
大河ドラマ『八重の桜』にちなんだトピックスをブログにしてみました。八重と関連した同時代の人たちの記録です。
明治元年(1868)9月22日、1ヵ月の籠城戦を終えた会津藩降伏の夜、鶴ヶ城三の丸建物蔵に和歌を刻む八重さん。まだ22歳の八重さんにとっては、試練の会津戦争でした。
後世、八重さんが同志社の宣教師や、教え子らと対立、しばしば非難、中傷を浴びますが、この会津戦争の経験が彼女をより強くしたものといわれています。
生まれつき体は頑丈で、重い米俵をひとりで担いで二階まで運んだというエピソードもあり、自分は体育会系だからといったとか、この点、兄の覚馬とは同じ兄弟でもまったく違ったタイプだったことがうかがえます。
官軍の四斤山砲、英国式の最新兵器アームストロング砲で攻撃を受けた鶴ヶ城です。それほど大きくない城に数千人が籠城していました。あるとき砲弾が八重さんの近くに着弾、厠で用を足しているときに被弾しむくろを曝すことだけは女としてとても恥ずかしいことだったと回想しています。
現在の鶴ヶ城です。少し切れていますが、左の鉄門(はりがねもん)は、八重さんが松平容保に四斤山砲の砲弾を分解して説明した場所です。四斤山砲の砲弾は、着弾してもすぐに着火せず、しばらくおいて爆発するという爆弾でした。ただ、この火消作業で、家老・山川大蔵の妻・登勢が被弾し亡くなりました。
米沢に一時疎開していた八重さんらに京都の覚馬が生きているという伝達が伝わりました。ところが、覚馬は当時18歳の小田時栄と暮し、一女をもうけていました。これを聞いた覚馬の妻・うらは京都行を断念、覚馬と別れる決意をしました。また、八重さんにも斗南藩に移住した川崎尚之助との別れが待っていました。
ある作家は、八重さんが覚馬とともに小野組移転問題で投獄された京都府知事・槇村正直に見舞いのため上京した際に、存命中の川崎尚之助と再会したと書いているそうですが、真相は定かではないそうです。
明治8年(1875)、川崎尚之助は肺炎を起こし東京の病院で亡くなりましたが、同じ年、八重さんの前に現れたひとりの男性が新島襄でした。安中藩士の長男で、米国帰りの襄は八重さんを「彼女は決して美人ではありません。でも、生き方がハンサムなのです」と評したとか。
この襄との出会いが、会津戦争で打ちひしがれた八重さんを救いました。
明治8年(1875)11月29日、同志社英学校開校、まもなく熊本洋学校から熊本バンドといわれた学生が転入してきました。彼らの中には、後の同志社英学校社長となる小崎弘道、横井(伊勢)時雄、そして八重さんに終生尽くすことになる徳富蘇峰と、その弟徳冨蘆花(徳富健次郎)、海老名喜三郎らでした。バンドとは隊の意味で、彼らは皆、キリスト教の洗礼を受け牧師を目指していましたが、当時耶蘇教といわれたクリスチャンは日本ではまだ差別と迫害の対象でした。
そんな彼らを受け入れたのは、新島襄でした。
小崎弘道は、卒業後牧師となり、東京に霊南坂教会を創立した人物です。やはり同志社と強いパイプをもち、新島襄の大学設立募金活動にも強力な援助をしました。
新島襄が亡くなると、一時山本覚馬副社長が臨時社長となりましたが、二代目社長は小崎弘道が務めました。
山本覚馬は京都府顧問、初代京都府議会議長、商工会議所会長を務め、京都万博の誘致、鉄道敷設、琵琶湖疎水など、遷都後の京都の復興に力を尽くしました。今の同志社大学今出川キャンパスは、覚馬が大金を払い薩摩藩から購入した土地でした。
しかし、そんな山本家にも最大の危機が訪れました。
明治18年(1885)、キリスト教徒でなかった覚馬は後妻の時栄とともに洗礼を受け、八重さんらと同じプロテスタントになりました。ところが、こんな折、時栄と養子と考え同志社に編入させた18歳の学生との間に“不義”が起こったのです。
徳冨蘆花が大正3年(1914)に発刊した『黒い眼と茶色の目』で、時栄の不義(一寸むつかしいこと)が書かれており、その18歳の学生の子を妊娠してしまったという話です。これを知った覚馬は20年にも及ぶ時栄の介抱に報い、時栄の不義を許そうとしましたが、八重さんと、今治で暮らしていた横井(伊勢)時雄の妻で覚馬の娘・みねが京都に駆けつけ、これを許さず、時栄を離縁させてしまったというショッキングな話です。
新刊がなっかたため、中古本をネットで手に入れました。定価450円の文庫本だったのですが、たしか4,000円くらい払って手に入れました。内容は覚馬と時栄のひとり娘・久栄との恋愛物語です。最後は久栄との婚約が破断し、学費も支払えなくなった蘆花がひとり故郷の熊本に帰国するという内容です。
蘆花46歳のときの小説で、あまり売れなかったそうです。一方で大山捨松を題材にした『不如帰(ほととぎす)』は、ベストセラーとなり、蘆花が売れっ子小説家としてメジャーになるきっかけとなった小説でした。後に八重さんは、「いい恥さらしですね」と言ったとか・・・。
残された時栄の娘・久栄は同志社女学校を卒業後、神戸英和女学校に進学しますが、周りからは「尻軽女」とか、「蓮葉(はすっぱ)」と罵られます。父親の覚馬似で学問がよくできた才女であったそうですが、覚馬が亡くなると、まるで後を追うように明治26年(1893)7月20日に亡くなりました。23歳という若さでした。写真が大河ドラマで紹介されましたが、なかなかの美人であまりにも早い一生は可愛そうな気がします。
ところで、気になったのがその後の時栄の行方でした。蘆花研究家の丸本氏によると、昭和61年(1986)に時栄の子孫にあたる小田貞子さんとの取材が実現し、かつては元芸者だったとかいわれていたそうですが、実際は小田家は丹波代々の郷士で、上京区に広大な邸を持ち、現在の住居もそこにあるとのことです。
この丸本氏、除籍謄本を取り調べたところ、それによれば、名前は「時榮」。嘉永6年(1853)5月7日生まれ、生家は上京区に現存する小田家で、明治19(1886)年2月12日に覚馬と離縁したと判明したそうです。その後、堺に移り、久栄が亡くなる1日前に神戸に転居、晩年は東京日本橋に住所を移していたそうです。
(他ホームページより借用)
時代背景が現代に近いことで、山本家の子孫について調べてみると、覚馬は明治20年(1887)1月に、みねが生んだ平馬を養子としました。平馬は横井(伊勢)家を継がず、山本家の嫡養子となったのです。その平馬の息子が山口格太郎という人物で京都市消防署に勤務していたそうです。元の名前は覚太郎でしたが、なぜか改名し、さらには山口という家に養子になったそうです。山本覚馬の子孫は、昭和19年(1944)に平馬が亡くなり途絶えたということです。
この本は絶版で今は手に入らない本です。上が覚馬、中が久栄、下が平馬です。
明治23年(1890)1月20日、大磯にあった旅館百足屋で新島襄は危篤になりました。大学設立のための募金活動の最中の出来事でした。京都から八重さんが駆けつけましたが、1月23日新島襄は永眠しました。「狼狽するなかれ、グッバイ また会わん」、これが最期の言葉でした。
大河ドラマは、元教え子の徳富蘇峰が襄や八重さんに友好的に接していますが、実際は退学以来まだ感情的対立は続いていました。東京の民友社に勤めていたジャーナリストの徳富蘇峰は、襄危篤の電報を受け、急遽大磯に駆けつけたのでした。ここで、鵺(ぬえ)と非難し、自責の杖事件(授業ボイコット)を引き起こした罪をふたりに詫び、和解したとされています。
事実、晩年の八重さんに徳富蘇峰は生活費を送金し続けました。また、百足屋跡と同志社墓地の八重さんの墓碑銘は徳富蘇峰の筆によるものです。
襄の永眠を看取る八重さん、徳富蘇峰、小崎弘道。
襄の死後、同志社から離れ、日清・日露戦争で看護活動に従事した八重さん。その功が政府から認められ勲六等及び勲七等宝冠章を授与しました。皇族以外の女性としてはじめてでした。
晩年は裏千家茶道に入門し、新島邸を一部茶道部屋に改装しましたが、新島邸を同志社に譲渡した結果、度々同志社と揉めていたそうです。
また、新島家には、新島公義という養子やその息子、また、山本家には姪のみねの長男・平馬がいましたが、家族の交流はなっかたそうです。
八重さんは明治33年(1900)、襄と会津旅行に行った際、米沢で出会った米沢藩士・甘糟三郎の娘・初を養子としました。何組かの養子縁組もうまくいかなかった八重さんでしたが、この初(初子)とはうまくいったようです。
初子は、明治34年(1901)5月に同志社校長代理を務めた広津友信と結婚し、4男2女を儲けました。初子の息子でとくに優秀だった男の子に襄次(襄のあとを次ぐという意味)と名付けましたが襄次は大正14年(1925)、23歳で早世しました。
この著者『八重の桜・襄の梅』の本井康博氏は元同志社大学神学部教授で、大河ドラマ『八重の桜』の時代考証を担当しました。
昭和3年(1928)、京都の金戒光明寺で開催された京都会津会秋季例会記念写真です。この年、松平容保の孫、勢津子妃と昭和天皇の令弟・秩父宮のご成婚が決まりました。金戒光明寺の塔頭西雲院、会津墓地前で、八重さんや勢津子妃の父親、恒雄、その弟保男、山川健次郎らが写っています。
会津戦争以来60年ぶりに、旧会津藩士らが朝敵の汚名を返上した記念すべき年でした。
現在の金戒光明寺です。
晩年、同志社のおばあちゃんと親しまれた八重さんは、昭和7年(1932)6月14日、新島邸の襄の書斎で亡くなりました。江戸・明治・大正・昭和と生き抜いた波乱に満ちた86年の生涯でした。葬儀は同志社葬として同年完成した同志社女子大学今出川キャンパスの栄光館でとり行なわれました。参列者は4,000人もの大規模なものでした。
今年の大河ドラマは、ほとんど全国的に無名の新島八重さんの物語でした。会津若松出身のひとでさえ知らなかった人物にスポットが当てられた『八重の桜』、視聴率は?だったようですが、八重さんファミリーを中心に幕末史、明治史がそこにある人間ドラマとともによく表現されていた。脚本、役者、映像、どれをとっても、これほど完成された大河は過去なかったと思います。
3.11で荒廃しかけた福島会津若松、この『八重の桜』をきっかけに復興することをお祈りしてやみません。
