ぐらいかけて大工事をやれば、何とかできたのではないかとも言えますね。


 また大井川を渡る大名行列とかは付け届けも含めて超多額の渡河費用を出費しており、その費用を橋の建造費に回せば恐らく橋はかけられたことでしょう。ちなみに前出の本によりますと、多い時で年間1万両ぐらい?(1両=20万円とすると20億円) の大金がこの徒渡し制度によってもたらされたみたいなのです。

 これらのお金はもちろん徒渡し人足にも渡されましたが、かなりの額が宿駅制度とも宿駅伝馬制度とも言われている、江戸時代の公儀のための馬の乗り継ぎ制度の維持などに使われたようです。

 そして特に大井川の徒渡しは収入があまりにも莫大だったため、どんなに渡船設置の嘆願が出されようともそれらは一切無視され、地元の利益と相まって人足による徒渡しは、明治の世になるまでずっと続けられたことにより多くの旅人はこれに苦しめられました。そういうことを考えれば江戸時代は本当におかしな時代ともいえますね。



 こういった265年も続いた江戸時代の不便極まりない状況が、ようやく明治維新により江戸の時代は終わり、「明るく世を治める」 という意味にとれる明治の世になって、この不便な状況を打開すべく島田の宿の開墾人たちは時の県令(現在の知事にあたる)に必死に陳情して架橋が許され、1879年(明治12年)1月13日、ようやく「蓬莱橋」という名の橋が大井川にも架けられました。

 これが蓬莱橋のおおまかな歴史でございます。


              (蓬莱橋のそばに掲げられている説明看板)


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 そしてその竹生島のブログの中で取り上げたこの木製の橋、
 このたびの旅行での帰宅時に幸いこの近くを通るので、せっかくなので立ち寄ってみようと思い立ち、東名高速道路の吉田インターを途中下車し、JR島田駅方面に向かって片道7~8kmほど下道を走って到着です。何台かは橋の横の堤防に車を停められます。


     (全長897mの橋の対岸の牧之原側から : 2012.8.23 筆者撮影)


 で、上の写真は対岸の牧之原側から写した写真ですが、
 この橋、最初一目見たときにどこかで見たなぁ、と思いましたが、この看板を見て気が付きました。



 この看板、最後の最後の撮影でデジカメの電池がまた切れてしまって携帯からの撮影ですが、
 1994(平成6)年度の三田佳子さん主演の、NHK大河ドラマ「花の乱」のテーマ曲の冒頭シーンでこの橋が出てきていたのですね。


 ところで余談ですが、
 この大河ドラマの主人公ともいえる足利義政については、以前の銀閣寺のブログに取り上げたことがありました。こちらです → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/25024433/
 現代にまでずっと続く、日本文化の源を作った人でしたね。

 将軍としての職務だけを見るなら最低評価に近いと思われ、しかも政治力が足らず応仁の乱を引き起こしたという当時の人にとってはしごく迷惑な人でしたが、その代わりに東山文化に代表される日本文化の源流を作ったという大きな天命を果たしたのではないでしょうか。


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 ではこのギネスブックにも認定されている、
    「世界一長い木造歩道橋」の各部をダイジェストで。
 受付窓口で通行料100円を支払い、まだ暑いなかさっそくこの木製の橋を渡り始めます。


 まず「大井川河口より拾弐粁四百米」の碑です
    この蓬莱橋は、大井川の河口から12.4kmさかのぼった位置にあるようです







   (花の乱の看板とこの写真のみコンデジの電池切れで、ガラパゴス携帯で撮影)





      1965(昭和40)年に、さすがに橋脚だけはコンクリートパイルに変更




      蓬莱橋の下部と真下から撮影


       



      蓬莱橋から大井川下流を眺める


      何百メートルか下流にある現代の頑丈なコンクリート製の島田大橋




      3分の1ほど進んだ時点で撮影
      大河ドラマ「花の乱」の冒頭のシーンはこのあたりで撮影されたのかなぁ


             下流側を橋の上から覗く
       

       上流側を橋の上から覗く




   2011(平成23)年の9月、台風による水害で橋脚が流失、通行止めに

           (この写真はフリー百科事典のウィキペディアより借用)


  2011年の7月の大水の様子がYou Tubeにアップされていました




            2012.3に修理が完了し、2012.3.31に開通式が行われました。
            どうやらこの敷板の真新しいところが修復跡?のようです。
       

      修復跡を近撮




      上流側の川の水がきれいなエメラルドグリーン色に


             下流側の川の水も同様の色に
       

 
  
      下流側を蓬莱橋の牧之原側から撮影


      同じく牧之原入口直前の上流側。西日が水面に反射し光っています




      ゆっくりと歩いてようやく対岸の東側に位置する牧之原側へと到着
      夕刻近い16:53着でした


      元の島田側に戻りました。
      17:04着でした、橋を渡るのに徒歩10分程度でしょうか


  そしてここを夕刻の17時半ごろに発ちました。
  それから来た道をそのまま戻りガソリンを満タンにして、吉田インターから東名へ流入。


 東名の下り線の牧之原SAにはコインシャワーがありまして、蓬莱橋を歩き回って汗をベットリかいたのでシャワー待ちの列に加わりました。
 しかしこの日はシャワーが超混んでいたうえに、4つあるコインシャワーのうち1つが故障で使用不可。自分に順番が回ってくるのに1時間ほどかかり、シャワーを浴びて車に戻ったときはすでに陽が暮れていました。

 実は静岡県浜松市と湖西市にまたがる浜名湖も写真に収めたかったけれど、もうコンデジの電池もすでに全滅していたので写真撮影はあきらめて、まだまだ距離のある自宅まで帰るのに汗を流すほうを選択しました。


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 そしてこの2012.8.23の日は、
       埼玉県秩父の秩父鉄道の三峰口駅への訪問
       秩父の奥にある3つの峰がよく見渡せた三峯神社への訪問
       静岡県島田市にある明治初期に架けられた蓬莱橋への訪問
  の間をぬって山梨県の甲府市内におきましてみん友さんのあかねさんとプチオフ。
  山梨のお土産までいただきました。どうもありがとうございました。


 私が早朝から寄り道したうえに、雁坂みちと雁坂トンネルとかの道中写真を撮影したりして、最初の待ち合わせ時刻だった10:00にはとても間に合わず、再度連絡をとりまして道路地図の甲府市街のところを見ながら集合場所を変更。私が行き易いように甲府市街まで出てきていただきました。

 ちなみに集合場所はここ、国道140号線・西関東道路の終点を下りて、JR中央本線を超えてすぐのところ、和戸通りにあるファミレスの「デニーズ」にしました。到着時刻は11:20ごろとなっていました。

             (甲府市和戸町にあるファミレス デニーズ)

   あかねさんのエブリワゴンは修理中とのことで、代車のスターレットで参上です

        (あかねちゃんの代車のスターレット & 我が愛馬コンテRS号)


 私が大遅刻してしまって、AM11:30ごろから1時間半ぐらいでしょうか、もちろん暑いので涼しいファミレスの中で私は遅い朝食兼昼食を摂りました。
 もっとゆっくりできれば良かったのだけど午後13:00ごろにあかねさんとお別れして甲府を出発。帰途に就きました。

 帰宅はどのようにしようかと悩みましたが現在地は甲府市街なので、お天気も良いしせっかくなので蓬莱橋を見てから帰宅しようと思い、大回りになる中央道経由でなく、御殿場まで下道を走って東名へ出ようと決め国道137号線の御坂みちへと向かいました。

 ところが国道137号線の上黒駒バイパスへ入るあたりから雲行きが怪しくなり、
        ものすごい雷と豪雨に。この豪雨は河口湖手前付近まで続きました。


   河口湖大橋を13:50ごろに通過、今日の午後の富士山頂は雲隠れですね。

       (河口湖大橋上にて撮影 : 撮影時刻は2012.8.23 13:50)

 昨日の早朝にここの先で見た雲ひとつなかった富士山(下写真)とはえらい違いです。

    (富士河口湖町の船津付近?で撮影 : 撮影時刻は2012.8.22 6:52)


 そしてここ富士吉田からは東富士五湖道路を通って須走まで抜けて時間を稼ごうとインターチェンジへ入ると、間違えてほんの少し手前にある大月・東京方面へしか行けない河口湖インターへ入ってしまって、バックすることもできず東京方面へ。

 しかも次のインターの都留(つる)インターまで片道16kmもあり、仕方なく往復32kmを無駄に走ってしまいました。結局富士吉田料金所通過が14:30でした。
 


 甲府市内からここ富士吉田インターまで1時間もかからなかったのに、この失敗で30分近くロスタイムが生じてしまいましたね。
 それから東名御殿場インター手前2kmぐらいから国道138号線が渋滞していて、裏道も分からず東名に乗るのにひと苦労。これなら身延まわりで富士宮へ出たほうが早かったかもしれないです。


    そしてやっと御殿場インターから東名高速下り線へと流入。
    ほどなくして新東名との分岐点である御殿場JCTへと遭遇(下写真)。

  (東名と新東名の分岐点である御殿場JCT : 撮影時刻は2012.8.23 15:07)


由比の景色も見たかったし、
  蓬莱橋は旧東名の吉田インターから降りていくほうが行き易そうだったので、
  あえて旧の東名を走行しました。

  15:40ごろ東名の由比PAへと到着。
  河口湖や富士吉田市と違ってここではすこぶる晴天でしたので、思わず撮影しました。
                        伊豆半島?が良く見えています。


    新東名が開通してがぜん交通量が減ったように思える(旧)東名高速道路


  こうして由比PAでしばし休んで、吉田インターまで走って途中下車。
  タイトル写真の蓬莱橋へと行きしばし散策しました。


  17:30すぎぐらいだったでしょうか、再度東名高速へ流入。
    カメラの電池切れのため浜名湖の撮影は断念し、
    牧之原SAでコインシャワーを浴びてすっきりして、
            ここからは自宅へと帰宅の途につきました。


  この丸4日間の旅行で1754.8kmも走っていました(誤差+1.5%前後)


          初回の車検もまだなのに、どんどん走行距離が延びて67552kmに
       



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  これでようやく丸4日を要した、
    私の2012年夏の旅行 富士登山もろもろ編はすべて終了しました。
    ブログも13連投となり、旅行全体の様子をすべてアップするのに1ヶ月弱も要しました。


    そしてプチオフの設定をお願いし来てくださりましたRIKO☆さんをはじめ、
                角*鹿RSさん、依身コンテさん&たかトシさん夫妻、
    それから翌日大幅に遅刻しましたが快く応対してくださいましたあかねさん、
              どうもプチオフにお付き合いくださりありがとうございました。


下記↓関連情報URLには、江戸時代の大井川の渡しについての情報が書かれています
Posted at 2012/09/29 00:42:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2012年 夏旅行/富士登山ほか | 旅行/地域
2012年09月26日 イイね!

2012年 夏の旅行/その⑫ 1900年もの歴史を誇る三峯神社の参詣と、すでに廃墟となったギリシャのアクロポリス神殿

2012年 夏の旅行/その⑫ 1900年もの歴史を誇る三峯神社の参詣と、すでに廃墟となったギリシャのアクロポリス神殿 
昨日2012.8.22はコンテ乗りの方と急なプチオフを
 “道の駅はなぞの” で、夕方から真夜中までしたあと、
 
埼玉秩父の山奥に向かって、道の空いている真夜中に
 国道140号線を西へ向かって車を進めていきました。




 でも当然ですが昨日は朝から夜までぐるっと山梨、長野、群馬の草津、榛名、そして花園というふうに、ほぼ下道ばかりを何百キロも運転してきたので、当然ながら秩父でとうとう力尽き、“道の駅ちちぶ”で熟睡してしまいました。

 そして2012.8.23(木)の早朝、この旅行も最終日となった今日、起床後身支度をして三峰口で鉄道散策をしたあと、まだ早朝のうちに三峰へと向かっていきました。ここまでが前回のブログの内容でした。

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    さて、秩父鉄道の三峰口を出たあと、しばし走ると昨年入った温泉が。



    道の駅と併設の大滝温泉 遊湯館、
    まだ朝早いので当然閉まっています。朝10:00からだそうです。

    温泉は当然ながら閉まっていたので、
    仕方なく雁坂トンネル方面へ向かっていきますと大滝三差路へと出ます。



       (2012.8.23早朝の国道140号線 大滝三差路 : 筆者撮影)

 大滝交差点内の看板を見ますと今日の目的地、三峯(みつみね)神社までここからまだ14kmもあります。もうここまでも相当な山奥なのにさらに秩父の山奥へと入っていくようです。真冬なら雪が相当積もりそうなところですね。


 裏を返せばこんな山奥だからこそ開発もなくて、
 神社が荒れることもなく未だにパワースポットとして存在しているのだと思います。 

          (国道140号線 彩甲斐街道の旧道を進む : 筆者撮影)



    そしてやっかいな駒ヶ滝トンネル前へと出ました。
    道路看板からでも分かりますがトンネル内分岐があります。


  トンネル信号が赤です。待ち時間を表示する回転表示灯もあります。
  しかも狭いトンネルの中で分岐もあるから驚きですよ!
  当然対向車が来れば絶対にかわせません、幅2.5mで自転車でも無理そうです。


    長い信号待ちのあと、やっと信号が青になりました。


    これがトンネル内分岐です。
    画像ノイズ処理で強力にノイズを除去したうえで掲載。



     【2014.1.21 追記
 先日富士山へ行ったついでにここへ久しぶりに立ち寄りましたが、このトンネル内分岐を含む駒ヶ滝トンネルはすでに閉鎖され、ダム側に鉄骨で組まれた上下2車線の広く新しい迂回路が出来ていましてビックリです。後日その写真をここに掲載します。

 よりまして、この駒ヶ滝トンネルの記事はもう過去のものとなりました。






  そしてこの狭いトンネルを出たあと(すでにこのトンネルは閉鎖されました)、
     いきなり二瀬ダムの堤防の上を走ります。
     ここでも対向車をかわせません。ここの県道も1車線分の幅しかありません。

  それにしてもこの写真、
     2009.11.3撮影のウィキペディアに掲載されている写真ですが、
     紅葉の時期なのか路線バス?を含む何台もの車が連なっています。



      (2012.8.23 AM8:04  我がコンテRS号もここを無事通過)


    二瀬ダムをすぎ、さらに山奥へ行く途中で秩父の山奥深い谷間を撮影。



 昨年2011.6.10にここへ初めて訪れたときは、
 この辺りから急に霧がもくもくと出てきて神社の駐車場に着く頃にはすっかり周囲が真っ白に。
                             さすがすごいパワースポットですね。



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    やっと神社の駐車場ともいえる、秩父市営三峰駐車場に到着です。
    普通車と軽自動車は¥500/1日でした。

   

   駐車場から周囲を見渡すと、
   昨年訪ねたときとは打って変わって、今日はもやも一切なく素晴らしい天気です。
       白岩山も雲取山も、今日はありがたいことに晴天なので良く見えています。



    どの峰が三つの峯=三峯にあたるのか分からないので、
        駐車場に掲げられていた説明看板も合わせて掲載です。

    三峯神社のご由緒にも書かれておりますが(関連情報URL)、
        「三峯」とは字のごとく神の山の三つの峰を表しています。
        その三つの峰とは「雲取山」「白岩山」と「妙法ヶ岳」ですね。
 


   上の2枚の写真は、その中の「雲取山」と「白岩山」です。
   こちらの下の写真のほうが、神社遥拝殿(ようはいでん)から見た「妙法ヶ岳」です。



 そして富士登山した日から今日まで本当にありがたいことにお天気に恵まれて、この三つの峰も今回初めてすべて見渡すことができました。
 もちろん当然ですが、この素晴らしい風景をカメラに収めないはずはなく、カメラ電池も復活したので昨日の榛名神社とは違い、念のためいくつもの写真をしっかり撮りました。

 風景を記憶するのはけっこう難しく、画像を頭に焼き付けてもすぐに忘れてしまいます…これは私だけなのか?  そういう点から考えますと、写真というのは非常にありがたくて忘れている記憶を呼び戻してくれますね。

 

    こう思いながら工事中だった参道へと続く階段を上がっていくと売店があり、
    三峯独特の大小合計3つも鳥居がある 「三ッ鳥居」 がお出迎えしてくれます。

        (2012.8.23 AM8:30  早朝のすがすがしい三峯神社)


         (2011.6.10 初訪問時の霧に包まれてしまった三峯神社)



   三峯のご眷属(ごけんぞく)であるお犬様=オオカミ=大口真神、と言いますが、
   三ッ鳥居のそばにある狛犬ならぬ狛オオカミを撮影。独特なお姿です。  


   その独特な三ッ鳥居をくぐり、早朝のさわやかな参道をゆっくりと歩いてゆきます。



    途中遥拝所から妙法ヶ岳をご拝見し、そしてその山のお姿をカメラに収め、
    さらに奥へ進むと工事中だったため見苦しい小型ダンプとかも写っていますが、
    ここが日本武尊の銅像の上り口を示す碑です。


    まだ暑いなか階段をあがると日本武尊の銅像が、
                  この三峯神社の創始者だそうです。
    創建は西暦111年といいますから、かれこれ1900年も続いているのですね。




    日本武尊の像を拝見して神社へと行くべく参道へ戻り、
    しばし歩くと随神門(ずいしんもん)がお出迎えです。
    随神門につきましては、その⑩の榛名神社のブログでご紹介しましたね。


    たくさんの大きな木々で覆われている三峯神社境内地



    そしてやっと拝殿・本殿前に到着しました。
    階段を登れば美しい装飾で飾られた拝殿へと出ます。
         暑かったですがあと一歩です。


    急な階段を登れば左手にお手水が。




    三峯神社のご由緒板です。


    三峯神社拝殿です。色鮮やかな春日造りです。




    有栖川宮一品親王殿下の御染筆なる大額も撮影しました。



    拝殿から内部も恐れ多いことですが撮影させていただきました。
    白い半紙で作ったと思われる紙垂(しで)も、たくさんぶら下がっていますね。




    早朝なのでまだ参拝客もほとんどいなくて、
             静かでさわやかななか、ここにしばらくいました。

    樹齢800年のご神木の根元付近です。じかに手で触ることができます。


    そして樹齢800年の大きなご神木全体も撮影してみました。



    神社授与所で500円でお分けされていた、ミネラルウォータ「神乃山水」1L


    三峯の山奥で汲まれたというミネラルウォータを
        授与所で500円で求めることができたので、
      旅の疲れを癒すべく買い求めました。外箱入りの立派なものです。


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 それから榛名神社にしても三峯神社にしましても、日本の旧官幣大社といわれる歴史ある神社、あるいは都心のど真中にある明治神宮にしましても、たくさんの木々が植えられ明治神宮は新しいけれど、たいていは長い年月をかけて木々が育まれているのが特徴ですね。
 
 聞くところによりますと、現代の日本人が昔と比べて若い人から年寄りに至るまで切れやすい人間が増えた理由のひとつに、森林や木々が開発によって破壊され情緒がなくなったからだと言われてもいます。開発するにしても経済効率一辺倒でなしに、もっと緑豊かな都市にできないものかと私などつい思ってしまいます。


 現代の日本はドイツとかと比べてこういった規制が非常に甘く、無秩序に開発が行われている感があり、現在も政府はこれについては全くの野放しと言っていいほどですね。
 見苦しい電柱と電線も相も変わらず風向明媚な観光地にさえ林立しています。不景気の克服にお金の流通量を増やして、緑豊かな都市に徐々にでも変えられないものかと私などつい思ってしまいます。





  (すでに廃墟状態なギリシャのアテナのアクロポリス神殿2枚 : ウィキペディアより)


 この上の写真2枚を見ていただくと分かりますように、ギリシャのアテナ(アテナイ)にある有名なアクロポリス神殿、現在周囲は岩だらけの殺風景な姿をさらしており、すでに木々もなにもありません。

 あれだけ芸術を愛し文化が発展していたギリシャの人たちが、今のようなあんな殺風景なところに神殿など造るはずもなく、神殿の創建当時は緑豊かなブナの森が神殿の周囲に覆い茂っていて、その中にこの荘厳な神殿があったらしいです。

 でもそれって、日本の神社の形態と全くそっくりですよね!



 そしてどうやらこの神殿、ウィキペディアによると最初は日本の神社と同じように木で造られていたそうです。しかし後にペルシャに攻められてすべてが灰になったとかで、再建するときには石造りになったんだとか。


   (いっぱいブナ林が原生している白神山地 : 2004.8撮影 ウィキペディアより)


    そう、ブナ林といえば私はまだ行ったことがないのですが、
    日本では秋田県から青森県にまたがる白神山地が有名ですね。

     (白神山地のブナ林の美しい紅葉 : 2008.10撮影 ウィキペディアより)



 で、それでは大昔のギリシャ、
 その豊かだったブナの森の覆い茂ったギリシャの森やら国土は
        どうなったのか?


 これはなかなか分からなかったんですが、ネットを徘徊してやっと見つけたのが、当時勢力拡大中のローマ帝国が豊かな森林があるギリシャに目をつけて、新たな森林資源獲得のために攻めていったとか。そういえばあの有名なトロイの木馬も巨大な木製の馬でしたね。

 そして現代の兵器なら金属主体のものばかりですが、この時代は馬車にしても槍にしても弓にしても船にしても、とにかく木製品が多用されていたため豊かな森を手に入れることが戦争に勝つ早道の一つだったようです。




  (あまりにもたくさんのレンガを積み上げたローマのコロッセウム : ウィキペディア)


 今となっては有名なことですが、
 ローマ人はとにかく風呂好きでもあったので、電気とガスがないあの当時、公衆浴場の維持にたくさんの木々を伐採して風呂の燃料にどんどん使ったんだとか。

 さらには巨大な建造物もレンガを積み上げてどんどん造っていったので、そのレンガを焼くにも薪がいるわけです。これではいくら植林をしても追っかないはずですよね。


 元々地中海沿岸も大昔は緑豊かな土地だったそうですが、周囲の国たちが侵略戦争ばかりに明け暮れ、最後にはローマ人たちが風呂の燃料やら武器やら建造物のレンガを焼くためにたくさんの木々を伐採し使った結果、地中海沿岸から緑はなくなり荒地ばかりになって、結局ギリシャもローマもエジプトも偉大な国家が歴史から亡くなりました。


              (キプロスの森 : フリーサイトより転載)


 でも日本では三峯神社にしても、もっと古い伊勢神宮や三輪大社や出雲大社にしても、日本が島国だったせいもありますが、蒸気機関が発達したり飛行機ができるまでは、日本は外敵からあまり攻められることもなく、しかも古来の日本人は森林や神社仏閣を大事にする人が多かったおかげなのか、2000年以上に渡り古来からの伝統が今もなお引き継がれていますね。


   (2000年?以上の歴史を誇る出雲大社の本殿と背後の木々たち : 筆者撮影)



 一時はあれだけ発展したギリシャ文明もデルフォイとかに代表される古来のギリシャ信仰も、現代までは残らずに途絶えてしまったが、何千年もずーっと森に守られながら神社やお寺が続いている、日本という国は本当に素晴らしいです。

 同時期か日本の神社より少し古い時期に建てられたギリシャの多神教をお祭りしていたであろうと思われる神殿アクロポリスは、もうすでに過去のものとなり現在は残骸だけが残った廃墟だけれども、日本の神社は、伊勢の式年遷宮に代表されるように今なお生きています。



  …… 三峯神社など森が豊かな神社を参拝するたびに、いつもこのことが私の頭に思い浮かび感慨深いものがありますね。


   ---------------------------------


    こうして三峯神社参詣を終え、ここを離れて元来た道をそのまま戻り
    例のやっかいなダム道とトンネル分岐のある信号機の手前まで来ました。


 
この後はこの旅行前からご連絡していました、山梨県にご在宅のあかねさんとのプチオフが予定されていたので国道140号線の大滝三差路まで戻り、雁坂トンネル方面へと車を走らせていました。
 
途中であかねさんからご連絡をいただき、車内で甲府市内の詳細な地図を見ながら待ち合わせ場所を決定。そして、昨年ここへ初訪問時には撮り損ねていました甲府市からの道中写真をDP1xで撮影すべく、途中下車しながら撮影。

 その雁坂トンネルを含む山梨県甲府市へ抜ける国道140号線の道中写真ほかは、
        昨年のブログに大幅に写真を追加して書き換えました。
        その道中写真を含む、昨年初めて訪問した三峯神社のブログはこちらです。
   → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/27576935/


   結局道中写真を撮影していたこともあり、
   11時すぎにやっと甲府市の待ち合わせ場所に到着しました。


   これで「夏の旅行/その⑫ 早朝の三峯神社参詣」 は終了しました
   次回はいよいよ最後の、その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く (兼:甲府プチオフ)です
                            その⑬へとつづきます


↓の関連情報URLには、三峯神社の公式ホームページを掲載しました。
Posted at 2012/09/26 00:52:43 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2012年 夏旅行/富士登山ほか | 旅行/地域
2012年09月23日 イイね!

2012年 夏の旅行/その⑪ 道の駅はなぞのプチオフ & 秩父鉄道三峰口駅訪問

2012年 夏の旅行/その⑪ 道の駅はなぞのプチオフ & 秩父鉄道三峰口駅訪問2012.8.22(水)、この日もとてもハードな1日でした。

 といっても富士登山ほどではなかったですが、
 まだ真っ暗な朝4:00ごろ、山中湖の親水公園での車中泊から起床してみると、全身中筋肉張りまくりになっていてヒリヒリしていましたよ。

 それでも早朝5:00からの山中湖の赤富士撮影をし、富士五湖をめぐって甲府から清里、野辺山、草津白根山、そして榛名山へと1日中車を走らせていました。そして今日の最後の訪問予定地の榛名富士と榛名神社の散策を終えると、もうすでに夕方16:00となっていました。


 さて、前のブログでも触れましたが、ここでとうとうデジカメの3本用意していたリチウムイオン電池がすべて空になり、しかも記録用SDカードも残り10枚ほどしか空きスペースがない状態で、とにかく榛名山から一番近い街である群馬県の高崎市に出ることにしました。

 高崎市ぐらいの規模の街ならなんとかなるであろう~との甘い期待を寄せてカーナビで検索すると、私がコンデジを購入した某カメラチェーンのお店が見つかりました。

 よって夕方の渋滞になるまでにすぐさまお店へ直行です。
 途中いくばくかの渋滞があったものの、17時すぎぐらいに無事カメラ屋へ到着しました。土地勘の全くないところでのこのような検索と道案内はさすがカーナビです。大いに助かりました。


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 なんとかたどり着いたその某カメラ店にて16GBのSDカードを購入すると同時に、ダメ元で他社の充電器にシグマのDP1x用のバッテリーを充電させてみました。
 

 そしてそのコンデジの電池の充電中は車内の荷物の整理などをしていましたが、そうこうしているとあらかじめプチオフの設定をお願いしていましたRIKO☆さんからメッセージが届き、

     予定の19:30ごろ、埼玉県深谷市内にある「道の駅はなぞの」に来れますか? 

                                とのことでしたので、
なんとかぎりぎりぐらいに到着できますと返事し、カメラの電池は満充電まではならなかったけれど、1時間ほど充電してなんとか使える状態になりました。
 これで今日のプチオフ会の写真と、明日の三峯参詣の写真が撮れるとやっと安堵。夕方18:00ごろお世話になった某カメラ店を発ちました。



 そしてこのことに痛く懲りて、帰宅後対策を考え↓のような物をカー用品店で後日購入しました。
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  (左側が車のシガーライターソケットからAC100Vにするインバーター,
                            右側がコンデジの充電器と電池)




 さて、群馬の高崎市から埼玉の深谷市にいくにはどう行けばよいのか、電池の充電中に埼玉県道路地図を眺めながら考えていましたが、
 やはり土地勘のないところのうえ暗くなってくるので高速を使うに限るということで、ちょうど都合よく国道17号線を少し走れば関越道の前橋インターが近くにあるので、ここから花園インターまで高速に乗って、目的地の「道の駅はなぞの」までいくことにしました。

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                (関越道上り線の藤岡ジャンクション)


 関越道の花園インターを降りると陽が落ちてお空は真っ黒になっていましたが、国道140号線を西に少し走ると「道の駅はなぞの」に19:30ちょうどごろに到着しました。

 ところで最初、「道の駅はなぞの」という名称ですが、「道の駅はナゾ」 というふうに捉えちゃって、プチオフ直前まで集合場所は謎なのか? …とバカなことを恥ずかしながら 「はなぞの」 という地名になじみのない私はそう思っていました。

 まあ調べれば分かることですがそんなはずはないですよね。


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 ここでしばらく休んでいますと、最初にRIKO☆さんが、その次に2度お会いしていました角*鹿RSさんと依身コンテさん&たかトシさん夫妻がわざわざ来てくださいまして、平日の何もない夜のうえ急なお誘いでしたのに総勢4台、5人の集合と相成りました。

 この夜のプチオフの詳しい模様は、オフ直後にすでにRIKO☆さんがとても素敵なブログをアップしてくださっていますので、詳しくはこちら
    RIKO☆さんのブログ  https://minkara.carview.co.jp/userid/657792/blog/27528790/
を見ていただくといたしまして、私はちょうど1ヵ月後のアップでプチオフご参加の皆様たいへん遅くなりましてすみません。


ここから以下はうまく撮れなかったけど、記念に私が撮影した写真を貼り付けておきます
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   左から順に、車内が青く光っているのが依身コンテ号さん
                         その次がリコンテ号さん
                    さらにその次が角*鹿RS号さん
               最後にわたくしカクシカおじさん号です


    斜め横から撮影
      私の使用カメラのモニターの画素が荒いためなのか(26万画素)、
      路面に草が生えていたのには全く気が付きませんでした
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           真横から撮影
             純正(これ私)タービンホイールから様々なホイール
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    今度はフロントの斜め前より撮影
      駐車場を照らしている電燈は、オレンジ色のナトリウム灯のようでした
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           後姿を撮影
             白コンテ2台はバックドアにカクシカシールを貼っていました
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    最後に前照灯を点灯して前から撮影した写真です
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 そしてこのプチオフ、話題が尽きずえんえんと続きまして確か夜中0時近くまでしていたと思います。でも来てくださった皆様はもちろん明日もお仕事なので、夜中にお開きとなりまして皆様帰途に就かれました。

 参加者をわざわざ募ってくださったり夜中遅くまでお付き合いくださり、さらにはお土産までいただきましたRIKO☆さんをはじめ、昨年広島の福山市の鞆の浦(とものうら)オフまで来られました角*鹿RSおにいさん、そしてたかトシさん依身さんご夫妻、ご参加くださいましてどうもありがとうございました。

 
 そして私はといいますと、山梨へ抜ける道をいくつか教えていただきましたが、結局翌朝三峯(みつみね)神社に寄ることにしたので、こんな真夜中の時間なら国道もガラ空きだし国道140号線を雁坂(かりさか)トンネル方面へ行くことにしました。


 
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 で、真夜中にガラ空きの国道140号を山梨県方面へと行くべく西へ向かって運転していたけど、今朝は朝4:00すぎの起床でさらに1日中運転していたこともあり、やはりといいますか当然ですが睡魔に襲われて運転も危険なため、今宵はとうとう力尽きて秩父に入ったところでもうダウン。

 車の運転はもちろん断念し、ちょうど国道沿いにあった「道の駅ちちぶ」で休むことにしました。
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           (道の駅ちちぶ : 2010.8撮影 ウィキペディアより)


 そして道の駅ちちぶの200mぐらい先にセルフスタンドがあったので、ここでまたガソリンを給油口まで超満タンにしてエアコンをかけたままもう熟睡しました。レシートを改めて見ると01:18となっていました。

 何時間熟睡したでしょうか、お外はとうに明るくなっていた朝6:30ごろに目が覚めました。明るくなっても全く気づかないほど熟睡していたようです。

 そしてまたすぐそばのセルフスタンドでカソリンを給油口まで超満タンにしました。残されたレシートを改めてみれば、ガソリンはちょうどぴったりの3.00Lで給油時間は6:55となっていました。
 よってちょうど5時間30分ほどでガソリン3L、計算すると夏場のエアコンON状態では24時間でおおよそ13Lちょいぐらいガソリンを使用するようです。


 今年2012年の1月末に-15~-20℃ぐらいになる極寒の山中湖で我がコンテRS号、アイドリング状態でガソリンがどれだけ消費するか調べましたが (その時の結果はこちらのブログに掲載) しましたが、冬場は燃調が濃い目になることを考慮しますとこの結果とほぼ同一のように考えていいようです。
 

    そして目が完全に覚めたところで支度を済ませて三峯方面へ出発
    ほどなく秩父山?が見えたので写真を1枚撮りました
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    早朝の空いている国道140号線を三峯方面へ
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 彩甲斐街道(さいかいかいどう)の愛称がつけられた国道140号線も、秩父の奥地まで来ますと秩父鉄道三峰口駅へと入る白川橋があり、関西から秩父へは簡単には来れないのでまた鉄の血が騒いで寄り道です。


      踏切から三峰口駅構内を撮影
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             反対の行き止まり部分を撮影
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      三峰口駅前には和風な建物の商店も
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      関東の駅百選にも選ばれている三峰口駅舎
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             秩父鉄道線の運賃表です
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   三峰口駅を見ていると、二昔前の国鉄の地方駅といった風情がまだ残っていますね
   ホームの上屋根もきれいな若草色に塗られているものの麗しい木造りですよ



       そうしながら駅舎内にいると 「ピーー」 という笛の音が
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   慌ててカメラで撮影しました。1番ホームの列車のドアが閉まりかけています。
   カメラの内蔵時計より撮影時間は7:24 50秒ぐらいでした。


       電車のドアが完全に閉まりました
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       平日ダイヤの7:25ジャスト 00秒発の 
       上り 1518列車 羽生(はにゅう)行が発車します
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       1番ホームを電車が加速しながら駆け抜けていきます
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       最後尾がホームを抜けて行きました
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  後日ですが、手持ちのレイルマガジン2012年 7月号の付録を見ると、
     JR貨物列車の機関車運用表とかが載っていますが、
  この中に業務用で使われるような秩父鉄道の2分目ダイヤフラムが掲載されていまして、
     それで確認すると平日ダイヤの7:25分 00秒発の1518列車だったです。
     前日にこの駅で停泊し、朝出庫した運用のようです。

  また、今発車した車両は「7703」とか車体に書いてありましたので、
     このブログを書くにあたって調べてみますと、
  元東急電鉄の8090系電車を譲り受けたものでした。ここでは2M1Tの3両編成ですね。
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   (元東急の秩父鉄道7500系電車 : 2011.5.31撮影・ウィキペディアより)




    それから1番線から上り列車が発車したあと、駅周辺を見回してみました
    そうするとここ三峰口の駅構内に鉄道公園が併設されているようです
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    展示されている過去頑張って働いてきた車両たちを道路から撮影
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 あいにく鉄道公園は朝9:00~夕方16:00までの開園ということでしたが、
 この後は三峯神社に参詣したあと、さらに山梨でプチオフの予定も入っていて、その後は帰宅の途につくのでもう余分に時間が取れなくて、ここの鉄道公園の散策はまたいつかこちらへ来たときに寄ることにしました。



          【2023年 6月 追記】
 先日ご指摘を頂きましたが、残念ながらすでにこちらの鉄道公園の旧車たちは、数年前に撤去されたようです。もうこの記事はすでに過去の物となってしまいました。

 現在ご訪問されましても、こちらに写真掲載されております車両たちは見られないとの事ですので、ご注意願います。




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   これで「その⑪ 道の駅はなぞのプチオフ & 秩父鉄道三峰口駅訪問」は終了です。
   次のブログは、三峯の語源となった三つの峯が鮮やかに見ることができた
            昨年に引き続き再び訪れた「その⑫ 早朝の三峯神社参詣」編です。
                                 その⑫へと続きます。

Posted at 2012/09/23 23:25:40 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2012年 夏旅行/富士登山ほか | 旅行/地域
2012年09月23日 イイね!

2012年 夏の旅行/その⑩ 榛名湖・榛名富士訪問と榛名神社を訪ねる

2012年 夏の旅行/その⑩ 榛名湖・榛名富士訪問と榛名神社を訪ねる
 神秘的なエメラルドグリーン色をした美しい草津白根山の湯釜をこの目で見たあと、今度は関東のパワースポットで有名な榛名山・榛名(はるな)神社へと向かいました。

 榛名山・榛名神社なら夕方に予定されている花園でのプチオフ会場にも近く、群馬の草津からもそう遠くないのでゆっくりと散策できるであろうと思われたからです。




       《 プロローグ 》
 草津道路をもと来た通りに戻っていきます。その途中で66666kmにもなりました(前のブログより)。まだラッキー7ではなかったけれど記念にオドメーターの写真も撮りました。

 それから以前大騒ぎした、巨大な橋脚が突っ立っていたのが見えた八ツ場ダム予定地の北を走る国道145号線の新しいバイパスを走って郷原(ごうはら)まで出まして、
 JR吾妻線(あがつません)の郷原駅前の信号を右折、群馬県道28号線に入って何もない山の中を榛名山へ向かって走っていきました。ガス欠などしたら途方に暮れそうなところをひたすら南へと下っていきます。

 そうこうしながらようやく上毛三山のひとつ、榛名山の中にある榛名湖に到着です。




 実は昨年2011年 6月 10日、ETC休日割引上限1000円制度の終了間際にこの榛名の地を訪れたのですが、私がみんカラをする直前でブログを作るなど思いもよらなかったので榛名神社の参道写真は一切撮っておらず、しかも撮影したカメラはガラパゴス携帯のため神社の本殿写真は露出オーバーで最悪写真でした。

 よって前回の榛名神社参拝のブログは露出オーバーの写真掲載(先日、写真は差し替えました)とともに文面も簡潔に書きました。



 今回また再びこの榛名の地を訪れるのにあたって、今回は詳細にブログにしようと思い写真もたくさん撮るつもりでしたが、実はデジカメのために3本も用意していた専用電池ですが、

 新東名 → 富士浅間大社 → 富士山スカイライン → 富士登山 → 御来光・お鉢巡り → 赤富士と富士五湖 → 清里・野辺山 → 白根山と順に訪問撮影し、撮影した写真はすでに1000枚近くに達していて、予備を含む電池はすべて電池切れ寸前状態、記録用の16GBのSDカードもあと40枚程度しか撮影できない状態でした。


 仕方ないので残念ながらここでの写真撮影は最低限に抑え、ここを降りて高崎の街中に出てから、電池は無理やり他社の充電器で充電し、ついでにSDカードも合わせて調達することにしました。


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   それでは先に訪問した榛名富士と榛名湖からご紹介していきます。


              (榛名へ到着直後、対岸から見た榛名富士)



今回は伊香保側から登らず、時間もあまりないためメロディーラインも通らず、
   榛名富士の頂上にも上がらず、
   代わりにお天気は絶好だったのでローボートを借りて榛名湖へ繰り出し、
   ホードで榛名湖から榛名富士へちょっとでも近づいてから写真を撮ることにしました。



ここへの到着が遅れ、あまり時間が取れないので30分だけボートを借りました
もっと時間があればペダルボートを1時間ぐらい借りて、もっとじっくり榛名富士を眺めたのですが



      (ボートの上から撮影した榛名富士の一枚 : 2012.8.22筆者撮影)

    次ここに来たときにはたっぷりと時間を取って、
    ゆっくりとボートで榛名湖に繰り出すか遊覧船にでも乗り、
        そのあとロープウェイで山頂へぜひ行くつもりです。


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    続いて群馬の一の宮でもある榛名神社へと行きました。

    (群馬県道33号線から榛名神社へ入る道路看板 : 2012.8.22筆者撮影)


(今年2012年1月頃、大雪に覆われた神社入口への上り坂:榛名神社ホームページより)



 前回の榛名神社のブログは写真が少なくあっさりとしたものだったので、代わりに戦艦榛名のお話を取り上げました。このお話の元はこの榛名神社の宮司さんがよくおっしゃられていたそうです。榛名神社のホームページにも確か取り上げられていましたね。


で今回は、前回のブログではご紹介できなかった、榛名神社の長い参道を含めて山深い中にある神社の様子を順にご案内していきます。そして冒頭でも書いていますように撮影カメラのピンチだった中でも、なんとか最小限の写真だけは無事撮ることができました。
 


       


 まず榛名神社の入口にあたるところにはもちろん「榛名神社」と彫られた碑と鳥居があります
 その横にはご由緒板と神社の境内案内板がありました




     そして榛名神社の随神門をくぐります


 随神門(ずいしんもん/ずいじんもん)、これどういう意味なのか調べてみました。
 まず「ずいしん(随身)」とは、「平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことである(ウィキペディア)」…だそうです。
 


それが転じて、どうやら神社の入口に立ち神様とご神域をお守りする像を安置した門のことを差すようになったようです。よく神社の入口で見かける狛犬と同じような役目でしょうか。

そういえばここのご近所の三峯神社は狛犬(ここは狛オオカミだが)と随神門の両方が、戸隠の奥社にも随神門がありましたね。

           (三峯神社の随神門 : 2012.8.23 筆者撮影)


         (戸隠神社・奥社 冬の随神門 : 2012.1.28 筆者撮影)





   随神門をくぐったあと榛名神社独特の長い参道がありますね。
     本殿まで550m 15分って書いてありました。

   もちろんこういうところはせかせかと歩かず、
     非常にゆっくりと、ここの自然を満喫しながら静かにゆっくりと歩いてゆきます。



          (榛名神社の山奥深い参道 : 2012.8.22 筆者撮影)




 榛名神社、ここは神社なのですが参道の途中には七福神の像があったり、参道自体も神社と言うよりはどちらかと言えば高野山ではないですが山奥の大きなお寺へ行っている、という感じのするところです。

 これは私だけ感じるのかもしれませんが、ふつう神社は玉砂利のところも多いのだけれども、ここ榛名神社はどうやら石畳の参道が続いていくのがお寺のように感じるのかもしれません。確か浅草浅草寺も石畳の参道でしたね。


       



             (2014.7.28 早朝の伊勢神宮 内宮より3枚)

 そして江戸時代までの神仏習合の名残があるとはいえ、だだっ広っくて平坦な伊勢神宮の内宮とかとは違い、山奥深い大自然の中にひっそりとたたずんでいる、という印象を受けました。





 ちなみに山梨県の富士吉田市内ある北口本宮浅間大社も富士山のふもとにそびえ立っていて、
周囲にたくさんの木が生い茂っているのでここと同じような雰囲気ですね。

   (富士吉田市にある北口本宮浅間大社の参道 : 2011.9.15夕刻 筆者撮影)

ちなみにこの写真は日没直前のもので、しかもこの写真は初のコンデジ購入直後でカメラや撮影の知識もほぼなくて、感度を上げずにISO100のままで撮影したのをソフトで大修正して掲載。よってあまり綺麗な写真でなくて残念です。




 そしてすでにこのとき、私の所持している唯一のDP1xカメラが電池切れ寸前となり、しかも記録用SDカードがほぼ満杯だったため、七福神とか三重塔とかを撮影する余裕はなくて断念しました。関西からここまでは簡単に来れないので、本当はもっと榛名神社の参道のお写真をたくさん撮影したかったです。

 しかも昨年ここを初めて訪問したときに、岩に食い込んでいる形の本殿がどうしてもガラパゴス携帯ではうまく撮れなかったため、遠方から来ていることもあって今回はこれを何枚か撮影する分だけは残さざろう得ず、残念ながら最低限の写真しか掲載できなかったですね。

 じつは参道の写真も、本殿の撮影を無事終えてから帰りがけに撮影したのが何枚かありました。




    そしてここら辺りが源流?らしい榛名川を参道からのぞいて見ました



 それから長い参道を超スローペースで歩いてやっとお手水舎へと着きました。
 そういえば、昨年の9月に行った長野県の最奥の戸隠神社の中社のお手水も湧き水らしく、周囲には全く民家もないこともあり、あまりにもおいしかったのと「飲めます」と書いてありましたので、ついごくごくーっと飲んじゃったことも思い出しました。
 
           (榛名の湧き水らしい、柱が朱色に塗られたお手水舎)




    そう思いながらお手水で手と口を洗い振り返ると、大きな木と急な階段が
  
    この急な階段を登り神門をくぐると、社務所がありいよいよ本殿も見えてきて、

    そしてもう一回急な階段が。

  残念ながらこの双龍門、少しピントずれしている写真となっちいましたが、
  ここの写真は前途の理由からこれ1枚しか撮影しておらず、やもうえずこれを掲載です

  その双龍門の階段を登りきり門をくぐると
        いよいよ榛名神社のご本殿(拝殿)とご対面します。




   この本殿の上を見上げるとなんとも大きな岩が、
        この岩、御姿岩(みすがたいわ)というのだそうです



    榛名神社独特ともいえる本殿の姿を横からも撮影してみました




    その御姿岩(本社)と拝殿と、その二つをつないでいるのが幣殿です
    あまりにも本殿(御姿岩)が大きすぎて、
         広角カメラでもかなり後に引き下がってやっと撮影できました。


この御姿岩、よく見ますとちょうど人の頭と胴体にそっくり。
またおなかに相当する部分はくりぬかれていまして、そこに神社の建物が食い込んでいるという、なんともなんとも摩訶不思議な形をした岩ですね。

 こんな不思議な形をした岩が存在すること自体、すごいといわざろう得ないです。





     不思議な形の岩と言えばまず浮かぶのが、
     中国の雲南省 昆明(こんめい)にある石林(せきりん)も有名ですね。

    (中国・昆明にある石林の岩々 : 2005.1.29撮影 ウィキペディアより)




    ちなみに榛名神社のご神体はもちろん岩の中といいますか、
    御姿岩のくりぬかれている内部にあるそうですよ。

    拝殿から失礼ながら内部を撮影させていただきました


    また向かって左手には国祖社もあります


    そして各建造物の来歴を掲示した説明板が神門の先にありました

       (双龍門の手前に掲示されている本殿ほかの説明案内図)



    境内には杉?の大木も



 今回のブログは悪条件が重なり他の物も含めて25枚の写真しかアップてきませんでした。
     もう少し参道写真が欲しかったですね。
     でも本殿付近の写真は無事撮影できたので良かったのでしょうか。



   それからここを発ち、
   カーナビで高崎市内のカメラ屋を検索。街中にとあるカメラチェーン店があるのを発見。

   道中給油してガソリンを満タンにし、
   それからカメラチェーン店へと行きましてサンディスクのSDカード16GBを購入。
       これで撮影容量の問題は解決しました。


   いちばんの問題だったコンデジの空電池は、
       ダメもとで無理やり他社の充電器に差し込んで充電すること小一時間弱。
       満充電にこそならなかったがなんとか使えるレベルにはなりました。


   ---------------------------------


    これで、「その⑩ 榛名山訪問と榛名神社を訪ねる」は終了です。

    この次のブログは、このあと行われた「道の駅はなぞの」コンテプチオフと、
    その翌日三峯神社へ向かう途中に訪ねた
       秩父鉄道のいちばん奥地の駅「三峯口駅」の様子を簡単にお届いたします。
                              その⑪へと続きます。
 


関連情報URLには、榛名山周辺の情報を紹介している「はるなビ」をご案内しています。
Posted at 2012/09/23 02:14:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012年 夏旅行/富士登山ほか | 旅行/地域
2012年09月20日 イイね!

2012年 夏の旅行/その⑨ エメラルドグリーンの火口をした草津白根山を訪ねる

2012年 夏の旅行/その⑨ エメラルドグリーンの火口をした草津白根山を訪ねる
 2012(H24)年 8月 22日(水)早朝5:00過ぎに山中湖の親水公園にて、雲ひとつなかった夜明けの中、素晴らしかった赤富士を堪能しました。
 
 その後富士五湖付近を出て、群馬草津へ行く道中にあたる清里や野辺山やらで途中下車ばかりしながら、ここ群馬県草津町にある白根山(しらねやま)までやってきました。


 道中寄り道ばかりしたので、
    ほぼ下道をたっぷり6時間ほどかけた長~いドライブとなっちゃいました。




       《 プロローグ 》
 ここ草津白根山へ来た目的はずばり、最初のタイトル写真に掲載してありますとおり火山の火口(火山湖)に溜まった水もしくは湯が神秘的なエメラルドグリーン色に染まった姿を見るためでした。

本当は2012年 6月 9日に開催されたコンテの塩尻・小坂田オフの直前にもここを訪れまして湯釜を見学するつもりでしたが、残念ながら訪れてみたもののこの日はあいにくの雨模様で、もやがすごくて見学は無理とのことだったのでこのときは断念し、甲信越に来たついでに再度のリベンジです。



 ちょうど今から2年前、ETC休日上限1000円政策が行われていた頃、九州熊本県にある阿蘇山へと行ったことがあり、阿蘇山の中の中岳の第一火口を間近に見たことがあります。後日作成した当時のブログに、簡単な写真とともにこの中岳火口の美しいエメラルドグリーン色した「湯だまり」の写真を掲載しました(下部に再掲載)。

 ちなみにこの火口の湯だまりがエメラルドグリーンに染まっているところは、世界でも数えるほど?しかないらしく、日本国内で私の知る限りでは噴火前の霧島の新燃岳、白山 翠ヶ池あたり、最も有名らしい阿蘇の中岳と蔵王の御釜、そしてこの白根山の湯釜のようです。


   ------------------------------------


ではこれから草津白根山の湯釜散策を順にご紹介していきます。

まず、このような曲がりくねった元有料だった志賀草津道路をひたすら上がっていきます


           白根山付近に近づくと1882年の噴火のせいか地肌丸出しの山になります
       


    やっと到着です。車に酔われる方にはつらい道中かもしれません




    さっそく駐車場(有料)に停めて、まず資料館へ行きました


       


    現在(2012年)はどうやら昔とは違い湯釜の直下までは行けず、
    いちばん遠い西展望台からしか湯釜は見れないようです

  私が過去に行った阿蘇山中岳は湯だまり直下まで行けたのでとても残念ですが、
  こればかりは仕方ないですね。



    しかもおとといと昨日に渡り富士登山をしてきて、
    今日はもう朝から全身中筋肉痛でヒリヒリするなか、
    コンクリートで固められていて足場は良いとはいえ、またもや登山道出現です。
 

       





  張りまくりの筋肉痛のなか、しかも暑いなか登山道をもうゆっくりと登っていきますと、
  車を停めた駐車場が眼下に見えました
  なんにもない平日で、しかも猛暑なのにたくさんのお車が停まっています


    日本国道最高地点の渋峠へと向かう志賀草津道路も良く見えました



           登山道の途中から周囲を見渡してみました
           さすがに大好きな戸隠までは見えなかった?ようです
       

    コンクリート舗装の登山道は終了し、平坦になって土丸出しに




    ようやく火口展望台へ到着です





この撮影当時、望遠カメラなどはまだ一切所持しておらず、
唯一所持している広角DP1xのカメラでは、展望台先端からでもこの大きさしか撮れません。

ちなみに湯釜の直径は約300m、水深約30m、水温はおおよそ18℃前後だそうです



    よって上の写真から湯釜部分のみトリミングで大幅拡大
    画素が3倍密になった新型DP1メリルなら申し分ない画質になったかも?


       
             (ちなみにこちらの写真はウィキペディアより : 2009.7.25撮影)






 ちょうど今から2年前、ETC休日上限1000円政策が行われていた頃、九州熊本県にある阿蘇山へと行ったことがあり、阿蘇山の中の中岳の第一火口を間近に見たことがあります。後日作成した当時のブログに、簡単な写真とともにこの中岳火口の美しいエメラルドグリーン色した「湯だまり」の写真を掲載しました。

  ちなみに2010年の9月に行った
  阿蘇山中岳第一火口では、このようなパトライトを設置し火口直下までいけました。
                         当時のブログはこちらです           




    (阿蘇山中岳の湯だまり : 2010.9.18筆者のガラパゴス携帯にて撮影)


 ちなみにこの美しく染まったエメラルドグリーン色ですが、これは二価の鉄イオンのせいだそうで(関連情報URL)、阿蘇の湯だまりにしても白根山の湯釜にしても温泉といっても実はpH1以下の強酸性なので、普通の金属ではすぐに溶けてしまいますね。







この我が人生初の富士登山と、その後の余り時間を使った小旅行からほぼ2年後の2014年、
宮城蔵王の刈田嶺にある美しい蔵王の御釜のお姿を初めて拝見することが出来ました。

こちらも訪問当時には御釜の直上まで行けましたが、山脈の中なのでなかなか天候に恵まれなくて、3度目の訪問でやっとエメラルドグリーンに輝く美しい御釜を撮影できました。


       



          (2014.9.22 宮城県側にある蔵王のお釜=御釜)

 
   ------------------------------------


 白根山の湯釜を見たあと、すぐ近くにある
 国道292号線の草津道路をはさんで反対側にある弓池にも行ってみました。


       




    池の近撮です






    池のそばにいたカモたちは、人に馴れているのか全く怖がる様子もなかったので、
    間近くまで寄って撮影してみました。


   ------------------------------------


  このあとここを発ち、ここからそんなに遠くない榛名山へと車のハンドルを向けました。


  その道中にて我がコンテ号くん、草津道路の起点近くの洞口付近で
        6 6 6 6 6 km になりまして、記念にメーター写真を撮影。



  次回のブログは「2012年 夏の旅行・その⑨ 榛名山訪問と榛名神社を訪ねる」です。
                                   その⑩へと続く
   
Posted at 2012/09/20 23:36:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012年 夏旅行/富士登山ほか | 旅行/地域

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当然、新品のストレーナ・マグネット・ガスケットへと交換。」
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