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Cyber Xのブログ一覧

2011年10月24日 イイね!

日本ロマンチック街道・奥日光の秋 <明智平、中禅寺湖、竜頭の滝、戦場ヶ原、金精峠、第一いろは坂>

日本ロマンチック街道・奥日光の秋 <明智平、中禅寺湖、竜頭の滝、戦場ヶ原、金精峠、第一いろは坂>10月23日(日)、日光国立公園に日帰りドライブに行ってきました。関東地方では海抜が高い日光国立公園は、ちょうど紅葉が見ごろで、途中渋滞もありましたがいい日帰りドライブができました。
今回は世界遺産日光東照宮など社寺は訪問せず、主に奥日光の別名「日本ロマンチック街道」沿いに車を走らせてきました。
コースは「日本ロマンチック街道」国道120号線沿いに、第二いろは坂→明智平→中禅寺湖→竜頭の滝→戦場ヶ原→金精峠(金精道路)→(帰路)・・・→第一いろは坂というルートをとりました。

明智平
第二いろは坂を登ると、途中に明智平ドライブインがあります。山の木々が色づいています。
天候がいいと目前に標高2,486mの男体山が見えるのですが、当日はガスがたち込め見えませんでした。天気が良ければロープウエイから、男体山、華厳の滝や中禅寺湖が一望できたのですが、コース変更をし、奥日光へと車を進めました。


中禅寺湖
日光国立公園を縦断する国道120号線は、別名「日本ロマンチック街道」とも呼ばれ、栃木県側は宇都宮市から群馬県境である金精峠までの山岳ルートをさします。
明智平のトンネルを抜けると、T字路があり、左折すると中禅寺湖畔になります。
湖畔には途中、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、中禅寺金谷ホテルというリゾートホテルがあり、この辺りの紅葉が綺麗に色づいていました。


竜頭の滝
日本ロマンチック街道をさらに進むと、「竜頭の滝(りゅうずのたき)」があります。、「華厳の滝」、「湯滝」と共に奥日光の三名瀑のひとつです。上流の湯ノ湖から流れてくる湯川の末流にかかる滝です。この辺りから群馬県境にかけてを、「奥日光」といいます。
 

戦場ヶ原
竜頭の滝をあとにして、「戦場ヶ原」に向かいました。この辺りは、標高約1,390から1,400mの平坦地に広がる400ヘクタールの湿原で、すぐ東側に標高2,486mの男体山がそびえています。日曜と紅葉シーズンが重なったせいか、レストラン・土産物店の駐車場は満車状態でした。戦場ヶ原という地名は、山の神がこの湿原を舞台に争いを繰り広げたという伝説に由来しているそうです。


金精峠
湯元といい、左へ直進すると「湯元温泉」があります。右へ進むと県境「金精峠」方面になります。日本ロマンチック街道、「金精道路(こんせいどうろ)」の起点です。この辺りから先は紅葉はなく、典型的な高山植物が見られるようになります。


金精道路の途中、駐車場から見える標高2,486m「男体山」と「湯ノ湖」です。あいにくのお天気でしたが、綺麗に見えました。


標高2,000mの「金精山」です。金精山を全長755mの金精トンネルが貫通しており、トンネルの向う側が群馬県になります。「菅沼」辺りまで直進し、引き返しました。菅沼は透明色のよく澄んだ池でした。また、豪雪地帯でもあるため、スキー場がいくつかありました。


第一いろは坂
帰路は「第一いろは坂」を通り、麓の市街地へ下山するルートになります。一方通行路で、駐停車できる場所が限られています。途中、山々の紅葉が綺麗でした。


方等の滝

般若の滝

今回、日光国立公園の奥日光を主体にドライブをしてきました。秋の行楽シーズンと日曜日が重なり、どの名所もたくさんの観光客で賑わっていました。お天気がもうひとつでしたが、いい日帰りドライブを満喫できました。
Posted at 2011/10/24 11:00:03 | コメント(1) | トラックバック(0) | 自然 | 日記
2011年10月15日 イイね!

関東の日本100名城 <江戸城、武田氏館、甲府城、小田原城、八王子城、足利氏館、箕輪城、金山城、鉢形城>

関東の日本100名城 <江戸城、武田氏館、甲府城、小田原城、八王子城、足利氏館、箕輪城、金山城、鉢形城>財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」に指定された関東地方のお城です。 ほぼ1年かけて全部見てきました。今回はそのうちの幾つかをブログにしてみました。 Noは財団法人日本城郭協会によって定められたお城の登録番号です。




<関東(甲府)の100名城>
No.14水戸城 No.15足利氏館 No.16箕輪城 No.17金山城 No.18鉢形城 No.19川越城
No.20佐倉城 No.21江戸城 No.22八王子城 No.23小田原城 No.24武田氏館 No.25甲府城

No.21江戸城
江戸城は江戸時代は江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったそうです。
現在は千代田城とも呼ばれています。
国の特別史跡に指定されており、皇居として利用され、本丸・二ノ丸・三ノ丸部分は、皇居東御苑として無料開放されています。

本丸天守台
 
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの後、徳川家康は秀吉に北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府城から同年8月1日に公式に入城し、居城としました。
最初の天守閣は慶長12年(1607)、関ヶ原の戦いの後、初代江戸幕府征夷大将軍となった徳川家康が天下普請により諸大名に命じて修築させたものでした(慶長の天守)。
その後大修築され、寛永15年(1638)に三代将軍家光の代に国内で最大の天守閣が完成しました。外観5層、内部6階で、地上からの高さは58mもありました。
しかし、明暦3年(1657) の大火により天守を含めた城構の多くを焼失しました。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されず、現在はこの巨大な天守台が残っています。


江戸城本丸跡
天守台から見た本丸跡です。ここに大奥もありました。お江の方や春日局はここで暮していました。
忠臣蔵で有名な「松の大廊下」もこの敷地内にありました。



巽櫓と桔梗濠
かつての江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、富士見櫓とこの巽櫓(桜田二重櫓)の3つしか残っていません。貴重な現存櫓です。


西の丸大手橋と富士見櫓
「西の丸大手橋」は元々、木橋でしたが、明治20年(1887)12月、明治宮殿の造営に際して石橋の橋に架けかえられ、現在は正門石橋と称されています。
この正門石橋と正門鉄橋2つを総称して二重橋と呼ぶ場合もありますが、正確には二重橋とは正門鉄橋を指します。


桜田門
有名な桜田門です。江戸城の門はどれも二重門となっており、外側を高麗門、内側を渡櫓門といいます。万一、敵に攻められたとき高麗門を破られても、内側の渡櫓門で足止めさせ、また進路を直角にすることにより、一気に攻められないように工夫してあります。上の写真の正面が高麗門、右側が渡櫓門です。







No.24武田氏館
武田神社は往時の武田氏三代の館跡に、大正8年(1919)に社殿が竣工されました。
躑躅ヶ崎館ともいわれ、武田信虎、信玄、勝頼三代の館がありました。天正10年(1582)3月、天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡し、江戸時代には甲府城が政治・経済の中心地となりました。


No.25甲府城
甲府城は別名「舞鶴城」とも呼ばれ、徳川家康が豊臣秀吉の命により関東に移封された後、秀吉の命により築城されました。目的は関東の出入口・甲州街道の要衝であったこの地を押えることで、関東の家康に対する睨みを利かせるためでした。
現在は城跡をJR中央本線が分断しており、城の南側を「舞鶴城公園」、北側を「甲府市歴史公園」といいます。


天守台と天守台から見える稲荷櫓です。
 

No.23小田原城
小田原城は戦国時代後半には、関東の覇者・北条氏の居城でした。北条氏は初代・北条早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直と続きましたが、天正18年(1590)春から始まった豊臣秀吉による小田原攻めで、関東各地の支城を次々と落とされ、遂には本城であった小田原城も開城し、氏直の代で滅びました。
江戸時代には譜代の大久保氏が主に城主を務めました。
昭和35年(1960)、天守が復興され、小田原城址公園として生れ変りました。
晴れた日には天守閣からは相模湾が一望できます。


常盤木門
 

二の丸隅櫓


No.22八王子城
八王子城は標高445mの深沢山(現在の城山)に築城された典型的な中世山城でした。
北条氏三代・氏康の三男・氏照は、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた八王子城を城山に築城しました。
しかし、天正18年(1590)に、天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ、まだ未完成であった八王子城はわずか1日で落城しました。
現在は八王子城跡として、氏照の居館地区と城山登山ルートが無料で開放されています。


曳橋
城山中腹にある氏照の居館に通じていた「曳橋」を、八王子市がイメージして架けたものです。
当時の構造は敵の侵入時に板を外したり、橋桁ごとスライドする大がかりなものであったと伝えられています。



冠木門と御主殿跡
曳橋を渡ると、野面積の復元石垣で囲った通路があり、階段を上って冠木門(かぶきもん)をくぐると、氏照の居館があったといわれる御主殿跡があります。学校のグラウンドくらいの広さの平地です。
往時はこれ以上の規模であったそうなのですが、発掘を中途で止めてしまったのだそうです。
また、石垣造りは当時の関東になかった工法で、同盟関係を結んでいた織田信長の安土城を参考にしました。
発掘された陶器の中にはベルギー製の瓶が見つかり、使者が安土城の帰りに、贈り物として信長から氏照に譲られた品であることがわかりました。

 

御主殿の滝
御主殿の滝は、八王子城落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたといわれています。また戦によって城山川の水が3日3晩血に染まり、麓の村ではこの城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられています。
八王子城は小田原攻めで落城した北条氏の支城のうち、最も凄惨な殺戮があったことで知られています。他の鉢形城や忍城などの支城は、城内の者たちの助命嘆願が叶いましたが、こと八王子城に関しては、討ち取った婦女子らの生首を見せしめのために船で小田原城へ運んだといわれています。
そのためか、この御主殿の滝は心霊スポットとしても知られているそうです。


「居館地区」に対して、城山山頂標高445mの本丸付近は「要害地区」といわれ八王子城の中心で最も重要な曲輪でした。居館地区のある管理事務所から約40分をかけて登ることにしました。新道ルートと呼ばれる山道の入口です。

八合目と書かれた石碑を過ぎると、間もなく頂上と書かれた石碑が見えてきます。「松木曲輪」と呼ばれる平地ですが、実はここは山頂でなく、この先数10m登った先が城山の山頂になります。
初めて登ったひとは、ここが山頂と勘違いしてしまい、ここで一服するのですが、いやいや、まだ先があるんです。


八王子城本丸跡
この城山は「八王子神社」の私有地もあるそうです。松木曲輪を登ると、すぐ上がその八王子神社です。神社といっても無人の社殿があるだけで、まったく手入れがされていない少々朽ちた社殿です。
さらにあと少し登ると、ありました。本丸跡の石碑と八王子神社の祠のようなものです。
ここが正真正銘の城山山頂、八王子城要害地区の中心、本丸跡です。
10m四方の平地ですが、説明板には大きな建物がなかったと書かれていました。



No.15足利氏館
栃木県足利市の鑁阿寺(ばんなじ)です。鑁阿寺はもともとは足利氏の館であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されています。
大正11年(1922)「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されました。
本堂、鐘楼、経堂は国の重要文化財に指定されています。

山門と太鼓橋


本堂


鐘楼 


経堂


多宝塔


東門


No.16箕輪城
群馬県高崎市の箕輪城です。長野氏四代の居城でした。
越後の上杉氏の後ろ盾を得て、業尚、信業、業正と続き、三代業正の時代に全盛時代を迎えましたが、永禄4年(1561)業正が亡くなると子の業盛が跡を継ぎましたが、これを知った武田信玄に侵攻を受けることになりました。
永禄8年(1565)には近隣の城を調略により武田方に寝返らされ箕輪城は孤立していき、翌永禄9年(1566)武田軍の総攻撃で箕輪城は落城し、四代業盛で長野氏は滅びました。
その後、武田氏、織田氏と支配権は移り、天正10年(1582)には北条氏が治めましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城しました。
徳川家康が関東に入国すると、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられましたが、慶長3年(1598)高崎城に移封され箕輪城は廃城となりました。




No.17金山城
群馬県太田市の金山自然公園にある金山城跡です。金山城は文明元年(1469)、新田一族であった岩松家純によって築城されたといわれています。
天正12年(1584)には北条氏に主は替わりましたが、天正18年(1590)には豊臣秀吉の小田原攻めにより落城し、この後廃城となりました。
昭和9年(1934)、金山城跡として国の史跡に指定されました。
金山城へは、車で西城までいきます。ここから本丸までは、徒歩で大体20分くらいです。途中に、復元した物見台や矢倉台、馬場道などが多数あります。

南曲輪
本丸手前の南曲輪に建てられた日本百名城の石碑です。ここは復元された公園らしく全体的に綺麗な歴史公園です。


 
大手虎口 


日ノ池



二ノ丸



馬場と月ノ池




本丸跡(天主曲輪)の新田神社

駐車場から約600m山頂を登ると、金山城本丸跡にこの新田神社があります。
新田義貞は源氏の一族で鎌倉幕府を滅ぼしましたが、同じ源氏の足利尊氏と対立し、延元3年/建武5年(1338)に現在の福井市燈明寺畷で戦死したと伝えられています。
築城主岩松家純の先祖にあたる新田義貞を祀る神社です。



No.18鉢形城
鉢形城は文明8年(1476)、長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。
関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北条氏の北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻の備えとして重要な役割を担いました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、北条氏の重要な支城として、前田利家、上杉景勝、浅野長政、本多忠勝、鳥居元忠ら35,000の連合軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は6月14日に城兵の助命を条件に開城しました。
鉢形城跡は昭和7年(1932)、国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。

本丸跡



三ノ曲輪跡

Posted at 2011/10/15 05:00:36 | コメント(1) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年10月05日 イイね!

関ヶ原の戦い 島津義弘最後の賭け・敵中突破 < 関ヶ原古戦場 >

関ヶ原の戦い 島津義弘最後の賭け・敵中突破 < 関ヶ原古戦場 >

関ヶ原の戦い
慶長5年(1600)、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、薩摩当主・島津義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じました。しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍への味方を決意したのでした。
こうして、義弘とその手勢は西軍に参戦しました。しかし、石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であったことからか義弘の存在を軽視。美濃墨俣での撤退において前線に展開していた島津隊を見捨てたり、9月14日の作戦会議で義弘が主張した夜襲策が採用されないなど、義弘が戦意を失うようなことが続きました。

9月15日の関ヶ原の戦いには参加しながらも戦場で兵を動かそうとはしませんでした。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請してきましたが、八十島が下馬せず救援を依頼したため義弘や豊久は激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともいわれています。

島津義弘陣跡
当時の小池村に布陣した西軍島津隊陣跡です。笹尾山・石田三成陣跡から国道365号線を挟んで200~300mほど離れた神明神社の境内にあります。



敵中突破
午後になり、西軍小早川秀秋に続き脇坂安治ら4隊も寝返ると、西軍は壊滅状態になりました。
島津義弘は正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方東軍の大軍の中を突破することを決意しました。島津隊は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始しました。
<10分間の敵中突破VTR>

島津隊は「捨てがまり」という戦法を使い、殿軍に豊久を残したまま南部の伊勢街道を目指し撤退をしました。
「捨てがまり」とは何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法をいいます。
その結果、甥・島津豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になりましたが、最終的に義弘ら約80名が薩摩へ何とか帰国することができました(島津の退き口)。

旧伊勢街道です。この先で四日市方面に通じる国道365号線と合流します。高架は東海道新幹線です。


烏頭坂・激戦地
旧伊勢街道のこの辺が豊久・殿軍と追手の井伊直政、松平忠吉、本多忠勝隊の激戦地であったといわれています。


烏頭坂・島津豊久の墓


烏頭坂・島津豊久の碑
豊久の墓の上に碑があります。当主義弘と関ヶ原に参戦した豊久は自ら「捨てがまり」となって命を落としました。30歳という年齢でした。
江戸時代宝暦年間(1754-1755)、「宝暦治水木曽三川工事」にやってきた薩摩の藩士たちは、この塚に立ち寄り供養をしたといわれています。


薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川からの討伐に対する軍備を図る姿勢を取って国境を固め、一方で全身全霊を傾けて家康との和平交渉にあたりました。
義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼しました。
9月30日、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせましたが、家康は攻撃を命令できず睨み合いが続きました。
関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、11月12日討伐軍の撤退を命じました。
島津を討伐出来なかった家康はこのことが心残りで、死に臨んで遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したといわれています。
家康の憂いは250年後、倒幕運動という形で現実のものとなりました。

Posted at 2011/10/05 13:05:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2011年10月01日 イイね!

戦国武将大谷吉継と石田三成の友情伝説 <関ヶ原古戦場、佐和山城跡>

戦国武将大谷吉継と石田三成の友情伝説 <関ヶ原古戦場、佐和山城跡>


越前敦賀5万7,000石城主・大谷吉継は、豊臣秀吉からその才能を認められ、「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と語ったと伝えられています。
ある時佐和山城にて、盟友石田三成から家康の打倒・挙兵を持ちかけられました。
これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しましたが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与しました。
関ヶ原・大谷吉継陣跡


大谷吉継は徳川家康とも親しかったと伝えられています。それでは何故、吉継は三成の熱意に翻意したのか、有名な話ですがこんな逸話が残っています。

天正15年(1587)大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきました。この時、ハンセン病を患っていた吉継が口をつけた茶碗には顔から膿が落ち、誰もが病気の感染を恐れて飲むふりをするだけでしたが、三成だけ普段と変わりなくその茶を膿ごと飲みほしてしまい、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせました。その事に感激した吉継は、以来三成に対する信望が厚く、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされています。

しかし、関ヶ原においては奮戦虚しく、味方の裏切りにより自軍は壊滅し、吉継は自害を決め、側近湯淺五助に介錯を命じました。辞世の句です。

「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」

これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた盟友・平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっています。

関ヶ原・平塚為広の碑
 



関ヶ原・大谷吉継・湯淺五助の墓

吉継の首は、五助の手によりこの地に埋め隠されました。五助はその後討ち入りますが、藤堂仁右衛門に捕らわれました。その時、五助は主人の首の在処を藤堂に正直に伝えて供養を頼んだ上で討たれました。
敵ながらに感心した藤堂は、家康からの詰問にも決して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り「大谷吉継の墓」をこの地に建てたとされています。

佐和山城跡
滋賀県彦根市の佐和山城本丸跡です。関ヶ原の戦いの直後に東軍の攻撃で落城し、石田三成に替わって井伊直政が入城しましたが、彦根城移転が決まり廃城となりました。現在は本丸跡は標高200mに達する佐和山ハイキングコース終点となっています。人気のコースで多数のハイカーで賑わっています。


本丸跡から見た風景です。標高200mとはいえ、彦根城(上の写真)が相当小さく見えます。当日は天気がよく、琵琶湖が本当綺麗に見えました。
 

Posted at 2011/10/01 23:22:02 | コメント(1) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2011年10月01日 イイね!

関ヶ原古戦場 <笹尾山、桃配山、徳川家康最後陣跡、東・西首塚、松尾山、南宮山>

関ヶ原古戦場 <笹尾山、桃配山、徳川家康最後陣跡、東・西首塚、松尾山、南宮山>秋分の日、三連休を利用して関ヶ原古戦場へ行ってきました。松尾山と南宮山にも登頂しました。お天気に恵まれ、山頂から見える景色もとても素晴らしい眺めでした。
1.笹尾山・石田三成陣跡 2.桃配山・徳川家康最初陣跡
3.徳川家康最後陣跡   4.東首塚 5.西首塚
6.松尾山・小早川秀秋陣跡 7.南宮山・毛利秀元陣跡


関ヶ原の戦い当時の関ヶ原は中山道、北国街道、そして伊勢街道の三街道が交差する要衝でした。
布陣図の青色が西軍(反乱軍、傍観軍を含む)、赤色が東軍です。開戦前、笹尾山から松尾山、そして南宮山と、西軍は平地の東軍をぐるりと囲んだ陣形を取っていました。これを「鶴翼の陣」といい、赤を囲んだ青が圧倒的に有利になります。
しかし、戦いの序盤に静観していた松尾山の小早川秀秋隊が中盤に寝返ると、それに呼応するように赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4隊が一斉に西軍大谷吉継、戸田重政、平塚為広らの隊に襲いかかり西軍は壊滅、主力部隊であった笹尾山石田三成隊、小西行長隊、島津義弘隊、宇喜多秀家隊も敗走を強いられ、わずか1日で合戦は終り、東軍総大将徳川家康による天下統一の布石となった戦いでした。

1.笹尾山・石田三成陣跡
山の頂上が石田三成の陣地で、その左翼が島 左近、右翼が蒲生郷舎の陣地でした。

正面の柵を越えると階段があり、これを登ると石田三成陣地跡です。

石田三成はこの場所から戦況を見ていました。ここは小高い山上で関ヶ原の戦場が綺麗に見渡せる、正に絶景のポイントであることがわかります。それにしても味方の裏切りは三成にとって計算外の出来事だったのでしょう・・・。

2.桃配山・徳川家康最初陣跡
徳川家康が当日未明に陣を張ったところです。国道21号線の切り立った小山の上に陣跡があります。

左側にある大きな石、徳川家康はこの石に腰掛け,序盤戦の戦況を見守ったといわています。

3.徳川家康最後陣跡
午前11時頃、家康は苦戦に苛立ち、本陣を桃配山から、三成本陣笹尾山から直線距離にして500~600mのこの場所に移動させました。ここからの伝令により松尾山の小早川秀秋に発砲を命じ、見事裏切りへと仕向け、関ヶ原合戦を勝利へと導いたのです。
合戦後この場にて引見が行われ、討ち取ってきた西軍諸将の首実検が行われました。



4.東首塚
東首塚です。
この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主・竹中重門が築いたもので、家康によって首実検された将士の首が、ここに眠っています。
朱色の門が印象的ですが、文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和17年(1942)に徳風会によって名古屋から山王権現社本殿と共にこの唐門が移築されました。
ここが東首塚の正面で、中には「東首塚碑」、実検前の首級を洗った「首洗いの古井戸」があります。


5.西首塚
西首塚は、JR関ヶ原駅前から国道21号線を西へ700mほど行ったところにあります。
東首塚と同様、当時この地の領主であった竹中重門が徳川家康の命により、関ヶ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。現在は高さ2m、周囲30m程の塚ですが、JR東海道本線の敷設の際に埋葬されていた白骨が大量に出たところから、当時は相当な規模であったと思われます。
西首塚は、別名胴塚とも呼ばれています。
塚の正面にある御堂は、地元の奉納により千手観音と馬頭観音が安置されています。


6.松尾山・小早川秀秋陣跡
次は標高300mの松尾山に向いました。名神高速道路の南側に登山口があります。駐車場入口です。

ここに車を停め、ここから先は徒歩です。

“登山”は決して得意ではないのですが、汗をかきかき頂上を目指しました。当日は残暑が厳しく、まだ30℃近く気温がありました。意外だったのは、彼是10人近くのハイカーとすれ違ったことです。すれ違うごとに、「こんにちは」と挨拶しながら登るのが山のエチケットです。

こういった土で固めた階段が数多くあります。これ結構キマス・・・。

駐車場から約40分、ようやく着きました。ここが松尾山の山頂になります。

関ヶ原の戦いで、松尾山に陣を張った小早川秀秋陣地跡です。

小早川秀秋は北政所の甥で、一度は豊臣秀吉の養子となりましたが、秀頼が生まれると、放逐され中国の大名・小早川隆景の養子にされてしまいました。
朝鮮に出兵した後、石田三成の讒言で、あやうく隆景から受け継いだ領地を取上げられかけましたが、のちに取消され、元の所領に戻ることができました。
関ヶ原の戦いでは当初、西軍に属し伏見城攻めに加わりましたが、徳川家康に内通し、遂には東軍勝利の立役者になりました。
戦後、家康より岡山藩55万石に加増・移封されましたが、関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602)に早世しました(享年21)。
秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易されました。
松尾山から見た関ヶ原古戦場です。ボランティア・ガイドさんの話では、合戦当時はこの辺りの樹木は伐採され、石田三成の笹尾山から松尾山の麓まで戦況がはっきりと目で確認できたそうです。


7.南宮山・毛利秀元陣跡
翌日、今度は毛利輝元の養子で、やはり西軍として関ヶ原の戦いに参戦した毛利秀元陣地跡がある南宮山に登りました。南宮山は標高約400mの山で、登山ルートは麓の南宮大社からスタートします。 ここがハイキングコース登山口です。

ハイキングコース登山口は、関ヶ原の戦いに秀元らと参戦した安国寺恵瓊陣跡でもあります。

途中の山道です。昨日の松尾山より距離が長い分、疲労度も違ってきます。
 

ハイキングコース展望台です。ここは、毛利秀元陣地跡でもあります。

三連休と好天のせいか、南宮山も昨日の松尾山と同様、多くのハイカーたちとすれ違いました。
ここは関ヶ原古戦場は見えませんが、松尾山より木々で視界が遮られない分、東側濃尾平野がよく見えました。

界下に名神高速道路や牧田川が見え、遠くに岐阜城や犬山城も見える素晴らしい眺めでした。

西軍・毛利秀元は麓に陣を張った従兄・吉川広家の抵抗により関ヶ原には参戦できませんでした。
吉川広家は毛利宗家の家名を守るため、徳川家康に内応していましたが、戦後西軍総大将となった当主毛利輝元の積極参戦が家康によって明らかにされたため、輝元は改易は免れましたが、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後120万5000石から、周防・長門の2ヶ国37万石に大減封されてしまいました。
一方、秀元はまだ幼かった輝元の息子秀就(初代長州藩主)の後見役として藩政を取り仕切りました。
晩年は江戸で暮らし、三代将軍徳川家光の御伽衆となり、江戸で死去しました。享年72。
Posted at 2011/10/01 01:00:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

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