
五月晴れの日、新選組ゆかりの地、東京都日野市に行ってきました。土方歳三と近藤勇の足跡をとりあげてみました。
土方歳三生家/資料館
新選組土方歳三は、天保6年(1835)に武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)で生まれました。当時の生家は多摩川の洪水で流されてしまい、移築した家が現在の土方歳三資料館になります。
歳三の兄弟の末裔にあたる土方さんの個人宅を改装した資料館です。
早速、入場料を払って中に入ってみました。
館内は写真撮影がNGなので、入口でもらったパンフレットです。小さな館内ですが、歳三が幕末当時見につけていた展示品を多く見ることができます。
歳三の愛刀“和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)”です。局長・近藤勇の虎徹(こてつ)と、和泉守兼定は新選組のTVや映画では必ずとりあげられる名刀です。
鎖帷子(くさりかたびら)と鉢金(はちがね)です。鉢金は文久3年(1863)、京都御所で起きた八・一八の政変、翌年の池田屋事件で歳三が頭を守るため身につけていたものです。表面には数箇所刀傷が残っているようです。
義兄・佐藤彦五郎に送ったものが保管されています。
歳三が幼年期を過ごし、新選組に入隊以来、平成2年(1990)まで残されていた当時の土方家です。
平成2年(1990)まで、江戸時代の家が残っていたこと自体凄いことです。
ちょうど一週間前は入場制限するほど、多くのひとが訪れたようです。この日は入場制限はありませんでしたが、昼12時の開館とともに次から次へと人が入ってきました。改装前にも訪れて驚いたのは、20代、30代の若い女性が非常に多かったことでしたが、今回もその例にもれることはありませんでした。
館長土方さんの話では、当時男子の平均身長が1m58cm、近藤勇が1m57cmに対して、土方歳三は1m67cmと当時としては大柄な体格であったようです。端正なマスクとカッコよさが女性のハートをくすぐるのでしょうね。書籍やグッズももちろん販売しています。
大河ドラマの俳優や、私も愛読した歴史小説家・司馬遼太郎さんも、ここを訪れたことがあるそうです。
私は結局、このおばさんに押し切られ、ひとつ360円もする饅頭を1セット(4個)も買わされました。


日野宿本陣
江戸時代、日野市は甲州街道の宿場町で、幕末当時は名主・佐藤彦五郎がここで天然理心流(てんねんりしんりゅう)の道場を開いていました。佐藤彦五郎は、日野宿の名主の生まれで、歳三の姉を娶っていました。歳三はその縁で彦五郎の道場に通っていました。彦五郎に天然理心流の剣術を指導していたのが、近藤勇でした。
後に新選組の主要メンバーとなった沖田総司、井上源三郎、山南敬助らはここで出会いました。
歳三が新選組結成後、資金面のバックアップをしていたのが佐藤彦五郎でした。
井上源三郎資料館
日野宿本陣近くに、井上源三郎のやはり末裔の方が自宅で公開している資料館もありました。
井上源三郎は日野宿本陣の道場で知り合った土方や近藤らとともに新選組の主要メンバーでしたが、慶応4年(1868)1月に起った鳥羽・伏見の戦いで戦死しました。
高幡不動尊前の売店です。日野市では歳三の命日にちなんで毎年5月に、ひの新選組まつりが催されています。
近藤勇生家跡
近藤勇は、天保5年(1834)武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)の豪農・宮川家で生まれました。
その後、近藤周助の天然理心流道場・試衛館に入門し、周助の養子となって試衛館を継ぎました。
当時、宮川家の屋敷は、人見街道と小金井に通じる辻にあり、面積約7,000平方メートル、建物は母屋165平方メートルのほか蔵屋敷など数棟、木々や竹が茂っていたといわれています。
昭和18年(1943)の戦時中に調布飛行場に隣接しているため取り壊され、現在は屋敷の東南隅に勇が産湯に使った井戸が残るのみですが、生家跡が市史跡として保存されています。


勝海舟と新選組
池田屋事件をきっかけに京都の治安部隊として会津藩に正式に認められた新選組でしたが、慶応3年(1867)に大政奉還、王政復古の大号令が発せられ、翌年薩摩・長州の策略で鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、井上源三郎ら多くの隊士を失った土方、近藤は津・藤堂藩や淀藩の寝返りで窮地に陥りました。
すでに幕臣となっていた2人は、江戸に戻ると、勝海舟から「甲府百万石を呉れてやるから力づくで獲ってこい」と命じられ、甲陽鎮撫隊を結成し、勝に命じられるまま甲州勝沼に進軍しましたが、新政府軍の武力の前に敗退しました。
新選組はすでに旧幕府の重荷になっており、勝の命令は彼らの存在自体を完全に否定するものでした。
勝は新政府軍に恭順する考えで、これ以上の武力衝突は無駄であるということを土方と近藤には一切言わず、むしろ彼らを無用の集団と結論づけていました。
土方・近藤離別の地、新選組流山本陣跡
甲州・勝沼の戦いで惨敗した土方・近藤らは下総国流山(現在の千葉県流山市)の桑名藩と懇意の醸造家長岡屋を本陣として宿営していました。ところが、4月3日この情報を得た新政府軍に包囲されてしまったのです。
近藤は土方の反対を押し切り出頭しますが、これが2人の最後の別れとなってしまいました。


板橋宿本陣跡
板橋宿は中山道のひとつで、江戸から数えた最初の宿場町でした。江戸総攻撃を控えた東山道軍は飯島邸を総督府として宿営していました。流山で投降した近藤は、大久保大和と名乗り、自分は新選組とは一切関係がないとしらを通しましたが、大久保大和が近藤勇であると知る者が総督府内にいることが判明したため、総督府が置かれたここ板橋宿まで連行されてきました。
この総督府で面会したのが、元新選組隊士の加納鷲雄という人物でした。加納は近藤らと袂を分け、近藤の指示で暗殺した伊東甲子太郎の一味でした。近藤は観念し、武士らしく切腹を申し出ましたが、坂本龍馬暗殺が近藤ら新選組の仕業と断定した土佐藩士・谷干城の意向が通り、斬首刑が下されました。
飯田不動産あたりが、飯島邸総督府があったところです。

近藤勇の最期
慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で新政府軍により処刑されました。その後、首級は京都へ送られ、胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に、隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉新八が発起人となり、旧幕府御典医であった松本良順の協力を得て造立されました。


土方歳三の最期
近藤らと袂を分けた土方歳三は、宇都宮、会津、仙台から北の大地箱館へと向いました。
五稜郭に榎本武揚らと蝦夷共和国を設立しましたが、明治2年(1869)4月新政府軍が蝦夷地に上陸すると、戦況は悪化。5月11日、歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執りましたが、その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していました。遺骸は箱館のどこかに埋葬されたはずですが、場所は特定できていないそうです。
この歳三の写真は、箱館戦争の最中、仏式軍服で洋装したものを撮ったものです。またこのとき、歳三は小姓・市村鉄之助にこの写真を持たせ、単身箱館から脱出するよう命じました。
小姓・市村鉄之助が、新政府軍の目を凌ぎ、命からがら日野宿の佐藤彦五郎に届けたものでした。
永倉新八
永倉新八は新選組隊士の中では最も長寿の人物で、戊辰戦争後は小樽に移り住みました。維新後の永倉は、『浪士文久報国記事』を記し、小樽新聞の記者に取材協力した『新選組顛末記』を残しました。これによって、「新選組は悪の人斬り集団、悪の使者」という従来の固定観念を突き崩し、新選組再考の契機となったのでした。
明治27年(1894)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願したものの、「お気持ちだけ」と断られました。これに対し「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」と笑ったというエピソードが残っています。
晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通いました。「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と語っていたといわれています。
大正4年(1915)に小樽で亡くなりましたが、遺骨は板橋の近藤勇の袂に埋葬されました。
新選組は、司馬遼太郎の『燃えよ剣』、『新選組血風録』を題材にしたTV番組等でしばしば紹介されています。
幕末の大きな歴史の流れの中に徐々に取り残されていく新選組ですが、最後まで旧幕府軍として戦った彼らの歴史がもし消えうせていたら、後世の私たちからみて、幕末史はつまらないものに終っていたかもしれないと思うと、土方や近藤らの奮闘は幕末史を語るうえで大きな貢献をしたといえると思います。
最後に、土方歳三の人気ぶりには相変わらず驚きました。
