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2012年09月22日 イイね!

越後の虎 上杉謙信の名城 <春日山城、春日山 林泉寺、御館、川中島古戦場>

越後の虎 上杉謙信の名城 <春日山城、春日山 林泉寺、御館、川中島古戦場>三連休の初日、長野県長野市にある川中島古戦場、2日目に新潟県上越市にある春日山城跡へ行ってきました。春日山城と川中島古戦場をブログにしてみました。








春日山城跡
春日山城は、越後守護代を務めた長尾為景、晴景、景虎(上杉謙信)、上杉景勝四代の居城として栄えました。
上杉家は足利氏と姻戚関係にあった名家で、室町時代初期から越後守護として君臨してきました。
一方長尾家は元々は相模の豪族でしたが、南北朝の動乱期に上杉家の被官となり、守護代として上杉家をもりたててきました。
ところが、上杉謙信の父・長尾為景は、下克上で主君・上杉房能を討ち、事実上の越後国主となりました。
その後、兄・晴景に替わって、上杉謙信が実権を握ると、春日山城を拠点に関東各地をはじめ、信濃、越中、能登にも出兵しました。
四代景勝の時代に、会津へ移封となると、堀秀治が入城しましたが、慶長12年(1607)平地に福島城が完成すると、春日山城は廃城となりました。

日曜日の午前9時でしたが、上杉謙信像前の駐車場はすでに満車状態でした。
早速、山頂の本丸跡まで登ってみることにしました。


私たちが歩いた散策ルートです(赤線)。上杉謙信像前を出発し、地図の左側三の丸、二の丸を経由し、山頂の本丸まで、そして、右側を下山し、上杉謙信像前に戻ってくるとういう道順です。


道は思っていたより緩やかで、道幅があり、コンクリート塗装がしてあるので楽でした。

ここを上がると三の丸です。ここからは道幅は狭く、土道に変わります。三の丸には上杉三郎景虎の屋敷跡があります。


上杉三郎景虎屋敷跡
16世紀半ば、相模・北条氏康、甲斐・武田信玄、駿河・今川義元との間に三国同盟が結ばれていましたが、今川家が衰退すると、同盟を破棄した武田信玄の駿河侵攻が始まりました。
これに怒った北条氏康は、永禄12年(1569)、長年の宿敵だった上杉謙信に同盟を依頼しました。
人質として氏康は息子・三郎を春日山城へ送ると、謙信はこれを受諾、養子とし、姉・仙桃院(せんとういん)の娘を娶らせ、上杉(三郎)景虎と名乗らせました。


三の丸から見たここまでのルートです。


二の丸です。ここを登ると本丸、春日山山頂です。


山頂、天守跡です。果たして天守があったかどうかはわかりませんが、ここが山頂の一部分になります。


本丸
上杉謙信像前からおよそ500mくらい歩いたでしょうか、ここが本丸跡です。やっと着いたよ!と思わず嬉しくなり、売店で買ってきたペットボトルのお茶を飲みほし、しばらくここで談笑しました。


右手、上越市内と北陸自動車道です。この近くに、上信越自動車道とのJCTがあります。


左手は直江津港です。室町時代からここ上越地方のハブ港として発展しました。
春日山城は日本海に近く、絶好の位置に立地していたことがわかります。
話は少し飛躍しますが、内陸甲斐の武田信玄は川中島(長野市)侵攻を計5回試みましたが、この直江津港占領も視野にいれていたものと思われます。
川中島からここ上越までは、およそ80kmの距離にあります。


本丸の裏側にある井戸曲輪と、上杉景勝屋敷跡に行ってみました。
山城に登るたび、飲料水はどこから確保しているのだろうといつも疑問に思っていましたが、春日山城はここにこのような大きな井戸があったようです。


次は景勝屋敷跡です。


上杉景勝屋敷跡
上杉謙信には、三郎景虎と姉・仙桃院の息子、景勝という2人の養子がいました。
謙信は天正8年(1578)3月13日に春日山城で病没しますが、世継ぎを指名せず亡くなってしまったため、2人の養子同士の家督争いが起こります。
御館(おたて)の乱といい、この内乱をきっかけに、越後国内は乱れ、織田軍の攻撃に遭うことになります。
御館の乱に勝利した景勝は上杉家二代となり、豊臣秀吉五大老の職に就きましたが、会津若松へ移封後、徳川家康と対立します。
結果、関ヶ原の戦いの敗者となり、大幅に領地を削減され、米沢に移封されることになります。


上杉謙信
享禄3年(1530)、長尾為景と虎御前の間に生まれた幼名・虎千代は、幼少時代城下の林泉寺に預けられました。
長尾家は18歳年上の晴景が継ぎましたが、病弱の晴景には越後を統制していく能力がありませんでした。
元服した虎千代は、景虎と改名、寺を出た15歳の景虎は早速越後内部の紛争を解決する働きをしてみせました。
19歳で兄から家督を譲られた景虎は、軍事の才能を発揮し、越後国内の内乱を収拾していきました。
永禄2年(1559)、2度目の上洛を果たすと、正親町天皇(おおぎまちてんのう)と将軍足利義輝に拝謁しました。
永禄4年(1561)、関東管領職に就任すると、上杉政虎と改名しました。
雪深い三国峠を越え、関東地方に出兵し、北条や武田の侵略戦争を武力で押えました。

「義」を重んじた政虎は、占領された土地を奪回すると、元の領主に返還しました。
領土拡大・征服欲はなく、また、身内の裏切りにも寛大で、赦免させると、また元の地位に戻すという姿勢をとりました。
信玄の北信濃侵攻を5回にわたりくい止めましたが、内陸にあった信玄が、今川と北条から塩の供給を止められると、領民の苦しみを見過ごすことができず、宿敵信玄に越後の塩を送りました。
今日でも使う「敵に塩を送る」は、ここからきたことわざです。

自らを毘沙門天の化身と称した政虎は、晩年「謙信」と改名し、手取川(石川県)で柴田勝家軍を破るなど、その強さは抜きん出ていましたが、遂に天正6年(1578)に春日山城で亡くなりました。
遺骸は、景勝の移封に伴い、春日山から会津若松、米沢と移されました。


本丸から下山します。毘沙門堂(復元)です。謙信は信玄との戦い後、疲れて帰国すると、今度は家臣団の内輪もめにあうことになりました。嫌気がさした謙信は、この毘沙門天で苦悩の末、出家のため単身高野山へ逃れてしまいました。あとを追ってきた家臣に説得され翻意するという事件がありました。


直江兼続屋敷跡
樋口兼続は御館の乱では、宿敵武田勝頼と同盟工作を行いましたが、勝頼が突然帰国してしまい、結局失敗に終りました
乱後、恩賞に不満を抱いた家臣によって、景勝側近・直江信綱が殺害されると、直江家の婿養子となりました。
秀吉にその聡明ぶりを買われ、直臣の誘いを受けましたが、兼続もやはり上杉家への「義」を重んじ、秀吉の誘いを断ったといわれています。
徳川家康と対立し、大幅な領土削減をされた元凶ということか、米沢上杉家では長らく奸臣として扱われていたようです。
それを打ち払ったのは、上杉家10代上杉鷹山だったといわれています。


虎口です。


千貫門跡です。


ぐるっとひと回りして、春日山神社に到着します。もう隣はスタート地点の駐車場です。


駐車場前の売店です。出発のときに買ったペットボトルのお茶が空になったので、2本目を早速買いました。


2時間半近くいた春日山城をあとにして、城下の林泉寺に向かいました。


春日山 林泉寺
明応6年(1467)、虎千代の祖父にあたる長尾能景が創建した林泉寺です。
虎千代が7歳から7年間、この長尾家菩提寺・林泉寺で、住職・天室光育(てんしつこういく)のもと修行を行ったといわれています。
手前の惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられています。


御館
春日山城から5kmほど離れた御館公園です。
天文21年(1552)、北条氏康に平井城(群馬県藤岡市)を攻められた関東管領・上杉憲政が、上杉謙信を頼って越後に逃れた際、謙信が造営したのが御館でした。


御館の乱
天正6年(!578)3月、謙信が亡くなると、(三郎)景虎、景勝養子同士の争いが勃発しました。
三の丸の景虎は春日山城を脱出すると、上杉憲政の屋敷であったここ御館に立て籠もりました。
しかし、翌年2月景勝が大軍で御館を攻めると、3月には御館は炎上しました。
上杉憲政は和睦のため、景虎の子・道満丸を連れて春日山城へ向う途中、何者かに殺害されると、景虎も妻ともども自害しました。
景虎の妻は謙信の姪で、景勝の妹でした。


鵜の浜温泉
上越市鵜の浜海岸沿いにあるこの温泉ホテルで宿泊しました。このあたりに10軒ほどの温泉旅館が集中しています。夕食のメニューは全てシーフード料理でした。あまりに美味しく、こんな料理の方法があるんだと思わず感心してしまいました。また、貸切露天風呂のサービスがあり、ゆっくり1時間湯船に浸かることができました。大手チェーン店とはまた違う真心サービスのホテルでした。


妻女山と海津城/第四次川中島の戦い
領国甲斐が海に面していなかった武田信玄は、中信濃(松本市)、小県(上田市)を制圧すると、越後進出を企て、次に北信濃(長野市)の制圧に乗り出しました。
永禄4年(1561)8月、これを阻止せんと妻女山(さいじょさん)に陣を置いた1万3千の上杉謙信軍と、海津城(現在の松代城)に籠った2万の武田信玄軍が睨み合いました。


およそ一ヶ月、妻女山に籠って出てこない上杉軍に対し、武田信玄は軍師・山本勘助の進言で別働隊1万2千で背後から夜襲をかけ、山からあぶり出す作戦にでました。
9月9日作戦が実行され、妻女山に別働隊を派遣した信玄本隊は海津城を出て、千曲川と犀川が交差する川中島・八幡原(はちまんぱら)に布陣し、山から出てくる上杉軍を待ち構えました。
ところが、海津城からの炊煙がいつになく多いことに気がついた上杉謙信は、夜間にいち早く妻女山を下山していたため、別働隊が着いた頃には妻女山はもぬけの殻でした。
翌10日、上杉軍と武田軍の最初で最後の正面激突、「第四次川中島の戦い」が勃発しました。


鉄砲がまだ使用されなかったこの時代、激しい白兵戦が展開されました。
戦い前半は数で優勢な上杉軍が武田軍を圧倒、後半は妻女山の別働隊が加勢した武田軍が巻き返しました。
乱戦のさなか、敵本陣に突撃すると、床机に座る総大将の武田信玄に三太刀にわたり斬りつけたひとりの武将が現れました。
信玄はとっさに軍配でこれを防ぎましたが、軽傷を負いました。
供周りの者が応戦すると、この武者は引き上げましたが、これが世にいう「謙信・信玄両雄の一騎討ち」でした。

八幡原史跡公園
武田軍本陣に突入、信玄に太刀をくらわす上杉謙信


軍配で凌ぐ武田信玄




昭和44年(1969)大河ドラマ「天と地と」を記念して作られた「武田信玄・上杉謙信一騎討ち像」ですが、江戸時代に書かれた武田家の記録『甲陽軍鑑』に基づいて作られたものです。
一方で、やはり江戸時代に書かれた上杉家の記録には、信玄に斬りつけたのは謙信ではなく、「荒川伊豆守(あらかわいずのかみ)」であったと書かれているようです。
この第四次川中島の戦いは、両軍撤退し勝敗はつきませんでした。
双方多大な死傷者を出しましたが、武田軍は重臣・山本勘助、信玄弟・信繁を失いました。
後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた際、人々は信玄と謙信の優れた軍略を称賛しましたが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝えられています。



この連休を利用して、往復800kmを走りました。日本100名城・春日山城は上杉謙信の人気ぶりをうかがわせる名城でした。
ところで、このマンガは宿泊したホテルの部屋で見つけたものです。
ホテルで夜全部読んでしまったのですが、春日山城の売店に売っていたので、自分のお土産として買ってきました。
上越市発行の「上杉謙信ものがたり」は、とてもわかりやすくまとめてあり、このブログを書くにあたって大いに参考になりました。
Posted at 2012/09/22 12:00:01 | コメント(6) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域

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