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2012年09月22日 イイね!

越後の虎 上杉謙信の名城 <春日山城、春日山 林泉寺、御館、川中島古戦場>

越後の虎 上杉謙信の名城 <春日山城、春日山 林泉寺、御館、川中島古戦場>三連休の初日、長野県長野市にある川中島古戦場、2日目に新潟県上越市にある春日山城跡へ行ってきました。春日山城と川中島古戦場をブログにしてみました。








春日山城跡
春日山城は、越後守護代を務めた長尾為景、晴景、景虎(上杉謙信)、上杉景勝四代の居城として栄えました。
上杉家は足利氏と姻戚関係にあった名家で、室町時代初期から越後守護として君臨してきました。
一方長尾家は元々は相模の豪族でしたが、南北朝の動乱期に上杉家の被官となり、守護代として上杉家をもりたててきました。
ところが、上杉謙信の父・長尾為景は、下克上で主君・上杉房能を討ち、事実上の越後国主となりました。
その後、兄・晴景に替わって、上杉謙信が実権を握ると、春日山城を拠点に関東各地をはじめ、信濃、越中、能登にも出兵しました。
四代景勝の時代に、会津へ移封となると、堀秀治が入城しましたが、慶長12年(1607)平地に福島城が完成すると、春日山城は廃城となりました。

日曜日の午前9時でしたが、上杉謙信像前の駐車場はすでに満車状態でした。
早速、山頂の本丸跡まで登ってみることにしました。


私たちが歩いた散策ルートです(赤線)。上杉謙信像前を出発し、地図の左側三の丸、二の丸を経由し、山頂の本丸まで、そして、右側を下山し、上杉謙信像前に戻ってくるとういう道順です。


道は思っていたより緩やかで、道幅があり、コンクリート塗装がしてあるので楽でした。

ここを上がると三の丸です。ここからは道幅は狭く、土道に変わります。三の丸には上杉三郎景虎の屋敷跡があります。


上杉三郎景虎屋敷跡
16世紀半ば、相模・北条氏康、甲斐・武田信玄、駿河・今川義元との間に三国同盟が結ばれていましたが、今川家が衰退すると、同盟を破棄した武田信玄の駿河侵攻が始まりました。
これに怒った北条氏康は、永禄12年(1569)、長年の宿敵だった上杉謙信に同盟を依頼しました。
人質として氏康は息子・三郎を春日山城へ送ると、謙信はこれを受諾、養子とし、姉・仙桃院(せんとういん)の娘を娶らせ、上杉(三郎)景虎と名乗らせました。


三の丸から見たここまでのルートです。


二の丸です。ここを登ると本丸、春日山山頂です。


山頂、天守跡です。果たして天守があったかどうかはわかりませんが、ここが山頂の一部分になります。


本丸
上杉謙信像前からおよそ500mくらい歩いたでしょうか、ここが本丸跡です。やっと着いたよ!と思わず嬉しくなり、売店で買ってきたペットボトルのお茶を飲みほし、しばらくここで談笑しました。


右手、上越市内と北陸自動車道です。この近くに、上信越自動車道とのJCTがあります。


左手は直江津港です。室町時代からここ上越地方のハブ港として発展しました。
春日山城は日本海に近く、絶好の位置に立地していたことがわかります。
話は少し飛躍しますが、内陸甲斐の武田信玄は川中島(長野市)侵攻を計5回試みましたが、この直江津港占領も視野にいれていたものと思われます。
川中島からここ上越までは、およそ80kmの距離にあります。


本丸の裏側にある井戸曲輪と、上杉景勝屋敷跡に行ってみました。
山城に登るたび、飲料水はどこから確保しているのだろうといつも疑問に思っていましたが、春日山城はここにこのような大きな井戸があったようです。


次は景勝屋敷跡です。


上杉景勝屋敷跡
上杉謙信には、三郎景虎と姉・仙桃院の息子、景勝という2人の養子がいました。
謙信は天正8年(1578)3月13日に春日山城で病没しますが、世継ぎを指名せず亡くなってしまったため、2人の養子同士の家督争いが起こります。
御館(おたて)の乱といい、この内乱をきっかけに、越後国内は乱れ、織田軍の攻撃に遭うことになります。
御館の乱に勝利した景勝は上杉家二代となり、豊臣秀吉五大老の職に就きましたが、会津若松へ移封後、徳川家康と対立します。
結果、関ヶ原の戦いの敗者となり、大幅に領地を削減され、米沢に移封されることになります。


上杉謙信
享禄3年(1530)、長尾為景と虎御前の間に生まれた幼名・虎千代は、幼少時代城下の林泉寺に預けられました。
長尾家は18歳年上の晴景が継ぎましたが、病弱の晴景には越後を統制していく能力がありませんでした。
元服した虎千代は、景虎と改名、寺を出た15歳の景虎は早速越後内部の紛争を解決する働きをしてみせました。
19歳で兄から家督を譲られた景虎は、軍事の才能を発揮し、越後国内の内乱を収拾していきました。
永禄2年(1559)、2度目の上洛を果たすと、正親町天皇(おおぎまちてんのう)と将軍足利義輝に拝謁しました。
永禄4年(1561)、関東管領職に就任すると、上杉政虎と改名しました。
雪深い三国峠を越え、関東地方に出兵し、北条や武田の侵略戦争を武力で押えました。

「義」を重んじた政虎は、占領された土地を奪回すると、元の領主に返還しました。
領土拡大・征服欲はなく、また、身内の裏切りにも寛大で、赦免させると、また元の地位に戻すという姿勢をとりました。
信玄の北信濃侵攻を5回にわたりくい止めましたが、内陸にあった信玄が、今川と北条から塩の供給を止められると、領民の苦しみを見過ごすことができず、宿敵信玄に越後の塩を送りました。
今日でも使う「敵に塩を送る」は、ここからきたことわざです。

自らを毘沙門天の化身と称した政虎は、晩年「謙信」と改名し、手取川(石川県)で柴田勝家軍を破るなど、その強さは抜きん出ていましたが、遂に天正6年(1578)に春日山城で亡くなりました。
遺骸は、景勝の移封に伴い、春日山から会津若松、米沢と移されました。


本丸から下山します。毘沙門堂(復元)です。謙信は信玄との戦い後、疲れて帰国すると、今度は家臣団の内輪もめにあうことになりました。嫌気がさした謙信は、この毘沙門天で苦悩の末、出家のため単身高野山へ逃れてしまいました。あとを追ってきた家臣に説得され翻意するという事件がありました。


直江兼続屋敷跡
樋口兼続は御館の乱では、宿敵武田勝頼と同盟工作を行いましたが、勝頼が突然帰国してしまい、結局失敗に終りました
乱後、恩賞に不満を抱いた家臣によって、景勝側近・直江信綱が殺害されると、直江家の婿養子となりました。
秀吉にその聡明ぶりを買われ、直臣の誘いを受けましたが、兼続もやはり上杉家への「義」を重んじ、秀吉の誘いを断ったといわれています。
徳川家康と対立し、大幅な領土削減をされた元凶ということか、米沢上杉家では長らく奸臣として扱われていたようです。
それを打ち払ったのは、上杉家10代上杉鷹山だったといわれています。


虎口です。


千貫門跡です。


ぐるっとひと回りして、春日山神社に到着します。もう隣はスタート地点の駐車場です。


駐車場前の売店です。出発のときに買ったペットボトルのお茶が空になったので、2本目を早速買いました。


2時間半近くいた春日山城をあとにして、城下の林泉寺に向かいました。


春日山 林泉寺
明応6年(1467)、虎千代の祖父にあたる長尾能景が創建した林泉寺です。
虎千代が7歳から7年間、この長尾家菩提寺・林泉寺で、住職・天室光育(てんしつこういく)のもと修行を行ったといわれています。
手前の惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられています。


御館
春日山城から5kmほど離れた御館公園です。
天文21年(1552)、北条氏康に平井城(群馬県藤岡市)を攻められた関東管領・上杉憲政が、上杉謙信を頼って越後に逃れた際、謙信が造営したのが御館でした。


御館の乱
天正6年(!578)3月、謙信が亡くなると、(三郎)景虎、景勝養子同士の争いが勃発しました。
三の丸の景虎は春日山城を脱出すると、上杉憲政の屋敷であったここ御館に立て籠もりました。
しかし、翌年2月景勝が大軍で御館を攻めると、3月には御館は炎上しました。
上杉憲政は和睦のため、景虎の子・道満丸を連れて春日山城へ向う途中、何者かに殺害されると、景虎も妻ともども自害しました。
景虎の妻は謙信の姪で、景勝の妹でした。


鵜の浜温泉
上越市鵜の浜海岸沿いにあるこの温泉ホテルで宿泊しました。このあたりに10軒ほどの温泉旅館が集中しています。夕食のメニューは全てシーフード料理でした。あまりに美味しく、こんな料理の方法があるんだと思わず感心してしまいました。また、貸切露天風呂のサービスがあり、ゆっくり1時間湯船に浸かることができました。大手チェーン店とはまた違う真心サービスのホテルでした。


妻女山と海津城/第四次川中島の戦い
領国甲斐が海に面していなかった武田信玄は、中信濃(松本市)、小県(上田市)を制圧すると、越後進出を企て、次に北信濃(長野市)の制圧に乗り出しました。
永禄4年(1561)8月、これを阻止せんと妻女山(さいじょさん)に陣を置いた1万3千の上杉謙信軍と、海津城(現在の松代城)に籠った2万の武田信玄軍が睨み合いました。


およそ一ヶ月、妻女山に籠って出てこない上杉軍に対し、武田信玄は軍師・山本勘助の進言で別働隊1万2千で背後から夜襲をかけ、山からあぶり出す作戦にでました。
9月9日作戦が実行され、妻女山に別働隊を派遣した信玄本隊は海津城を出て、千曲川と犀川が交差する川中島・八幡原(はちまんぱら)に布陣し、山から出てくる上杉軍を待ち構えました。
ところが、海津城からの炊煙がいつになく多いことに気がついた上杉謙信は、夜間にいち早く妻女山を下山していたため、別働隊が着いた頃には妻女山はもぬけの殻でした。
翌10日、上杉軍と武田軍の最初で最後の正面激突、「第四次川中島の戦い」が勃発しました。


鉄砲がまだ使用されなかったこの時代、激しい白兵戦が展開されました。
戦い前半は数で優勢な上杉軍が武田軍を圧倒、後半は妻女山の別働隊が加勢した武田軍が巻き返しました。
乱戦のさなか、敵本陣に突撃すると、床机に座る総大将の武田信玄に三太刀にわたり斬りつけたひとりの武将が現れました。
信玄はとっさに軍配でこれを防ぎましたが、軽傷を負いました。
供周りの者が応戦すると、この武者は引き上げましたが、これが世にいう「謙信・信玄両雄の一騎討ち」でした。

八幡原史跡公園
武田軍本陣に突入、信玄に太刀をくらわす上杉謙信


軍配で凌ぐ武田信玄




昭和44年(1969)大河ドラマ「天と地と」を記念して作られた「武田信玄・上杉謙信一騎討ち像」ですが、江戸時代に書かれた武田家の記録『甲陽軍鑑』に基づいて作られたものです。
一方で、やはり江戸時代に書かれた上杉家の記録には、信玄に斬りつけたのは謙信ではなく、「荒川伊豆守(あらかわいずのかみ)」であったと書かれているようです。
この第四次川中島の戦いは、両軍撤退し勝敗はつきませんでした。
双方多大な死傷者を出しましたが、武田軍は重臣・山本勘助、信玄弟・信繁を失いました。
後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた際、人々は信玄と謙信の優れた軍略を称賛しましたが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝えられています。



この連休を利用して、往復800kmを走りました。日本100名城・春日山城は上杉謙信の人気ぶりをうかがわせる名城でした。
ところで、このマンガは宿泊したホテルの部屋で見つけたものです。
ホテルで夜全部読んでしまったのですが、春日山城の売店に売っていたので、自分のお土産として買ってきました。
上越市発行の「上杉謙信ものがたり」は、とてもわかりやすくまとめてあり、このブログを書くにあたって大いに参考になりました。
Posted at 2012/09/22 12:00:01 | コメント(6) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2012年09月17日 イイね!

信濃 真田三代記 <上田城、砥石城、真田本城、松代城、犬伏の別れ、真田山 長谷寺>

信濃 真田三代記 <上田城、砥石城、真田本城、松代城、犬伏の別れ、真田山 長谷寺>この連休を利用して、長野県上田市、長野市、そして栃木県佐野市に行ってきました。まだまだ残暑が残るとても暑い一日でしたが、その中から真田氏関連の史跡をブログにしてみました。







上田城
上田城は天正11年(1583)、旧武田家臣の真田昌幸によって築城されました。現在の上田城は江戸時代になって再建された遺構が一部残っているだけですが、衰えない真田人気というか、駐車場は順番待ちでした。
上田城本丸南櫓、東虎口櫓門をバックに真田十勇士のおふたりです。


砥石城跡
砥石城(といしじょう)は上田市郊外にある山城で、真田昌幸の父・幸隆の外城でしたが、このあたり小県(ちいさがた)の豪族・村上義清がこれを奪い、自らの支城としていました。 天文19年(1550)、甲斐から小県進出を狙った武田信玄が攻撃をかけましたが、城はよく持ちこたえ、武田軍は敗退しました。
ところが、翌年信玄が家臣・真田幸隆に城の奪回を命じると、幸隆は調略によって砥石城を落城させることに成功しました。
信玄は幸隆を大いに評価し、砥石城番として配置すると、川中島(長野市)への進出基盤としました。


砥石(戸石)城は、本城、枡形城、砥石城、米山城の4城の総称です。その内の砥石城へ登ってみました。
山頂までは徒歩20分、山頂からは、上田盆地や、そのお隣の真田本城が眺望できます。


靄っていますが、手前が上信越自動車道上田菅平ICで、その向う側が上田市街地です。


手前の山が真田本城です。真田幸隆はこの辺りを本城としていました。


真田本城
天文20年(1551)に、武田信玄の命により砥石城を奪回した真田幸隆の戦時用に使われたのが、真田本城でした。
真田幸隆はこの麓に居館を構えていました。
息子・昌幸の上田城築城まで使用されていました。


真田昌幸
真田幸隆の三男・昌幸は父親譲りの才能を武田信玄に認められると、沼田領と上田領を安堵されましたが、天正10年(1582)主家であった武田家が滅亡すると、滝川一益、北条氏直、そして徳川家康と目まぐるしく主君を変えていきました。
ところが、徳川家康から沼田領の割譲を命じられると、今度は徳川を見限り、越後の上杉景勝と無断で同盟を結びました。
天正13年(1585)、これに激怒した家康は、「真田を皆殺しにせよ」と上田城を包囲しましたが、昌幸は必死のゲリラ戦法で徳川軍を撃ち破り、撤退させることに成功しました。

やがて中央に豊臣政権が誕生すると、これに臣従し、徳川家康と和解、家康は長男・信幸に注目し、重臣・本多忠勝の娘である小松姫を娶らせました。
一方で昌幸は次男・幸村を大坂城へ人質として送ると、幸村は秀吉の仲介で石田三成の盟友・大谷吉継の娘・竹姫を娶りました。

昌幸は豊臣家臣団の一角を担い、北条征伐にも従軍しました。


犬伏の別れ
関ヶ原の戦いの2ヶ月前、慶長5年(1600)7月、昌幸は徳川家康に付き従い、会津・上杉征伐に信幸、幸村とともに従軍しました。
ところが、従軍先の7月21日下野・犬伏(栃木県佐野市)に、豊臣家をないがしろにしようと画策する家康を弾劾する石田三成からの密書が届きました。
この書状を受けて、昌幸の心は大きく揺れ、ここ犬伏で、信幸、幸村を呼び寄せ、父子3人で密談を行ったとされる場所です。


この時の3人の会話が真田家の記録には、こう記されてあります。

昌幸
「われは上方(豊臣方)に味方しようと思う。家康はわが領土を削り、わが家を滅ぼそうとした。日ごろの鬱積を晴らすべきではないか」

信幸
「内府(家康)とは親類であり、今更敵となることは出来ませぬ」

昌幸
「信幸は徳川に忠義を尽くせ。我らは豊臣秀頼様に味方する。父子・兄弟が敵味方になることを決して恨みに思うまいぞ」

信幸
「西軍は必ず負けます」

幸村
「豊臣家の御恩は浅からぬものがあります。家の滅ぶべき時、死すべき時が来たら、潔く身を捨てることこそ武士の本意」

真田父子は、最初の主家であった武田家、織田家、北条家が滅んだことを念頭に置いた発言で、いかに主家を存続させていくことが難しかったかを、物語る一級の資料です。


芳泉寺
上田市にある芳泉寺には、真田信幸(関ヶ原の戦い後、信之に改名)の正室・小松姫のお墓があります。
上田城の目と鼻の先にある由緒ある寺院です。


小松姫の墓
小松姫は徳川四天王のひとり本多忠勝の長女でした。
第一次上田合戦で真田昌幸の軍略を警戒した徳川家康が、自らの養女とし、かねてより目を付けていた長男・信幸に娶らせました。

慶長5年(1600)、犬伏での密談の帰り、「孫の顔が見たい」と所望した昌幸と幸村は信幸の居城・沼田城に立ち寄りました。
これに対し小松姫は戦装束で昌幸の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいきません」と申し出を断りました。
程なく昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ小松姫は子供を連れて現れ、昌幸の願いを叶えたと伝えられています。
昌幸の入城を拒否したのは、小松姫なりのパフォーマンスであったといわれています。

関ヶ原の戦い後、紀州九度山へ流刑となった昌幸、幸村らに惜しげもなく食料や日常品を仕送りするなど、その後の配慮も怠らなかった小松姫は、元和6年(1620)、天寿を全うしますが、この時信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したと伝えられています。


真田山 長谷寺
上田市郊外の長谷寺(ちょうこくじ)にある幸隆と昌幸の墓です。
本多忠勝の助命嘆願が実った昌幸でしたが、遂に慶長16年(1611)に紀州九度山で亡くなりました。
故郷上田への復帰を願った昌幸でしたが、その願いは叶えられず、真田家の菩提寺に父・幸隆とひっそりと眠っています。
長谷寺はその後、信之が松代藩(長野市)に国替えをされると、長谷寺の住職も共に移り、字を変えて「長国寺」を建立しました。


長野市の真田山 長国寺(ちょうこくじ)です。
松代藩初代・信之から4代までの藩主の墓が見られるそうですが、拝観時間16時をまわっており、見れずじまいでした。


松代城
元和8年(1622)に上田から松代10万石に移封された信之は、ここ松代城で93歳まで現役藩主として忠勤しました。
信之は幸村についての回想をこのように語ったといわれています。

いわば佐衛門佐(さえもんのすけ)は“本当の侍”であり、それに比べ我らは、作り髭をして肩を怒らせている“道具持ち”とういうほどの差がある。
誠に物腰柔らかな男であり、口数は少なく、日ごろいきり立つこともなかった。



大坂夏の陣の後、庶民の間ではこんなわらべ唄が流行したといわれています。

花のようなる秀頼様を 鬼のような真田が連れて 退きものいたよ鹿児島へ



川中島古戦場を見学し、次なる目的地越後へとクルマを走らせました。
Posted at 2012/09/17 13:00:03 | コメント(7) | トラックバック(0) | 史跡 | 旅行/地域
2012年09月01日 イイね!

美濃の名城 <岐阜城、岩村城、郡上八幡城>

美濃の名城 <岐阜城、岩村城、郡上八幡城>夏休み第2弾は、岐阜県美濃地方のお城です。日本100名城に登録されている「岐阜城」、「岩村城」、そして「郡上八幡城」をブログにしてみました。








岐阜城
岐阜市にある金華山は標高329mの山で、山頂には昭和31年に造られた岐阜城天守閣があります。金華山は戦国時代まで稲葉山と呼ばれており、斎藤道三が築城した稲葉山城がありました。
道三の後は、娘婿の織田信長が攻め落とし、岐阜城と改名し、ここから天下統一を目指すようになったといわれています。


瞑想の小道
金華山へは幾つかの登山ルートがありますが、その内のひとつがこの「瞑想の小道」です。
距離にして2,300mあります。気温は30度をすでに越えており、迷わずロープウェイを選択しました。
ちなみに、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍の池田輝政が西軍の籠る天守閣まで、このルートを通って攻め落としたそうです。


金華山ロープウェイ
麓の岐阜公園に乗り場があります。午前9時すぎでしたが、もう結構な数のひとたちがいました。
岐阜城は初めて来ましたが、金華山ロープウェイに乗ることも楽しみにしていました。


ロープウェイ乗り場から天守閣までは徒歩数分です。


岐阜城天守閣から見た岐阜市内です。すぐ下に流れる川は長良川です。鵜飼で有名な川です。
長良川に架かる橋は金華橋で、スタジアムはプロ野球も行われる長良川球場です。 


斎藤道三
京都の僧侶から、油売り商人を経て、遂に美濃一国の国主となった斎藤道三です。
生涯に5回も氏名を変えた道三は、油売り商人時代に武士になることを熱望し、美濃守護・土岐頼芸(とき よりよし)に仕官しました。仕官の目的は、美濃国の乗っ取りでした。
10年間、主君を騙し続けた道三は、遂に土岐頼芸を美濃から追放し、一国一城の主にのし上がりました。
隣国、尾張の織田信秀と同盟を結び、娘・濃姫を信秀の長男・信長に嫁がせました。

ところが、家督を長男・義龍に譲りましたが、義龍は道三の側室が生んだ子で、土岐頼芸の子でした。
頼芸を追放する直前、道三が頼芸から譲り受けた妾でしたが、その時身ごもっていたのが義龍でした。
頼芸の子であることに気づいた義龍は、道三の妻と息子たちを殺害すると、道三を長良川へ誘い出し、道三も討たれてしまいました。
下克上で美濃国の国主となった斎藤道三のあっけない最期でした。
その後、美濃は義龍の息子・龍興の代で信長に攻め落とされ、信長は地名を「岐阜」と改め、岐阜城を拠点に天下統一に驀進することになります。


岩村城
岩村城は東濃地方・恵那市にある標高717mの山城です。
山頂に本丸跡があり、マイカーで登ることができます。
駐車場がある曲輪を「出丸」といい、その向う側が本丸跡です。


女城主の城
岩村城は13世紀から戦国時代後期まで、遠山氏が治めた山城でした。
美濃を本拠とした織田信長の支城でしたが、元亀3年(1572)に武田信玄の西上作戦で、美濃から攻め込んだ信玄重臣・秋山信友が城を攻撃しました。
城は容易に落ちませんでしたが、秋山信友は遠山氏の未亡人で城主を務めたおつやの方を説得し、夫人に迎えることを条件に岩村城を開城させました。
これに激怒した信長は、天正3年(1575)城を奪回するべく攻撃をかけ、城兵の助命を条件に投降した秋山信友とおつやの方を処刑し、さらに城兵を全員皆殺しにしました。
岩村城は、岩村藩の藩庁として明治まで存続しました。


阿木川湖
岩村城と中央自動車道の中間にある阿木川ダムです。


郡上八幡城
郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)は、16世紀半ばに築城された城で、現在の天守は昭和8年(1933)に再建された木造天守です。狭い一方通行の山道を登ると、天守閣のちょうど真下に駐車場があります。


天守に登ってみました。吉田川が流れています。この先で長良川と合流します。


山内一豊と千代
本丸跡にある山内一豊と千代の像です。でも何故、この2人が郡上八幡に・・・?
一豊の妻・千代は初代城主・遠藤盛数の娘であったそうです。
信長・秀吉・家康に仕えた一豊は信長時代に、馬ぞろえに出ることになりましたが、馬が買えなかった一豊は千代が嫁入りと同時に両親に持たされた大判で、見事名馬を手にすることができたという逸話からきた2人の像です。
一豊は関ヶ原の戦いの功で、土佐一国を家康から拝領されました。


8月中旬に義弟(妹の旦那さん)と、岐阜県美濃地方のお城見物をしてきました。
郡上八幡城は義弟のリクエストでした。

また、今回の城めぐりで、日本100名城は関東地方(水戸城、足利氏館、箕輪城、金山城、鉢形城、川越城、佐倉城、江戸城、八王子城、小田原城)、甲信地方(武田氏館、甲府城、松代城、上田城、小諸城、松本城、高遠城)に続き、東海地方(岩村城、岐阜城、山中城、駿府城、掛川城、犬山城、名古屋城、岡崎城(未掲載)、長篠城、伊賀上野城、松阪城)を全部見たことになりました。

現存天守から山城までいろんな城を見てまわりましたが、どの城も甲乙つけがたい城でした。
でもあえてこの中から一番を付けるなら、やはり現存天守の松本城だったでしょうか。
江戸城の巨大な天守台と、名古屋城の石垣天守の曲線の見事さもインパクトがありました。
Posted at 2012/09/01 08:00:01 | コメント(6) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

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「今日、NXに似たSUVが走ってるなと思ったら、マツダCX5だった。サイズ的にもソックリ!レクサスパクリ(笑)」
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