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2013年01月19日 イイね!

2013 日本100名城紀行 <仙台城から大阪城まで 全38城>

2013 日本100名城紀行 <仙台城から大阪城まで 全38城>リーマンショックからまる2年後の2010年秋、私の城攻めがスタートしました。
友人と会津若松に行った先が鶴ヶ城でした。
以来、北は仙台城から南は大阪城まで、愛車チェイサーで数万kmを走りました。
今回はその内、日本城郭協会から日本100名城に登録された城をアップしてみました。

No.8 仙台城

仙台城(青葉城)は慶長6年(1601)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の許しを得て、伊達政宗が青葉山に築城を開始した平山城でした。
平野は奥州街道、その先は仙台湾、また城下の広瀬川が堀の役目を果たし、天然の要害となったのが仙台城でした。
政宗は地名を「千代」から「仙臺」と改め、人口増が見込まれる城下には成長の早い杉の木を植林し、水田開発にも力を注ぎました。
また注目するべき点は、この時代の城には珍しく、天守は建てられませんでした。
秘かに天下人を狙っていた独眼竜政宗は、徳川家康の目を憚り、意図的に建造しなかったものといわれています。
仙台城はその後、伊達藩62万石の藩庁として存続しました。



No.12 鶴ヶ城

鶴ヶ城(若松城)の起源は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で伊勢・松坂から黒川の地に入封した蒲生氏郷に始まります。
中世を通して、葦名氏が支配する黒川城がありましたが、伊達政宗によって葦名氏が滅ぼされると、一旦伊達氏の領土となりましたが、秀吉の奥州仕置により黒川領は没収され、蒲生氏郷が新たに入封しました。
氏郷は黒川を「若松」、黒川城を「鶴ヶ城」と改め、七層の天守を築城しました。また、城下町の整備を行い、現在の会津若松市の基盤造りを行いました。

大河ドラマ“八重の桜”で今年クローズアップされそうな鶴ヶ城は、寛永20年(1643)に徳川家光の異母弟・保科正之が新たに藩主となると、保科正之の松平家がその後を治めました。
ところが、九代藩主・松平容保の時代に会津戦争(戊辰戦争)の主戦場となり、会津藩は一ヶ月の籠城戦を戦いましたが降伏し、明治初年に鶴ヶ城は破却されました。
現在の天守は、昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造による「復興天守」です。
一昨年3月には天守が幕末期の赤瓦に葺き替えられ、日本で唯一の赤瓦の天守として生まれ変わりました。



No.14 水戸城

北関東に移り水戸城跡です。
鎌倉時代に馬場氏により建てられた館が江戸氏・佐竹氏と渡り、慶長14年(1609)徳川家康が十一男・頼房を封じ、水戸徳川家の誕生と共に水戸城となりました。
明治5年の火災と昭和20年の水戸空襲で全焼しました。
被災前は御三階櫓が現存していましたが、跡地には公立高校などが建てられています。
写真は唯一の建造物遺構、薬医門です。
東日本大震災で被災した藩校・弘道館と、近くの偕楽園は梅の名所として知られています。
弘道館も偕楽園も幕末の九代藩主・徳川斉昭によってつくられました。



No.15 足利氏館

栃木県で唯一の100名城、足利氏館跡です。
鑁阿寺(ばんなじ)という名称が一般的かもしれません。
現在は寺院ですが、12世紀後半ここに足利氏の祖・源義康の館がありました。



No.16 箕輪城

群馬県高崎市にあった箕輪城は、16世紀初めから長野氏代々の居城でした。
永禄9年(1566)には、武田信玄の攻撃を受け落城しました。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、しばらくして相模小田原城の北条領となりましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の後は、徳川軍団の関東移封にともない井伊直政が入封しましたが、直政の高崎城移転にともない廃城となりました。



No.17 金山城

群馬県太田市の金山城は復元された山城跡です。
鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の一族が15世紀後半に築城しました。
天正12年(1582)に相模小田原城の北条領となりましたが、小田原征伐の後、廃城となりました。



No.18 鉢形城

埼玉県北部にあった鉢形城は、上野国支配の拠点となった城でした。
16世紀後半にやはり豊臣秀吉の小田原征伐によって落城、廃城となった城でした。



No.19 川越城

川越城には、東日本唯一の現存本丸御殿が残っています。
16世紀後半は北条領となっていましたが、小田原征伐では同じ埼玉県内の忍城とともに、前田利家らによって落城しました。
江戸時代には、徳川綱吉の側用人・柳沢吉保の居城となった時代もありました。
現在の本丸御殿は、嘉永元年(1846)に建築されたものです。
目の前には、童謡“とうりゃんせ”誕生のきっかけとなった神社があります。



No.20 佐倉城

佐倉城は下総国を支配した千葉氏が16世紀後半に築城を開始した城でしたが、小田原征伐で北条氏に味方をしたため、豊臣秀吉によって千葉氏は滅亡しました。
江戸に近い佐倉城主は、家康、秀忠、家光の時代に現在の東金街道(御成街道)の整備を行い、将軍家に尽力しました。

幕末の老中・堀田正睦(ほった まさよし)は、安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、孝明天皇から条約調印の勅許を得ようと上洛しましたが、孝明天皇は強硬な攘夷論者であったため却下されてしまいました。
正睦が上洛中に、水野忠央(紀州藩家老)らの工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、井伊は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始め、江戸城登城禁止を井伊から命じられ失脚しました。



No.21 江戸城

三代徳川家光の時代に、ここ本丸に巨大な天守閣が誕生しましたが、明暦3年(1657)に江戸市中を焼き尽くした明暦の大火で、江戸城天守閣は灰燼と帰しました。
当時、四代家綱の後見役であった保科正之は隅田川に橋を架けるなど江戸の復興に努めましたが、天守が再建されることはありませんでした。
お江と春日局が始めた大奥は、この天守台前に御殿がありました。
江戸城天守は是非とも再建を望みたい天守です。



No.22 八王子城

八王子城は標高445mの深沢山(現在の城山)に築城された典型的な中世山城でした。
北条氏康の三男・氏照が元亀2年(1571)頃より築城し、天正15年(1587)頃に本拠としました。
氏照は当初、大石氏の滝山城にいましたが、小田原攻撃に向かう武田信玄に攻められ、その際に滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた八王子城を築城し、本拠を滝山城から移しました。

天正18年(1590)、豊臣秀吉軍上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ、八王子城はわずか1日で落城しました。
その後、新領主となった徳川家康により、八王子城は廃城となりました。



No.23 小田原城

小田原城は初代・北条早雲から五代・氏直まで約100年間、関八州を支配した北条氏の居城でした。
当時の小田原城は要塞化しており、規模も巨大で現在の小田原市中心部の大部分を占めていました。
上杉謙信や武田信玄からの籠城戦に耐えた小田原城でしたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の大軍によって包囲され、秀吉の石垣山一夜城の完成後、落城し、北条氏直は高野山に送られ滅亡しました。
徳川家康の関東移封にともない、譜代家臣大久保氏が規模を縮小して小田原城を再建しました。



No.24 武田氏館

現在の山梨県甲府市武田神社は、甲斐武田氏18代当主・武田信虎が永正16年(1519)に築いた躑躅ヶ崎館がありました。
19代信玄はここを拠点に家臣団屋敷を作らせました。
甲斐武田氏滅亡後は、豊臣秀吉によって甲府城が築かれ、江戸時代は甲府城が政治経済の中心地となりました。

日露戦争後、当時の日本は神社に軍神を祀ることが奨励されていました。
大正4年(1915)に武田信玄に従三位が贈られたことで武田神社創建の機運が高まり、大正8年(1919)に躑躅ヶ崎館跡に武田信玄を祭神とする武田神社が創建されました。



No.25 甲府城

甲府城は、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。
関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として築かれたといわれ、徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を保ち続けたといわれています。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、土方歳三ら新選組が甲府街道を下り、甲府城奪取のため新政府軍と戦いましたが、敗退しました。
毎年春に行われる信玄公祭りでは、武田二十四将が武田神社からここ甲府城前まで行進します。







No.26 松代城

川中島にある松代城は、元々は永禄3年(1560)に武田信玄が築城した海津城でした。
17世紀初めには、松代藩・真田家10万石の藩庁となりました。
初代藩主は、真田幸村の兄、信之でした。


計5回にわたる川中島侵略を試みた武田信玄は、この海津城を前線基地としていました。
永禄4年(1561)8月、4回目の川中島侵攻を遂げた武田信玄軍はここ海津城に籠り、妻女山の上杉謙信と対峙しました。
そして、翌9月10日、甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信はここ川中島で激突、最初で最後の両雄の戦い、第四次川中島の戦いが起こりました。



No.27 上田城

天正10年(1582)、武田勝頼が滅亡すると、信玄以来の重臣・真田昌幸は徳川家康に属することになりました。
昌幸は家康を利用して翌年上田城の築城に成功すると、家康は敵国・北条氏政と同盟し、更には昌幸が北条から奪った沼田城を返還するよう命じてきました。
これを拒んだ昌幸は、無断で越後の上杉景勝と同盟すると、これを聞いた家康は激怒し、天正13年(1585)大軍を上田城に派遣しました。
上田城に籠城した昌幸は、必死のゲリラ戦法で徳川軍を撃破しました(第一次上田合戦)。



No.28 小諸城

小諸城址懐古園は、日本さくら名所100選に選定された桜の名所です。
江戸時代には小諸藩の藩庁だった城跡は、春には桜、そして秋には見事な紅葉を見せてくれます。



No.29 松本城

文禄2年(1593)ごろに築城された現存天守の松本城です。
江戸時代、白壁は当たり前でしたが、ここ松本城は豊臣政権時代を象徴する黒壁一色です。
築城主は、徳川家康から豊臣秀吉に主君を鞍替えした石川数正でした。



No.30 高遠城

日本さくら名所100選、タカトオコヒガンザクラで有名な高遠城址公園です。
天正10年(1582)の甲州征伐では、武田軍がここ高遠城で唯一、織田・徳川連合軍に抵抗しましたが、現在は信濃地方を代表する桜の名所となっています。



No.32 春日山城

新潟県上越市の春日山城跡です。
守護代・長尾為景は下克上で主君を倒し、春日山城主となりましたが、越後国統一にはいたりませんでした。
息子・景虎は少年時代からめきめきと戦の才能を発揮すると、国内の反乱を次々と収拾していきました。
やがて関東管領となった上杉政虎は、武田や北条の侵略戦争に介入すると、その名は織田や徳川の知れることになりました。
晩年、謙信と改名した戦国大名は、江戸時代を通し、現代までその武勇伝を伝えることになりました。
日本五代山岳城・春日山城は比較的登りやすい山城で、復元された毘沙門堂や二代景勝、直江兼続屋敷跡もあります。



No.36 丸岡城

天正4年(1576)、柴田勝家の甥によって築城された丸岡城(霞ヶ城)です。
丸岡城天守は、昭和23年(1948)に起った福井地震で倒壊しましたが、日本最古の現存天守として注目されています。
真夏の盛りに天守に登ってみたところ、意外やとても涼しく快適であった印象が残っています。
やはりお城は木造建築、現存に勝るものなしといったところでしょうか。



No.37 一乗谷城

15世紀後半からおよそ1世紀、越前守護・朝倉氏の居館があった一乗谷朝倉氏遺跡です。
最後の当主・朝倉義景は、将軍足利義昭の密書により、打倒信長に浅井長政とともに蜂起しましたが、敗退しました。
また、近くには朝倉義景に仕官していた時代の明智光秀の館跡(明智神社)や、佐々木小次郎が必殺つばめ返しをあみだしたと伝わる一乗滝があります。



No.38 岩村城

16世紀後半、岩村城は織田信長の家臣遠山氏の居城でした。
その当主が亡くなると、未亡人おつやの方が城主を務めた元亀3年(1572)、信長との同盟を破棄した武田軍が甲斐から攻め入りました。
大将・秋山信友は岩村城の堅固さに苦心した結果、おつやの方との結婚を条件に城を開城させることに成功しました。
秋山とおつやの方は、めでたく夫婦となりましたが、これを聞いた信長は激怒。
ふたりを長良川におびき出し、磔刑にしてしまいました。
悲劇の女城主伝説が伝わる岩村城です。



No.39 岐阜城

信長の正室・濃姫の父、斎藤道三が下克上で奪い取った稲葉山山頂に稲葉山城がありました。
孫の斎藤龍興の家臣で後に秀吉の名軍師となった竹中半兵衛が、稲葉山城から龍興を追い出すと、これを信長に献上しました。
信長は岐阜城と改め、城下町を造りました。
信長はこの頃から、天下布武の印を使用し、天下取りにまい進することになったといわれています。
金華山から眺める岐阜市内は、当時の信長を彷彿とさせてくれる景観でした。



No.40 山中城

静岡県三島市の山中城は、北条氏康が築城した小田原城の支城のひとつでした。
城の中央を東海道が縦断する縄張りで、関八州の入口にあたる位置にありました。
天正18年(1590)、秀吉は東海道から山中城を攻撃、城はあっけなく落城しました。



No.41 駿府城

駿府城は徳川家康が生涯2回にわたり居城とした城でした。
慶長10年(1605)、秀忠に将軍職を譲った家康は江戸城から駿府城に移りました。
天下普請で、大改修を行わせ、天守を建造しましたが、火災で焼失、その後も再建天守は火災に見舞われました。
元和2年(1616)、家康は駿府城で亡くなり、遺骸は駿河湾に面した久能山に埋葬されました。

明治には天守跡が陸軍により埋め立てられ、現在は跡形もありませんが、静岡市は家康時代の天守を復興するというプランも考えているようです。
昨年4月には、駿府公園から駿府城公園に改称されました。



No.42 掛川城

平成6年(1994)に再建された珍しい木造の天守です。
日本初だそうですが、天守から眺める掛川市や富士山はとても見晴らしのいい景観でした。
会津・上杉征伐のため徳川家康に従軍した掛川城主・山内一豊は、小山評定の席で、関ヶ原に引き返す家康に対して、東海道の要衝であった掛川城を差し上げますと公言した逸話が残っています。
山内一豊は戦後の論功行賞で、土佐一国を与えられました。



No.43 犬山城

現存天守・犬山城です。
江戸時代を通じて、尾張藩家老成瀬家の居城となりました。
明治24年(1891)の濃尾地震で天守が壊れたため、天守の修理を条件に成瀬家に無償で譲渡されました。
以来、日本の城として唯一、個人所有の城でしたが、平成16年(2004)に財団法人犬山城白帝文庫に移管されました。
日本最古の天守を唱える犬山城は、同じ最古を唱える丸岡城との論争が焦点の的です。



No.44 名古屋城

名古屋城は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、天下普請の名のもと、加藤清正、福島正則、池田輝政、黒田長政など豊臣系といわれた西国大名に命じ築城させた尾張徳川家の城でした。
明治維新後も取り壊されることなく存続しましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲で天守や本丸御殿を焼失しました。
今年5月、本丸御殿が復興する名古屋城は名古屋のシンボルとして輝きを増すことと思います。



No.45 岡崎城

徳川家康生誕の岡崎城、現在の岡崎公園です。
とにかくこの公園は綺麗なこと、綺麗なこと。
また、家康の像が少なくとも3体、重臣本多忠勝像も1体ありました。
春には桜が綺麗なことでも知られています。



No.46 長篠城

天正3年(1575)、長篠の戦いはここ長篠城に攻め入ってきた武田勝頼が引き起こした戦いでした。
このあたり奥三河は徳川領と武田領の境目でしたが、元亀4年(1573)武田信玄が亡くなると、後継者勝頼に見切りをつけた長篠城主・奥平信昌が徳川家康に寝返ったのが原因でした。
有名な設楽原古戦場もすぐ近くにあります。
またよくある光景ですが、JRの線路が城跡を走っているのも長篠城跡です。



No.47 伊賀上野城

“忍者の里”と呼ばれる伊賀国は、山に囲まれた小さな盆地に、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で筒井定次が三層の天守を築いた伊賀上野城がありました。
ところが、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方をしたのも束の間、家臣団との争いが原因で領地を没収され、替わって慶長13年(1608)、伊予今治城から藤堂高虎が入封し、この地を治めることになりました。
築城の名手といわれた高虎は伊予今治城での築城術を活かし、自ら縄張りを指図し、五層の大天守の築城に着手しましたが、暴風雨で天守が倒壊、完成を見ぬまま大坂夏の陣が終了し、天守が再建されることはありませんでした。
現在の天守は、昭和10年(1935)に地元出身の代議士により再建された復興天守です。



No.48 松阪城

天正16年(1588)に近江国日野城から、秀吉の命で蒲生氏郷が新たに築城をしたのが松阪城でした。
氏郷は近江商人といわれた商才ある人物を多数呼び寄せ、城郭をはじめ現在の商都、松阪の基盤をつくりました。
氏郷はこの後、現在の会津若松に移封され、鶴ヶ城の前身や会津の町割りを行いました。
また、松阪城には本居宣長の居宅である鈴屋が移築され、公開されています。
城下には江戸時代の豪商、三井高利宅跡もあります。



No.49 小谷城

小谷城は浅井氏三代の山城でした。
初代・亮政が北近江の小谷山に16世紀初めに築城しました。
二代・久政は南近江の六角氏に下りましたが、三代・長政が六角承禎を破り、戦国大名として独立しました。
北近江は鶴賀港経由で米や物資が琵琶湖をつかって上方へ輸送される途中にあり、これに目を付けた織田信長は長政と同盟を結びましたが、やがて両家は交戦状態になり、天正元年(1573)9月1日小谷城は落城しました。



No.50 彦根城

関ヶ原の戦いで東軍の軍監を務めた井伊直政は、戦後高崎城から近江佐和山城への転封を徳川家康から命じられました。
その直後、琵琶湖畔よりの平地に移転を決意したのが彦根城でした。
直政は関ヶ原で受けた鉄砲傷がもとで亡くなり、彦根城が完成したのは元和8年(1622)でした。
彦根城は廃城令による取り壊しを免れ、現存天守として訪れる観光客は多く、世界遺産暫定リストに掲載されています。



No.51 安土城

安土城は天正4年(1576)、琵琶湖畔の安土山に築城された信長最晩年の城でした。
日本初の天守(天主)をもつ城で、天主は地下1階、地上6階で、赤や金をつかった独創的なものでした。
総奉行は丹羽長秀、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉があたりました。
天正10年(1582)、本能寺の変直後、天主から出火し、その後再建されることはありませんでした。



No.53 二条城

二条城は徳川家康が慶長6年(1601)、豊臣系西国大名に命じ築城させた家康上洛時の宿舎でした。
関ヶ原の戦いで勝利した家康でしたが、まだ大坂城には豊臣家が健在でした。
淀殿は秀頼の関白就任を朝廷にアプローチするため、秀吉が遺した莫大な財力を背景に京都をはじめ全国の寺院の復興に力を注いでいました。
これに対抗したのが家康の天下普請で、豊臣系西国大名に造営費用と労働力を使わせ、大坂城を囲むように新城の築城を命じました。

二条城では数々の徳川家の儀式が行われましたが、慶長8年(1603)家康は伏見城で征夷大将軍の宣旨を受けた後、二条城に入城し、祝賀の儀をとり行いました。
慶長16年(1611)には、淀殿の許しを得た秀頼とここ二条城で会見しました。
秀頼に付き従った加藤清正は、万一に備え袖に短刀を隠し持っていたとも伝えられています。
清正はこの会見後発病し、熊本城で亡くなりますが、一説には毒殺説もあります。

この会見で秀頼のあまりの成長ぶりに徳川家の将来を危惧した家康は、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも伝えられています。
また、ユネスコ世界文化遺産に登録されている城郭は、二条城と姫路城だけです。



No.54 大坂城

大坂城は豊臣秀吉が築城した城ですが、かつては石山本願寺がありました。
織田信長との合戦により、法主・顕如は立ち退きを決意しましたが、放火により灰燼と帰しました。
大坂夏の陣で落城後、地中深く埋め立てられ、その上に建てられたのが現在の大阪城の石垣です。
普請奉行は藤堂高虎でした。
現在の天守閣は昭和のはじめ、大阪市民の寄付で再建されたものです。
太平洋戦争の空襲を奇跡的に免れ、豊臣時代と徳川時代の天守を通して、最も長寿の天守になりました。


天守閣のすぐ下の山里曲輪にある秀頼・淀殿ら自刃の地碑です。
慶長20年(1615)5月8日、ここにあった櫓で豊臣秀頼と母・淀殿は自刃しました。


日本100名城の内、ここ数年でまわった全38城をブログにしてみました。
現存天守、現存櫓、現存御殿、復興天守、模擬天守、山城跡など城といってもいろいろな城がありますが、見た目の立派さや豪華さだけでなく、歴史や文化、名品やグルメも楽しみながらこれからも撮っていこうと考えています。
写真が70枚もの多さになりましたが、最後まで見ていただき、ありがとうございました。


Posted at 2013/01/19 03:00:02 | コメント(6) | トラックバック(0) | 史跡 | 趣味
2013年01月12日 イイね!

尾張の名城 <名古屋城、東海道五十三次 宮~桑名 七里の渡し跡>

尾張の名城 <名古屋城、東海道五十三次 宮~桑名 七里の渡し跡>この正月休みを利用して、金の鯱で知られる名古屋城を見てきました。
名古屋城は今年5月に68年ぶりに本丸御殿が復元竣工されます。
この名古屋城をブログにしてみました。






名古屋城

関ヶ原の戦い以降、尾張藩は清洲城が政治・経済の中心でした。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、四男・松平忠吉を武蔵・忍城から移封させましたが、関ヶ原で負った鉄砲傷がもとで早世すると、次に九男・義直を送りこみました。
しかし、清洲城は水害に弱い地形であったことから、移転を決意、慶長15年(1610)に名古屋城の築城を豊臣系西国大名に命じました。

間もなく名古屋城が完成すると、清洲の城下町は一斉に名古屋城下に移転し、以降明治まで尾張藩の藩庁となりました。
名古屋城は取り壊されることなく、明治中頃には宮内省に移管され名古屋離宮と改められましたが、昭和の初めに名古屋市に下賜され、太平洋戦争の昭和20年(1945)まで、数少ない現存天守の城として国宝に指定された城郭でした。


大手門前で入場料を払って、早速城内に入ってみました。


今年5月29日に公開される本丸御殿の広告です。御殿内の屏風画も忠実に再現されるようです。


名古屋城大天守です。
昭和20年(1945)の名古屋空襲で、B29焼夷弾の直撃を受けた大天守と本丸は惜しくも焼失してしまいました。
その後、市制70周年記念事業として、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート製の大天守が復元・竣工されました。
戦前の古写真をもとに、ほぼ忠実に復元された復興天守です。

天守閣もさることながら、それを支える天守台石垣の曲線は、400年前に人の手によって造られたものとは到底思えないほど見事な造詣です。
この石垣は肥後熊本藩主で、尾張出身の加藤清正によるものと伝えられています。


ぐるっとまわって、大天守と小天守です。
正月休みもあってか、あまりの観光客の多さにも驚きました。
やはりお城というのは、現代日本に欠かせない貴重な文化財だとつくずく感じました。


天守閣最上階の展望室からの眺めです。
手前に見える平べったい建物は、大相撲名古屋場所が行われる愛知県体育館です。
完全に城内に入り込んでいますが、江戸城北の丸にも日本武道館が建っていたことを思い浮かべました。


レンズが汚れているのではなく、前日のみぞれ雪のためか窓ガラスが少し曇っています。
こちらの方角はナゴヤドームです。


尾張藩の支城・犬山城方面です。
犬山城は、日本に12基しか残っていない現存天守です。


こちらは金華山がある岐阜城方面です。
濃尾平野がいかに広く、遠くまで見渡せるかがわかると思います。


清正石という名の石垣ですが、説明板には福岡藩・黒田長政の刻印が彫ってあると書いてあります。
関ヶ原の戦い後の日本は京都から東が徳川系、西が豊臣系といわれた大名領でした。
名古屋城築城は、豊臣系西国大名たちに財力と労力を負担させると同時に、徳川将軍家の威信を示すものだったのです。


工事中の本丸御殿に並ぶ行列です。




東海道五十三次 七里の渡し跡
東海道は江戸時代初めに、徳川幕府によって正式に制定された江戸日本橋から京・三条大橋を結ぶ街道でした。
それぞれの宿場町を結ぶ街道として栄え、江戸時代にはお伊勢参りも流行しました。
ただ唯一、陸路がなく、海路をつかって渡らなければならない地点がありました。
その区間は“宮宿”と“桑名宿”間で、七里の渡しと呼ばれました。


現在の名古屋市熱田区、宮宿の舟着場跡です。
尾張国と伊勢国境の揖斐川、長良川には江戸時代を通して橋が架けられていませんでした。
そのため、旅人は伊勢国・桑名宿へ渡るのに舟に乗って渡らなければなりませんでした。
その名残が現在でも残っています。


対岸の桑名宿の舟着場跡です。前の建物は桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)です。
三之丸、揖斐川堤防沿いに復元されたものです。


ちょうどこのあたりでしょうか、歌川広重の浮世絵、東海道五十三次 桑名です。
当時は堤防はなかったようです。


現在の舟着場跡前はコンクリートブロックで、がっちり増水対策が施されていました。


堤防の向う側は、いろいろ物議を醸している長良川河口堰です。
揖斐川と長良川はこのあたりで合流します。


正月休みを利用して、実家の母とふたりで名古屋城と七里の渡し跡をドライブしてきました。
この日は午後から所要があって、僅か4時間で愛知県名古屋市と三重県桑名市を廻りました。
時間があったらすぐ近くの桑名城本丸跡も行きたかったのですが、半年ぶりの里帰り、いい正月休みでした。

桑名城(九華公園)本多忠勝像です。

Posted at 2013/01/12 00:00:00 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年01月05日 イイね!

忍びの里 伊賀紀行 <伊賀上野城、伊賀忍者特殊軍団“阿修羅”>

忍びの里 伊賀紀行 <伊賀上野城、伊賀忍者特殊軍団“阿修羅”>新年あけましておめでとうございます。
正月三ヶ日に、三重県伊賀市に行ってきました。
伊賀上野城と上野公園内、伊賀流忍者博物館での“NINJAショー”をブログにしてみました。







伊賀上野城
“忍者の里”と呼ばれる伊賀国は、山に囲まれた小さな盆地に、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命で筒井定次が三層の天守を築いた伊賀上野城がありました。
ところが、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方をしたのも束の間、家臣団との争いが原因で領地を没収され、替わって慶長13年(1608)、伊予今治城から藤堂高虎が入封し、この地を治めることになりました。
築城の名手といわれた高虎は伊予今治城での築城術を活かし、自ら縄張りを指図し、五層の大天守の築城に着手しましたが、暴風雨で天守が倒壊、完成を見ぬまま大坂夏の陣が終了し、天守が再建されることはありませんでした。
現在の天守は、昭和10年(1935)に地元出身の代議士により再建された復興天守です。


伊賀上野城は過去数回訪れていますが、今回初めて天守に登ってみました。


伊賀市の中心部です。
伊賀市は平成16年(2004)に、上野市をはじめ周辺の伊賀町、阿山町など一市、三町、二村が合併して誕生した市です。
古くから、京都、奈良、伊勢を結ぶ街道が有り、宿場町として栄えた町でした。
京、大和文化の影響を受けながらも独自の文化圏をつくってきました。
伊賀忍者発祥の地として、また、松尾芭蕉の出身地としても知られています。
天正9年(1581)には、織田信長による天正伊賀の乱により、大虐殺が行われたことでも知られています。


伊賀上野城の特徴である石垣です。手元のパンフレットによると、内堀石垣の高さは日本一のようです。
曲線的な石垣を好んだ同時代の加藤清正(熊本城、名古屋城)と対照的で、直線的な石垣の積み方は、藤堂高虎ならではの工法です。



伊賀流忍者特殊軍団“阿修羅ショー”

伊賀忍者は隣県の甲賀忍者とともに、戦国時代には“スパイ”として豊臣秀吉や徳川家康をはじめ、戦国大名に重宝されました。
伊賀忍者は地元の百地三太夫が始まりといわれ、諜報活動を主としたその6割が農民で、ゲリラ戦法を得意としていました。
大坂夏の陣が終り、平和な時代が訪れると、彼らの必要性はなくなり、忍者たちも次第に帰農していったといわれています。
その戦国時代の忍者たちの活躍をテレビや映画ではなく、実演して見せてくれるのが、伊賀流忍者特殊軍団“阿修羅ショー”です。


この“阿修羅ショー”を見たさに、昨年暮れ亡くなった歌舞伎俳優・中村勘三郎さんの息子、勘九郎さんがプライベート旅行で、ここ伊賀にやってきたことがあるそうです。
全国放送のテレビでも紹介されたことがあるらしく、別途入場料を払って見てみることにしました。


真剣の実演

日本刀による実演です。
決して軽くない日本刀をすばやい太刀裁きで、目前の木材を斬り刻みます。
素人には絶対できない芸当です。


手裏剣の実演

テレビの時代劇では、手裏剣はよく見る戦法ですが、実際は「もうだめだ、やられる!」というときに、最後の手段として使った武器だったようです。
ひとつの手裏剣は200グラムの重さがあり、機動力を低下させないため、忍者はだいたいひとり2個しか携帯していなかったそうです。


手裏剣もいろいろあって、今度は先のとんがったボールペンタイプの手裏剣です。
これを突き刺すのはかなり難しい、相当訓練を積まなければ成功しない技です。

見事命中!場内は拍手喝采です。


長槍とナタカマの演舞

伊賀忍者の大半はお百姓でした。
農作物の刈り取りにはナタカマが必需品となります。
槍で襲ってきた敵を、そのナタカマで討ち取るというシチュエーションです。

両者ともスキのない俊敏な動きで、これまた凄い!演舞とはいえ、かなりのレベルでした。

長紐の演舞
この長い紐状のロープで、真剣で襲いかかってきた敵の上半身と刀を固定させ、このロープを引くことによって、敵の首を自らの刀で斬り落とさせるという演舞です。

およそ20分間のショーでしたが、よくあるチャンバラ劇ではなく、とても見応えのある真剣そのものの“NINJA SHOW”でした。
上野公園内にある伊賀流忍者博物館の奥で開催されています。
忍者のショーはおそらく日本で唯一、ここ伊賀でしか見られません。
気温はショーが始まった午後3時に4℃しかありませんでしたが、寒さを完全に忘れさせてくれる面白い演出でした。


上野公園を出て、名古屋発祥で最近、関東にも出店中のコメダ珈琲店で暖をとりました。

Posted at 2013/01/05 01:00:03 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

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