二週連続 となった、週末の
京都行、
本日 攻略する
ターゲットは、
二拠点
・16世紀~19世紀作品 選抜
『ルーヴル美術館展 愛を描く』開催中・【京都市美術館】
・享保元年 創業 伝統と格式の『京料理/懐石料理』・【京懐石 美濃吉 本店 竹茂楼】
先週 も出かけた、
美也古、京
“2023 WK25 京都 - CAFÉ SEVEN ~ Alfa Romeo ...”(フォトアルバム)ダイレクトリンク
月も、
文月 と改まった、
朔日、
マルナナマルヒト(
2023年
07月
01日)
本日も、
ココでないと、会敵できないウルトラ強力な目標 に立ち向かうため
早朝、
マルロクヒトマル(
06:
10) より、
本拠基地自宅 から、篠突く雨の中
出撃
“第壱目的地、及び、攻略目標”
岡崎公園 内・
【京都市美術館】(ネーミングライツにより、現・京都市京セラ美術館)
4日前、
マルロクフタナナ(
2023年
06月
27日)
開幕
『ルーヴル美術館展 愛を描く』
鑑賞
この展覧会、去る
3月から、先日の
6月
12日まで、
【国立新美術館】

🄫
での開催
日テレ公式・『ルーヴル美術館展 愛を描く』みどころ映像公開!ダイレクトリンク
ソレ観に、
六本木 まで行ッタロか、とも考えてた
が、東京
閉幕後、
向こうの方から、
京都へと巡回 してきた

(2023年2月訪問時 本官小生による撮影)
ヤッタぜぃ!
展覧会テーマ・タイトル、
『愛を描く』
サブテーマ・タイトル、
『ルーブルには愛がある』・『ルーブルが誇る 珠玉の “愛” の絵画が 一堂に』

Ⓒ
趣旨(公式HPより一部引用抜粋);-
「西洋社会における様々な愛の概念が絵画芸術にどのように描出されてきたのか、ルーヴル美術館の膨大なコレクションから
精選された 73 点の絵画 を通し浮き彫りにする。
16世紀から19世紀半ば まで、
西洋 各国の主要画家の
名画 によって
愛の表現の諸相をひもとく、かつてない趣向 の展覧会」
(
太字 - 本官小生による)
読売テレビ・ルーヴル美術館展 愛を描く(PRスポット)ダイレクトリンク
マルキュウマルマル(
09:
00)、
岡崎公園 内、
【京都市美術館】 前、
現着
マルキュウサンマル(
09:
30)、
平安神宮 前から
岡崎公園駐車場 へと

(我が愛機、
O-LINE、トナラーを恐れ、
2機ロット設定の先着、知らんヒトの "
P" ヨコに、トナリングする、の図)
歩い てスグの、
【京都市美術館】 に 向かい
近づくにつれ
おわ!
あかん、
もー、行列、出来始めてるやん
ヒトマルマルマル(
10:
00)、
【京都市美術館】 開館時間 をもって、
突撃!
例によって、
展示作品 撮影不可!
なので、公式HPより、以下、数点を紹介する

Ⓒ
いやぁー、スバラしい(かった)!
Paris(“花の都”、パリ) には何度も行ったことはアル
でも、シャルル・ドゴール空港内ダケの、ただの乗り換えトランジット
長年 のソコへの訪問が
念願 だった、
"LOUVRE"
テーマに沿ったソノ収蔵作品群の一端とは言え、
直に触れる(直接に鑑賞するコト。モチ、作品にゃ触っちゃいナイ)コト、ようやく
叶った!
ホント、
感動、感激した!!
おかげで、帰りがけの、ミュージアムショップで
買っちまったゼイ
二時間近く にも及ぼうかといふ、
美術館滞在を終えた ら
もう、
お昼ごはんの時間
時季は今、そろそろ
鮎 を
食したくなる季節
そうだ!
お昼は、ちょいとばかし贅沢だが、
焼物 が
鮎 の
懐石 にしよう
“第弐目的地、及び、攻略目標”
岡崎公園の南
粟田口(「あわたぐち」と読む)・
【京懐石 美濃吉 本店 竹茂楼】

Ⓒ
に
行こ
上官殿 を、ココで、一旦ドロップ
今回は、大元帥にして我が
京都大本営部 司令長官・母上殿もご一緒の昼食会
近くの、
蹴上・
【都ホテル】(ウェスティン都ホテル京都)まで、ご足労願っており、ココで会合しピック
再度、
【竹茂楼】 へと

(揮毫:明治期の当料亭顧客、貴族院議員(書家)、巌谷一六氏)
それにしても
【美濃吉】 と聞けば
本官小生の幼少期、昭和
40(
1970)年代、
“万博” の頃、同時期を、京や関西に暮らした者なら
思い出が、懐かしく蘇るだらうか
「みのきっつぁ~ん」
「へぇ~ え」
「きょーりょおりー、みのきちー」
そう、当時盛んに流れていた、
TVCMのセリフ、フレーズ
ニコ動 ダイレクトリンク

Ⓒ
このセリフにフレーズ、本官小生の耳に、
未だにごびりついて離れんわ
なんやねんコレ!
子供時分から思ってたわ
でも、ちゃんと
モトになったエピソード があったんデアル
享保元年(
1716年)、八代 吉宗治世下、
三条大橋 袂(
繩手三条)で、
創業 の
【美濃吉】

Ⓒ
激動の、
幕末 ~ 明治 期を乗り越え(「池田屋騒動」では、六代目当主が、維新の志士達を手助けしたらしい
自社弁 作りバナシではナイと思う、たぶん。 ま、ホントかどうかは知らんケド))
束の間の平和で、のびやかな次の時代、
明治末 ~ 大正 ~ 昭和初 期

Ⓒ(既にこの時代、夏場の、鴨川の床(ゆか)設置は常識に)

Ⓒ
モチ、当時は無線や電話、普及してないので
先斗町 の花街お茶屋、
おにゃのこ から、
鴨川 を挟んで、川向いへと、
ごはん注文 に発せられる、
大きな呼び声
「みのきっつぁ~ん」
ソレに応える、
【美濃吉】 従業員返答 第一声、同じく
大声 の
「へぇ~ え」

Ⓒ
このやり取り が、このコマーシャルの、セリフの
モチーフ らしい
(自社弁、 作りバナシではナイと思う、たぶん。 ま、ホントかどうかは知らんケド)
その次のエポックメイキング、
昭和の高度経済成長期
【美濃吉】も、この波に、乗りに乗って、
CM、バンバン流して(主に、"近畿放送" = 倒産により、現・"KBS 京都" のテレビ・ラジオがメインだったとオモ)、知名度アップを図っていた頃
九代目当主、突如、
チェーン店化 を指向し、
ロードサイド型和食ファミレスの走り とも云える
【民芸お食事処 美濃吉】 を展開、軌道に乗せると
十代目当主、さらに
先鋭化
亜米利加視察旅行後
「僕は洋食 パパ・ママは和食」
( 関西の皆さーん、思い出しましたぁ)を謳う
もー、
現在のファミレス業態原型 デアルと、本官小生判定により、言い切ってしまおう
【ジョイみのきち】

Ⓒ(なんと!、レコード化まで!!)
へと、発展的解消
※【ジョイみのきち】、その後、現在に至るも、
【和食NOWジョイ】

Ⓒ
として、京都市内、
2店舗を営業
当時ですら、
250年以上 の
“歴史を誇る京料理店” が、迷走
というか、
「京料理の大衆化」 と云ふ、
独自路線 に
走り出す
この辺り、バブル以降含む、苦しい時代も耐えて乗り越え、連綿と
伝統と格式 を保つが、その一方、お高く留まっていた(いる)
我ら一般大衆たる庶民には、手は届かないし、届けようとも思わない
老舗 ハイパーウルトラ高級料亭
創業来
400年の 【瓢亭】や、同、
160年の 【下鴨茶寮】、大正や昭和創業の新参 【菊乃井】・【岡崎つる家】・【吉兆 嵐山】など
とは、
一線を画する ところ
ま、それだからこその
【美濃吉】
我ら一般大衆たる庶民にも、馴染みの深いコトも、また確か、なのデアルが
しかしまた一方で、その後興った
バブルを謳歌 していた、
平成の我が邦、日本
【美濃吉】 にも
創業時 の
享保元年(
1716年)、
『川魚生洲料理屋』 としての
産声 を上げてから
江戸後期 には、
京都所司代 より、
『川魚生洲八軒』の一つ として
認可 されていた頃の
矜持と記憶が蘇る
一般大衆客層路線、手堅く維持しつつ
一方で、
伝統と格式を重んじる 、或いは、
量から質への転換 の方向へと、
大きく舵を切る動きも始める
“【美濃吉】、平成の原点回帰ムーブメント”(本官小生、勝手に命名。 ははは、怒られるわ)デアル
先の大戦(
WW Ⅱ)後に、創業の地、
三条大橋 袂(
繩手三条)より、
移転 していた
粟田口(あわたぐち、在原業平の別邸があったトコロとも伝えられる)の、
本店

Ⓒ
ソレを、
『伝統と格式を重んじる京料理/懐石店』 としての
再生に着手スル
平成四(1992)年、ハコも改・増築なんてチマチマしたもんじゃなくて
総工費
25億円、社運を賭けた投資に打って出る
【数寄屋造り・本館】
と
【合掌造り別館】

(世界遺産登録の、富山・【五箇山合掌造り集落】より、ホンモノ建屋を解体・移築)
本館と別館の間には、
【茶室】
からなる、
上物に再生・新築
名も、ソレまでの【京都美濃吉 本店】と決別し
【京懐石 美濃吉 本店 竹茂楼】 に改名
客単価は、ソレまでの四倍設定で、
全面リニューアル発進
そして、新生
【竹茂楼】完成後、
ほどなくバブル崩壊 するも、見事、
コレを撥ね退け、目論見は成功、
今に至る
ふぅ、前置きが長くなった、イヤ、長くなり過ぎたゼ
そう、その、
【京懐石 美濃吉 本店 竹茂楼】 コソ
本日の
昼食主戦場(ウソ、昼食会 会場) と相成ったワケである。
なので
ココは一旦、
(前篇)として、
筆を置く
(後篇)は、
本日 の
“懐石料理紹介編”
以上、前篇分、報告ヲワル
to be continued...
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Posted at
2023/07/02 00:20:17